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星条旗




米太平洋艦隊司令長官

ハズバンド・E・キンメル


ハズバンド・E・キンメル

経 歴
ハズバンド・E・キンメル
1882(明治15)年2月26日生
1968(昭和43)年5月14日没
ケンタッキー州ヘンダーソン出身
アメリカ海軍軍人
妻、ドロシー・キンメル
1904(明治37)年 アナポリス海軍兵学校卒
海軍大学卒
太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官 
1941(昭和16)年12月7日 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)
 12月17日 司令長官解任
1942(昭和17)年3月 少将で退役
1968(昭和43)年5月14日 コネチカット州Grotonで死去
2000(平成12)年10月11日 下院で名誉回復決議採択


日米開戦の10ヶ月前、キンメルは異例の大抜擢により米太平洋艦隊の最高指揮官に就任した。傑出したエリート軍人であったが、日本海軍の能力を過少評価して、重大な結果を招いた。






不運の太平洋艦隊司令長官



 昭和16(1941)2月1日、リチャードソン大将に代わってハズバンド・エドワード・キンメル大将が、米太平洋艦隊司令長官となった。 その9ヶ月前、太平洋艦隊は、いつもどおり東太平洋での年次大演習を終わり、休養のため真珠湾軍港入港した。すると、 急に大統領から、艦隊はそのままハワイに常駐せよと命じられた。『目的は、日本政府が(ヨーロッパ戦線での)オランダの敗北 と、イギリス、フランス、の苦境に乗じて南方に進出することを、断念させるにある』そのとき太平洋艦隊長官から、そう説明された。

 米海軍当局から、さっそく強い反対の声があがった。その急先鋒は、もちろん、当のリチャードソン長官。『艦隊の乗組員 が欠員だらけで、戦闘できる状態ではない。また、艦隊がハワイまで出ていって訓練するのは、機密保持上マズい。だいいち、飛行機 と潜水艦にたいする艦船の防御は、不十分である』陸軍参謀本部も駐留に反対である。『戦時、太平洋では、ウェーク、グアム、フィリピン を失うのはやむを得ない、とされているのではないか』機動力の大きい艦隊は、米本土西海岸にいさえすれば、それで十分睨みを利かせられるはずである。

 ここでおもしいろいは、米海軍の中に、『艦隊を真珠湾に進めても、日本を牽制することにはならない。むしろ敵の近くに 餌をおくようなもので、向こうから飛びかかってこさせるだけだ』と警告した意見があったことで、山本五十六長官の発想とピッタリ 。海軍の頭は、洋の東西を問わないらしい。リチャードソン長官は、どこまでも反対をゆるめず、大統領と衝突をくりかえした。リチャードソン、キンメルの長官交代は、それが理由だといわれる。しかし、それが事実かは疑わしい ルーズヴェルトにしてみれば、あつかい難いリチャードソン大将よりは、自分があつかい安いキンメル大将のがなにかと都合がよかったのであろう。 真珠湾が攻撃を受けたあと、責任を全て押し付けるのにはもっとも適任者であったのであろう。 何にしても、キンメル長官の不運は、極まっていた。


『常識』が破られた



 『潜水艦または飛行機、またはその双方による真珠湾奇襲攻撃は、可能である』アメリカ海軍士官たちにとって、これは夢物語ではなかった。10年近く前からいわれていて むしろかれらの『常識』になっていた。事実、1931年の米太平洋艦隊年次演習では、その10年後(昭和16年)の12月8日(ハワイ時間では12月7日)、南雲機動部隊が実際に 真珠湾を急襲した、それと瓜二つともいっていいはほどソックリな計画で奇襲攻撃演習が行われ、全アメリカ海軍を愕然とさせた。

 南雲部隊は空母6隻、高速戰艦2、重巡2、軽巡1、駆逐艦9、空母機360機(作戦参加数354機)の大部隊だったが、米海軍 の演習部隊(ヤーネル少将の率いた空母部隊)は、空母2、駆逐艦4の小部隊。ところが、これが大成功する。ヤーネル部隊は、日曜の早朝、誰も知らないうちにオアフ島 の北東沖から、空母機183機を発進、奇襲して、真珠湾にあった艦船ほとんど全部と、地上の飛行機はほとんど全部無力化してしまった。一大事である。何が何でも 、真珠湾奇襲航空攻撃を防ぎきらねばならない。

 キンメル新長官は、1941年2月、真珠湾に着任すると、早々に機密命令を発し、警告した。『敵は、開戦通告を行うより 前に、真珠湾の艦隊たいして奇襲攻撃を加えてくるかもしれない』警告を受けた太平洋艦隊、ハワイ防備の陸海軍部隊は、時を 移さず飛行機と潜水艦に対する防衛計画を立て、それぞれ必要な処置を講じた。

 キンメル大将は、海軍通の ルーズヴェルト大統領が選んで補任しただけあって、アメリカ海軍でも 傑出したエリートだった。頭がいいだけではない。部下がよくなついた。尊敬をあつめていた。いや、情けが細やかだからとか、 思いやりがあるとかいうのではない。部下を徹底的にしごく。が、同時に自分自身にも容赦しない。げんに、かれは太平洋艦隊 司令長官に任命されると、妻子をカリフォルニアに残し、ハワイに単身赴任した。

 それだけかれは、四六時中、艦隊とともにあって 艦隊を鍛えあげ、どんな敵が来襲しても、反撃して撃退するばかりか、引き続いての洋上決戦で敵艦隊を撃滅するだけの術力を部下に持たせようと、心を砕いた。 それがどうして日本に、あのような見事な空襲をやすやすと許してしまったのか。日本海軍の能力、何ができるかについての判断を誤った。過小評価したのだ。

 第一に、日本からハワイまで、約3400浬。その長い距離を、タンカーを加えて28隻の大艦隊が、誰からも見つけられず、十何日はをかけて、時速約22キロから26キロ (12ノットから14ノット)で航海しなければならない。これは難しい。可能、考ええるほうがオカしい。要するに軍艦は、そんな長歩きをするための然料タンクを持たない 洋上でタンカーから然料補給を何回もする必要があるのに、冬の北太平洋は波が荒く、天候も不良で、とても不可能。艦隊 の大部分がエンコしたらどうする、ということである。


日本にできるわけがない



 キンメル長官の評言にいう。『私はあのような遠距離の渡洋作戦は、ムリだと思った。日本の空母は、脚が短い。ハワイを奇襲 することなど、不可能に近い。(その近いをやり遂げたのである)また、日本の海軍機のことも、よく知っていた。だから真珠湾 攻撃の結果と方法を見たとき、目を疑ったというのだ』太平洋艦隊作戦参謀マクモリス大佐はいう。『真珠湾は、日本からの距離が遠すぎるので、 然料補給が難しく、とても攻撃はムリだろうと考えた。

 さらに、在泊艦船への雷撃も、真珠湾の水深は12メートルしかなく、戰例を調べても、そんな浅い ところを潜る航空魚雷はないので、これもムリ(そのムリを創意工夫と訓練で日本海軍補ったのである)要するに、かりに日本航空部隊が空襲して来ても 、大きな損害は受けない。われわれ米海軍自身が、日本本土に対し効果的な渡洋奇襲を決行できるとおもえないから、 日本にできるわけがないと考えた』(それが間違いの始まりとも知らずのんびりと考えていたのであった)

 以前は、米海軍の『常識』になるほどまで、 みな、真珠湾攻撃がある、と考えたが、よくよく調べてみると、障害が多くて、とてもムリな冒険だ。アメリカがムリだと考える 冒険を、日本がやれるはずはない、と考え直した。不可能、ないしお茶濁しし程度だとわかっているのに、だれが本気になって 防衛勤務につくだろうか。その上に、日本の攻撃意図、開戦意図を示唆(しき)する情報(外交暗号書は真珠湾にはなかった) が、ワシントンからも一つも知らされていなかった。

 こうして真珠湾は、ヤーネル空襲とおなじ日曜日朝、まったく不意に 、南雲部隊の奇襲を受けたのである。キンメル長官は、その12月17日解任され、さらに12月31日C・W・ニミッツ帝督が後を 襲った。太平洋戰争では、日本海軍はこのニミッツ相手に戦ったわけである。気の毒なのはキンメル長官で、日本をおびき寄せて、第一撃を撃たせるまでの 仮の長官としか思えてならない、ルーズヴェルトにただ利用されたに過ぎない気の毒な長官であった。

          (更新/2005/04/27)初夏の静かな宵に記す Homepage Owner  kanno



参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第一巻・奇襲ハワイ作戦)人物抄伝・太平洋の群像15より。

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