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日本海軍の撃墜王


西沢広義中尉

経    歴
西沢 広義
一九二〇(大正九)年一月二七日生
一九九四(昭和一九)年一〇月二六日没
長野県上水内郡小川村出身
日本海軍戦闘機搭乗員 飛曹長
日本人最多撃墜数記録保持者(公式八七機撃墜)
一九三六(昭和一一)年六月第七期乙種飛行予科練習生に採用
横須賀海軍航空隊入隊
ラバウルに台南航空隊が進出 四空は吸収される
五月二七日ポート・モレスビー上空で
坂井三郎一飛曹、太田敏夫一飛曹と共に編隊宙返りを行う
一九四三(昭和一八)年五月二五一空所属
ラバウル撤退後、二〇一航空隊に所属
一九四四(昭和一九)年一〇月二五日
神風特別攻撃隊「敷島隊」
の護衛を担当アメリカ海軍F6F戦闘機二機撃墜
飛行機受領のため零式輸送機でセブから
マバラカット基地への移動中、F6F戦闘機の襲撃を受け戦死。




日本海軍の撃墜王・西沢広義中尉


 日本陸海軍中最高の撃墜数を八七機を誇る撃墜王である。台南航空隊、後に二五一航空隊などで活躍したエースである。 ラバウルでの激戦にも勝ち抜き、昭和十九年十月フィリピンで第一神風特別攻撃隊、関行男大尉指揮する敷島隊の誘導護衛機として戦果確認した後、 特攻隊に自機を引き渡し、陸攻で基地に帰還するとき、敵戦闘機に襲われ還らぬ人となったのであるが、さぞ無念であったろう。戦闘機にさえ乗っていれば、このようなことは 彼に限っては無かったと思われる。


エースとは!

 敵機五機以上撃墜したパイロットをエースと呼ぶが、第一次大戦でフランスがパイロットたちの戦意を高揚する 目的から、トランプの最強カードであるエースにちなんでこの称号を与えるようになったのが発端といわれる。 このエースに考えは国によってニュアンスがことなり、たとえばヨーロッパ戦線でもフランスやドイツでは派手 に扱われ英雄として大いにもてはやされたが、イギリスは公式にはエースの存在を認めず、はなばなしくその勲 功をもてはやすという習慣はが無かったようである。

 ひるがえって第二次世界大戦の太平洋戦域で戦った日米両軍についても、似たような対照的傾向がある。米国は 元々英雄の好きなお国柄だけに、エースたちの撃墜競争はいち早くニュースとして伝えられ、彼らが本国へ帰還 したときには勲章授与とともいにお祭り騒ぎが起こるほどだったそうである。これもお国柄の違いであろうか、 日本とは正反対であったようである。

 日本にはイギリス同様エースなる概念が存在しなかった事に加え、個人に戦果より部隊としての戦果を重視した こともあって、その評価は不当なほど低かったようである。もちろん多数の撃墜者として表彰された事は有った が、ドイツやアメリカのように撃墜数の多いエースは早く昇進させて部隊を率いるようにさせる、というような 事は無かったようである。このため実力がありながら、単に階級が下という理由でだけで下手な指揮官の下に付 かなければならないという不条理も少なくなかった。

 たとえば、米海軍トップエースであるデヴィッド・マッキャンベルは三四歳のときにすでに中佐の飛行隊長でだ ったが、三四歳といえば、日本では大尉を長く努てようやく少佐であり、それも少佐になると飛行長かなにかで 空中戦闘からは遠ざかることが多かったようである。エースに昇進という点で最も極端な例は、そう撃墜数二一 機のケネス・ウォルシュ少佐で、一九三二年(昭和八年)に高校を卒業して海軍に入った彼は、終戦の時は少佐 になっていたという。実力主義のアメリカはこのようにして、昇進させ戦意を高揚させ英雄として称えたようで、 若くして佐官に昇進した者が多い。

 これに比べ日本海軍のナンバーツー・エースである(自称トップ、エースと彼は自認していたようであるが) 岩本徹三中尉は、農林学校から昭和九年(一九三四年)に海軍に入ったが終戦の時にかろうじて中尉であった。 海軍兵学校や大学卒のエリート出身でなく、整備兵からパイロットに転向したこの二人の昇進の差がそのまま日 米のエースに対する評価の違いを物語っていると云っていいであろう。年功序列と、実力主義にお国柄の違いと言 ってしまえばそれまでであるが、いかに日本のパイロットが冷遇されていたかかがこれでうかがえる。同じ命の遣り取 りをしてのこの差は何を意味するのか・・・・



撃墜数の困難な判定


 撃墜数は、自己報告や共同撃墜などいろいろあり、正確な確認は困難であると海軍ナンバーフォーエース坂井三郎 中尉や、その他のパイロットの評言にもあるように、実際のところこれが事実のようである。エースの認定やその 勲功に対する評価の違いは別として、日華事変から太平洋戦争と戦争期間が長かっただけに、上位エースたちの撃 墜数は日本が戦勝国アメリカを上回っている。


日本海軍のエース


  撃墜王・序列

一、西沢広義中尉・八七機*

二、岩本徹三中尉・約八〇機

三、杉田庄一少尉・約七〇機

四、坂井三郎中尉・六四機*

五、奥村武雄飛行兵曹長・五四機

六、太田敏夫飛行兵曹長・三四機*

七、杉野計雄飛行兵曹長・三二機

八、石井静夫飛行兵曹長・二九機

九、武藤金義中尉・二八機

十、笹井醇一少佐・二七機*

十一、菅野 直中佐・二五機

* 印は初期ラバウル基地所属の
 台南航空隊の搭乗員である。

ベスト一〇位の中で士官パイロットは
笹井醇一中尉のみで
後は全て下士官である。
菅野 直中佐は番外で掲載しました。
























上記序列、写真右より・1〜11


(以上に掲載いしたエースの順位であるが、取り敢えずはこの序列が公式記録と言う事に成ってい るが、これも飽くまで暫定的なものであり、実際のところは定かではない。)















日本海軍 撃墜王の序列



 参考として日本陸海軍の序列表を掲載してみましたが、陸海軍とで撃墜数上位の者の撃墜の数に隔たりがある。海軍と陸軍とでは戦闘地域が違う事がまず挙げられるであろう。 海軍は南方での戦いが多く、何と言っても航空決戦の多かったソロモン方面での戦いが多く、さらには空母決戦も多かったために会敵の機会が大陸方面を中心としていた 陸軍よりも多かった結果、このような数の差となって現れたのではないでしょうか?決して陸軍の搭乗員が海軍に比べて空戦能力が劣っていたもんもではないと思われる。 いかに多くの敵に遭遇するかで、自ずと撃墜の数も違ってきたものと思われる。
 だが、ここで掲載した物も確実な数ではないのである。公称と自称では可なりの数の隔たりがあるようで、この数に誤解することのないようにしていただきた。 今では、西沢広義中尉より岩本徹三中尉の方うのが撃墜数が大かったのではと述べる人も多い。



序   列 所   属 氏   名 最終階級 撃墜数
1位 海軍 西沢広義 中尉 87機
2位 海軍 岩本徹三 中尉 80機
3位 海軍 杉田庄一 少尉 70機
4位 海軍 坂井三郎 中尉 64機
5位 海軍 奥村武雄 飛曹長 54機
6位 海軍 太田俊男 飛曹長 34機
7位 海軍 杉野計雄 飛曹長 32機
8位 海軍 石井静夫 飛曹長 29機
9位 海軍 武藤金義 中尉 28機
10位 海軍 笹井諄一 少佐 27機
10位 海軍 赤松貞明 中尉 27機
12位 海軍 菅野 直 中佐 25機
13位 海軍 荻谷信雄 飛曹長 24機
14位 海軍 杉尾茂雄 中尉 20機
15位 海軍 羽藤一志 三飛曹 19機
15位 海軍 長野喜一 上飛曹 19機
15位 海軍 岡野 博 飛曹長 19機
15位 海軍 中瀬正幸 飛曹長 18機
15位 海軍 松場秋夫 中尉 18機
15位 海軍 川戸正治郎 上飛曹長 18機
15位 海軍 谷水竹雄 飛曹長 18機
15位 海軍 斎藤三郎 中佐 18機
15位 海軍 小町 定 飛曹長 18機
24位 海軍 大木芳男 少尉 17機
24位 海軍 田中国義 少尉 17機
24位 海軍 増山正男 飛曹長 17機
24位 海軍 上平啓州 中尉 17機
24位 海軍 本田 稔 少尉 17機
24位 海軍 伊藤 清 飛曹長 17機
30位 海軍 宮野善次郎 中佐 16機
30位 海軍 大原亮治 飛曹長 16機
30位 海軍 石原 進 少尉 16機
33位 海軍 南郷茂男 中佐 15機
34位 海軍 羽切松雄 中尉 13機
35位 海軍 藤田怡与蔵 少佐 11機
35位 海軍 堀 光雄 飛曹長 11機
37位 海軍 相生高秀 中佐 10機
38位 海軍 白根綾男 中佐 9機
38位 海軍 角田和夫 中尉 9機






日本陸軍 撃墜王の序列




序   列 所   属 氏   名 最終階級 撃墜数
1位 陸軍 篠原弘道 准尉 58機
2位 陸軍 穴吹 智 曹長 39機
3位 陸軍 垂井光義 大尉 38機
3位 陸軍 佐々木 勇 准尉 38機
5位 陸軍 黒江保彦 少佐 30機
6位 陸軍 柴田力雄 少尉 27機
7位 陸軍 金井守告 中尉 26機
8位 陸軍 古郡五郎 少尉 25機
9位 陸軍 吉良勝秋 准尉 21機
10位 陸軍 尾崎中和 大尉 19機
11位 陸軍 加藤健夫 中佐 18機
12位 陸軍 高宮啓司 中尉 17機
12位 陸軍 下川幸雄 曹長 16機
14位 陸軍 檜 与平 少佐 12機
14位 陸軍 江藤豊喜 少佐 12機
14位 陸軍 安間克巳 大尉 12機
14位 陸軍 小林輝彦 少佐 12機
18位 陸軍 滝山 和 少佐 9機
19位 陸軍 梶並 進 軍曹 8機








 しかし、この撃墜数だが、目の前でピンが何本倒れたかが表示されるボウリングなどとは、違って撃墜したかどうか の判定は難しい。基本的に本人の申告によるけれども、目まぐるしい乱戦の最中に例え火を吐かせたとしても、その 最後まで見とどける余裕はほとんどない。明らかに機体が散乱した場合はたしかだが、それでも目撃者の承認がない と認定されない場合があった。大戦後半になってから米側はガンカメラを使い出したが、日米両軍のスコアを比較す ると、日本が優勢に進めていた前半に比べ、中期以降の日本の撃墜認定はいくらか甘くなっていたようだ。本人の認 識と公認との数字の違いも、あげておかなければならないだろう。

 たとえば日本海軍のトップエース西沢広義中尉(八七機)は家族への手紙のなかで一四七機と書いているし、笹井醇 一少佐(二七機)も同様に五四機としている。二位の岩本徹三中尉(約八〇機)に至っては、その自叙伝で何と二〇 二機を主張している。それからすれば、いくぶん差し引いたとしても、彼らの撃墜数はもっと多いかもしれない。撃 墜数が不確かな場合は不確実数何機ということになり、正規の撃墜数には含まれないから、あれこれ考え合わせると、 わずかな撃墜数の差によるエースの順位などあまり意味がないともいえよう。

 日本海軍のエースたちの階級を見ると、四人の飛行兵曹長を除くと仕官ばかりだが、実は日本の場合は十人の中で最初 から仕官パイロットだったのは海軍兵学校での笹井醇一少佐だけである。下士官パイロットは志願兵、予科練(海軍飛 行予備練習生の略)など、比較的若いうちに入りパイロットになっているので、それだけ実戦経験が長いからエースが 多いのも当然で、仕官パイロットはスタートも遅いうえ、日本では階級が上になると前述したように比較的早くに戦列 からから離れる傾向があったからなおさらであった。この点米国のトップエースは、デヴィット・マッキャンベル中佐や 、二位の海兵隊グレゴリーボイントン中佐などが、率先して空戦場裡に飛び出して行ったのは立派である。もっとも、 中尉といっても、マッキャンベル三四歳、ボイントンの三二歳に見られるように、どちらも日本でいえば大尉の古手か少 佐になりたてくらいの若さであった。



岩本徹三中尉

激戦のラバウルを生き抜いて生還したNoUエース、別名(虎徹こてつ)と呼ばれた岩本徹三中尉

 彼、岩本徹三中尉は空中巴戦を好む日本人パイロットの中にあり、独特の戦法で記録を伸ばしてきたのである。 彼は、上空で唯一機に狙いを定めて降下して集中攻撃をし、一撃離脱の(ヒットエンドラン)攻撃をしてスコアーを伸ばしていったのである。 これは後にアメリカ軍のお家芸ともなった。しかし彼の撃墜数は実際公認されていないものも含めたら、途方も無い数になるであろう。 彼の著作、光人社・刊 零戦撃墜王を読んでみるとそれもうなずける。ラバウルでの撃墜数が西沢広義中尉らとともにきわめて多いのである。



エースになれる条件



 エース。ひと口に五機以上の撃墜というが、互いに空中を高速で移動する飛行機同士の戦いでは、たとえ一機といえども 落とすのは容易ではない。相手機にこちらが射った弾丸を命中させるのは、走りながら針の孔に細い糸を通すようなもの だといわれ、よほど練達と神経の集中が必要だが、あまりそれに熱中しすぎると後ろからうしろからやられる。動きの鈍 い大型機が相手なら楽かといえば、今度は猛烈な射撃にさらされる。

 そんな中で敵に落とされず、たとえ落とされても死なずに再び戦場に復帰して敵を撃墜するというのは、操縦技量、射撃 の正確さといった技術面のほか、強い精神力や体力なども必要とされる。長い戦闘体験の間には、エースといえどもひど いダメージを受けて不時着したり落下降下したりといったことも少なくなかったが、日本海軍の坂井三郎中尉が、重症に 屈せず四時間半も掛けて基地に帰ったように、最後まで生きる努力をすてないのも、彼らエースに欠かせぬ要素といえよう。

 ところで、そんな難しい仕事をやって何十機もの敵機撃墜を記録するには、ある時まとめてスコーアをかせげる戦争の局 面が必要だが、日本海軍のそれは何といってもソロモン航空戦であり、米軍にとっては「マリアナの七面鳥狩り」といわ れたフィリピン海戦(日本側マリアナ沖海戦)が一番であった。日本の西沢広義、岩本徹三、坂井三郎、笹井醇一らが前 者でありデヴィット・マッキャンベル、ユージン・バレンシア、アレクサンダー・ブラシュウらが後者に相当する。

 このほか、エースたちが搭乗する飛行機が何かということも大きな要素である。日本海軍はほとんどが零戦、米軍側が前半 F4Fワイルドキャット、後半がF6FヘルキャットとF4Uコルセアで、戦争後半にアメリカのエースが急増したのは、日本が終始 一000馬力級エンジンの零戦で落とさなければならなかったのに対し、二〇〇〇馬力級エンジン装備のF6FやF4Uを繰り出して きたからだ。この馬力の差に加え、機銃の力がモノをいった。

 たしかに日本の零戦が装備した二〇ミリ機銃は、あたれば威力があったが、残念ながら携行弾数が少なく、六〇発(一銃当 たり)丸型弾倉からスタートして最後はベルト給弾式に変えて一二五発(両翼の二挺ぶん合わせて二五〇発)になったが、 これではたちまち弾が無くなってしまう。ベテランパイロットならとにかく経験不足のパイロットにとってはあまりに少な い弾数であったことであろう。ベテランになると静かに近寄り、一、二発で落としたと坂井三郎中尉は述べている。それほ ど20ミリ機銃は威力があったのだが、いかんせん弾数と弾頭が重い為、初速が遅くなり途中で弾が垂れてしまい、経験不 足のパイロットは当てるのに苦労したそうである。

(後に長銃身TYPEの二号三型と変わり多少は改善されたようである。その点、多銃装備方針とした米国は、F6F、F4Uともに一 二・七ミリ機銃六挺の重装備だったが<、四〇〇発×二、二五〇発×四の合計一八〇〇発。F4Uが四〇〇発×二、三五〇発×四 の合計二二〇〇発もあったから長時間の空戦でも弾丸が続き、トップエースのマッキャンベル中佐のように一回の空戦で七機 (マリアナで)とか九機(ルソン島沖)の撃墜が可能だったのである。

 下手な鉄砲も数打ちゃあたる方式ですから戦争が長引くほどアメリカ側が勢力伸ばし、零戦は劣勢に立たされた。ベテランパ イロットが多かったころは無敵を誇った零戦も、昭和一八年中盤以降は苦戦を強いられた。操作の難しいものは扱える人が いて効果があるものであって、その他の人が使用出来なくては威力があっても半減ししてしまう。しかし簡単に操作ができ、誰 が扱ってもそれなりの威力が発揮できる物がもっとも名器だと思われる。奇をてらったような物は大成しなかった。そ の証拠に現在でもコルトブローニングの一二・七ミリは現役である。

 しかし、何と言っても圧倒的な撃墜数では、ドイツ・ルフトバッフェの撃墜王たちである。一〇〇機撃墜など当たり前の数である。 トップのエーリッヒ・ハルトマン大尉に至っては三五二機撃墜を記録している。いかにこれほどの撃墜数に達したかと言えば、 ハードな出撃は日本と同様で休暇もせずに出撃などという強行軍もあったようであるし、また日本と違うところは、彼らは撃墜されても 落下傘で降下し、次の作戦にも参戦していたのであるからこれほどの撃墜数になったと思われる。それにヨーロッパでの撃墜数が 太平洋でのそれより多いのは、戦場が海の上か陸の上かの違いも大きかったでしょう。 陸の上で撃墜され場合でも味方の支配地域なら 生還し、再出撃が可能であったこと。

 海上なら生還率が低いのと、日本軍搭乗員は、自機が被弾すると 生存していても落下傘降下などせず、自爆という行為におよんでいたため、彼らドイツ空軍パイロットよりは数は少ないが、休暇を 満喫しながら戦った米軍パイロットからくらべたら撃墜数は多い。いかに日本もドイツもパイロットを酷使したかがお分かりでしょう。 それでもまだドイツは日本にくらべ、落下傘降下で再び生き延び戦った結果がこの撃墜数に表れていると思われる。 日本軍も同じような戦いをしていれば、同じような撃墜数になっていた可能性は大いにあると思う。


ルフトバッフェの撃墜王・エーリッヒ・ハルトマン大尉

エーリッヒ・ハルトマン大尉



ルフトバッフェの撃墜王BEST・7

順  位名         前撃 墜 数
1エーリッヒ・ハルトマン大尉三五二機
2ゲルハルト・バルクホルン少佐三〇一機
3ギュンター・ラール少佐二七五機
4オットー・キッテル上級中尉二六七機
5ワルター・ノウォトニー少佐二五八機
6ウィルヘルム・バッツ少佐二三七機
7エーリッヒ・ルドルファー少佐二二二機





前置きが長くなりましたので、日米両軍のエースたちのプロフィールに触れてみましょう。




杉田庄一少尉

杉田庄一少尉
山本五十六聯合艦隊司令長官戦死時の護衛機六機の内の一機で、 それ以降スコーアーを伸ばした。NoVとなるが、終戦間際に内地の紫電改部隊 三四三空に於いて戦死。


日本海軍のエースたち

 日本海軍トップエース西沢広義中尉は大正九年(一九二〇年)長野県生まれ。16歳で海軍入り戦闘機乗りになった。日本人には 珍しい長身の西沢は無口で人づき合いもあまりよくなく、屈折した性格でなぞの多い男だったが、空に上がってはラバウルでの 先輩坂井三郎をして「私にまさる空戦の鬼」と言わせたほどの強者(つわもの)で、一時期、台南空の彼と坂井、太田の三人に よる撃墜競争はラバウルの華であった。このうち坂井が負傷で一番早く離脱、ついで太田も戦死したあとは西沢ひとり着々とス コアーをのばし、押しも押されもしない海軍戦闘機隊のトップエースにのし上がった。彼ら三人には有名な逸話がある。

 ラエ基地に進出していた頃、スタンレー山を越えてポートモレスビー米豪軍基地攻撃の際、攻撃したら集合地点に帰らず敵基地 の上空で編隊飛行で宙返りをしようと三人で打ち合わせて攻撃後三機はふたたび敵基地上空に戻り、綺麗に三機編隊で宙返りを したそうである。一度終わったのち、西沢一飛曹長よりのアンコールに応え計三度の宙返りをしたそうです。その間敵からはな んの攻撃もなく、ただ見とれていたようである。2.3日後に笹井中尉に見つかり散々しかられたようであるが、最後のにやりと笑 い去っていったそうである。その後ラバウル攻撃のときに、爆撃機から手紙が投げ込まれ今度来るときは三人のパイロットに黄 色いマフラーをしてこいと言う招待状が来たそうである。
以後は光人社・大空のサムラ イの314ページからの敵基地で宙返りをご覧下さい。詳しく紹介されています。

 彼のもっとも華やかな戦歴は、昭和一八年八月七日のガダルカナル進行の時で、F6Fの前身F4F六機を撃墜したが、その後も次第 にかげり行くラバウル航空隊の中にあってひとり気を吐き、南東方面艦隊司令長官草加仁一中将から特別に表彰を受けた。戦闘 機を駆って空に上がっては無敵の天才児だった西沢に、思わぬ最後の時が訪れたのはそれから一年後のことだった。昭和一九年 一〇月、第一神風特別攻撃隊、敷島隊の直掩を果たして輸送機で基地に戻る途中、グラマンF6Fの攻撃にあって輸送機もろとも墜 落し、あえなく戦死をとげた。このとき西沢は飛行兵長だったが二階級特進で中尉に任ぜられた。さぞかし彼にとっては悔しかっ たと思いますが、いかんせん輸送機ではどうしようもなかったのでしょう。戦闘機にさえ乗っていれば・・・無敵の彼でも手の打 ちようが無かったことでしょう。

 海軍ナンバーツー岩本徹三中尉中尉大正五年島根県生まれだから、西沢はの四歳上と言うことになる。「虎徹」とみずから名乗り、 ドックファイトを好んだ多くの零戦パイロットたちと異なり、上空からの垂直降下による一撃で落とすという、剣豪の冴えワザを 思わせるもの。だった戦歴も長く、昭和一三年二月の中国中部の南昌攻撃の初陣で五機を撃墜して「虎徹」の片鱗を覗かせた後、 太平洋に戦争に入ってから空母搭乗員とハワイ、インド洋、珊瑚海ラバウル、トラック、フィリピン、そして本土と第一線勤務を 経験したが、彼が最高の活躍を見せたのはラバウルの第二〇四空時代あげた一ヶ月間に二五機(不確実機五機)で、その後この記録 を破った者はいない。

 その岩本もラバウル戦後半には、相次ぐ味方の消耗で連戦による疲労で「次第に闘士を失っていった」と述懐している。彼の回想 録で二〇二機撃墜を主張しており、空中戦の撃墜確認の困難さを考慮に入れて仮にその半分としても、トップの西沢を上回ること は確実だが、今となっては確かめるすべもない。岩本徹三中尉はラバウル東飛行場の二八一空派遣隊から二〇四空と渡りトベラ基 地の二五三空と戦い抜いてスコーアーを上げていったのである。

 第三位の杉田庄一少尉は大正一三年新潟県生まれだから、岩本や西沢よりずっと若い。しかしその撃墜ペースはこれら先輩二人より 速く、昭和一七年秋にソロモン戦線に進出し、第二〇四航空隊の一員として負傷後退するまでの一年近くのうちに急成長した。 ラバウルに進出間もない杉田は、一二月一日の敵大型機攻撃訓練中、現れた本物のB17爆撃機に攻撃を加え、近ずきすぎて自分の垂直 尾翼で敵の翼端をひっかけて撃墜し、自分はうまく機をあやつって基地に無事着陸した。闘士は凄いが技量のほうはまだまだだった杉 田が一変したのは、あの昭和一八年四月一八日山本五十六連合艦隊長官機護衛飛行のときからであった。

 山本長官一行の乗る二機の一式陸攻が、米陸軍のP38ライトニング戦闘機の待ち伏せにあって、撃墜されたとき、杉田は六機の護衛 戦闘機のパイロットの一人だったのだ。その後相次ぐ戦闘で六人の長官機援護パイロットのうち一人が負傷内地送還、四人が戦死し たということで。責任を一人で負うようなき持ちでいたから、その戦闘ぶりは勇猛果敢、敵も恐れをなして杉田の機を避けるほどだ った。その結果、彼の撃墜数は急速に伸びた。

 ラバウルで負傷し内地送還後再起した杉田は、今度は松山基地で解隊した源田実大佐率いる第三四三航空隊、飛行七〇一飛行隊に所属 、菅野直大尉の右腕として活躍し、再び撃墜数を加えていっが、昭和二〇年四月一五日、空襲警報の遅れから離陸中を上空から射たれ て戦死した。死後に二階級特進で上等飛行兵曹から海軍少尉に任ぜられたが、その撃墜数からしても死ななければトップエースの座に 迫ったであろう。杉田庄一少尉を元に作られた
原作・文春文庫、柳田邦夫氏の零戦燃ゆを元に昭和五九年 東宝映画より公開された。



坂井三郎中尉


坂井三郎中尉
御存知・坂井三郎中尉大陸からの歴戦の勇士、ガダルカナル攻撃時眼を負傷して内地に送還される。もう坂井三郎中尉に関しては何も 言うことは無いと思います、皆さんのがご存知なので詳しくは説明しません。


  坂井三郎中尉 についてはすでにいろいろ書かれ、かつ自著もあって多く語る必要も無いが常に絶やさない笑顔と若々しい声はは魅力的で、 娘さんがアメリカ人と結婚しているせいせいもあってあちらに友達も多く、日米両国パイロットの良き架け橋となっている。その戦後の 活躍ぶりや彼の著書の内容に対する批判の声もないではないが、かっての敵国の軍人たちが、坂井を通じて日本人を見直したり、和解の 輪をひろげたことに対する功績は間違いなく大きい。彼は、戦後もエースであり続けているのだ。

 奥村武雄、太田敏夫、杉野計雄、ら下士官進出者が続く中で、海兵出身パイロットとしてただ一人、10位以内に名を連ねている笹井醇一中尉(少佐) は、坂井より二歳若いパイロットで、ラバウル戦闘機全盛期時代の台南空では坂井、太田、らの中隊長として活躍した。坂井らの指 導でウデを上げ、撃墜数を伸ばして「ラバウルのリヒトホーフェン」をめざしたが、昭和一七年八月二六日の空戦で惜しくも戦死した。 戦死直前に家族に送った手紙には、撃墜五四機と書いてあったと、笹井を慕う坂井はその著書に記している。

なお、坂井さんは、二〇〇〇年九月二二日、米軍横須賀基地でのパーティーに出席し際、突然不調を訴え、神奈川県綾瀬市の病院へ搬送されたが 、午後十一時五〇分、医師に眠ってもいいかと問いかけて静かに目を閉じ、急性心不全のため、天国で待つ戦友たちの元へ旅立たれました。 まるで生き字引のような大変貴重な方を亡くし大変残念でなりません。波乱万丈の八四年間を全うして、今は戦友たちと語らっている事でしょう。 戦後の貢献をみても二階級特進の少佐に特進しても良いと思っております。坂井氏はそれだけのことを世の人たちに伝えて行ったと思います。


 (註)「第一次世界大戦ドイツの撃墜王・マンフレート・フォン・リヒトホーフェン・通称”レッド・バロン”ブルー・マックスを受章191 8年4月21日ソンムの空中戦で戦死。生涯スコア八〇機。」(註・ブルー・マックスとは、ドイツの撃墜王に与えられる勲章のことである)


マンフレート・フォン・リヒトホーフェン / フォッカー三葉戦闘機


 士官パイロットのエースとしては、他に宮野善次郎中佐、(一六機)、菅野直中佐(二五機、いずれも戦死後二階級特進)などもいる。 以上のパイロットたちが日本海軍のパイロットの屋台骨をささえたエースパイロットであったが、ほとんどのパイロットが海へ空へと 散華していった。


(更新/2004/10/02)  秋風爽やかに吹き渡りし日 Homepage Owner kanno




参考文献
学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ・レイテ沖海戦より『第九巻』)
光人社NF文庫・鈴木 五郎・著 撃墜王列伝
光人社NF文庫・坂井三郎・著 大空のサムライ―かえらざる零戦隊
光人社NF文庫・武田 信行・著 最強撃墜王―零戦トップエース西沢広義の生涯
文春文庫、柳田邦夫著・零戦燃ゆ/飛翔篇/熱闘篇

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