聯合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死が確認されたとき、クラスメートであり、親友であった堀悌吉(ほりていきち)中将は、
『一将一友を失ひしを惜しむのときにあらず。ただ、この人去って、ふたたびこの人なし』と長嘆(ちょうたん)した。その言葉が、『この人』の、
このようなときでの、かけ替えのない価値を、これ以上なく明確に示していた。
だいたい海軍士官は、江田島の海軍兵学校で、金太郎飴のように均質に、画一的に作られたもの。キチンと整列した生徒隊の中から何某(なにぼう)
という生徒を探すには、顔で見分けようとしてもダメだ。
胸に着けているネームプレートを見ていくか、いかにも探すふりをして、『オーイ。何某生徒はおるか』とでも呼び上げないと、区別できない。このとき、
『教官の前に居ります』大声で答えるのがいてバツの悪い思いをすることもあるけれど。
そんな状況の中で、どうして、山本のような突出した、際立った個性が生まれたのか。いや、存在することができたのか。
詳しく述べるには一冊の書物ではとても足りない、それほど個性豊富な人者であったようである。要するに、山本が明治維新の内戦で(戊辰戦争)賊軍側についた雪国、
越後長岡(新潟県)の出身だったこと。実家の高野家の当主が、生真面目な
微禄(びろく)武士で(註・微禄とは給料が安かったこと)苦労し、母の愛情に支えられて育ったこと。海軍兵学校卒業後すぐに少尉候補生で日進に乗り組み、
日露戦争(日本海海戦)に出征、敵弾により重症、(指を欠落する)生死の境を
彷徨(ほうこう)した後回復したこと。彼の持つ格段に深い人間愛と我慢強さ、反骨と気負いと度胸は、そんな中から生まれたのだろう。
そればかりではない。彼の特徴は、その豊かな感受性にあった。素直に驚き、多量の好奇心を溢れさせて、『何だ何だ』と首を突っこんでいく。だから、
彼の経歴のなかで、異常に
多い外国勤務、特に、ロンドンの軍縮会議に二回も出席(始めは随員として、次は日本代表として)したことは、前途した金太郎飴的均質画一性の大部を、
押し潰し、打ち壊したに違いない。彼の発想と思想の自由さ
ユニークさは、なまはんかなものではない。彼のこの精神は生まれた土地柄、家庭の環境に多いに影響を受けていると思う。賊軍とされた越後長岡藩士の子
として生まれ、貧しく育った幼少のころの影響が多分にあると思われる。
空母瑞鶴から
見た単冠湾の情景。択捉島の島影を背景に戰艦霧島と空母赤城
連合艦隊の栄光と落日 前編 1 of 3
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