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聯合艦隊司令長官

豊田副武大将



聯合艦隊司令長官・豊田副武大将









経   歴
豊田 副武(とよたそえむ)
1885(明治18)年5月22日生
1957(昭和32)年9月22日没
大分県出身
日本海軍軍人
海軍大将
1905(明治38)年 海軍兵学校(33期)卒
  1917(大正6)年4月 少佐に昇進
 11月 海軍大学甲種首席卒
1925(大正14)年12月 大佐に昇進
軽巡「由良」艦長
戦艦「日向」艦長
1933(昭和8)年9月 聯合艦隊参謀長
1935(昭和10)年11月 中将に昇進
軍務局長
艦政本部長
1941(昭和16)年9月 大将に昇進 
呉鎮守府司令長官
1942(昭和17)年11月 軍事参議官
1943(昭和18)年5月 横須賀鎮守府司令長官
1943(昭和18)年6月24日 昭和天皇の戦艦「武蔵」巡幸に随行
1944(昭和19)年5月3日〜1945(昭和20)年5月29日
  聯合艦隊司令長官
1945(昭和20)年4月 兼海軍総隊長官
兼海上護衛司令長官
1945(昭和20)年5月29日〜終戦 軍令部総長
 11月 予備役編入
 12月 A級戦犯容疑者として逮捕される
1949(昭和24)年9月 極東軍事裁判(東京裁判)
で無罪判決を受ける
























古賀峰一長官殉職の後を襲い聯合艦隊司令長官に就任した豊田副武(そえむ)大将。風貌とは裏腹に神経の細かい豊田長官だが、『捷』号作戦の実施にあたり、ハラは決まっていた。











『イチかバチか、ハラを決めた』
  レイテ沖海戦に関する資料として知られている著作に、ジェームス・A・フィールドの『レイテ湾の日本艦隊』という論文がある。 戦後きわめて早い時期に書かれて、昭和二四年(一九四九)に邦訳出版された。著者はハーバード大学出身の当時気鋭の歴史家で、海軍少佐 、レイテ沖海戦の際空母部隊の参謀として、栗田艦隊と戦った経験を持つ。昭和二〇年、米国戦略爆撃調査団の一員として来日、関係将官を訊問した。 著作『レイテ湾の日本艦隊』は、このときの資料にもとづいて書かれたという。

  豊田副武大将も同調査団から訊問を受けており、フィールドの著作には、『経験に富み、はなはだ聡明な豊田副武大将はこの戦争に反対した 少なかざる高級海軍士官のなかの一人であった』 などと、きわめて好意的に書かれている。

 調査団の質問に対し、豊田大将がレイテ沖海戦の基礎となった『捷』号作戦に関して次の様に証言しているのが目を引く。 『フィリピンを奪還させるということは、とりもなおさず本土と南方資源地帯とのルートが断ち切られることを意味した。そうなったら、 艦隊を温存していても然料切れとになって何の役にも立たない。 然料が得られそうな南方海域にとどまれば、今度は爆弾や武器の供給が受けられなくなる。ということで、私は大本営と相談し、その許可も得て捷号作戦を実施することにした。

  もしうまくいけば、予想外の戦果を得ることができるかもしれない。その反対に、悪くすると全艦艇を失うようなことになりかねない。それでも私は、イチかバチかやってみるべきだとハラを決めた。 栗他艦隊の任務は、レイテ湾に突入してそこにある米輸送船団を撃滅することであった』GF(聯合艦隊)長官としての豊田大将 が『捷』号作戦を立案、実施したということは、そのとうりなのであるが、厳密にはそこにいくらかの注釈を必要とする。


『捷』号作戦との関わり


  先の『あ』号作戦の場合は、殉職した古賀峰一大将のあとを襲ってGF長官に補されたとき、すでに既定方針として豊田大将の前にあり、 大将はただそれを発令したにすぎなかった 。それでも小澤機動艦隊長官のアウトレンジ戦法を安易に認めてしまったとして、豊田大将の責任を問う声があるが、『捷』号作戦の場合は、 大本営海軍部とGF司令部との合作といえばいいかもしれない。 『あ』号作戦の失敗は、各方面に多大なる影響をおよぼした。

  いまや『絶対國防圏』内の諸海域は敵の跳梁するところとなり、 日本本土と南方諸地域とは分断されつつあった。七月一八日東條内閣総辞職 、二二日小磯、米内両大将による連立内閣が発足。そのように政変が進攻するあいだにも、大本営陸海軍部では、七月一八日から三日間にわたって 次期作戦の指導していたったらよいか真剣にならざるをえなかった。

  次なる、米軍の進攻地はどこか、問題はその特定にあった。その結果、七月二一日次のような根本方針、つまり『捷』号作戦が決定され、 これに基づいて作戦準備が進められていくことになったのである。 『一、比島、台湾、南西諸島、本土、千島にわたる海洋第一線の防備を強化する。一、右の諸地域いずれかに敵が来攻した場合、随時、 陸海空の戦力を結集してこれを捷号作戦と呼称する。捷号作戦は敵の来攻方面により 、次のとおり区別する。

  一、捷一号、フィリピン方面  二、捷二号、九州南部、南西諸島および台湾方面  三、捷三号、本州、 四国、九州方面および状況により小笠原諸島方面  四、捷四号、北海道方面 以上のような大本営の『捷』号作戦指導要領にもとづいて、GFでは具体的な作戦案を練った。その中心となったのは、豊田大将 自身でも参謀長草鹿竜之介中将でもなく、七月一三日付で海軍省から作戦参謀としてGFに転入してきた神 重徳(かみしげのり)大佐であった。『あ』号作戦失敗直後 から、神大佐は海軍省教育局一課長の身分でありながら、艦隊の殴り込みによるサイパン奪回を叫んでやまなかった。

  思えば、艦隊を連ねて泊地において荷役作業中の輸送船団を砲撃するという戦法は、神大佐のおハコであった。昭和一七年八月七日米軍がガダルカナル島に上陸して きたとき、彼はちょうど新設の第八艦隊作戦参謀としてラバウルに進出さたばかりだったが、即座に巡洋艦を連ねて殴りこみを立案、司令長官三川軍一中将とともに旗艦鳥海に乗り込んで敵地に突入するという貴重な体験を持っていた。 その結果、輸送船は撃ちもらしたが、思いがけず遭遇した敵艦隊との夜戦に大勝し、意気揚々と引き上げてきたのである。

  その経験と自身にもとづいて練り上げた神大佐のレイテ湾突入の作戦計画を、最終的には豊田大将が承認したということであろう。豊田長官は戦場となるフィリピン方面の視察を思い立ち一〇月二日高田参謀副長官と 多田航空参謀を帯同し、一式陸攻の特別機で羽田を飛び立った。その意気は壮とするも、途中立ち寄った台湾の高雄で風邪をこじらせ七日まで寝込んでしまう。ようやく、マニラに渡ったものの、 風邪で日程を空費してしまったということでスケジュールを大半省略、わずか一日滞在しただけで、九日マニラ発、台湾・新竹に移動したところで、今度は沖縄が米艦載機の大空襲に遭い、さらに台湾沖航空戦が生起するにおよんで、 動けなくなってしまった。


最後の軍司令部


  台湾沖航空戦は一六日に終了したが、翌一七日レイテ方面に敵上陸の気配の飛電に接した日吉のGF司令部では、豊田長官不在のまま八時三五分、 それぞれ各地で待機していた栗田艦隊以下全軍に『捷一号作戦警戒』を発令した。 さらに、一八日一七時なって、及川古志郎軍令部総長の「捷号作戦実施方面を比島方面とす』との支持を受けたGF司令部は、依然豊田長官不在のまま一七時三五分 『捷一号作戦発動』を全軍に下令した。ここにおいて、空前の艦隊行動 は開始された。豊田長官が日吉に帰り着いたのは二〇日になってからで、台湾沖航空戦、『捷』一号作戦開始という重大時期に、長官不在という失態を演じたのであった。その間、豊田大将と連絡をとりながらであるが、 草鹿参謀長が指揮を代行したのであった。何という不手際であろうか、海軍の長が不在で戦史史上最大の艦隊作戦に踏み切ったのである。

  神重徳大佐が描く『捷』一号作戦は、見かけは壮大であり、かつ華麗ですらあった。 結果、開戦はルソン島北方海上からレイテ島西南のスールー海まで、四〇〇浬におよぶ広大な空間で行われ、そのスケールにおいては世界の海戦史上最大のものであった。 しかも、囮(おとり)作戦と殴り込み作戦の結合という芸の細かいところをみせ、大岡昇平著『レイテ戦記』のように『当時考え得る最も巧妙な作戦で、日本的巧緻の傑作である。とほめる論者もいる。ただ、繊細な巧緻 さに満ちているぶん、クリアーしなければならないいくつかの困難きわまるハードルが介在した。

  その仕事を他人に任せることなく、豊田大将自身が旗艦に乗っ行くべきだったとする論者は今日でも多いのである。 水上特攻でイチかバチかの作戦を行ったのである。そして敗ければ壊滅する海軍なのだから、司令長官自身が旗艦に坐場して指揮を取るべきが妥当だと思う。 それをしなかったのはどうしてだったのだろうかは?今になっては 知る由もない。こののち豊田大将は依然GF長官として同じ神作戦参謀が立案した戰艦大和の沖縄出撃をも承認したのであった。二〇年 五月、軍令部総長に転じて敗戦を迎えた。いかめしい顔つきをしていたが、神経は案外細かかったという。小心者、小者ほど大胆なことをするというが、 これがその典型ではないかと思う。 アメリカのトルーマン大統領は副大統領時代から小者と陰口を叩かれたというが、やったことといえば大胆きわまりないなかった。広島、長崎に未曾有の原子爆弾を投下したのである。 小者ほど大胆なことをするという典型だと思うのである。


二〇〇五年 五月一五日 新緑の爽やかに萌える日に記す。   合掌 

 Homepage Owner kanno




参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第九巻レイテ沖海戦・人物抄伝・太平洋の群像82より)

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