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第一航空艦隊司令長官

南雲忠一中将・T

奇襲ハワイ真珠湾作戦



南雲忠一中将・T
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経 歴
南雲 忠一
1887(明治20)年3月25日生
1944(昭和19)年7月8日没
山形県米沢市信夫町出身
日本海軍軍人・海軍大将
父、南雲周蔵
母、南雲志ん
1908(明治41)年 海軍兵学校(36期)卒 
1920(大正9)年11月 海軍大学校甲種(優等)卒
軍令部出仕・海軍大学校教官
1929(昭和4)年11月30日 軽巡「那珂」艦長
1931(昭和6)年10月10日 軍令部第2課長
1933(昭和8)年11月15日 重巡「高雄」艦長
1934(昭和9)年11月15日 戦艦「山城」艦長
1935(昭和10)年11月15日 海軍少将に昇進
              第1水雷戦隊司令官
1936(昭和11)年12月1日 第8戦隊司令官
1937(昭和12)年11月15日 水雷学校長
1938(昭和13)年11月15日 第3戦隊司令官
1940(昭和15)年11月1日 海軍大学校校長
1941(昭和16)年4月10日 第1航空艦隊司令長官
1941(昭和16)年12月8日 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)
1942(昭和17)年6月5日〜7日 ミッドウェー海戦
 8月23日〜25日 第2次ソロモン海戦
 10月26日 南太平洋海戦
 11月11日 佐世保鎮守府司令長官
1943(昭和18)年6月21日 呉鎮守府司令長官
 10月20日 第1艦隊司令長官
1943(昭和18)年 南西方面艦隊司令長官
1944(昭和19)年3月4日 中部太平洋方面艦隊司令長官兼
        第14航空艦隊司令長官 サイパン島へ着任
 7月18日 大本営、サイパン玉砕を発表死後、大将に昇進




日本海軍有数の水雷戦術の権威も、航空戦術を知らず。山本五十六の強引さに押し切られ、及び腰で真珠湾へ。奇襲成功後の第二撃を実行せず、とかく批判を買った。






真珠湾攻撃の実施指揮官



  ハワイ作戦、開戦劈頭(へきとう)、あらかじめハワイに向け進出させておいた空母の甲板から艦上機を発進させ、真珠湾に碇泊中のアメリカ艦隊を奇襲する計画は、山本五十六聯合艦隊司令長官 ひとりの頭のから生みだされた。普通人の発想とはいいがたい。その軍事行動のシナリオは、黒島亀人主席参謀ら聯合艦隊 幕僚が練り、飛行機操縦の技術や魚雷などの兵器の改良研究は、大西瀧次郎源田実淵田美津雄村田重治らのプロジェクトチームによって計画の細部が埋められ、完成したとされる。 もっとも、右のうちで大西のみは内心あまり賛成でなかったともいわれている。右の計画案をしめされたとき、実施部隊の指揮官である南雲忠一中将は、危険が多すぎるとして、二足を踏んだ。 推測の域を出ないが、最初聞いたときは、とんでもないことで、戦術というより奇術だと思ったのではないか。

  南雲の躊躇(ちゅちょ)は当然であろう。こんな奇抜な作戦計画を聞かされて、平然としている実施部隊の長がいたら、それのほうがよっぽどおかしい。当初反対したのは、南雲ひとりというわけではなく、 むしろほとんどの者が賛成しなかった。第一 に、大本営(軍令部)がやはり投機的すぎるとして難色を示した。しかし、山本は強行だった。なんなら自分が実施部隊の空母に乗り込んで直接指揮を取ってもいい 、とまでいったという。たんなる脅しではなく、本気だったろう。山本五十六はギャンブラーだったともいうが、ここら辺の自己放下(ほうげ)が彼の凄みといえばスゴ味だろう。山本長官はこの一戦に賭けていたのであろう、相当の決意を感じられる。

 真珠湾攻撃を担当する第一航空艦隊の司令長官に南雲中将が親補されたのは、昭和一六(一九四一)四月のことであった。それ以前は、水雷学校の校長を長らくつとめていた。水雷の専門学校を出て駆逐艦司令などを 歴任し、日本海軍有数の水雷戦術の権威と見られれたが、しかし航空部隊を指揮した経験はまったくなかった。自分は行為空戦術に関し ては何も知らないという意識が、彼の不安をよけいに募らせていたのかもしれない。 南雲が指揮を任されたハワイ作戦参加部隊は、六隻の空母からなり、機動部隊と名づけられた。

  その特別部隊の兵力は、 南雲が直接に指揮する第一航空戰隊の赤城、加賀、第二航空戰隊司令長官山口多聞少将の指揮する蒼龍、飛龍、第五航空戰隊司令官原忠一少尉が、 指揮する瑞鶴、翔鶴の計六隻であった。 これら空母群の警戒および支援に任じのが、第三戰隊司令官三川軍一中将が指揮する戰艦比叡、霧島、第八戰隊司令官 阿部弘毅(ひろあき)少将が指揮する重巡利根、筑摩、第一水雷戰隊司令官大森仙太郎少将が指揮する軽巡阿武隈、第一七駆逐隊の駆逐艦四隻、第一八駆逐隊の駆逐艦 四隻えあった。以上の各部隊のほかに、これらの部隊の前路哨戒に任ずる第二潜水隊の潜水艦三隻、ミッドウェー島の砲撃を行う第七駆逐隊の駆逐艦二隻、 補給部隊として油槽船八隻があった。 以上のほかに協力部隊として潜水艦部隊の先遣隊があったが、これはその名のとおり先遣して、艦隊行動を同時にはしなかった。

一二月八日真珠湾近海に到着した機動部隊

一二月八日真珠湾近海に到着した機動部隊



苦悩する責任者・南雲



  指揮官たる南雲の任務を端的にいうならば、以上の大部隊を隠密裡(おんみつり)に、 ハワイの北西約二二〇浬(約407キロ)の洋上まで運ぶことであろう。むろん、この地点は、空母に搭載した 飛行機の発進点である。南雲の不安と懊悩(おうのう=なやみもだえること)のいちばん根底にあったのは、以上の事がに尽きるので、 それ以外の悩みは、あったとしても大したことはなかっただろう。パイロットに 対する特別訓練に成果や、魚雷などの兵器の改良については、航空の専門家であり司令部直属の 草鹿、源田、淵田に任せておけばよかった。それは専門外漢の気楽さかもしれなかった。 また、当時のパイロットの技量は、いわゆる技神(わざかみ)に入る域に達していた。そのことは、南雲によくわかっており、 彼等に全幅の信頼をおいていた。発進地点まで 連れてゆけば、あとは間違いなくやってくれるだろう。

 部隊はそれぞれ戰隊ごとにいったん択捉島(エトロフ)の 単冠湾に集合して、大艦隊を組んで一路ハワイをめざす。コースは、北太平洋 に偏した北方航路とることに決まった。目的地までの距離実に三〇〇〇浬余。(約5556キロ)世界の戦史にもまれな洋上おける 大長征である。その十日間余の航海のあいだに、敵の艦船 、潜水艦、または第三国の商船に一隻も遭遇せずに、果たして目的点にゆきつけるのかどうか。 責任者である彼にすれば、考えれば考えるほど、悲観的にならざる得なかった。 それゆえこそ、冬季は悪天候続きで、航路の意味を失うといわれる極寒の北コースが選ばれたのであるが、 しかし、それでもあんしんできなかった。

  山本長官の強引さに負ける格好で、 軍令部が認め、すべてが決してからも、南雲は内心ずっと思い悩んでいたようである。内心の 不安を押し隠しながら、彼らは集合点の単冠湾(ヒトカップワン)において、集まったパイロット達 の前に立ち、『本壮挙ニ参加シ護国ノ重責ヲ担フ諸子ニ於テハ誠ニ一世ノ光栄ニシテ武人ノ本懐何 モノカ之に過グルオモノアランヤ』(『公刊戦史』)と、型どうりの訓示を 行なっている。しかし、山本長官もどうしてこのような人選をしたのか、まだ航空作戦に秀でた適任者が いたはずであるのに、あえて南雲中将を起用したのか、これも山本長官の情けというものなのであろうか。 山口多聞少将のが航空に関しては適任者だと思うが、日本の悪い体質化というか、年功序列というのか、 山本長官の温情なのか、この自信のない南雲忠一中将が総指揮をとったのである。


不安を抱きつつ真珠湾へ



  十一月二十六日、いよいよ単冠湾を出港。ついに矢は弦を放れた状態となった。出発後、思いのほか平穏な日が続き、不安材料のひとつであった 洋上での然料補給も可能となった。参謀長の草鹿龍之介少将などは、 これでようやく愁眉(しゅび)をひらいた。しかし、南雲の不安はなお去らない。出撃後何日かたったある夜、周囲に誰もい なくなった時を見計らったようにして、南雲は草鹿参謀長にこういった。『参謀長、どうも私はとんでもないことを引き受け てしまったような気がしてならないんだが 。あのとき、もっと強く反対すればよかったのだろうか』さすがの草鹿参謀長も、いまごろになって何をいい出すのかと驚いたが、 表面は平静をよそおい、『大丈夫ですよ長官。きっとうまくゆきますよ』 (草鹿龍之介『聯合艦隊』)そう答えながら、一方で正直な人なんだと思わずにはいられなかった。指揮官となると、その責任 からくる重圧感は、やはり自分のような幕僚の立場とはちがうのだろうとも思った。

  もともと草鹿もこの作戦には反対で、 山本長官にも面と向かって所信を述べたこともあった。しかし、今はスッカリ肚(はら)をきめてしまっていた。 へんに張り切られるより、かえってやりやすいかもしれなぬ。草鹿はそんなふうに思った。一航艦参謀長として、南雲の下についてから 半年あまりが経うとしていた。草鹿は 、この痩身(そうしん=やせたからだ。)で滋味のあるブルドックのような容貌をした提督に人間味を感じ、親しみを覚えはじめてた。 南雲は、このとき五四歳であった。良くも悪くも、その人間本来の姿があらわれる齢ごろである。彼なりに円熟の境地 に達していたろう。左官の頃までは、酒の上の失敗や 派手な言動もあったようだが、本来彼は平凡な人間であり、性格は実直であったろう。山本五十六のような個性的で天才肌の 人間とはまるっきりタイプのちがう人物である。一二月八日、旗艦赤城の艦橋で、『ワレ奇襲ニ成功セリ』という攻撃隊総指揮官 淵田美津雄中佐の報(しらせ)を聞いたとき、こんなにうまくいっていいのかと、彼はまたあらたな不安に 胸を噛まれ始めていたのではないか。そんな気がしてならない。 こんな彼の戦いは、ミッドウェー海戦までは破竹の勢いであった。

         二〇〇五年 五月六日 橘薫れる日に記す。   合掌  管理人

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参考文献 
(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第一巻・奇襲ハワイ作戦)人物抄伝・太平洋の群像4より。

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