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gunkanki


海洋投棄された銃弾と箱

海洋投棄された銃弾

千葉県銚子市川口町利根川河口沖に投棄された銃弾

終戦後、進駐軍の命により海洋投棄された銃弾が渚に昭和四〇年代頃まで沢山流れ着いたその一部ではないかと思われる。 海洋投棄は聞く話によると、投棄する距離が指定されて決まっていたが、委託された業者が沖まで行かずに投棄されたとの事である。 この他には、砲弾の不発弾や爆雷の腐食した物などが流れ着いていた。爆雷の中には細いボールペン程の、中がマカロニように空洞になった火薬や、 薄い幅一センチ程の火薬が沢山砂浜に打ち上げられていた。これを拾い集め、当時お風呂を焚(たく)く時などに火力が強いので 、撒きに火を点けるのに川口方面の人たちは使用していた。この他には、漁船の魚網にイペリット弾の入った壷などが網に掛かり、処理中に火傷を負った漁師もいた。 この弾薬やイペリット・ガスや砲弾、爆雷など多くの火器類が昼夜を問わず貨物列車で銚子駅に運び込まれ、海上へと投棄されたようである。 今でも沖には投棄された物が沢山あるのではないかと思われる。

  さて、この爆弾投棄を実施したのは日本人であるが、この指揮を執ったのは米軍で、終戦の2ヶ月後ころから始まったという。 その人員は80名ほどだったそうで、ヤマサ醤油本社の事務所を接収して駐留した。 そして米軍の指揮の下爆弾、砲弾などの海洋投棄が始まった。米軍指揮の下書いたが、労務仕事は全て日本人が行った。 この爆弾類は、関東各地から銚子駅へ運び込まれ、駅からは臨時に設けられた路線でさらに港へと運ばれ、岸壁に集積されて 港は爆弾の山となった。

  さて、山積みされた爆弾・砲弾類はどこに捨てられたと言えば、銚子沖の東北東15浬〜北東15浬、キロにして27〜8キロのところである。 水深はおおよそ200メートルほどだそうである。 この運搬には、各港から徴用された船舶(漁船)銚子、波崎、片貝方面の漁船が行った。銚子漁業協同組合の記録によると銚子港の船だけでも 記録によると、延べ621隻、出港回数2522回にも及んだという。

  投棄作業は約7ヵ月もに及んだという。銚子駅に運ばれた砲弾や爆弾は4800車両で、この内30車両もしくは320車両が化学兵器の ガス弾だったという。全ての総トン数はといえば、爆弾、砲弾類が7万1550トン、ガス弾が450トン合計で7万2000トンに上ったという。 そしてこのガス弾はその後、現在まで漁民に大きな災害を与えている。ある人が言っていたが、実際に15浬もの沖まで行ったのか疑わしいのである。 それはというのは、現在の銚子外港が出来るまでは砲弾や小銃の弾などが沢山打ち上がられたからである。15浬先の200メートルの海底へ投棄したなら 渚にまで銃弾や砲弾が転がってくることはなかったのではと、今でも時々考えるのである。 最近は、爆弾ひとつ出てきたくらいでおおさわぎをしているが、昔はこんなのことは我が地方では日常茶飯事の出来事であったのだ。

弾丸が収められていた弾薬箱

銃弾箱

銃弾箱





(更新/2005/06/27)梅雨の花、紫陽花咲き乱れし日に記す。 Homepage owner kanno

(追記/2009/06/07)梅雨まえの青天の日に記す。


 
参考文献 
銚子大衆日報社・刊 大衆日報紙より引用させて頂きました。
大衆日報社所在地・銚子市春日町3218の1
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