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聯合艦隊司令長官
古賀峰一大将
経 歴
古賀 峯一
1885(明治18)年4月25日生
1944(昭和19)年3月31日没
佐賀県有田町泉山出身
日本海軍軍人
元帥海軍大将
父、古賀鉄六
1906(明治39)年11月19日 海軍兵学校(34期)卒
1942(昭和17)年5月1日 海軍大将
11月10日 横須賀鎮守府司令官
1943(昭和18)年4月21日,聯合艦隊司令長官
1944(昭和19)年4月1日 海軍乙事件・殉職
死後、3月31日付で海軍元帥
軍政畠をひたすら歩き続けたエリート・古賀峰一大将。山本五十六のツケを背負って前線に出たが、聯合艦隊長官に就任後一年を経たずして不運な最期を遂げる。
待ち受けていたドンデン返し
古賀峰一大将は酒の上の武勇伝、艶聞(えんぶん)とかのエピソードが全くないのである。温厚な人柄であったようである。がんらい軍政畠の出身だったが、その経験、経歴を見てもわかるように、エリートコースを順当に 歩いてきたのだ。しかし、その生涯の最後に、強烈なドンデン返しが待ち受けていた。聯合艦隊司令長官に就任以来、戦力不足のため、一度も思いどおりの戦闘ができなかった上に、飛行機(ニ式大艇)で避退の途中 、遭難殉職するという悲運に見舞われたのである。古賀峰一大将は、
山本五十六
前GF長官とはとても親しい間柄で、狷介(けんかい)であった山本大将が心を許した数少ない知己(ちき)であったようである。
そして古賀大将の不運は、その山本と 無関係ということになると、事情は複雑となる。太平洋戦争というのは、一面、山本長官のやりたい放題の作戦指揮にひっかきまわされたといういいかたも 可能なのだが、古賀はその被害をモロに受けた恰好であった。 古賀の胸中は、複雑であったに違いない。昭和一七年(一九四二)五月、海軍大将。同一一月、横須賀鎮守府司令長官 。昭和一八年四月二一日、山本大将戦死のあとを継ぐかたちで、GF長官に親補された。この古賀の人事は、一ヵ月近く公表されずにいた。すでに国民的英雄であった山本の 影武者のような役割を果されなければならなかったのである。彼を象徴しているような挿話である。古賀は、山本のツケを、すべて背負(しょい)こむかたちで 前線に出ていくのであった。
四月二五日、古賀はトラック泊地にあった戰艦武蔵に着任し、同艦に将旗を掲げた。当時武蔵には、戦死した山本長官以下前GF参謀の遺骨が安置されていたが、宇垣中将 をはじめとする残存の幕僚から戦況の実際を聴取して、大きな衝撃を受ける。艦船、飛行機、人員などの損害の大きさは、古賀 の予想をはるかに上まわっていたのである。同時に彼は、突然この難局の正面に立たされた自分の運命をも悟ったであろう。
このころの前線における損耗は、横須賀鎮守府司令長官の要職にあった彼ですらつかめなかったほど、甚だしかったのである。 戦力の減少に加え、戦況は一段ときびしさを増してきていた。北アリューシャン西部では、アッツ、キスカ、両島に対する海と空からの敵の攻撃が、目立ってきていた。 中部太平洋方面では、ギルバート諸島に対する敵の動きに警戒を要するものがあった。南東方面では、『い』号作戦後も、依然 として敵機として敵機の跳梁はやまなかった。
『玉砕戦法以外に道はない』
着任後、約二週間たった五月八日、古賀は艦隊首脳部を武蔵に招致して、作戦会議を開いた。 第二艦隊司令長官近藤信竹大将、第四艦隊司令長官小林仁中将、第六艦隊司令長官小松輝久中将の連名による 『内南洋の作戦および防備』に関する意見具申に応えたものであった。その席上において、 古賀が行った訓示は、日ごろ温厚な彼には珍しく、悲痛に満ちていたといわれる。 その要旨は、『勝算は三分もない。ここに至っては、彼我の兵力差はいかんとも致しがたいので、 海軍作戦に関するかぎり、玉砕戦法を行って彼に損害を与えて時をかせぐ」 以外に道はない』というものであったが、彼の悲壮な覚悟がそのまま伝わってくるような内容である。
いきがかりとはいえ、当時、
宇垣
以下残留のGF幕僚は、まだ南ソロモン、ニューギニア両方面の 作戦にこだわっていた。そのような空気のなか、古賀は、第四艦隊司令部において開かれた打ち合わせ会において、 『防衛線をマーシャル、ギルバート方面まで撤退させ、米艦隊を誘って決戦を挑む』という決意を明らかにした。 ちなみに、山本大将の遺骨を乗せた戰艦武蔵以下の艦艇が内地に帰還したあとの、五月下旬から六月 中旬にかけて、遂次あたらしGF幕僚が出そろった。新参謀長は、宇垣中将にかわった
福留繁中将
、 新しいポストである参謀副長は小林謙五少将、主席参謀は
黒島亀人大佐
にかわって高田利種大佐が任じられた。
古賀新GF長官の中部太平洋における決戦構想を実現するためには、常に整備された空母部隊が 必要であった。当時、空母部隊は、ガダルカナル島攻防戦に参加したのち、トラック経由で内地に引き上げ、飛行機の整備 と再編に全力をあげていた。結論からいうと、古賀の描いた乾坤一擲(けんこんいってき)(
運命をかけて大勝負をすること
)の作戦は実現することなく終わったのであった。 米軍の急追が激しかったために、各個撃破をされて応戦するいとまがなかったからである。まず、依然から敵反応の 兆しが顕著であったアッツ、キスカ、両島をめぐって攻防がおこなわれた。その結果、アッツ島の守備隊は全滅したが (五月二九日)キスカ島上の兵力は全員撤収に成功 し、これが古賀のほとんど唯一の戦果となったのである。
一方、南からの敵の反応はニ正面作戦であり、 九月には日本軍のいう防衛圏前衛線の東端に相当するギルバート諸島のマキン、タラワ両島に上陸するなど 、一連の本格的な攻撃を加えてきたり、以後翌一九年三月に至るまで、南東および中部太平洋戦線の各処において 激戦が展開されるのである。 日本軍の前衛線があいついで崩壊しつつあった昭和一九年一月末ごろ、
チェスター・ニミッツ
の米中部太平洋艦隊は、 ギルバート諸島占拠以来、約二ヵ月の沈黙を破って その猛襲を防衛前衛線の東翼であるマーシャル諸島に加えてきた。続く二月一日朝、米軍は、日本軍がマーシャルの 心臓部としていたクェゼリン、ルオットに対し、上陸を開始したのであった。
飛行機事故で遭難殉職
マーシャルの前衛線をほとんど瞬時にして潰滅させた米空母部隊は、その余勢をかってトラックに手をかけてきた。 まず二月一日、太平洋戦線はじまって以来といわれた大量の米軍機が乱舞した。以後、一七日まで 敵は手をゆるめず、猛襲を加えてきた。トラックはガダルカナル、ツラギ、に連合軍が反抗してきていらい、 長くGF司令部および水上部隊の所在地であったが、マーシャルの失陥(しつかん)にともない、古賀峰一 は、空襲を予期して水上部隊を内地およびパラオ方面に撤退させしめ、みずからも将旗をパラオに移していた。 したがって同地区における最高指揮官は、自動的に地上にあった第四艦隊司令長官小林仁中将になっていた。
絶対國防圏上の要衝トラックが敵に蹂躪(じゅうりん)するところとなったことを知った古賀峰一は、在ラバウルの 航空兵力のトラック 転用を命じた。こうして、南東方面には二月二〇日以降、一機の飛行機も存在しなくなり、ラバウルをはじめとする 國防圏ライン要地はいわばむき出しとなって、その戦略的威力の大部を喪失したのである。こうして、 マーシャルからマリアナ諸島方面で米艦隊主力と洋上決戦をするという古賀大将の望みは潰え去った。
その後、退避していたパラオにも米空母機の来襲が予想されるようになった。旗艦武蔵に坐乗してパラオに到着 していた古賀大将は、武蔵を避退させ、みずからはGF司令部職員を帯同して、フィリピン・ミンダナオ 島のダバオに移動することを決心する。三月三一日夜、古賀は、福留参謀長以下とともに二機の二式飛行艇 に分乗してトラックを出発、ダバオに向かう途中、低気圧に遭遇したらしく、古賀を乗せた一番機が消息を絶ったばかりか 、二機もフィリピン諸島の中部海面に不時着、福留参謀長以下少数の人々のほかは、全員が戦死と判定されるに至った。 ちなみに、山本五十六大将が戦死した事件を『甲事件』と称するのに対し、古賀大将らのこの殉職事故を『乙事件』 と呼ぶ。この両聯合艦隊司令長官の戦死は日本側には 大変な痛手であり、損失であった。
(更新/2005/05/03) 皐月晴れの日に記す。Homepage Owner kanno
参考文献
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第七巻・
ラバウル航空戦
)人物抄伝・太平洋の群像65より。
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