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gunkanki


聯合艦隊司令長官

山本五十六大将・T

奇襲ハワイ真珠湾作戦



山本五十六大将・T

経 歴
山本 五十六
1884(明治17)年4月4日生
1943(昭和18)年4月18日没
新潟県長岡出身
日本海軍軍人 海軍大将・元帥
旧姓、高野
父、旧長岡藩士・高野貞吉
養祖父、山本帯刀
1901(明治34)年12月 海軍兵学校入校 
1904(明治37)年11月 海軍兵学校(32期)卒
  1905(明治38)年1月3日 「日進」乗組
1905(明治38)年5月27日 日本海海戦に参加
 8月31日 海軍少尉 横須賀鎮守府附
 12月12日 横須賀海兵団附
1914(大正3)年5月27日 横須賀鎮守府副官兼参謀
 12月1日 海大甲種学生
1915(大正4)年 山本家を相続
 海軍大学校(14期)卒
 12月13日 海軍少佐
1919(大正8)年4月5日 米国駐在
 12月1日 海軍中佐
1924(大正13)年3月31日 帰朝
 6月1日 横須賀鎮守府附
 9月1日 霞ケ浦航空隊付
 12月1日 霞ケ浦航空隊副長兼教頭
1925(大正14)年12月1日 在米日本大使館付武官
1927(昭和2)年11月15日 帰朝命令
1928(昭和3)年3月15日 軍令部出仕
 8月20日 巡洋艦「五十鈴」艦長
 12月10日 空母「赤城」第3代艦長
1929(昭和4)年10月8日 軍令部出仕 海軍省出仕
 11月12日 ロンドン会議全権委員次席随員
 11月30日 海軍少将
1933(昭和8)年10月3日 第1航空戦隊司令官
1936(昭和11)年12月1日 海軍次官
1937(昭和12)年11月20日 大本営に於ける海軍大臣常時随員
1938(昭和13)年4月25日 海軍次官兼航空本部長
1940(昭和15)年9月27日 日独伊三国同盟締結
 11月15日 海軍大将
1941(昭和16)年1月1日 大西瀧治郎少将に真珠湾攻撃の検討を指示
 8月11日 免兼職 聯合艦隊司令長官
 12月8日 太平洋戦争開戦
1943(昭和18)年4月18日 海軍甲事件
 ブーゲンビル島上空で乗機(一式陸攻、機長・小谷立飛曹長)
をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に撃墜され戦死
 歴代の聯合艦隊司令長官の内、戦死したのは彼一人
 当日、第3種軍装を着用していた(普段は第2種軍装を着用)
 4月18日 元帥 功一級金鵄勲章 大勲位菊花大綬章
 4月23日 ラバウルから航空機でトラックに遺骨を移送 
遺骨を戦艦「武蔵」作戦会議室の祭壇に安置
戒名、大義院殿誠忠長陵大居士・多摩墓地に埋葬
遺骨は長岡・長興寺の山本家累代の墓に分骨されている




山本が考え、自ら実行したハワイ作戦。兵学校教育の均質性を越えた自由な発想が、開戦劈頭の真珠湾にむすびつく。山本五十六は規格品として統一されない、天才的な戦略家であった。






海外勤務で画一性を打破



 聯合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死が確認されたとき、クラスメートであり、親友であった堀悌吉(ほりていきち)中将は、 『一将一友を失ひしを惜しむのときにあらず。ただ、この人去って、ふたたびこの人なし』と長嘆(ちょうたん)した。その言葉が、『この人』の、 このようなときでの、かけ替えのない価値を、これ以上なく明確に示していた。 だいたい海軍士官は、江田島の海軍兵学校で、金太郎飴のように均質に、画一的に作られたもの。キチンと整列した生徒隊の中から何某(なにぼう) という生徒を探すには、顔で見分けようとしてもダメだ。 胸に着けているネームプレートを見ていくか、いかにも探すふりをして、『オーイ。何某生徒はおるか』とでも呼び上げないと、区別できない。このとき、 『教官の前に居ります』大声で答えるのがいてバツの悪い思いをすることもあるけれど。 そんな状況の中で、どうして、山本のような突出した、際立った個性が生まれたのか。いや、存在することができたのか。

 詳しく述べるには一冊の書物ではとても足りない、それほど個性豊富な人者であったようである。要するに、山本が明治維新の内戦で(戊辰戦争)賊軍側についた雪国、 越後長岡(新潟県)の出身だったこと。実家の高野家の当主が、生真面目な 微禄(びろく)武士で(註・微禄とは給料が安かったこと)苦労し、母の愛情に支えられて育ったこと。海軍兵学校卒業後すぐに少尉候補生で日進に乗り組み、 日露戦争(日本海海戦)に出征、敵弾により重症、(指を欠落する)生死の境を 彷徨(ほうこう)した後回復したこと。彼の持つ格段に深い人間愛と我慢強さ、反骨と気負いと度胸は、そんな中から生まれたのだろう。

 そればかりではない。彼の特徴は、その豊かな感受性にあった。素直に驚き、多量の好奇心を溢れさせて、『何だ何だ』と首を突っこんでいく。だから、 彼の経歴のなかで、異常に 多い外国勤務、特に、ロンドンの軍縮会議に二回も出席(始めは随員として、次は日本代表として)したことは、前途した金太郎飴的均質画一性の大部を、 押し潰し、打ち壊したに違いない。彼の発想と思想の自由さ ユニークさは、なまはんかなものではない。彼のこの精神は生まれた土地柄、家庭の環境に多いに影響を受けていると思う。賊軍とされた越後長岡藩士の子 として生まれ、貧しく育った幼少のころの影響が多分にあると思われる。



ハワイ
作戦のため択捉島単冠湾に終結した、機動部隊

空母瑞鶴から 見た単冠湾の情景。択捉島の島影を背景に戰艦霧島と空母赤城



連合艦隊の栄光と落日 前編 1 of 3

連合艦隊の栄光と落日 前編 2 of 3

連合艦隊の栄光と落日 前編 3 of 3

連合艦隊の栄光と落日 後編 1 of 3

連合艦隊の栄光と落日 後編 2of 3

連合艦隊の栄光と落日 後編 3of 3






山本の『真珠湾攻撃』



 山本の真珠湾攻撃を考えるには、まず山本五十六を知らねばならない。そうでないと、真珠湾を見失ってしまうのである。真珠湾攻撃こそ 山本五十六であり、山本が考え、山本でなければできなかったし、山本であったからウマくいったと同時に、山本だから ウマくいかなかった。その懐(ふところ)の中がみえなくなる。彼は彼としての心の葛藤(かっとう)があったのだろうが、私などの 凡人にはまるで見えてこない人であるが、はたしてどれほどの懐の深さがあったのか、真珠湾に限って発揮されたのか ?である。ミッドウェー以降、どうも彼の強引な指導力が見受けられず、弱気なところが目立つのは私だけなのであろうか。

 しかし、凄人者であることには変わりはない。金太郎飴的均質同一になるように育てられた、一般海軍士官には、発想できないからである。 それを証明するのは、彼がこの計画を発したとき、海軍でも曲者といわれた人々が反対したのであるから、山本長官がいかにその上をいっていたかが わかる。常人でないことがありありとうかがえるのだ。念のために申し添えておくと、なぜそのような横並び士官に育てたかというと 、立派な理由があるそうである。海軍の唯一の実戦部隊は聯合艦隊だが、大和、武蔵以下二五〇隻の艦艇が、テンデンバラバラに動いたり、腕前は上手い下手まちまち、 タマや魚雷を射つとどこへそれが飛んでいったかわからない、といったことではどうしようもないからだ。何しろ、敵と戦って勝たねばならない。それには、全艦隊が 一糸乱れず行動し、腕前も揃って優れている必要がある。でないと、各個撃破をやられてしまう。

 話をもどすと、真珠湾攻撃は山本の個性が考えだしたものなのである。山本から航空攻撃の着想、閃(ひらめ)きを聞かされた聯合艦隊参謀長の福留少将は、自身満々の 丸顔をのせた腹を突き出していった。 『それができるくらいなら、聯合艦隊の全艦隊をハワイ沖に押し出して、連合決戦ををやりましょう』山本長官はときどきこんな ド素人みたいなことを言われるからこまる。やはり長官は、作戦畠から持ってこないと不安だ。艦隊決戦でないと日本は勝てないことを御存知ない。 と、彼は高をくくっていたようだ。ところがその作戦がせいこうしてしまうのである。その時の福留少将の顔が見たかったものである。

 (戦争のときは、古賀(峯一大将)さんに代えるよう、人事局に申し入れておこう)いや、福留参謀長の考え方が、海軍では正統で、山本長官の方が異端である。 古賀は、戦死のとき、実際に長官となった人で、人事権者だった嶋田海相(山本長官のクラスメート)が、『順序からいえば豊田(副武大将)だが、古賀にした 』と舞台裏まで見せて、古賀登用の弁を述べたのである。それほどに古賀大将は、オーソドックな、聯合艦隊長官最適任の作戦家という定評があったのだ。 つまり、山本は古賀ように、ないしは福留のように、『艦隊決戦に持ちこまないと日本はアメリカに勝てない』という理想的な規格には統一されてはいなかったのである。


新高山登レ


聯合艦隊『GF』旗艦戰艦長門とよりの電文、新高山登レ。




航空軍備の必要性を説く



 山本はアメリカやヨーロッパで、第一次世界大戦の新兵器だった飛行機が、車輪付きで軽快に飛びまわっているのを見ていると イメージがどんどん膨らんだ。『飛行機の将来性は、一般の人が考えるよりずっと大きい。航空軍軍備にたいして目を開かねばならぬ』 アメリカから帰って、海軍大学校教官になった山本は、学生たちにこう説いた。大正一一年(一九二二)ころの話である。 『山本教官の話は極端すぎる』学生の反応は冷たかった。が、これは学生の意見が尤(もっと)もなので、日本海軍では、布張の下駄履き複葉機が、佐世保から横須賀まで 一一時間半も掛かって飛んでいた。飛行機が、新幹線の半分以下のスピードしかでなかったころの話である。彼らが極端すぎると思うのも、ムリはなかった。そこで、 話を昭和一五年(一九四〇) に移して。彼がその年の三月、聯合艦隊昼間電撃訓練で、思わず、『飛行機でハワイをたたけないものか』と呟いた。

 この着想を一応の作戦に形を整え、その時は軍令部作戦部長に転出していた福留少将に手渡した昭和一五年一一月末ころから、 翌一六年一〇月一九日、永野軍令部総長が上京中の黒島亀人聯合艦隊参謀長に向かい、『山本長官がそれほどまでに自信があるというのならば、 総長として、責任を持って御希望通り(作戦計画を)実行するようにいたしましす』と答えるまでの一一ヵ月間、不退転の決意でネバリにネバリ、押しに押し 、待ちに待った精神力、忍耐力、いやその山本の資質にはほとほと脱帽するほかない。 くりかえしていうと、日本海軍は日本の艦隊が西太平洋に展開し、制空権下の艦隊決戦で大砲と魚雷を射ち合い、それで 勝と思い定め、そのための訓練と戦略戦術法の演練に、それこそ"月月火水木金金"の全力投球を続け、倦(う)むことを知らなかった。 その艦隊決戦を傍(かたわら)らに置き、開戦劈頭(へきとう)、主力空母を挙げて、全力でハワイに突撃したのである。

 今日でも、なおハワイ攻撃が天才戦略家による驚天動地の独創であり、山本五十六の個性そのものであるという評価は 動いていない。だが一方、山本五十六だからウマくいかなかった部分があったことも否めない。山本は、人の情けがこと厚かった が、好悪の情けもまた激しかったようで、指揮官と部将の間柄であっても、嫌いな奴には心を開かなかった。こうして部将・南雲中将の 率いる空母機動部隊は、山本長官の心を知らず、再び来ることのない千載一遇の好機を失ったのである。大事、ここに去る、であった。 けっして凡将にできることではない、天才といわれる人間は為すことが壮大ではあるが、時として受け入れ難いこともある。





     (更新/2005/05/07)   雨降りし日に記す。合掌  Homepage Owner kanno

山本五十六大将・U⇒




参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第一巻・奇襲ハワイ作戦)人物抄伝・太平洋の群像12より。

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