[憂愁・MENUへ]

[憂愁・TOPへ]

gunkanki


レイテ沖海戦・T


浮沈艦・武蔵シブヤン海に消ゆ


昭和十九年十月二十二日
栗田艦隊はブルネイを出撃
レイテ湾をめざす。


戦艦武蔵

シブヤン海で攻撃に遭う戦艦武蔵







リンガ泊地の栗田艦隊


 昭和一九年(一九四四)七月中旬以降、「第一遊撃部隊」と名を変えた第二艦隊(以下、栗田艦隊)は、スマトラ 東南岸のリンガ泊地で、時期作戦に備え猛訓練に明け暮れていた。八月一日現在、戦艦大和、武蔵以下戦艦 五隻、重巡一〇、軽巡二、駆逐艦15隻という有力な艦隊だった。同年六月中旬、完敗に終わったマリアナ沖 海戦(「あ」号作戦)後、いったん内地に帰還したが、一〇数日広島県・呉に滞在しただけで、七月一六日 リンガ泊地に南下してきた。西村祥治中将直属の第二戦隊は、九月下旬になってから追及したのであった。 「あ」号作戦に臨んで、約四ヶ月前、小澤治三郎中将の率いる空母部隊とともに訓練に励んだ泊地であった。 舞い戻ってきた感じもあったが、しかし各艦の様子は以前とはかなり異なっていた。二週間足らずの間に、 大和以下各艦に対空機銃の増備と電探(レーダー)の取り付け工事を終えた。まだ開発途上にあった電探は、 性能はまだイマイチであるのにひきかえアンテナは大きく檣楼(ひょうろう)高く取り付けられると、バカ でかい花魁(おいらん)のカンザシのように見えた。

 また各艦内は一様に、ひどく殺風景になっていた。居住地を犠牲にし、あくまでも戦闘生を有せした処置の ためであった。可燃物は一切除去された。艦内の装飾品や調度品は、全て陸上げされている。さらには、 そこかしこのペンキ類が剥ぎ取られ、デッキのリノリウムすら剥がされた。乗員の食卓もハンモックも無い。 寝るときは着のみ着のまま、デッキにごろ寝する有様となっている。艦隊大本営から、とりあえずはリンガ 泊地に進出して、訓練しろといわれたのであった。マリアナ沖海戦で、空母の戦力を失って、大本営として もすぐに妙手も浮かばないようであった。といって、むろん内地で何もせずに日を送っているわけにもいか ない。内地ではつねに原油の絶対量が不足していて、大量に燃料を食う艦隊の訓練は不可能だった。 その点は、リンガ泊地に行けば安心だった。スマトラ南部の油田地帯パレンバンが近いために、燃料には 困らなかった。それと、艦隊の整備補給基地としてのシンガポールが近距離にある。





捷一号作戦艦隊の編成



















 
捷一号作戦艦隊の編成

(第一遊撃部隊)
第二艦隊(栗田健男中将)
第一部隊(栗田中将直率)
第一戦隊(宇垣纏中将)=戦艦大和、武蔵、長門
第四戦隊(栗田中将)=重巡愛宕、高雄、鳥海、麻耶
第五戦隊(橋本信太郎少将)=重巡妙高、羽黒
第二水雷戦隊(早川幹夫少将)=軽巡能代、駆逐艦九隻

第二部隊(鈴木義尾中将)
第三戦隊(鈴木中将直率)=戦艦金剛、榛名
第七戦隊(白石万隆少将)=重巡熊野、鈴谷、利根、筑摩
第十戦隊(木村進少将)=軽巡矢矧、駆逐艦六隻
第三部隊(西村祥治中将)
第二戦隊(西村中将直率)=戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦四隻

(機動部隊本体)
第三艦隊(小澤治三郎中将)
第三航空戦隊(小澤中将直率)=空母瑞鶴、瑞鳳、千代田、千歳
戦闘機四八機、戦闘爆撃機二八機、艦上爆撃機八機、艦上攻撃機二四機、計一〇八機
第四航空戦隊(松田千秋少将)=航空戦艦日向、伊勢、軽巡大淀、多摩
第三十一水雷戦隊(江戸兵太郎少将)=軽巡五十鈴、駆逐艦八隻

(第二遊撃部隊)
第五艦隊(志摩清英中将)
第二十一戦隊(志摩中将直率)=重巡那智、足柄
第一水雷戦隊(木村昌福少将)=軽巡阿武隈、駆逐艦四隻

(先遣部隊)
第六艦隊(三輪筏義中将)潜水艦十三隻




















戦艦武蔵

戦艦武蔵



  武     蔵
  性能諸元
基準排水量 六万五千トン
満載排水量 七万二千八百九トン
全    長 二六三メートル
垂線間長 二四四メートル
水 線 長 二五六メートル
全    幅 三六.九メートル
吃    水 一〇.四メートル
機    関 四軸減速タービン・ 一二缶, 十五万shp
燃    料 重油・六三〇〇トン
最 大 速 二七.四六ノット
乗    員 二千五百〜三千三百名
装    甲 舷側 四一〇ミリ・甲板 二〇〇ミリ・主砲防盾 六〇〇ミリ
艦 載 機 零式水上偵察機・零式観測機他・最大七機
兵    装
新造時 三連装・四五口径・四六センチ砲 三基
三連装・六〇口径・一五.五センチ砲 四基
四〇口径・一二.七センチ連装高角砲 六基
二五ミリ・三連装機銃 一二基
一三ミリ連装機銃 一二基
最終時 三連装・四五口径・四六センチ砲 三基・九門
三連装・六〇口径・一五.五センチ砲 二基
四〇口径・一二.七.センチ連装高角砲 六基
二五ミリ三連装機銃 三五基
二五ミリ単装機銃 二五門
一三ミリ連装機銃 二基





戦艦武蔵

泊地に停泊する武蔵




意外な戦術




 栗田艦隊がリンガに到着した翌日の七月二一日、大本営から「捷」号作戦が送られて来た。しかし、決定したばかりの 作戦計画は、まだ抽象的な域を出ず、艦隊としては次の具体的な命令を待つしかなかった。その間も訓練は続けられる のであるが、その内容はどうしても具体的に欠けた。漠然と艦隊決戦を想定して実施するしかなかった。それから約二 〇日たった八月一日、マニラにおいて「捷」号作戦に関する作戦打ち合わせが行われた。栗田艦隊からは、第二艦隊参 謀長の小柳富次郎少将、作戦参謀大谷藤之助中佐の両名が空路マニラに飛んだ。内地からは連合艦隊(GF)作戦参謀・神 重徳大佐および大本営(軍司令部)作戦参謀榎尾義男中佐が説明にきていた。そのほか現地の南西方面艦隊司令長官・三 川軍一中将以下幕僚が、オブザーバーのかたちで出席した。そこで示されたGFの戦術は、小柳参謀長にとってきわめて意 外なものであった。栗田艦隊の行動に関して、神参謀は大要次のように説明したのである。

 敵来航の公算は、フィリピン方面がもっとも強いということは、衆目の見るところである。その上陸 地点については、北部ではラモン湾付近、中部ではレイテ湾、南部ではダバオ付近と予想される。 以上いずれ場合でも、敵進攻のキザシを認めたら、基地航空部隊の爆撃によって敵の空母を漸滅しつ つ、敵輸送船が上陸地点に接近したところで全力をあげ一挙敵輸送船団を壊滅したい。したがって、 栗田艦隊は状況を見て、あらかじめボルネオ・ブルネイ湾に進出待機していて、命令あり次第発進し て敵輸送船団を洋上に補足、これを撃滅する。もし手遅れとなって、敵がすでに上陸を開始していた ような場合いは、その港湾に強行突入して殲滅し、敵の進行を意図を突破する。


神参謀の安請合い


 この作戦方針背景には、七月二一日に決定された「比島、台湾、南西諸島、本土、千島の諸地域のい ずれかに敵が来攻した場合、随時陸海空の戦力を集結してこれを邀撃する」という大本営作戦指導網 があった。その上で、神参謀が中心となって練り上げた作戦だったが、豊田副武GF長官の意思が強く 反映されている。栗田艦隊が脇役であるのは我慢できるとして、小柳参謀長がこだわったのは、大艦 隊をあげて輸送船団を攻撃せよという作戦目的であった。小柳参謀長は反問した。「この作戦計画だ と敵主力の迎撃を放棄してしまって、敵輸送船を攻撃の主目的とするものである。作戦全体の目的が どのようなものであるにせよ、我々第二艦隊としては、あくまでも敵主力との決戦をもってその第一 義の任務となすべきであると心得ている。おうかがいするが、一体GF司令部はこの作戦で水上部隊を ことごとくつぶしてしまってもかまわないという考えないのか」これに対し、神参謀は次のように答 えた。

 「フィリピンを奪られてしまえば、本土と南方資源地帯とのルートは遮断され、日本は立ち枯れとな ってついには戦争遂行能力も涸渇するであろう。そうなっては、艦隊を保存していても宝の持ち腐れ である。この際、どうあってもフィリピンを手放すわけにはいかない。したがってこの一戦に艦隊を すりつぶしてしまってもあえて悔いは無い」まさに戦争全体の帰趨は、すでに決しているのである。 GF長官ははあえて、この一戦に全艦葬り去ろうと意図しているのである。小柳参謀長はうなずいた。 「長官がそれほどの決心をしておられるなら、よくわかった。ただし突入作戦といっても簡単に運ぶ とは思われない。」と小柳少将は念を押した。

 「こちらの意図を察すれば、敵も全力をあげて阻止しようとかかってくるだろう。したがって、好むと好ま ざるとにかかわらず、敵主力水上部隊との決戦が生起する公算は大きい。栗田艦隊は、命令通り輸送船団 を求めて突進するが、途中敵主力部隊と遭遇し、二者択一を迫られたなら、敵主力との決戦に向かうがさ しつかえないか」この時、神参謀は個性の強い彼らしくもなく、「さしつかえありません」と答えたとい う。右の問答の終末は、小柳少将自身が戦後発表した記録によるもので、これまで多くの戦記で引用され てしられている。
(光人社刊・小柳富次・著「栗田艦隊」)。小柳少将の右の証言が正しいとするならば、 神参謀は少将の要求を否定して、GFの意向もっと鮮明にするべきであったとする論者は多い。レイテ湾に 突入して果たしてそれ相応の戦果があったかどうか、疑問視する向きも多いが、豊田長官とすれば、神参 謀に勝手に「さしつかえありません」などと安請け合いされたら、立つ瀬が無いのである。結局、GFと栗 田艦隊は微妙なところで意思の疎通を欠いたまま、作戦実施に突入したといってよい。




昭和一八年トラック泊地に停泊する武蔵(手前)と大和

昭和一八年トラック泊地に停泊する武蔵(手前)と大和




「捷一号作戦発動」


 八月一一日、小柳参謀長らはリンガ泊地に帰った。寡黙な栗田長官は特に感想をもらさなかったが、翌日、 各戦隊指令官、幕僚、艦長指令など主要幹部を旗艦愛宕に集めて、GF司令部の作戦計画を説明すると、思 った通り、容易に納得をしなかった。彼らには海戦以来、敗れたのは空母艦隊であって、本格的な艦隊決 戦をやった事が無いという意識があった。いつか決着をつけるために、日夜訓練に励んできたのではなか ったのか。それが局地突入、輸送船団撃滅が任務と聞いて、一様にみな失望落胆を隠さなかった。「不満 があるだろうが、とにかく発令された以上、至上命令であるから」と、小柳参謀長は彼らを説得する立場 に回らなければならなかった。そして翌日から、直ちに突入作戦の研究と訓練に没頭した。

 しかし、大艦隊揚げて港湾突入し、輸送船団を叩くというような先例は過去になく、したがって参考にす べき何物もなく、作戦立案に準拠すべき資料もない。非常な苦心を要したが、各隊ともに一致協力して事 に当たった。当然これまでとは異なった訓練方法が採られたが、従来と変わらなかったのは昼夜兼行のも う訓練ぶりであった。リンガを去る一〇月中旬になると、相当の水準に達していたと小柳参謀長はいって いる。そのもう訓練の成果のほとんどは、発揮されないままに終わるのであるが。フィリピン全域に渡っ て猛威をふるった台風がやや下火になった一〇月一七日の早朝、レイテ湾口スルアン湾島にある海軍見張 り所は、雨に煙る海上に敵艦影を発見、各方面へ緊急電を発した。レイテに反抗を指向したマッカーサー 攻略部隊の前衛部隊だったのだが、この報に神奈川県日吉に有ったGF司令部は敏感に反応し「捷一号作戦 警戒」を発令した。

 一八日午前一時、リンガ泊地の栗田艦隊は行動を起こした。まず第一〇戦隊、旗艦矢矧が先頭を切って出 撃。そのあとを一〇戦隊、三戦隊が続き、さらに二水戦、四戦隊、五戦隊、七戦隊、二戦隊、一戦隊の順 に続行した。隠密裡にリンガを出発した栗田艦隊は、昼間は速力を一八ノットに増速し、対潜警戒を厳に しながら、ボルネオの北東岸にあるブルネイをめざした。艦隊は一八日夕刻、及川古志郎軍令部総長から 豊田GF長官にあてた「捷一号作戦発動」の伝令を航行中に受け取った。栗田艦隊がブルネイに到着したの は、20日の正午近くであったが、ちょうどその頃、レイテ湾にマッカーサーの上陸部隊の大軍が殺到し てきていた。レイテ湾に面した重要な二表面タクロバンとその南に隣接するパロ方面、およびサンホセ とその南のドラッグ方面に対し、二〇日の一八時までに軍団一六万五〇〇〇名のうち、兵員約六万、車両、 弾薬、軍需品など一〇万七〇〇〇トンが陸揚げされた。


シブヤン海で米機動部隊に攻撃を受ける、戰艦大和と重巡高尾。

シブヤン海で米機動部隊に攻撃を受ける、戰艦大和と重巡高尾




南北からレイテへ上陸




 ブルネイ泊地に入港した戦艦、重巡、軽巡、駆逐艦多数からなる三九隻からなる大艦隊は、強烈な太陽の 光線が白く眩しく反射する海上に投錨した。到着早々栗田艦隊は燃料補給に忙殺された。艦隊には時間の 余裕がなかった。予定していた油槽船二隻の入港が遅れていたので、当日二〇日は巡洋艦と、駆逐艦が戦 艦に横づけして燃料をもらい、戦艦の給油は、二一日到着した油槽船から受けるという応急手段がとられ た。時間の節約のためであった。その間愛宕上の司令部に対し、GFから作業要領が打電されてきた。その 骨子は先にマニラにおいて神参謀が説明した内容とほぼ同じであった。

 ただその上に「二五日黎明時、タクロバン方面に突入」と日時と地点が明らかにされ、さらに栗田艦隊を 従来の空母部隊指揮官小澤治三朗中将の指揮下からはずして、GF長官の直属とするという二点が新たに付 け加えられた。艦隊にとっては、突入の日時を決められたことも重要事であったろうが、今日第三人のわ れわれの目から見ても、残る指揮権も重大事項であった。GF直属とはいうものの、実質は第二艦隊(栗田 艦隊)の独立を意味し、これまでのように小澤長官の束縛を受けずに栗田長官の裁量で艦隊行動が出来る ようになったのである。したがってこの指揮権の独立に問題の栗田艦隊の最終的”反転”の投影を見る人 も多いだろう。

 二一日一七時から、旗艦愛宕の艦隊司令部に各級指揮官および関係科長以上が呼集されて、作戦計画の打 ち合わせが開かれた。この席で始めてレイテ湾タクロバン方面に突入する具体的な目標が指示された。司 令部から発表された作戦計画は、リンガ泊地を出発してブルネイに回航するまでの間に、作戦参謀大谷藤 之助中佐を中心に練られたものであった。この計画における苦心は、艦隊行動をより効果的にするために、 南北両方面からレイテ湾に進撃するとしたところにあった。大谷参謀は、速力の遅い旧式戦艦山城と扶桑 の第二戦隊を、別部隊として分離、スリガオ沖から北上突入させる案を立てた。たまたまGFの草加龍之介 参謀長からも、「全艦隊が一方方向から進出するよりも、南北両方面から分進せしめられるほうが有利と 認む」という同様の意見を伝えてきたことも有って、この方針はすんなり決定した。

 しかし、参集者の多くは、劣速の旧式艦船の単独突入は、自殺行為いに等しいと考えた。誰よりも強く そう思ったのは、当の第二艦隊司令官西村祥治中将であったろう。しかし、中将は顔色ひとつ変えること なく作戦を容認した。西村中将はたぶん、敵の攻撃を一身に引き受けることにより、主体の進撃を掩護す るという自隊の役割を理解していたに違いない。その後、中将がとった行動をみると、そう思わざる得な い。栗田長官の訓示の後、冷酒とスルメが出され、参加者一同は乾杯をして作戦の成功を祈った。ブルネ イ湾にいつしか夕闇が忍び寄っていた。栗田長官は乾杯の後、特に七人の司令官を別室の将官室に招いた。 そして、シンガポールで第一南遣艦隊司令長官田結穣中将から送られたシャンペンを抜いて、長官自らグラ スに注いで回ると、再度壮途を祝しあった。


出撃する栗田艦隊


 二二日、栗田艦隊は第一、第二部隊の順にブルネイを出撃し、レイテ湾をめざした。午前八時、旗艦愛宕が ゆっくり動き出した。続いて高雄、鳥海、長門、がこれにしたがい、さらに各隊が整然と続航していく。ま だ錨を下ろしたままの第三部隊・西村艦隊は、全艦が頭上高く戦闘帽を振る登舷礼をもって先に出撃する主 隊を見送った。スリガオ海峡を抜けてレイテ湾に迫る西村艦隊の出発は、同日一五時三〇分(1530)予定で あった。主隊の兵のたちの中には前につんのめりそうになった扶桑と山城の特徴のある艦橋が、岬の山陰に 没して行くのを眺めている者があった。そして、それが両艦を見た最後となった。ブルネイ湾を出ると、艦 隊は大和を中心とする第一部隊と、金剛を中心とする第二部隊の二群に分かれ、隊の間隔を六〇〇〇メート ルにとって、対潜警戒航行序列で北上した。速力一八ノット(三三キロ)で之字運動(ジグザグに航行し敵潜水艦よりの 雷撃をかわす事)を続けながらの進撃である。日没後は一六ノットに減速して之ノ字運動をやめ、パラワン島 沖合約10浬を北上した。

 決して対潜警戒を怠っていたわけではなかった。もとより、栗田艦隊にとってレイテへの道は遠く、かつ困 難きわまるのであった。その行程は直行したとして約一〇〇〇浬、(約一八五二キロ)警戒航行や途中の会敵を考慮すれば一五 〇〇海里(約二八〇〇キロ)を覚悟しなければならない。それほどの長く厳しい航行であった。当然、米艦載機の襲撃や水上部 隊との遭遇などが予想されたが、さしあたっての難関は敵潜水艦に狙われることであった。なにぶん、突入 の日時が決められているために、おのずと艦隊行動が制限されてくる。油槽船の到着が遅くれ、ブルネイ湾 内で丸一日を費やしたことで、北に大きく迂回してシブヤン海に至るという対潜、対空上もっとも安全と見 られる航路は、最初から捨てなければならなかった。

 一種の奇襲作戦であるが為の行動であった。ブルネイ出発直後から、各艦が搭載いている水偵を逐次発進さ せ、全路哨戒や対直衛を実施させていた。そして、何度か「敵潜望鏡見ユ」の信号が発せられたのだが、そ の多くは流木などを見誤ったものであった。見えない敵で有るだけに、対潜警戒と言うのはひどく疲労が溜 まる。こうして、第一の米潜に出没地帯と予想されたブルネイ湾入り口は無事通過、二三日午前零時、第二 の難所であるパラワン水道の南口に達した。艦隊がこの水道を抜けるには、約三〇〇浬の行程を経なければ ならなかった。誰の目にもこの狭い水路は米潜が待ち受ける危険地帯であると思われた。

 南北に細長いパラワン島の西側一帯に、推進の浅い岩礁が広がっている。パラワン水道と言うのは、その間 に挟まれた水路であるが、艦隊が通行可能な水路幅は、実に二五浬ほどしかない。潜水艦が潜んで待ち伏せ するには絶好の場所といえた。艦隊は、日付の変わる二三日〇時すぎから、その狭い水道に入っていった。 小柳参謀長は祈るような気持ちであったと言うが、午前三時ごろ遂に愛宕の敵信班が、送信中の米潜の電波 をキャッチした。小柳参謀長は直ちに全部隊にあて、このことを通知し、一段と対潜哨戒を厳重にした。し かし、燃料の節約の意味もあり、艦隊は増速せず一六ノットのままで走った。


魔のパラワン水道


 便宜上、ここから先を少し少し米軍側から書く。二三日午前一時一六分(0116)、パラワン水道南口で哨戒中 の二隻の米潜水艦のうち、ダーターが電探(レーダー)で栗田艦隊を発見し、栗田艦隊を追い越して六時九分 艦隊に向かって回頭した。六時三〇分、ダーターは好体勢で目標を捕らえていた。こちらに艦首を向けて進ん でくる日本艦隊のほぼ真正面に位置していた。次の瞬間、艦隊はジグザグ運動を開始し、ダーターの視野から 見て右に艦首を振り、重巡四隻は一斉に横腹を見せたのである。距離約四〇〇〇メートル。この機を逃さず、 ダーターは先頭の一番館に狙いをつけ、艦首発射管から魚雷六本を発射した。そのうちの四本が命中するのが 認められた。ついで艦を急旋回すると、二番艦に向け艦尾発射管から魚雷四本を発射した。うち二本が後続艦 (高雄)に命中するのを確認した。

 一方、愛宕は米潜に接触されているかもしれないとは思ったものの、その後確認するには至らなかった。愛宕 の電探(レーダー)は、二隻の米潜に反応しなかったのである。栗田司令長官以下司令部職員が、短い仮眠をと ったあと、早朝の艦橋にたった。海上は凪いでいた。早朝訓練の命令が下り、愛宕以下の各艦は、昼間の一八 ノットに増速、之字運動を開始した。愛宕は変針した直後の六時三三分、艦首右舷に魚雷が命中、ドシンと大 振動が起きた。舵を切るために舵輪が急速に回転している最中、右舷中央部に第二撃、第三撃が連続して命中、 やや遅れて後部に四撃の命中音が響いた。まともに四本の魚雷を食った愛宕は、たまらず右舷に傾斜、早くも 航行を停止した。

 愛宕の後方八〇〇〇メートルを続いていた二番艦の高雄艦長小野田捨次郎大佐は、愛宕の被雷に気づいた 瞬間、取舵一杯を下令した。高尾の転舵が左に向きかけた時、突然艦橋下右舷に魚雷に命中する衝撃音が 起きた。続けて後部右舷に第二撃が命中した。一方、愛宕はその後傾斜が進み、ついに何かにつかまって ないと立つていられない状態となった。右舷を同航していた岸波と、その後方を続航していた朝霜が近づい てきた。二隻の駆逐艦が愛宕に横付けを試みたが、傾斜が酷すぎて果たせず、二〇〇メートルほど離れて漂 泊した。「長官これではボートは無理です泳いでください」と小柳参謀長は栗田長官に退艦を促した。艦体が 三〇度ぐらい傾いたとき、意を決した栗田長官は幕僚たちに「行くぞ」と声をかけて、まっ先に左舷からむき 出しになった艦腹を伝わって降り、海面上に浮かび上がったバルジから身を躍らせた。続いて司令部付きの職 員たち三〇名が次々と海中に飛び込み、駆逐艦めざして泳ぎだした。

 脱出が少し遅れた小柳参謀長は、鑑定に突き出た金具にしたたか腿を打ちつけ、打撲傷をを負ってしまった。 自分で泳いで救出された駆逐艦岸波によじ登って振り返ると、洋上にはすでに愛宕の姿はなかった。高雄は、 何とか応急処置をおこない、のちにブルネイに帰還している。その後、この海面で同じく四戦隊の重巡麻耶 が雷撃をけ受け、ほとんど瞬間に沈んでいる。これぞまさしく轟沈である。


エンガノン岬沖で猛攻撃を受ける小澤艦隊。

エンガノン岬沖で猛攻撃を受ける小澤艦隊。



咆哮する主砲




 一方、岸波に移乗した栗田長官は、八時三〇分、大和に信号を送り「大和ニ旗艦変更ノ予定、本職移乗マデ 第一戦隊司令長官指揮ヲ執レ」と命じた。長官以下愛宕生存者の大和への移乗は、一六時三〇分ごろ終わっ た。全軍の指揮は再び栗田長官がとることになり、檣頭高く長官旗が掲げられた。船隊司令部に新たに船隊 司令部のメンバーが加わったため、大和の艦橋は満員となった。栗田長官は艦橋左端の回転椅子に腰を下ろ し、宇垣司令官は右端の座席に座った。幕僚たちは、その後方に立ったままであった。艦隊司令部の移行が 終わると、艦体は直ちに行動を起こして北上した。シブヤン海に戦入せんと、夜半、南東に進路を変え、ミ ンドロ島にぞい南下していった。

 フィリピン群島を二分する形のシブヤン海は、栗田艦隊にとって第二の難所であった。米潜水艦の潜伏のほ か、米空母艦隊の行動範囲圏内に入ったことを覚悟しなければならない。ミンドロ島南方を迂回して北東に 針路を変え、タブラス海峡を抜けた艦隊は、二四日未明、之字運動を行いながらシブヤン海に入った。まさ かと思ってはいたことでは有るが、このシブヤン海で徹底てきに攻撃されて白い航跡を残し、右へ左へと巨 体を回避するとは思いもしなかったであろう。まだレイテまでは遠かったのだから。敵機跳粱のキザシは、 未明から有った。大和の電探には、しきりに米機の反応をキャッチしていた。

 姿は見えなくても、接触されていると判断した栗田長官は、対空戦闘に備えて<輪形陣をしくよう命じた。艦 隊は一時複雑な行動を展開した後、一五分間ほどで、第一部隊は大和を中心に、第二艦隊は金剛を中心にそれ ぞれ輪形陣を形成した。航空機の掩護がない以上、対空砲火により自分で自分を護るしかすべがなかった。 空母機動部隊は裸同然の状態で小澤長官率いる第三艦隊は、遠く遥かエンガノン岬沖で、囮にならんと敵機動 部隊を引き寄せていたのであるから。やがて米索敵機が視認できるようになり、その数は時間との経過ととも に増えていった。もはや敵の襲撃は必至と判断した艦隊は、速力を二四ノットに上げて対空戦闘の体勢にはい った。一〇時三〇分、大和を皮切りに武蔵、長門ら戦艦主砲が咆哮し、三式弾をぶっ放した。すさまじい轟音 とともに艦は激しく震動し、乗員たちは強い圧迫感と衝撃を受ける。


戦艦武蔵

米艦載機の総攻撃に息絶え絶えの戦艦武蔵



シブヤン海の死闘




 米艦載機の第一波が艦隊の上空に達したのは、午前一〇時三〇分、雷撃連合の二五機だった。最初に被害を 受けたのは、大和の右舷前方を走っていた重巡妙高。魚雷一本が横腹に命中して落語、ブルネイに回航を命 じられた。しかし、当然のことながら米機の主目標は大物の大和と武蔵である。大和の右翼、輪形陣の外側 に位置していた武蔵に、自然敵機は群がってきた。猪口敏平艦長の号令につれ、舵輪が忙しく回転する。 それでも投下爆弾を網のようにかぶせられる瞬間があった。そのうちの一本が第一砲塔の天蓋に命中した が、次の瞬間ビーンという鈍い音をヲ残して跳ね返り、舷外の空中で爆発した。それにしても驚くべき防御 甲板であり、特に天蓋部は、一〇〇〇メートルの高度から投下した二五〇`通常爆弾が直撃しても安全とさ れていた。問題は、比較的脆弱な吃水線下を襲う魚雷でであった。雷撃機が挟撃のかたちで襲ってきた。 四本は回避したが、一本が右舷後部に命中した。航行にはいこうにさしつかえなかったが、魚雷命中の震動 のためか、主方位盤が旋回不能となった。

 正午近く、第二波が襲ってきた。雷撃連合の三一機。栗田艦隊の手前で二隊に分かれ、攻撃態勢をとった。 今度も攻撃目標は、大和と武蔵に向けられた。大和を襲撃したのは、一七機からなる雷撃機だった。全ての 攻撃を回避ししたが、かなりの死傷者でた。一方の武蔵は、またも損害を重ねた。しかも、前回より被害甚 大であった。来襲したのはSB2Cヘルダイヴァー急降下爆撃機八機とTBFアベンジャー雷撃機六機。まず投下 爆弾のうち三本が命中した。特に一番砲塔の左舷に命中した一本の被害大きかった。三式弾が砲塔ないで爆 発したのである。左に傾斜し始めたので、注水をして復元する。ために艦首が約二メートル沈下して速力が 落ち、武蔵は少しずつ隊列から落伍しはじめた。


出し得る速力二〇ノット


 一三時。第三次空襲の報告が入る直前、大和上の栗田長官は、武蔵の猪口艦長からの「出しうる最高二二ノ ット」の報告を受けた。意見具申をするものは誰もいない。悲痛な空気の漲るなか、栗田長官は当時二五ノ ットだった全艦の速力を落として、武蔵と歩調をあわせる処置をとった。むろん、速力を落とすことは敵機 の攻撃を容易にする。武士の情けか、栗田長官はどうしても武蔵を一緒に連れて行こうとする。 第三波の敵は、まず雷撃機と急降下爆撃機からなる一三機が武蔵に向かってきた。爆弾の被害は、至近弾 三発ですんだが、スルスルと伸びた雷跡が一番砲塔の前にもぐりこんだ瞬間、轟然たる音響とともに、武蔵 の巨体がブルブルと震えた。

 戦闘は一〇分くらいで終わった。米機が去ってホッとしたのも束の間、引き続き新手の一群が飛来した。 三三機がが二手に分かれ攻撃態勢を整えると、そのこと如くが損傷した武蔵を狙って群がり襲ってきた。 人員の損耗はなはだしい上、すでに破壊されて半減している機銃の弾幕は武蔵の巨体を護りきれなくなっ ていた。先ず直撃弾三発が次々と命中、続いて雷撃機が発射した魚雷二本が激突した。その瞬間、武蔵は 艦底から持ち上げられるように激しく揺れ、乗員はその場に打ち倒れた。その後さらに雷撃機四機が突っ込 んできて、その内二本が命中した。艦の前部におびただしい浸水をみた武蔵は、艦首が水面近くまで沈下し し、このため速力はさらに低下、急速に隊列から遅れていった。第四時空襲は三二機だったが、初めて武蔵 に対する攻撃は行われなかった。主として大和と長門が襲われたが、二艦とも深傷を負わずに米軍機をや り過ごした。一応米軍機が去った一五時ごろ、大和上の第一戦隊司令部に、武蔵の猪口艦長から報告が入 った。「両舷防水区画はほとんどすべて浸水または注水のため、出し得る速力二〇ノット」


武蔵シブヤン海に沈む


 宇垣一戦隊司令官は、武蔵のこの状況を栗田長官に伝えた。これ以上行動を共にするのは無理と判断した栗 田長官は、武蔵に第二部隊の駆逐艦清霜をつけて退避させようと決心した。そこへ第五時空襲の警報が入っ たため、栗田長官は急ぎ武蔵に指示を与えた。「武蔵ハ清霜ヲ指揮シ、要スレバコロン経由マニラニ向ヘ」 しかし、この命令は遅きに失した。すでに上空には米軍機が接近してきていた。しかも今度は、武蔵に集中 して襲いかかってきた。落後のために隊列から極端に離れて孤立していたことが、米機を一手に吸収するか たちとなったようだ。くり返しになるが、度重なる被弾では対空火器が激減していたことも敵をつけ入らせ る要素になっていたであろう。

 いまや武蔵は回避する力も無く、発射された魚雷はことごとく横腹に吸い込まれるように命中した。投下され る爆弾もまた、命中弾、至近弾を問わず武蔵を破壊していく。第五時空襲だけで一〇発の命中弾、一一本の命 中魚雷が確認されているが、それ以上の被弾があったとされている。この日の戦闘は終了した。夜に入った。 よく晴れた空に、無数の星がきらめき始めた。下弦の月に淡く照らされた洋上で、武蔵は駆逐艦清霜に見守 られて浮いていたが、一九時三五分、米機動部隊の攻撃を一身で受ける形になったさしもの巨艦戦艦武蔵も最後の時を迎え、 艦首を海中に突っ込んだまま、急に左方に横転するようにして沈没し ていった。艦長猪瀬敏平少将は、シャ−プペンシルで記した戦闘所見を副長加藤憲吉大佐に託すと、艦長休 憩室に閉じこもったまま艦と運命をともにした。

 武蔵が沈んだこの時刻、夕刻近くから艦隊行動につき逡巡 をくり返して、複雑な航路をとった栗田艦隊は、遥か遠く離れた洋上にいた。 何ということか、浮沈艦といわれた二隻のうちの一隻が目の前で沈んでいくのを見た吾が日本海軍将兵にはど のように目に映ったことか、思い余るものがある。航空機で開戦勝利し航空機の有利性を世界に知らしめた日 本海軍は、その航空機に打ちのめされたのである。護衛の飛行機が無かったというのをさし引いても完全に飛 行機中心の作戦が必要なのが表明されたが、その囮になった 小澤機動部隊さえ裸の空母機動部隊であっ た。しかし、まだレイテ湾までの道のりは長かった。



レイテ沖海戦・U⇒



(更新/2004/10/31) 秋深し頃記す  Homepage Owner kanno




参考文献
学習研究社・太平洋戦争シリーズ(第九巻)
レイテ沖海戦より
光人社刊・小柳富次・著「栗田艦隊

【 Page Top▲先頭へ戻る】