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真珠湾攻撃総指揮官『赤城』飛行隊長

淵田美津雄中佐


真珠湾攻撃総指揮官『赤城』飛行隊長淵田美津雄中佐

経 歴
淵田 美津雄(ふちだみつお)
1902(明治35)年生
1976(昭和51)年5月30日没
奈良県磐城村出身
旧制畝傍中学出身
1924(大正13)年7月 海軍兵学校(52期)卒
1928(昭和3)年12月 霞ヶ浦練習航空隊偵察科卒
1930(昭和5)年12月 大尉に昇進
1932(昭和7)年12月 練習航空隊高等科に入校
1933(昭和8)年 長男・淵田善彌誕生
1933(昭和8)年10月 重巡「摩耶」分隊長
1936(昭和11)年12月 少佐に昇進
1938(昭和13)年9月 海軍大学甲種卒業
空母「龍驤」飛行隊長
1941(昭和16)年8月 空母「赤城」飛行隊長
 10月15日 中佐に昇進
 12月8日 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)
1942(昭和17)年5月 セイロン沖海戦
 6月 ミッドウェー海戦
  盲腸の手術直後で療養中
 「赤城」艦内で爆風に飛ばされ両脚を骨折
  帰国後、横須賀海軍病院に入院
  のち逗子の自宅で療養。
 10月6日 横須賀海軍航空隊付
 10月10日 補横空教官
 12月20日 海軍大学教官
1943(昭和18)年5月20日 兼陸大教官
 7月 第1航空艦隊(角田覚治中将)参謀
1944(昭和19)年4月 聯合艦隊参謀・南方軍参謀
 10月 大佐に昇進
1966(昭和41)年 アメリカ・ヨーロッパ
        各地でキリスト教の伝道活動に従事
1967(昭和42)年 伝道活動から隠退 郷里の橿原市へ帰る
1976(昭和51)年5月30日 糖尿病のため死去 享年74




昭和一六年一二月八日〇三一〇時(日本時間)、第一次攻撃隊全機の先頭に立つ総指揮官・淵田美津雄は『ト、ト、ト、ト』を連送し、全機突撃を下令した。






淵田総隊長と『トラ、トラ、トラ』



 淵田美津雄中佐は、奈良県北葛城郡磐城村(現・葛城市)に生まれる。そして旧制奈良県立畝傍中学校をへたのち、 大正三年(一九一四年)七月海軍兵学校卒業(五十二期)。 真珠湾攻撃における第一次攻撃隊(及び隷下の水平爆撃隊)を指揮し、「ト・ト・ト」ト連送を全機に発信し、(全軍突撃せよと発令した)、及び「トラトラトラ」 (奇襲ニ成功セリ)が淵田隊長機から発信打電されたことで知られる有名な人物である。当時海軍中佐であった。 開戦前、第三航空戦隊参謀から二度目の空母赤城飛行隊長への就任であった。

 淵田美津雄中佐のこの二度目の移動は異例の「降格人事」であったという。これは同期であり親友の、 事実上の真珠湾攻撃の作戦立案者でもあった、源田実(当時中佐)に嘱望(しょくぼう)され、たっての希望により実現したのであった。 しかし、敗戦後の淵田美津雄は、自らの価値観を一八〇度変えたのであった。日本社会の中で、自らの後悔と懺悔(ざんげ)と挫折感を抱いて彷徨し、 聖書に救いを求めるようになるのであった。それは、(一九四二)年昭和十七年四月十八日、日本を空襲したドゥーリットル爆撃隊の一員 からキリスト教伝道師に転身したディシェイザーとの出会いからだったという。

 さて淵田美津雄氏の生い立ちは置いて、本題に入る。 戦後、日本の敗戦後間もなく、『真珠湾攻撃は失敗だった。第一次攻撃でアメリカの艦船を 五隻を撃沈したのはいいが、第二次攻撃をやらないで、早々と帰途についたので、 港湾施設(ドックや桟橋、工廠、爆弾貯蔵庫)らは無傷で、米軍の復活を速めた・・・・』 と言うような説が、真珠湾攻撃の大偉勲として喧伝(けんでん)されたあの奇襲に対す る批判としていい始められた。

 しかしそれは海軍の機動部隊の作戦編成を知らない人の言い分で、真珠湾攻撃は第一撃 (総指揮官・赤城飛行隊長淵田美津雄中佐)と第ニ撃が予定され、第一撃の中に第一次攻撃 (艦攻『艦上攻撃機=雷撃と水平爆撃を担当』、艦戦『艦上戦闘機=零戦』、艦爆『艦上爆撃機= 急降下爆撃をおこなう』)あわせて一八三機、第二次攻撃、同一六七機、計三五〇機が、奇襲攻撃に参加している。 そして第二撃は、これらの使用機に予備機を補充して、連続して行われる作戦であったが、 機動部隊指揮官南雲忠一中将は、出撃直前、岩国の連合艦隊長官参謀長会議で、山本五十六長官から 『六隻の空母は我が海軍の虎の子であるから、一隻も喪失しないように』と警告され、『機動部隊参謀長 の草鹿龍之介少将も連合艦隊参謀長宇垣 纏(まとめ) 少将から』『絶対に深追いしてはいかん。第一撃が成功したら、第二撃は割愛(かつあい)して、 まっしぐらに本土に帰投することだ』ときつく言われた。

 このため南雲指揮官は、 「奇襲成功第一次、第二次攻撃終了」 の報告を聞くと、機動部隊を本土の方向に向けたのであった。しかし、攻撃前から、虎のこの空母を 喪失するなとは変な話である。ケース・バイ・ケースで攻撃を行うべきであったのではないかと思うだが、連合艦隊上層部は 一体どのような考えでいたのか。チャンスがある時こそ徹底的な攻撃が必要ではないかと、日本のように國力の無い 國はチャンスがある時こそ叩いておくべきだと思うのだが、それをしなかったために敵空母とも遭遇できずに 引き返すことになった。 これが約半年後のミッドウェー沖海戦の敗北に繋がったのかもしれないと思うと、チャンスを逸したと言うほかない。 その日の朝、真珠湾の上空は厚い雲に覆われていたという。・・・・なんや、あかんやないか、折角、日本から二週間もかけて、 やってきたのになぁ・・・・と、奈良県出身の淵田美津雄中佐は、先頭の九七式艦攻の偵察席で、関西弁で そうつぶやいた。

 艦攻の水平爆撃は、普通高度五〇〇〇メートルで行われるが、この日は必中を期すため、 三〇〇〇メートルぐらいまで降下しようと考えていた淵田は、これでは五〇〇〇メートル からやるほかない、そうぼやいていると、やがて真珠湾上空と思うわれるあたりにポッカリと洞穴のような 雲の無い処が発見され、ようし、あそこから三〇〇〇メートルまで降下して 水平爆撃をやるんやなぁ・・・・そう考えると、淵田は右手を振って掌を下に向け、操縦員の松崎三男大尉に、 『高度三〇〇〇メートルまで降下、フォード島沿岸の敵艦船群に対し爆撃を行う』 と下令し、『了解!』と力強く答えた松崎は、スティック(操縦桿)を前に倒した。水平爆撃とは 命中率がとても悪く、あまり良い攻撃法とは言えないのであるが、これもまたその時のケースで違ってくるのである。 艦攻は魚雷と爆弾をその時々で使い分けるのであるが、水平爆撃で地上ではなく、艦船へ命中させるのは難しいかったようであるが、 艦爆などより大きな爆弾を搭載できたため 敢えて破壊力を必要とされる時には使用されたようである。

 時に一二月八日午前三時一〇分(日本時間)。 ハワイ現地時間、七日午前七時四〇分、地上の敵はまだ対空砲火を打ち上げて来ない。 オアフ島にかかる大分前から聞こえていたハワイ放送はまだ呑気(のんき)に音楽を流している。といいうことで、 全くの不意を突かれる形となったアメリカ太平洋艦隊は為すすべもなく叩かれたのである。 この作戦の成功か否かは、いかに真珠湾まで気付かれづにハワイ周辺まで近寄れるかが鍵を握っていたと思う。 攻撃自体は奇襲であったので、誰が指揮を取っても失敗はなかったとおもわれる。

 ようし、奇襲成功や、ヤンキーたちを仰天させてやるで・・・・偵察席の淵田は、まず部下の攻撃隊あてに 『ト、ト、ト、ト、』を連送し、次いで機動部隊の旗艦・赤城あてに『トラ、トラ、トラ』 を勢いよく打電した。『ト、ト、ト、ト、』とは突撃せよの意味です。最初のト連送は、『全軍突撃セヨ』であり、 後の『トラ、トラ、トラ』は、世界史に残る『ワレ奇襲ニ成功セリ』であった。 時に午前三時一九分、赤城の艦橋で、淵田の知らせを待っていた南雲長官以下の草鹿参謀長、 そして淵田の同期生で機動部隊航空参謀である源田中佐も、『よし、奇襲成功だぞ!』と拳を上げた。




真珠湾上空の小異変



 こうして真珠湾の奇襲がはじまったが、ここでちょっとした異変が起きた。この記念すべき日、 第一弾を放つのは、当然総隊長 淵田機のはずであったが、実際は高橋赫一(かくいち)少佐(翔鶴)の率いる艦爆隊がオワフ島中央にあるフォード島 飛行場に投弾し、次が、ブーツこと村田重治少佐(赤城)の雷撃隊、そして淵田の水平爆撃隊であった。 この混乱の訳は、淵田が奇襲成功の 印に、信号弾一発を発射したところ、不十分と思われたので、もう一発発射したところ、これが『強襲』と誤認され、 艦爆隊の突入を招いたものであった。 この日の攻撃で、淵田総隊長は、艦攻隊の水平爆撃コースを、南西に回りこんで行うことにしたので、 これも遅れの原因となったようだ。

 艦爆隊は真直ぐ南下して、まずオワフ島の中央にあるホイラー飛行場を爆撃、次いで二隊に分かれて、 フォード島の中央にある飛行場、東端にあるカネオヘの飛行場に 二五〇`爆弾の雨を降らせた。村田の雷撃隊が、海面スレスレでフォード島の東岸に整然と係留されている 米戦艦五隻のうち、外側にいるウエストヴァージニア、オクラホマ、そしてやや南方に離れているカリフォルニア に必殺の魚雷を放った頃、淵田の艦攻隊も米戦艦に対し、水平爆撃を開始しはじめたのである。

 淵田水平爆撃隊第一中隊の戦果は、次のとおりである。メリーランド型に直撃弾(八〇〇`)二発命中、 続く岩崎五郎大尉の第二中隊は、カリフォルニア型二隻に各一発命中、布留川(ふるかわ)泉大尉の 第三中隊はカリフォルニア型に一発命中、以下、加賀、蒼龍、飛龍の艦攻隊もそれぞれ米戦艦に 命中弾多数を数え、計一二弾を直撃させ、大戦果の魁(さきがけ)となった。しかし、日本側に幸運だったのは、 係留中の艦船えの爆撃であったからこのような大戦果が上げられたのであって、航行する艦船であったらこの ようにはいかなかったであろう。



同期生、源田のどえらい話



 水平爆撃は雷撃のように派手な攻撃とは違って、地味で忍耐を強いられる攻撃方法である。整然とした 三機編隊を六ないし九機 で、敵目標の上空を飛行し、適当な時に投弾するもので、偵察員の淵田は艦攻の下に出したボイコ照準器で、 敵艦船を照準して、投弾するので、それまでは無心でありたいと思っても、過去のことなどを思い出すことが多い。 全くあの、人殺し多聞、と、気違い源田のしごきぶりは凄かったなぁ・・・・そう考えて 、淵田はひそかに苦笑した。真珠湾攻撃が上層部で内定した頃、まだ何も知らされていない搭乗員たちは、九州南部の 鹿児島、出水、鹿屋、笠ノ原、富高、佐伯などの基地で、もう訓練に従事していた。その猛訓練も一段落した一〇月頃、 鹿児島飛行場で、水平爆撃の訓練から帰った淵田は、 珍客訪問に懐かしい思いをした。

 『おう源田か・・・・』『やっているか?淵田ょ』旗艦・赤城からやってきた 源田実は、同期生に手を振りながら、 『実は内密の話があるんだ。どえらい話だぞ』と淵田を飛行指揮所の奥に連れていった。 そして源田が明かしたのは、まさにどえらい話だった。『ほう、遂にやるんか』いよいよ皇国の興廃やど。 ところでハワイをやるとして、貴様に頼みがあるんだ』と源田が言った。淵田は『真珠湾攻撃なら何でもやるぞ』 『全攻撃隊の総長をやってもらいたいんじゃ』淵田『総長?』源田『今度は日本歴史始まって以来の大空襲じゃで、 全部を総括する総隊長が必要なんじゃ 』ということで、俺は今この真珠湾上空にいるんやな・・・・淵田がそう回想にふけっている間に、 目標の艦船が間近に迫ってきていた。 こうして真珠湾攻撃は成功裡のうちに終わったのであった。だが、淵田は帝国海軍の勝敗の分岐点となったミッドウェー海戦では、虫垂炎のため出撃することが出来ず、 不遇を囲うこととなった。

 後に、祖國の敗戦後は両軍の戦死者の霊を慰めるため キリスト教信者となり、世界を布教して廻ったのである。アメリカにも訪問し、今度は平和の使者として人生の後半生を国際親善に尽くしたのであった。 (真珠湾攻撃の際、淵田の艦攻隊からの戦死者は零であったという)。




(更新/2005/04/20) 春も盛りの穏やかなに記す。  Homepage Owner kanno





参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第一巻 奇襲ハワイ作戦)人物抄伝・太平洋の群像8より。

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