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日の丸



銚子大空襲・地方都市をなぜ攻撃したか!




銚子大空襲について

戦没・戦災者を祀る忠霊塔
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  銚子上空はB29の"通路"であったようである。五機のB29が 銚子市内の初の空襲を行なったその日は、東京大空襲と同じ昭和二 十年三月九日未明から十日にかけてであった。 だが、それ以前にも昭和二十年二月に艦載機による機銃掃射攻撃を受けている。 日本の"息の根"を止めたとまでいわれるボーイングB29 (スーパー・フォートレス)。昭和十九年十一月二十四日の 昼間、約八○機のB29が都下三鷹付近の中島飛行機武蔵工場 を爆撃した。


 これが関東地区に対するB29の初の本格的空襲だった。 ところで、B29が関東地区を空襲するようになってから、銚子市の 上空はしばしば侵入口、あるいは退去口となった。 つまり、銚子上空はB29の"通路"となっていたのである。 このため東京空襲後、帰途には銚子上空を通過したようである。 そして我々が聞かされたのは、東京空襲後に残った焼夷弾や爆弾などを落としていったようであるという話であったが、 現実はそれほど甘くはなかったようである。実際には銚子地方も初めから攻撃目標になっていたのである。 銚子は東京へも近く、漁業や缶詰製造などが盛んだったため、首都圏への食糧ルートを断ち切らんがため攻撃目標として選ばれたようである。 そして田舎町なれど銚子市は、この当時、千葉市に次ぐ人口があり、関東でも有数の市であったようである。 またB-29の目標には最高の場所であったようである。太平洋に突起して突き出し、横には川幅が日本一の利根川が流れていたので大分目立ったことも確かであったようである。 銚子市史の「太平洋戦争と銚子」には、当時の銚子市民の 状態が次のように記述されている。


スーパー・フォートレスB29

雲海上空を日本本土へと向かう、ボーイングB-29スーパー・フォートレス



市民は狙われぬと楽観



  市民は空襲警報発令下、B29の轟々たる爆音を耳にする ことが多くなった。だが、市民は意外に冷静であり、あまり 恐怖心も抱かなかった。それは、銚子市民が豪胆であったか らというわけではない。一つには東京のような大都市は目標になっても、 銚子市のような地方小都市が狙われることはあるまいと楽観していたからである。 それは誰でも考えることであったであろうことは想像できる。 このような外れた地域が空襲されるとは私著者も考えはしなかったし、 全国の地方都市の人々が同じ考えであったと思われる。 また、実際に空襲の恐ろしさを体験したことがないため に、知らぬが仏の安心感に浸っていられたと言える。その ため、このころはまだ本気で防空壕を作ろうとする人も少な かったし、大事な家財の疎開を考える者も少なかった』 それ程に深刻には考えてはいなかったようである。



東京大空襲と同じ日に



  銚子市に対するB29の空襲で特に大きな被害を受けたのは、二 十年三月九日夜から十日未明にかけてと、同年七月十九〜二十日未 明の二回。前者はいうまでもなく、東京大空襲が行われた日 である。 第二〇航空軍司令部が作成した「米国戦略爆撃調査団報告 書」という資料によると、銚子市を空襲したB29は五機。攻撃 開始時刻は十日午前零時七分、あるいは午前零時五十分 ともいわれている。 実際に攻撃を開始した時刻、つまり結果であるのか、それ とも「爆撃命令書」による出撃命令における攻撃時刻、すな わち予定であるのかはっきりしない。B29の空襲時間は、一 時間十三分。銚子市史編さん室編集「市民の記録・銚子空 襲」によると、一時間くらいというのが多く、米側資料とほ ぼ一致する。



マリアナ、サイパンよりのMap

  昭和二十年三月十五日、硫黄島が陥落したため、これまでマリアナ諸島のサイパン島、グアム島、テニアン島から護衛機無しの状態で、おおよそ2,250キロを飛んで空襲を行っていたが、 硫黄島陥落後はB29を護衛するは陸軍機であるノース・アメリカンP-51ムスタングも航続距離が日本本土へ1,000キロも短縮されたおかげで、B29と共に飛来するようになり、艦載機と共に 各地で機銃掃射による攻撃を加えることとなった。更に硫黄島はB29の被弾した場合の時の退避基地となったために攻撃はそれ以前に増して日本本土各地に猛攻を浴びせた。





集束焼夷弾ばらまく



  この夜、投下された焼夷弾は、一〇〇ポンド膠化ガソリン弾(M47)十四発、 五〇〇ポソド集束弾(M69)五十九発、五〇〇ポンドのマグネシウム爆弾(M 76)一〇五発。このうち、集束弾のM69は一発六ポンドのナパーム 焼夷弾四八発をまとめ、大型弾にしたもの。地上三〇〇メートルで炸裂、四八発 の焼夷弾が空中でばらまかれた。 おそらくこの状況下では為すすべもなく猛火に包まれるか、熱だけでも多くの死傷者を 出したものと思われる。十数年前まで馬場町付近に残っていた日活系の映画を上映していた映画館があったが、そこは空襲の 中心地に近くい映画館(現在は駐車場となっている)で、そこが鉄筋コンクリートの建造物であったので、 そこへ逃げ込んだ可なりの人が 火災ではなく、蒸されるように熱で亡くなっているようである。その建物は表面は綺麗に修復されていたが、 裏側は解体されるまで黒くくすんでいて、艦載機の機銃の弾の跡が残っていたのを今でも覚えている。 銚子に投下されたM69は五十九発であるから、中のナパーム弾は計二八三二発。 これに、十四発のM47と一〇五発のM76が加わったとあれば、被災地面積からして、 文字どおり焼夷弾の雨が降ったことになる。銚子の中心地のあの狭い地域にこれ程の焼夷弾が 投下されたのだから、地獄絵図でも見るようであったろう。私の生まれる以前の話なので、 想像と人に聞いただけであるが、数十キロ先の茨城県の鹿島、神栖方面からも真っ赤な炎が見えたそうである。




M69集束焼夷弾とは


  昭和二十年三月以降、無差別爆撃におよび。 ナパーム焼夷弾は効率良くB29に積み 込むため三十八本ずつ(四十八本とも)束ねられ、 おもりとして円盤状の 弾頭部が取付けられた。 B29一機に八十発搭載、低空から投下されたと言う。 要は、空からガソリンを振りまいて行ったと言っていいであろう。 このお陰で、周辺に居た者は熱と、酸欠と、有毒ガス、そして焼夷弾自体の直撃などを受け 亡くなったようである。我が母親は不発の焼夷弾のゼり状の粘着質の物質が衣服に付着して、大変な目に遭ったと言っていた。




サイパン島に駐機するB-29の群れ

サイパン島に駐機するB-29の群れ



B29が焼夷弾攻撃

強風にあおられ火の海



  「昭和二十年銚子市事務報告書」によると、三月十日未明 の損害は、焼失戸数一〇〇〇余戸、死者四七人、負傷者一六 三人となっている。ただし、これは当時の市内の分だ。 戦後、銚子市に編入された船木、椎芝、豊里、豊岡の各村 でも損害はあった。この銚子市周辺四村を合計すると、焼失 戸数は四〇戸、死者は八人を数えたという。



市の中心部に大量投下



  B29は高度二〇〇〇メートルから三〇〇〇メートル、ある いはそれ以下の高度で侵入。照明弾を投下しながら栄町、 陣屋町、新生、興野、本通り方面に大量の焼夷弾を投下した。 この地域は市役所近くにある市の中心部である。 九日の日中は南寄りの風で暖かく、快晴であったようである。夜にな って寒冷前線が通過したらしく、十日午前一時五十五分に は、瞬問最大風速十九メートルの北々東の風が吹いていたと いう。これが火災による損害を大きくする要因となったのである。 初めて焼夷弾の洗礼を受けた市民は、防空演習で訓練され たとおり、懸命に消火活動に取り組んだ。しかし、雨と降る 焼夷弾で各所に火災が発生、折からの強風にあおられて燃え 広がり、たちまち火の海となってしまった。銚子市役所が焼けたため その当時の書類が全て消失し、今でも土地などの計測はいい加減に 行なわれてしまっているようである。私の住む所もそれぞれ昔から主張 していた土地を計測すると、まるで狂っている有様なのである。


銚子市役所


昭和二〇年三月一〇日未明の空襲で消失した旧銚子市役所




夜明けまで燃え続ける



  火災は延々と夜の明けるまで続いた。新生二丁目ではいっ たん消し止めた火が、朝になってから再び燃え上がり、さら に陣屋町、南町、前宿町にまで延焼したという。主な焼失建物は次 のとおりである。 銚子市役所、銚子勤労動員署、銚子保健所、済生会銚子診。 療所、銚子醤油銚子事務所、ヤマサ醤油第一工場、宝醤油、 銚子信用組合、県立銚子高等女学校、白幡神杜、宝満寺、大慈寺。 当時、銚子市警防団は団員約一六〇〇人、装備は自動車ポ ンプ二台、オート三輪ポンプ一台、手挽(てびき)ガソリン ポンプ十七台、腕用ポンプ十二台。自動車ポンプ二台は 本部常備消防部の装備で、他は六分団に配備。本部は銚子警察署 前の銚子商工会議所内に置かれていた。



銚子所在地


  上記の地図の被害者数をご覧になられればお分かりになられると思いますが、関東近郊の県庁所在地に次ぐ被害の大きさなのです。 こんな外れた田舎町とお思いでしょうが、連合軍側は銚子を重要拠点と見ていたことは間違いないようです。実際に茨城県の県庁所在地、水戸市を上回っているのです。






手挽、腕用ポンプ動員



  B29の焼夷弾攻撃に対し、本部常備消 防部をはじめ各分団も出動、それぞれ団 本部から命じられた た部署に就いた。分団のポンプは手挽や腕 用で、機動性に乏しく、腕用は性能も低 い。それでも、各分団は必死になって消火 に努めた。B29が攻撃続行中の消火作業 は危険が多い。いつ焼夷弾の直撃を受け るかわからないからだ。しかし、団員は自分の危険を 顧みず火災と取り組んだ。とはいえ、警防団の 消防能力に比べ、火災規模はあまりにも 大き過ぎた。燃えている所は燃えるに任せるしかなく、 いわゆる"破壊消防"(註 延焼中の家屋の周辺の建物を壊して延焼を防ぐ)で、延焼を食い止めるのが精いっぱ いであったという。



防火演習中の銚子市民

防火演習中の銚子市民







抗戦意欲低下狙う



  中小都市へ爆撃を拡大.B29が千葉市を空襲、中心街を 焦土と化し、多数の犠牲を出した 『七夕空襲』から十二日余の七月十九日深夜、.銚子市 は三月の規模をはるかに上回る二度目のB29の大空襲を受け、 市街地の中心主要部分はほとんど壊減状態となったのであった。 戦略的価値のない銚子市   ところで、三月の空襲はともかく、戦略爆撃の目標 に、銚子のような地方小都市をどうして選んだのであろうか。当時、 人口六万余の銚子市には特に目立つような軍事施設、軍需工 場もたく、戦略的価値はほとんど認められない。 それでは、なぜ銚子が狙われたのか。米軍は六月十五日の 大阪空襲を最後に、大都市中心の空襲から、目標を中小都市 に拡大し始めている。当時、東京、名古屋、大阪、神戸、横 浜は五大都市と呼ばれ、他は全国五八に上る都市が地方都市 と称されていた。 疎開努力を無意味に 『米国戦略爆撃調査団報告書』は、中小地方都市へ拡大し た理由として、次の項目を列挙している。

@日本側の疎開努力を無意味にする

A中小都分製造工場群の戦争への寄与を無力化させる

B国民の抗戦意欲を低下させる。

右の「報告書」には、三月から終戦までの空襲状況を五大 都市、地方都市に分けて記述している。五大都市に対する攻撃は、 二十年三月九日か六月十五日吾での問に、B29が延 六、九六〇機参加。.四一、五九二トンの焼夷弾を投下し、 壊面積は二六四方キロに及んだ。 一方、千葉市銚子市など、地方中小都市への攻撃はい、二十年六月中旬から 十五日まで続けられた。B29の参加延べ機数は八、〇一四機、投下焼夷弾は 五四、一八四トン、破壊面積は一九六平方 キロに達した模様である。



銚子空襲の説明




銚子空襲の説明

銚子空襲の説明




  当時のアメリカ軍の資料によると、銚子への空襲は無計画で実施されたものでは無いのである。 東京(首都)へも遠くなく、輸送も比較的楽な距離でもあり、漁業や醤油産業が盛んであったため、 アメリカ側は食料供給の重要拠点の一つと見ていたようで、その結果、銚子市への空襲が行われたようである。 昔はよく言われたもので、東京の帰りに余った焼夷弾を落として行くと言われたことを今でも覚えている。 それは全くのナンセンスであることが今になって分かるのです。東京方面をあれほどに空襲するのに焼夷弾を余らして、 帰りに銚子へ落として行くなど考えられないのである。間違いなく銚子を目標として、初めから硫黄島を飛び立っていることは 間違いないであろう。




銚子飯沼観音大仏像


  
銚子飯沼観音大仏像



銚子飯沼観音大仏の機銃掃射の弾痕



 
大仏の機銃の弾痕未補修痕                  大仏の機銃の弾痕補修痕


  この他にも大仏像の体には全てが弾痕の痕か分からないのであるが、補修個所が数多く見られる。この他にも飯沼観音境内には各所に銃撃痕が見受けられる。現在造営中の五重塔の裏にある殉難警察官之碑 にも銃撃の痕跡が見られる。

所在地地図






終戦の日まで爆撃



  中小都市に対する爆撃は、何と終戦の日まで続けられた。 八月十五日、空襲されたのは秋田、小田原、高崎、熊谷、伊 勢崎の五市。この中で最も被害の大きかったのは熊谷市であ る。『熊谷市戦災復興誌』には、次のように記録されてい る。 『昭和二十年八月十四日午後十一時三十分ごろ、房総南部 から侵入し本市上空に飛来したB29数十機の編隊は、高度約 三〇〇〇〜五〇〇〇メートルから多数の油脂焼夷弾及び小型 エレクトロン焼夷弾を投下した』 その結果、焼失家屋が三六三〇戸、死者二三四人、負傷者は 約三〇〇〇人に及んだ。『日本列島空襲戦災誌』による と、熊谷市を含む五市の被害は死者三七六人、負傷者二二三一人、 焼失家屋六四七九戸に達している。



三〇分で全市が猛火。



  米側資料では九十一機来襲、二十年七月十九日の深夜から 二十日未明にかけ、銚子市はB29の大空襲を被り、 市街の主要部分は灰燵(かいじん)に帰してしまった。一、 護沢(ごたく)部隊が市内に駐屯 当時、市内には本土決戦の一翼を担う護沢(ごたく)〇三部隊という 歩兵連隊が駐屯していた。護沢とはいわゆる”兵 団文字符”で、金沢で編制の第百五十二師団と隷下の部隊を いい、正式には歩兵第四百二十七連隊(連隊長・吉松秀孝大佐 =陸士三四期)。 同連隊は米軍の九十九里浜上陸に備えた防衛部隊で、 七月七日に八日市場町(後に八日市場市、市町村合併で現在は匝瑳市)から移駐して来たばかり であった。その連隊日誌には、空襲の概要が次のように記されている。

一、空襲状況

七月十九日二二三四千葉地区警戒警報発令

七月十九日二二五〇千葉地区空襲警報発令

九十九里浜ヨリ北進セルB29一機ハ、○〇二九銚子上空二 至ルヤ小川台、次デ一、二分毎三機宛侵入春目町、唐子町、 次デ市内東方地区ヲ、主トシテ焼夷弾及小型爆弾一部機銃掃掃射ヲ加ヘ攻撃セリ。

『白昼ヲ欺クノ感アリ』

  来襲機数ハB29五十機ニシテ、○〇三二通 信及電灯杜 絶消減、〇一〇〇全市 全ク火烙ニ包マレ、白昼ヲ欺クノ感アリ。折 強風(十二、三米)ハ愈々火勢、ヲ募リ、〇一一〇頃最モ熾烈ヲ極メタリ。 攻撃ハ概ネ一時問四十分ニシテ終了、七月二十日〇二〇〇 全ク機影ヲ認メザルニ至ル。攻撃二依リ発生セル火災ハ逐次 全市ヲ蚕食シ、〇七〇〇頃概ネ鎮火スルニ至レリ。 護沢〇三部隊の日誌によれば、B29が銚子上空に侵入した 時刻は、二十日午前零時二十九分。それからわずか三分で、 電話は不通となり、送電は途絶した。そして三十分後、全市 が猛火に包まれてしまったのだ。 ところで、護沢〇三部隊は来襲したB29を五十機としてい るが、防衛庁戦史室の資料である「戦況手簿」には五十機と なっている。どちらの数字が正しいのであろうか。




焼夷弾搭載中

焼夷弾を積み込む米兵士



機数で日米に大きな差



  それでは、米側資料はどう記録されているかというと、驚くなかれ、 九十一機という多数で、日本側の判断とは大幅に違 っている。考えてみば、それは無理からぬことであった。 夜間、単機もしくは少数の編隊に分かれて、波状攻撃して 来る敵機の数を正確に把握することはかなり困難であったか らだ。従って、この場合は米側資料の数字を信頼した方がよ いだろう。 膨大な量の焼夷弾、到底及ばない消防能力 米側資料によると、銚子市に来襲したB29は日本側の数字 を三十〜四十機も上回る九十一機。投下した焼夷弾、爆弾の数 量はM69焼夷弾二九八八発、破砕性爆弾一五六発、合計六二九トン にも及ぶ。



三月空襲の比ではない



  M69焼夷弾は既述のとおり、一発の親弾から四十八発の子弾(ナパーム弾) が出て来るから、ナパーム弾の総数は実に一四万三四二四発になる 。驚くべき数字だ。実際にこれだけ投下されたかどうかは確かめられたにしても、 三月空襲の比でなかったことは明らかである。この銚子空襲を報じた七月二十二日 付の朝日新聞は「市街地の外周からうずまきの形でだんだん中心部にと爆撃した」 と述べているが、これは護沢〇三部隊(歩兵第四百三十七連 隊)の連隊日誌とも一致する。これでお分かりのように決して銚子へ残った焼夷弾、爆弾を落としていったのでは無いのである。全て計画的な空襲であったのです。

 つまり、最初に市街地の南端に当たる下総台地の縁辺に焼夷弾を投下。 次いで西側、さらに東側に投下した。残る北側は利根川とあって、三方に焼夷弾を落と されると、四方を囲まれたのと同じことになる。そこへ、さ らに焼夷弾を投下し、爆弾、機銃による攻撃が加わったのだからたまらない。 この七月空襲では、三月に空襲された市中心部も再び被害を受けた。警防団 は三月空襲と同様、消火に救護にと奮閾した。また、銚子市が大空襲を受けて いると知った八日市場町(のち八日市場市、更に市町村合併により現在は匝瑳市となっている)と東金町(現東金市)から、消防自動車 各一台が救援に駆けっけた。しかし、二台ばかり駆けつけても何の意味も無いことは 分かってはいるが、これが現状だったのである。








焼夷弾搭を投下するB29

雨の如く爆弾を降らせるB-29の編隊


  初期はこのような爆弾攻撃が主流であったが、昭和二十年三月を境に本格的な焼夷弾攻撃が主流となっていった。 日本の木造家屋なら爆弾を投下するよりは焼夷弾の方が効果は絶大であった。   B-29が焼夷弾攻撃を行う以前の昭和十九年十二月三日まだ爆弾攻撃をしていた頃のこの日、マリアナの各基地から飛び立った七十機のB-29の内 、十五機撃墜の見出しで新聞に掲載されたという。この中の1機が神代村東和田(現 東庄町)に陸軍の迎撃機「鍾馗」(しょうき)の体当たり攻撃を 受けて墜落し、これを聞いた近郊の人たちが見物人ですごい賑わいをみさたという。先日聞いてみたら私の叔父も見に行ったと言っていました。 よほどこの墜落は珍しかったのか盛況であったようである。白昼に堂々と爆撃して行くB29に対して機銃攻撃では落ちないとみるや、空中特攻を始めたのであった。 この頃になると日に日に空襲が激しくなり、一機でも落そうと陸海軍航空隊は懸命に身を呈して迎撃をし、B29から本土の空を護っていたのである。





警防団員にも殉職者



  しかし、この夜の被弾地域は広く、投下された焼夷弾は 膨大な量であったため、これらの消防能力では到底及ばなかった。 消火作業は困難を極め、ほとんどが燃えるに任せるとい った状況で、警防団員の中からも数人の殉職者が出た。 一方、在銚陸海軍部隊の迎撃戦闘ぶりはどうであったかと いえば、見るべきものはほとんどなかったようだ。まず、 迎撃戦闘機は一機も見られなかった。 わが物顔のB29に対して銚子飛行場(下志津教導飛行師団隷下の第三教導飛行隊) には、そのような戦闘機が配置されていなかったからやむを 得ないにしても、関東地区の防空の任に当たっていた飛行部 隊も出撃していなかった。隣接の旭市と八日市場市(現 匝瑳市)にまたがって展開していた海軍、香取航空隊から迎撃に上った機も無かったようである。 従って、B29は銚子上空をわが物顔に 行動できたのである。結果、敵の為すがままだったのである。

  また、地上部隊の砲火も、B29の行動を妨げるものとはならなかったようだ。 地上部隊でB29に対する戦闘任務と戦闘力を一応持っていたのは、三崎町の 高射砲部隊(高射砲学校)である。この夜、高射砲は応戦したはずであるが、 その活躍ぶりはほとんど伝えられていないのが現状であり、戦果も聞かれない。海軍はと言えば、小型艇に装備された恐らく二〇o機関砲であろう機銃で応戦したものがあったらしいが、 高射砲も満足に届かないあの高高度のB29に届こうはずもなく無意味に終わったようである。しかし、逆に撃った曳航弾の閃光で敵に察知され、逆に攻撃される羽目となり 付近一帯が被害に遭ったというお粗末なのである。三崎町とは高台にあり、 狙い易い場所にあったのだが、ほとんど役に立たなかったと言うのが現状だったようである。 そして、近所には銚子下志津陸軍教導飛行師団第三教導飛行隊があったのだが…!  私、当HPの管理人は迎撃に飛び上がった話もDATA資料も見聞きはしていない。これがこの当時の日本軍の在銚子陸海軍の有様だったのである。




護沢(ごたく)部隊に戦死者



  銚子中学に宿営の兵員、銚子に駐屯する陸海軍部隊中、最大の兵力を擁するのは 護沢(ごたく)〇三部隊(歩兵第四百三十七連隊十一連隊長・吉松秀孝大 佐)。歩兵連隊だから当然、これもB29への対空戦闘はしな い。再び連隊日誌により、同夜の行動を追ってみよう。

  『一、部隊ノ行動警戒警報発令ト同時二旗手軍旗ヲ奉移シ奉リ警護ニ任ゼリ。 余ハ軍旗ト共二在リテ全部隊ノ指揮二任ズ。各隊は夫々 『防護規程(案)』二基キ沈着機敏、不屈敢闘克ク自隊ノ防護 二勉ムルト共二進ソデ全市民ノ先駆トナリ災害防止二当レリ。 〇一五〇宿舎タリシ商業学校周辺最モ火勢熾烈ニシテ、 奉安所壕内二延焼ノ虞(おそれ)大トナリ、煙ハ壕内二充満シ 危険二瀕セルニ依リ、旗手二再度ノ奉移ヲ命ジ鉄道線以 北畑地内二奉移シ警護セリ。 正二部隊ノ存在ハ厳トシテ此秋(とき)愈々光輝ヲ加へ、 全市信倚(しんい)ハ部隊ニ集結、当部家アリテ銚子アリ トノ念ヲ全市民ノ脳裡ニ銘刻セシメタリ。二〇余名が犠牲に 然レドモ戦災ニ当リ殉国セル二〇余柱ノ英霊二対シ、痛憤措ク能ハズ。 謹ソデ拝跪(はいき)、全部隊将兵ト共ニ感奮興 起、以テ来ルベキ皇土決戦二於テ必 勝ヲ期シ、其ノ霊ニ応ヘンコトヲ誓ヒタリ。 搬出分散セル隊属物資二於テ若干ノ焼失ヲ見タルハ、 物資極減ノ今目戦カノ低下ヲ生ゼシメタルハ漸塊(ざんき)ニ堪エズ。 爾後ノ格納施設二於テ再度ノ轍(てつ)ニツイテ厳二 戎ム」右の連隊日誌の中で『戦災二当リ殉国セルニ十余柱ノ英 霊』とあるのは、市立銚子中学校に宿営していた中隊の兵員で、 爆弾によって死亡したのではないかとみられる。だが、他の学校、 寺院などに宿営していた中隊からは犠牲者は出なかった。




護沢(ごたく)部隊〇三部隊幹部




部隊の存在を誇示



  さらに、同日誌の一節に『全市ノ信衛ハ部隊ニ結集、当部隊アリテ銚子アリトノ念ヲ全市民ノ脳裡二銘刻セシメタリ』 とある。これは部隊の存在を誇示したもので、いささか独善的な嫌いがないでもない。 また、この日、護沢〇三部隊長の吉松秀孝大佐は、次のような布告を発した。恐らく、 市民の間にデマが飛んだり、治安の乱れるのを防止するための措置だったに違いない。 因みにこの護沢隊と言う部隊は(現、明神小学校)の坂道の左側の不動ヶ丘に陸軍の護沢隊が迷路のように 防空壕を掘っていたのである。これは本土決戦に備えてと思われる。この壕堀には一般からも勤労奉仕で各家庭から一人は参加していたようである。 そして、その隣の坂道を挟んだ清水方面の台地を海軍・香取航空基地部隊がやはり迷路の様に同じく防空壕を掘っていたようである。 ここは水上特攻用の 小型舟艇、震洋の基地として掘っていたようである。お陰で今でも地盤が徐々に沈下しているのは事実である。 我が家の直ぐ傍の土地は私が見る限り昔より確実に歪んでいる。



吉松大佐が市民に布告



  『布告 銚子市々民諸君ニ告グ 軍旗ハ御安泰ナリ 軍旗ノ燦タル栄光ハ市民諾君ノ頭上ニ輝ケリ 諾君ハ其ノ威烈ニ信碕ツ皇国三千年の伝統ニ立ツ烈々タ ル敢闘清神ヲ護持シ神速ナル戦災処理二突進セムコトヲ 望ム今後ノ敵ハ米英ノミナラズ 大敵ハ我等ノ心中ニアリ 心二生ズル弱味コソ敵二乗ゼラルルモノナリ 無一物ノ強サ、何クソ頑張レ精神第一  御沢〇三部隊長』




目を覆う惨状呈す



  負傷者の救護が最優先、恐怖の一夜が明けた銚子市街は、まさに目を覆うばかりの 惨状を呈していた。七月二十日朝から、全市を挙げての救護活動が開始された。 その状況は「銚子市事務報告書」に次のように記録されている。 『…罹災者ニ対シ戦時災害保護法ニ依リ応急炊出シ及食料品の給与ヲ為シ又 無縁故者二対シテハ数ヶ所ニ収容所ヲ開設 シ、一時収容セリ。又市内及近隣町村ヨリ救護物品(衣類・ 寝具・食器・其ノ他日用品)ヲ募集シ町内会ヲ通ジ罹災者ニ配給セリ。 負傷者ハ組合立銚子病院・清水国民学校及市内の罹災セザル医院ニ収容治療 スル等戦災者救護ニ付テハ万全ノ努カヲ致セリ」



外科医と医療品が不足



  最優先は負傷者の救護とあって、市内の全医師、 全医療機関が動員された。しかし、外科の専門医がほとんどいなかっ たことや、医療品不足のため、死んだ者が少なくなかった。 外科医が少なかったのは、軍に召集されたり、銚子から他地域へ疎開したためだ。 そこで、千葉県医師会の各支部から、応援の医師が派遺されてきた。また、 軍医として応召中の歯科医が、たまたま所用のため空襲の翌目帰省したところ、 この惨状に遭遇。銚子医師会が軍に要請してそのまま一週間、救護 活動に従事してもらったというようなこともあった。幸いにして、 一命を取り留めた重傷者については、空襲の危険の続く中での治療は不安であったので、 安全な地方への疎開が考えられた。これにっき、当時、 銚子警察署の警察官であった高岡正作氏は、『市民の記録・銚子 空襲』の中で次のように回想している。




童患を笹川国民学校へ



  『重傷患者の処置につき銚子市、同医師会、県などと協 議、さしずめ疎開することになった。行き先は香取郡笹川町 (現東庄町)の笹川国民学校で、教室を一室借り受けた。 この患者の手当ては、地元香取郡医師会と銚子医師会が 協力して、これに当たることになった。』



海軍軍医が応急処置



  『患者は担送者が多く、貨物車の特別列車で送った。後日、 笹川へ見舞いに行ったが、教室の片隅に患者は 寂しく過ごしていた。異口同音に患者と付き添い人から『医師 の手が届かない。配給物(マッチ、ガーゼ、チリ紙など)に困る』 と苦情が出て、非常につらかった。 しかし、患者の手当ては幸い、海軍の部隊がおり、軍医さんが 親切に応急処置をとってくれたため、大助かりだった』 被災者の多くは親類、縁者を頼って、住む場所を探し求め た。それができない者は、しばらくの間、市が開設した臨時 の収容所で過ごしていたという。











銚子市の空襲被害図





銚子空襲被害図



  地図の黒く塗られたところが被害にあった場所であるが、米軍は全て読んでいたような気がする。それはというのは、 史の重要な拠点を中心に焼夷弾を落としているのである。市の外れ等は目もくれず中心地を集中攻撃したのである。 いかにこれが余った焼夷弾を落としていったのではなく、目標を銚子と定めて攻撃していることがこの地図を見ればありありとわかるのである。 市の中心地の外周から攻撃し始め、中心へ渦を巻くように攻撃していったそうである。





中枢部は全滅状態



  見渡す限りの焼け野原、空襲後の応給処置の中には、当然のことながら焼け跡の整理という 仕事も含まれている。個人の家は個人で整理したが、公共の施設や 街路などについては、学徒が動員された。護沢部隊も焼け跡整理 『銚子市事務報告書』によると、七月二十二日から二十七日までの間に、 延べ二八七〇人を動員。焼け跡整理のほか、伝令、交通整理、市役所、 病院、郵便局の補助、物資配給の 補助、重要物資搬送などに従事させたとある。また、護沢〇三部隊 (歩兵第四百三十七連隊)の兵士たちも、焼け跡整 理に出動した。 この七月空襲の被害は、三月空襲の比ではなかった。前記「銚子市 事務報告書」によれぼ、焼失戸数は 三九五〇余戸、死者二七八人、負傷者八○八人に及んだ。 これに対し、三月空襲の損害は、焼失戸数一〇〇〇余戸、 死者四七人、負傷老一六三人。従って、七月空襲の焼失 戸数は約四倍、死者は約六倍、傷者も約六倍に達している。



銚子飯沼観音

焼失前の銚子飯沼観音本堂と二重塔




銚子飯沼観音本堂

銚子飯沼観音本堂




銚子飯沼観音二重塔

銚子飯沼観音二重塔


銚子の盛り場の中心地でもあった飯沼観音も、戦災を免れる事無く昭和20年7月19日から20日未明に掛けての本市最大規模の空襲に見舞われ廃墟と化した。





多数の遺体を合同火葬



  このうち、死者の処置については、その数が多いのと市の火葬場が 焼失してしまったため、平常のような丁重な火葬はできなかっ た。そこで、三月の空襲で焼失した 末広町四丁目の宝満寺境内に於いて、多数 の遺体を収容し、野焼きの状態でトラックで運び込んだ遺体を山の如く積み重ねて合同の火葬にふし たという。 我が母は、学徒動員で三軒町の縫製工場へ動員に行って、兵隊の服を作るためミシンを踏んでいたそうなのだが、そこの道を挟んだ前の広場周辺でも 火葬が行なわれていたため、悪臭で気分が悪くなったと聞いている。結果的には宝満寺に限らず火葬を取り行っていたようである。(宝満寺は焼失したため、現在は銚子市台町の銚子商業隣に移転して今では桜の名所と成っている。 ) そして、だれのものとも判別できなくなった遺骨を遺族に分配したという、とても悲惨なものであったようである。 骨つぼには、缶詰工場がブリキ缶の代用に試作した陶製容器が使用された。

  なお焼失した公共建物、その他の主要建物は次のとおり。 銚子駅、銚子警察署、銚子測侯所、八日市場区裁判所銚子出張所、 銚子税務署、千葉県銚子漁港修築事務所、市立銚子 中学校、市立銚子高等女学校、市立銚子国民学校、市立春日国民学校、 市立興野国民学校、市立若宮国民学校、市立飯沼国民学校。 銚子商工会議所、銚港神杜、峯神杜、飯沼観音、浄国寺、 銚子警防団本部常傭消防部詰所、市立伝染病院、市営火葬場などである。







瓦礫と化した銚子市中心部

瓦礫と化した銚子市中心部



   昭和二〇年七月一九日未明の未曾有の空襲、一夜明けた銚子の街の惨状は目を覆うばかりであったという。この日の空襲は三月一〇日を更に上回るもので、 千葉県内でも千葉市と共に大きな戦災被害となったのである。千葉県でも北東の太平洋に突き出た突端の地がこれほどに被害に遭ったことを知る人は今では 少なくなっている。この小都市の戦災の記憶を末永く留め置きたいと思う。









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(更新/2005/07/28) 暑い宵に記す。 Homepage Owner kanno
(更新/2008/09/10)  深夜の静かなり日に記す。追記と画像追加




参考文献 
発行・千葉日報社 石橋正一・著
幻の本土決戦(房総半島の防衛『第八巻』銚子空襲
新人物往来社(刊)日本大空襲・別冊歴史読本60号・第32巻第08号通巻753号
2006.10.21銚子読売新聞ホールの戦争展・『銚子と戦争展アジア太平洋の戦跡』より
出版・銚子市 銚子市・編集 続 銚子市史 昭和前期

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