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輝く富士のそのすそ

   今ぞとばかり  きそいて 咲きし   山野辺のべ

          真白く咲きし 山桜花やまざくらかな

                献 詩


散りぎわの 心安さよ 山桜

   空逝そらゆかばねと ささげし身は

    今は故郷に還りて

        野辺の花となりぬ

         献 詩

曲:さらば放浪さすらい

gunkanki


第三四三海軍航空隊・戦闘三〇一飛行隊長

最後の撃墜王・菅野 直の生涯


菅野 直大尉

経 歴
菅野 直 1921(大正10)年9月23日(10月23日)生
1945(昭和20)年8月1日没
宮城県角田市出身
日本海軍軍人・海軍中佐
戦闘機パイロット 25機撃墜
1941(昭和16)年11月 海軍兵学校(70期)卒
第38期飛行学生
戦闘306飛行分隊長時代、
最初の神風特別攻撃隊指揮官候補に挙がるが、
内地出張中で見送られる
第343航空隊・戦闘301飛行隊「新選組」隊長
1945(昭和20)年8月1日 戦死
二階級特進 海軍中佐




菅野 直大尉ここに眠る

↑enter

菅野 直大尉機343・A15

菅野 直大尉機343・A15







昭和二十年八月一日、それは終戦のわずか二週間前であった。一人の著名な飛行隊長が散華した。誰にも見取られる事もなく、真夏の何処までも続く藍空の彼方へ溶け込むように消えた。 その名は、海軍第三四三航空隊・戦闘三〇一飛行隊長・菅野 直大尉。






プロローグ



 太平洋戦争末期、怒濤のような連合軍の進撃に一矢を報くいるべく、 最新鋭の戦闘機「紫電改」を以って編成された第三四三海軍航空隊-通称 「剣部隊」の三個戦闘機隊指揮官の一人で、その勇猛果敢な戦闘ぶりは 日本海軍航空部内では知らぬ者とてない存在、いわばホープであった。 戦死した当時はまだ二十四歳に満たない海軍大尉であったが、その抜群 の功により死後二階級特進して中佐に任じられたのである。 菅野の数々の武功や戦闘の模様については遺々語ることにするが、 全軍布告に際してつくられた文案によれば、次のようなことに要約されるようだ。

  第三四三海軍航空隊戦闘第三〇一飛行隊長海軍大尉菅野直 右者、昭和十九年一月ヨリ十一月迄零戦搭乗員トシテ長駆カロリン群島 及ビ比島(フィリピン) ニ転戦シ終始敢闘、其ノ間敵機撃墜破三十機ノ個人戦果ヲ挙ゲ、 航空撃滅戦二寄与セル所極メテ大ナルモノアリタリ。 十一月下旬内地ニ帰還、戦闘第三〇一飛行隊長二補セラルルヤ、 初代紫電二一型搭乗員トシテ烈烈タル闘志、公正無私ナル人格ヲ 以テ隊貝ヲ統卒、隊員ノ尊敬心服ヲ一身ニ集メ一致団結猛訓練ニ従事シ、 後日戦ヘバ必ズ大戦果ヲ挙グルノ強力無比ナル飛行隊ヲ育成セリ。 偶々戦局緊迫、敵ガ南西諸島攻略戦ヲ開始スルヤ、昭和二十年三月十九日内海西部海面二於ケル 敵機動部隊邀撃以来、同年八月ニ至ル迄主トシテ九州西南部ヲ基地トスル艦撃及ビ進攻作戦ニ於テ、 抜群ノ技倆(ぎりょう)ト敢闘精神ヲ以テ克ク敵機撃墜四十二機一内協同撃墜二十四機一ノ 武勲赫々タル綜合戦 、」果ヲ挙ゲ、皇国最新鋭戦闘機ノ真価ヲ中外ニ発揚スルト共ニ全軍士気ヲ大イニ高揚シ、航空作戦遂 行ニ寄与セル所極メテ大ナリ。(後略)




   これで見る限り、菅野は単に戦闘機隊の指揮官として有能だっただけでなく、一人の戦闘機乗り としてもきわめてすぐれていたことがわかる。 こうした布告文の場合、往々にして過大な讃辞や表現の誇張が感じられるものだが、菅野に限っ てそれは当たらない。まさにこの通りなのである。 菅野が指揮官である以上、単機同士の格闘戦にでも入らない限り列機がつねに従っており、 純粋に菅野個人の撃墜数を算定するのはむずかしいと思われるが、それにしても協同撃墜も 含めて七十二機撃墜破というのは大変な数字である。しかも、この中には日本の戦闘機に とって難敵だったコンソリテーデットB24リベレーターやボーイングB29などの四発大型機が含まれているのだ。 だからその限りでは、まちがいなく"勇猛果敢な飛行隊長"であり、「撃墜王」 の名に恥じない名戦闘機パイロットだったのである。



 



雲の彼方に消ゆ



 
 平成元年五月二十八日朝。ロサンゼルスの一角、有名なビバリーヒルズの 高級住宅地一帯は静まり返っていた。 日曜日ということもあって、きれいに手入れされた住宅街の中の広い道は、 時折り犬を連れて散歩する夫婦づれやジョギングをする人とすれ違うのみ。 私は戦史研究の良きパートナーである日系三世のヘンリー境田の運転する ピックアップ・トラックの助手席からそれらを目で追いながら、ヘンリーにたずねた。 「菅野大尉はアメリカ軍の飛行機に撃墜されたのだろうか?」「わからない。 今までの調査では、それに該当する記録は見当たらない」 戦勝国だけあって、アメリカ側の第二次大戦当時の記録は実にしっかりしている。 誰が、いつ、どこで、何を撃墜したという記録はキチンと整理されており、 それをたどれば所属飛行隊の戦闘記録をピックアップすることができるし、 もし生存者がいれば話を聞いてもっと詳しく知ることができる。

 先の拙著『紫電改の六機』(光人社刊)では、そうしてアメリカ側の記録お よび証言が得られ、日本側のそれとつき合わせてかなり確かなところまで突 きとめることができた。 いいかげんな想像やつくりごとでは済まされないのがノンフィクションのきび しさだが、今度ヘンリーをたずねたのも、以前の協力のお礼と新しい調査のためであった。 ビバリーヒルズから旧映画の都ハリウッドを経て、ロサンゼルス郊外のヘンリーの家に着いた。 戦史研究家としてアメリカではよく知られているヘンリーだが、零戦の撃墜王 坂井三郎をはじめ日本に知人も多い。現にヘンリーは、「サカイは今アメリカ に来ており、近いうちにウチにも来ることになっている」といっていた。 われわれはさっそく菅野の最後について検討をはじめた。菅野の戦死は昭和二十年、 すなわち一九四五年八月一日であるが、その最後の模様は確認されていないと、最後の撃墜王・菅野 直の生涯の著者・碇 義朗氏は述べる。

 この日、北上中のB24爆撃機編隊を邀撃すべく大村を出発した三四三空「紫電改」 編隊の指揮官菅野大尉は、屋久島近くで乗機の二十ミリ機銃が筒内爆発を起こし て攻撃不能となってしまった。 掩護の位置につくべく寄り添おうとする列機の堀光雄飛曹長に攻撃に行くことを命じ、 菅野は傷ついた愛機をあやつりながら大空に単機残った。 やがて「空戦ヤメ、アツマレ」という菅野の電話を聞き、堀は引き返したが菅野機の 姿はどこにも見当たらなかった。もしや不時着でもと、堀は屋久島海岸を丹念に探し たが、その甲斐もなく、やがて集まって来た列機をひきいて大村基地に戻った。

 電話故障で連絡できなくなり、そのまま帰ったのではないかという堀の願いも空しく、 菅野は帰っていなかった。そして誰に聞いても菅野の最後を見た者はいなかったのである。 昭和二十年八月十日、すなわち菅野の戦死から九日後の日付で三四三空飛行長志賀淑雄 少佐が出した戦死状況を伝える「見認証書」があるが、それによると「(前略) 一〇一五高度六千メートルノ優位ヨリP51六機ノ奇襲ヲ受ケ、壮烈ナル戦死ヲ遂ゲタリ」となっている。 しかし、これには疑問がある。 最後に菅野を見た堀はP51を見ておらず、かりにこれが事実であるとすれば、誰かが見て いなければならないはず。また、もし菅野機撃墜が事実であるならば、アメリカ側に記録 が残っているはずである。

 それが菅野大尉の乗機であるかどうかはわからないにしても、 単機でいた「ジョージ」(アメリカ側が紫電改につけたニックネーム)を撃墜した パイロットがいたとすれば必ず報告があったであろうし、撃墜記録にのっているはずである。 このことに関して、ヘンリーが興味ある資料を見せてくれた。 それは一九四五年八月一日のアメリカ側の撃墜記録および、これに関連したアメリカ第五 空軍第三四八戦闘集団の戦闘記録で、前者ではこの日の撃墜は合わせて四機、いずれも 同戦闘集団のP51・ムスタングによるものとなっているのだ。 戦闘記録によれば、この日午前九時過ぎに沖縄の伊江島基地から発進した四機のP51は 九州西南の海面上空で、B24爆撃機編隊を攻撃していた十六機の「フランク」とは陸軍が誇り、四式戦闘機は、 キ-八四「疾風」と呼ばれて、更に別名・大東亜決戦号と呼ばれた名機である。エンジンは紫電改と同じ中島製・誉エンジン搭載の、中島航空機の傑作機である。を下方に 発見し、優位の体勢から攻撃を加え、個々に四機を撃墜したと報告されている。

 うち二機はエドワード・ポペック少佐が開聞岳南西二十マイルで、残る二機はウイリアム ・ダンハム中尉とトーマス・シーツ大尉がそれぞれ一機ずつ竹島上空で撃墜したもの。 そして、撃墜した時間はいずれも十時十五分となっており、菅野大尉が戦死したと 推定される時間とピッタリ一致する。 『三四三空隊誌』によると、この日、菅野大尉とともに出撃したのは二十機。だが、堀飛曹長の 『紫電改空戦記』には、戦闘三〇一の菅野および堀区隊からそれぞれ二機ずつがエンジン不調 で大村基地に引き返したとあり、残りは十六機となる。このあと、『三四三空隊誌』によると、 「屋久島北方を北上中のB24,P51の連合四十機を捕捉し、(中略)反覆攻撃申高度六千メートル からP51型六機が奇襲して来て次第に乱戦となった」とある。

 激しい空戦の間の判断であるから互いに一機や二機の誤認はそう稀ではないことからすると、 P51に関する六機(日本側)と四機(アメリカ側)、交戦した日本機の機数に関する十七機( 日本側)と十六機(アメリカ側、ただしフランク)、しかも空戦の場所は竹島(アメリカ側) と屋久島西方日本側とそれぞれ表現は違うものの、竹島は屋久島の北約三十キロに位置し ているから、空戦の空域の移動を考えれば同一地域と見ていいのではないか。 それから、この空戦でアメリカ側の撃墜数は四機となっているが、前出の『三四三空隊誌』 によると、この日の未帰還は指揮官である菅野のほか、戦闘七〇一の吉岡資生上飛曹および 戦闘三〇一の森山作太郎一飛曹の三名で、これも空戦の撃墜確認の困難さ、および報告の 正確さなどの通例からすると、ほぼ一致すると考えて差し支えないであろう。

 戦闘日時、相互の機数、場所、日本側の失われた機数と来て、残るは交戦した双方の機種 であるが、アメリカ側の飛行機がB24とP51だったことは日米とも一致しており、日本機が フランクだったとするアメリカ軍パイロットの報告だけが引っかかる。 フランクは日本陸軍の四式戦闘機「疾風」につけたアメリカ側のニックネームで、海軍の 「紫電改」と同じ二千馬エンジンの「誉」を装備し、速度も機敏性もほぼ同レベルの戦闘機で、 アメリカ軍は日本本土やフィリピンの戦いで数多く対戦して、パイロットたちにはすでにおなじみの日本 戦闘機だった。 「紫電改」のニックネームはジョージだが、フィリピン戦線に投入された「紫電」も含めて ジョージと交戦する機会は少なかったはずだし、その外形はそれぞれ特長はあるものの、 同じ濃緑の迷彩に日の丸の塗装を遠くから見た場合、充分に誤認もあり得ると考えられる。

 だから、このフランクがジョージであった可能性もあるわけで、問題はこの日のこの時間に、 この方面で行動した陸軍の「疾風」部隊があったかどうかに絞られるのである。 昭和二十年の沖縄作戦当時、九州方面に展開していた陸軍「疾風」「エンジンは上記でも述べたように紫電二一型とおなじ中島製の誉エンジン搭載である」戦闘機隊は、飛行第一〇一、 第一〇二、第一〇三の三個戦隊があったが、八月一日の空戦があった頃には戦力を消耗して本土 に後退し、再建中だったから、まず関係はないと見られる。ほかにも作戦した陸軍戦闘機隊があ ったかどうかについては、今のところはそういう可能性は見当たらない。 こうしていろいろ材料を並べてみると、細かい点での不一致や矛盾はあるものの、八月一日の アメリカ軍の撃墜記録の対象はフランクではなく、三四三空「紫電改」である可能性がきわめ てたかい。

 しかし、アメリカ側の主張する撃墜四機のうち三四三空の記録では菅野機を含む 三機だが、果たして菅野機に該当するものがあるのかどうか、あるいは菅野は撃墜されたの ではなく自爆であったかどうかについては、今のところ何の手掛かりもないのである。 その最後はミステリーであり、大いに知りたいところである。その謎がどれだけ解明できるかは今後の調査に待つしかないが、 もう半世紀以上六十年余りの時を経てそれが果たして可能なのか?いずれにせよ菅野が還って来なかったことだけは確かなのである。 だから菅野の命日は昭和二十年八月一日ということになっている。 "雲は天才である"といったのは石川啄木だが、その啄木に傾倒した菅野も雲の彼方に消えた。 彼がどこに、どんな思いで散って行ったか天才は黙して語らないが、昭和十三年一月四日、 まだ中学四年生だった菅野が、あたかも自らの運命を予知するかのごとき文章を日記に残し ていることに注目したい。

 「(前略)外は寒い。寒さの為に空は氷ったようだ。それで一つの大きな鏡のような気がする。 玲瓏(れいろう)たる、坦懐たる空の心を感じながら湯を浴びている。年をとった松の梢にか かっている三ヵ月はさもうらめしそうだ。何か地上に大事件でもあって落ちて来るふうな 不安定なかかり方をしている。 湯を上ろうとした……僕の瞳を左上から右下に切り下げたものがある。金星の流れ星だ。 タタッターと一丈ばかり下界に向って突進した。気持がすうっとした。すると亦なんだか 悲しいような気持が心を占領したらしい。悲しさに身が小さくなったようだ。あゝその後 天空には何もない。頭を廻らせば東の方に星は仲よく瞬いていた。 人生はこれ欄干(らんかん)たる星辰の明滅の間」これがわずか十六歳の少年の書く文章か と驚かされるが、「僕の瞳を左上から右下に切り上げた もの……」それが七年後に彼を狙って上空から降って来た敵機を意味しているのだろうか。 そして彼は、死の安らぎと悲しみの交錯の中に、天空の彼方に消えて行ったのではあるまいか?。




三四三空集合写真・菅野 直大尉

昭和二〇年三月、松山基地の第三四三航空隊・戦闘第三〇一飛行隊。前列左から二人目より隊長・菅野直大尉



幼き日の思い出



 幹川流路延長二百三十九キロメートル。天竜川に次いで日本で七番目に長い阿武隈川は、 その源を福島県と栃木県の県境にある那須山系に発し、白河の関所で知られる福島県、白河「現・白河市)を通っていったん東に流れ たのち北に流れを変え、福島市の少し先あたりで東北に針路を変えながら宮域県に入り、 ほどなく太平洋に注いで終焉(しゅうえん)となる。この物語の主人公であり、最後の 撃墜王となった菅野直の出身地である現在の宮城県角田市は、阿武隈川の河口からさほ ど遠くない、南から延びてきた阿武隈山脈がちょうど切れたあたりの、農村地帯の中心 に位置している。 とはいえ、菅野は父の任地だった朝鮮生まれだから、厳密にいえば正確でないことにな るが、父も母もこの辺の人だったし、菅野も物心ついてから海軍兵学校に入るまでをこ こで過ごしたのだから、そういって差し支えないだろう。

 菅野直の父浪治は、明治十五年にまだ町だった角田と阿武隈川をはさんで向う側にあった 枝野村に生まれた。 貧しい農家の子弟の常として、当時は誰もがそうであったように尋常小学校を卒えるとす ぐに農業の手伝いをやらされたが、向学心に燃えた浪治は農作業のかたわら独学で勉強し、 警察官になってのちに署長にまで昇進した。 菅野直が生まれたのは父浪治の最後の任地となった朝鮮の平壌-今の北朝鮮の首都ピョンヤ ンに近い竜口というところだった。 大正十年九月二十三日に菅野直が生まれて一、二年した頃、この一帯に大洪水があり、 警察署長として被害状況の視察に赴いた浪治は、出された食事がもとで腸チフスにかか ってしまった。伝染病ということで一年ほど入院生活を余儀なくされたが、三回も腸出血 があったりして病後の回復が思わしくなく、一時、平壌の本署にもどって軽い勤務につい たものの、署長の激務にもどるのは無理と判断し、職を辞して故郷に引き揚げた。

 菅野 直の母すみえは、浪治とは十歳違いの明治二十五年生まれ。角田の隣りの丸森という 町で、養蚕地帯だったこの辺一帯の繭(まゆ)を取り仕切る大きな問屋の、当時を知る人 たちの言葉を借りれば、「いいところの娘さん」であった。 ずば抜けて頭がよく、小学校の高等科を卒業すると蚕糸検査場につとめたが、それも単な るお茶くみや男性職員の補助業務ではなく、蚕の繭の雌雄を鑑別する専門職だった。 当時としては珍しい職業婦人になったわけだが、終わりの頃は判任官となり、着物に袴姿 で人力車に乗って農家を指導して歩いた。だから頭のいい、男まさりの先生として、 すみえの名は近在に知れ渡っていたらしい。 そんなすみえに結婚話が持ち上がったのは、日本が近代国家として台頭しはじめた明治が終わり、 新しい大正の時代に変わった直後であった。

 枝野出身で、いま朝鮮に行って警察官をしているのがいる。酒もタバコもやらない実直な男 だがどうだ、という話に、「サラリーマンだし給料もよさそうだ」と一も二もなく乗り、 単身、朝鮮に渡って浪治と結婚したのであった。 見合い写真があったわけでもなく、まったくの話だけで結婚を決意する思い切りのよさは、 後年の菅野直に相通じるものがあるが、すみえの判断に狂いはなかった。勉強家で職務に 熱心だった浪治は着実に昇進し、やがて竜口の警察署長になったという。 朝鮮は明治四十三年の日韓併合によっていわば強権的に日本の植民地化されたところで、 そこの警察署長ともなればかなり裕福な生活が約束された。

 そして大正十三年に浪治が健康を害して故郷の枝野に引き揚げるまでの約十年の間に、 ここで三人の子が生まれた。長女かほる(現姓八巻、大正三年一月)、長男、巌(同八年)、 次男直(同十年)で、引き揚げたのが大正十三年のはじめだったから、直は物心ついた 頃は父の故郷にいたことになる。 引き揚げた当座しばらくはすみえの実家の養蚕小屋に仮住まいしていたが、その後、何軒 か借家を転々としたあと、現在の菅野家がある場所に家を建てた。 この間約三年、大正十四年に次女志げ子(現姓氏家)が生まれ、新築の家に移って二年後の 昭和四年に末娘の和子が生まれた。つまり今の菅野の家があるところで生まれたのは和子だ けで、そのことが和子にいわせれば「家つき娘として菅野家を継ぐことになった」宿命かも知れない。 父が警察署長だったうえに謹厳だったこと、それに母が気性の激しい人だったこともあって、 菅野家のしつけは子供たちにとってかなりきついものだったらしく、とくにそれは両親がまだ 若く、子供も少なかった長女かほるの時代には、はなはだしかったという。

 「あとになるとそれほどでもなかったようだが、私は一番上だったので特にきびしかったみた いでした。父は口数の少ない人であまりいわなかったけれども、母には箸の上げ下ろしから 日常の立居振舞いにいたるまで、やかましくしつけられました。自分では当たり前のことを やっていたつもりなのに、それが気に入られず、激しく折樫されました。わかりました、 ごめんなさいといっても許してくれず、そんなことが続きました。 親には絶対服従で、口答えなどもってのほか。私はしだいに無口になり、親の顔色をうかが うような子になりました」 とはいえ、近所の子供たちには慈悲ぶかいすみえだったようで、幾つかのエピソードが残っている。 「一町歩あった畑は小作に出していたが、畑を手伝いに来てくれた人たちにはよくしてあげていた。 いつも石油缶にいっぱいお菓子が買ってあって、その子供たちや遊びに来た他の子供たちにも平等 に分けてあげていました。

 寒いとき、火にあたって行きなさい、御飯を食べて行きなさい、とお母さんに親切にしてもらった ことが忘れられないと、いまだに年賀状をくれる新聞配達だった人や、お父さんお母さんによくし てもらったからといって、陰ながらお墓まいりをして下さる人もいます」(かほる)「今と違って、 むかしの農家は本当に貧乏でした。だから私と同じくらいの子供たちでも、学校に持って行くお金 がなくて困っている子がいっぱいいました。母は玉露が好きで、しょっちゅうそれを飲んでいまし たが、その玉露の空き袋にお金を入れて、あの子たちにあげなさいといって持って 行かされたこともありましたという。

 一番印象に残っていたのは、私が家につれて来た友達が見すぼらしいなりをしていたので、 私の着ていたワンピースをすぐ脱いでその子にあげなさいといわれたことでした。そのワンピース が気に入っていた私がしぶっていると、あんたはお姉ちゃんのお下がりがあるでしょと、いやも応も ありませんでした。 そういうように自分の子供にはすごくきつかったけれども、よその人に対してはちょっと考えられ ないくらい献身的につくすという一面がありました」(和子) 父親の浪治は、朝鮮から帰って五年くらい村の役場の仕事をしていたこともあったが、その後は 仕事をしなかった。

 しかし、米は自分の畑からとれたし、恩給に傷病手当がついて当時の金で 八十円から百円近いものが月々入ったから生活はかなり余裕があり、両親とも教育熱心だった こともあって、子供たちは男も女もみな専門学校以上に進んだ。 努力家の父と頭のいい母の影響を受けて、菅野家の子供たちは学校でもみな成績がよかった。 特に長男の巌は勉強ができたばかりでなく、おとなしくて素行がよかったから評判は抜群で、 周囲からも一目置かれる存在だったが、おとなしいだけにいじめられることもあった。そんなとき、 二年下の直がそのいじめっ子に飛びかかって行き、兄を守ったという。 母に似て向こう意気の強い直だったが、兄を尊敬し、逆らったことはなかったという。

 「巌さんはおとなしく、落ちついていた。直さんはやんちゃで対照的な性格の二人でしたが、 本当に仲が良く、ケンカしたことなんか見たこともありません」 従姉門馬さつよの語る菅野兄弟像だが、品行方正、学術優秀な兄のもとで、弟の直は彼なりに 屈折した心理があったようだ。 というのは、兄の巌のほうは外の評判もよかったし父母からも可愛がられ、長男ということもあっ て周囲の関心はおのずと兄のほうに集まったからだ。 「子供だから同じように可愛がってもらいたい、(親に)甘えたいという気持もすごく強思います。 よくあることですが、問題になるようなことをひき起こして親の関心をひくという面が直兄には強 かったように思います」 末妹和子の語る直像であるが、和子が指摘するように、直はときどき母の機嫌を損ずるような悪 さをしては叱られた。

 気性のはげしい母は叱るだけではあき足らず、庭先にあった柿の木に縄で 縛りつけた。それを見た巌が、「俺も悪かったんだから堪忍して」と母に嘆願したこともあった。 まだ小学生で、母親の愛情に飢えていた直は、その代わりを七歳上の長姉かほるに求めたのである。 「おとなしい子で、中学一年くらいまで私が添寝をしてやりました」とかほるは語るが、 それが途切れたのは二十歳になったかほるが嫁いだからだった。そのときの直の淋しさは知る由 もないが、後年、長ずるに及んで彼が年上の女性に魅かれたのも、あるいは少 年時代のマザーコンプレックスの裏返しであったかも知れない。 こうして姉や兄に対してはおどろくほど従順だったが、一歩外に出るとその快活さを縦横に発揮した。 からだは小さかったが敏捷でケンカに強く、明るい性格の子だった直は下級生たちに人気があり、 餓鬼大将としていつも遊びの中心にいた。

 「よく戦争ごっこをしていました。気分を出すため、背嚢(はいのう)や鉄砲をつくったり、 階級章なんかも紙でつくっていました。近在の氏神様である三島神社のお堂の中にそれらをしまっ ておき、学校が終わると取り出してきて身につけさせます。 幼い一、二年生は二等兵か一等兵でしたが、子供会の廃品回収に役立つ一升びんを何本か持ってき たら上等兵にするとか、子供なりにいろいろ考えていたようです。女の子も、たしか看護婦か 何かで入れてもらっていたように思います」(門馬さつよ) 小学校は目と鼻の先だったから、校庭は格好の遊び場であり、薄暗くなるまで家に帰らなかった。 小学校の体育の時間や運動会では、紅白に分かれてよく騎馬戦が行なわれたが、従姉の子で小学校 で同級だった菅野舛雄によると、「オレはいつも馬で、上には直さんが乗ったが、 すばしこいので戦うと誰もかなわなかった」 敵の鉢巻をたくさん取って意気揚々と引き揚げる、罵上の得意気な少年直の面影が目に見、 るようだが、学校でも校外でもその活発な行動パターンは少しも変わらなかったようである。




人生の岐路



 菅野は東北仙台の南約四十キロほどの角田市にある旧制角田中学「現角田高校」の出身だが、同 級で陸軍士官学校に進んだ根元正平、角田市在住、学習塾経営によれば、どちらかというと「軟派 に属していた」という。 ここでいう軟派とは、今でいう「ナンパする」のナンパと同意語ではなく、いわゆる蛮カラもし くは硬派の対語で、文学を愛し読書に熱中する若者たちを表面的に捉えた言葉である。それは文学 などにふける軟弱なやからと侮蔑する一方、彼らから受ける知的な雰囲気に対する硬派たちの嫉妬 や羨望の裏返しと見ることもできよう。

 軟派にこだわるようだが、後年の菅野の姿を知る者にとっては、おそらく想像もつかない形容に ちがいない。しかし、菅野の軟派ぶりはかなり本物だったのである。彼の文学を通じての友で あった玉澤幸男(角田市在住)は、中学時代の菅野について次のように 語っている。「彼とは昭和九年、角田中学に入ってから親しく交わり、私にとって生涯忘れるこ とのできない人で、昭和三十七年はじめに源田実の『海軍航空隊始末記』が出てから、その後、 豊田穣『蒼空の器』、碇義朗『戦闘機紫電改』などを読んで、豊田穣の表現によれば 『海軍航空隊最後の撃墜王』 としての彼の勇猛果敢な活躍ぶりとその最期を詳しく知ることが出来たと玉澤幸男はいう。

 いかにも彼らしい、いや、彼なればこそという感じを深くしたけれども、その一方では私の 胸の中にあるイメージとストレートに結びつかないという気がする。つまりいろいろな本に書 かれている限りでの彼の海軍軍人としての人間像というのは、まったくその通りであるにしても、 私にはもっと別の面、かなり早熟な文学少年だった彼の本来の志というのは、文学にあったのではなかった と思うと述べている。

 菅野の遺言により、戦死後、彼の遺したものはほとんど焼却されてしまったが、 昭和十二年一月一日から同十三年十一月九日まで、すなわち中学三年生の三学期か ら海兵に合格した時点までのことを書き綴った日記が幸い残っていた。 この日記は途中飛び飛びで空白はあるものの、海兵に入るまでの菅野の心の軌跡 を知るうえで、きわめて貴重な材料を数多く提供してくれているのである。 いかに菅野が啄木に傾倒していたかを示す幾つかの記述がそこには見られるのだ。

 昭和十二年十月九日、すなわち中学四年の二学期、十六歳のときの短歌であるが、 同十三年一月十日の日記にはもっと熱烈な啄木へのラブコールが綴られている。 「大きな事を言うかも知れぬが、啄木と言う人は自分のような人ではなかったろうか。 (中略)いずれにしても啄木に対する愛着は偶像的ではなく自分の物という感じ が深くなった」このほかにも日記には啄木に関する記述が随所に見られるが、 明らかに啄木の影響が感じられる。 文章や短歌があるのだ。

 昭和十三年は、菅野にとって人生の大きな転機の年であったと思われる。それは中学のあとどの道に進むべ きか人生の選択の年であったと同時に、彼の内面生活においても著しい成長や充実が見られたから だ。 一日、二日と、友達を追って過ごした菅野は、三日は日がな家にいて、朝、昼、晩の三回にわた ってそれぞれ思ったことを書き留めている。 興味深いのは、日記の欄外の余白に一日と二日は「不快」と書いているが、三日は「笑=笑い」 「普通」などとあり、この日は気分がよかったことを示している。まず、朝の記述から。 朝七時半、夢を絶つ。

 まだまだ眠いのに加え、昨日の餅搗(つ)きの結果節々がめりめりする。しかし間もなく治るだろうと 思う。昨日のライスカレーの残部を含めて満腹す。満足した腹を運んでここ、すなわち縁側の東端 に来たわけだ。新春とはいえまだまだ冬だ。しかし今日は太陽が一杯の光を紫外線とともに自分に 送ってくれている。 頭上の屋根には雀が三羽四羽囀(さえ)ずっている。雀はいつ見ても好きな鳥だ。そうして、何となくこ の鳥は自分に狎(なれ)れているんだ。この間なんかも、俺の部屋に五羽ばかりの雀が入って遊んでいたん だもの。 早く春が来ればよいなあ。あの和やかな春。春は好きだが然し、晩春より初春の方がよい。温い 日光を浴びると、お湯にでも入ったような気がする。

 こんなことをいうと、軍国非常時下の青年の吐くまじき言なりとして或はとがめる人があるだろ うが、白魔の奮(筆者注、暴?)れる極冬より太陽の慈光の笑う陽春の方が幾らよいか知れない。 そう考えると、新暦にももう少し我等の(季節感に)適するように改正せねばならないであろう。 なぜってこんな寒い。今日はあたたかきこと春の如きだが時、新春だなんて人を莫迦(ばか)にして いること甚しいのである。 三日朝九時記す。このように日常の思いを日記に菅野は綴っている。 今でも一部に使われている旧暦によると、元旦は現在一般に使われている新暦-最近はこの "新"も取り去って単に"暦"といっているがこの二月六日にあたる。

 ちなみに今でも二月四日 を「立春」といっており、この頃になると自然界にはそろそろ春の気配が感じられるようになるか ら"新春"の表現も不自然ではない。それを三十六日も早い新暦に移行して、そのまま"新春"と 呼ぶのはたしかに季節感にそぐわない。菅野には、ふつうの人が当たり前のこととして見過ごして いるような常識の矛盾を鋭く衝き、人をアッといわせるようなところがあった。 ところで、文中に菅野は雀が好きと書いており、その雀が五羽も彼の部屋に入って来て遊んでい たというのは驚きである。警戒心の旺盛な雀が何の恐れも抱かないほどに菅野に狎(な)れていたのは、 よほど菅野の身辺に穏やかな雰囲気がただよっていたのであろう。

 われと来て遊べや親のない雀 流浪の俳人小林一茶の有名な句であるが、少年菅野にもそうしたやさしさがあったことがうかが えるこの文章を読むと、後年、戦闘機隊長として戦闘に臨む菅野の身辺から発していたであろう殺 気との余りの大きな落差に戸惑いを禁じ得ないのである。 しかし、春の来るのを待ち焦(こが)れながらも、「軍国非常時下の青年の吐くまじき言なりとして云 云」といささかの後めたい思いも告白しており、平和をこよなく愛した菅野が、しだいに戦争とい う大きな流れに巻き込まれて行く萌芽(ほうが)が感じとれるのである。

 とはいえ、菅野はこの時点ではまだ軍人になろうとは思っておらず、むしろ文学を志していたの ではないかと思われるフシがあるのだ。 一月一日の記述の四ぺージ目の最後に、「(前略)今日くらい変なことはない。例えば何回、も し三千円あればよいと思ったか知れない。何故かというと、三千円さえあればこんな中学を止めて 東京あたりに行って、三千円あれば一年千円としても三年は勉強やれる。あとは何とかならぬもの でもあるまいから」と菅野は書いている。

 このあと前述のように破られて二ページがなくなっているが、 それと夜の記述が、ある程度それを示唆している。 彼が何を志したかは一月三日の昼 山頂はさむい天才は淋しい (注、傍線は菅野)詩人も冷たい。其の他、俗より抜きんでているものは替そうである。だからといって 予は決して夢々天才なりとはいわない、詩人などとも衒(てら)わない。 只、孤人であるというのみである。

 只一人、孤独の世界に入り、寂滅の湯に浸り、無明の光をおがめばそれでよいとする。 幼き頃予は孤独というものを極端に排した。孤独にでもなりそうならば力めて陽表に出でようと はげんだ。そうした昔と今とを比較したならば天外の竒異を感ぜずにはいられない。しかしこれは 自分の一生を支配することになるであろう。(午後一時誌す) 近頃予は啄木の略歴を見ることが好きになった。彼啄木は最初より唯物論者で一貫した。しかし その中に含まれる思想は、大体次のような経路をたどっているようである。

 即ち、二十歳頃までは熱烈極端主義で、否やいや、誤ったら大変だから充分研究して他日必 ずこれを草しよう。そうして堂々とまではゆかなくとも力一杯論筆を揮(ふる)うて見よう日の来るのを 期待して止まぬ。(夜識す)

 この記述を見ると、菅野の石川啄木への心酔ぶりや、それを通して昂(たか)められたと思われる文学へ の傾斜などが強く感じられるが、それは彼が交際した文学中間の影響に負うところが大きいようだ。 その伸問とは、彼の日記によると玉澤幸男をはじめ上田力弥、南部、星、丹野、千葉らで、上田の 家が彼らのたまり場になっていたらしく、そこで文学や人生などについて議論を交わしていたらし い。 いわば文学サークルを形成していたのであるが、菅野の日記の中に「フレンド」という言葉を使 っている記述があるところを見ると、彼らの間でも異性との恋愛感情に似たものが流れていたよう に思われる。たとえばこの一月三日以前にも、



























ここ四日君と会はざりさびしさに


  忘名草も萎えにけり

   という短歌が見られるが、この「君」が果たして女性の恋人であったかどうか。 このあと一月九日、日曜日にも友達のことがいろいろ書かれてあり、またしても一枚破られ二 ページ飛んでいる。 恐らく書いたあと読み返してみてその記述に自記嫌悪に陥った結果と思われるが、一月十日の最 後の一ぺージではそれらの妄念を振り払うかのように石川啄木と自分について書いている。 大きな事をいうかも知れぬが、啄木というは自分のような人ではなかったろうか。啄木の歌乃至 は詩を、僕は一昨年四月頃読んだって何もわからなかった。もっともそれは難しい場合だが。し かしこの頃はその修辞的方面はともかく、精神が分って来た。(中略)

 この現在のような自分の分 ったような分らないような鬱憤(うっぷん)たっぷりな感情で、彼は夢中で泣きながら帰ったことであろう。い ずれにしても啄木に対する愛着は、偶像的ではなく自已の物という感じが深くなった。(夜八時識(しるし) す) 啄木と自已を同一と見做(な)そうとするほどにひたむきな思い込みようは、一体いつ頃から生まれた のであろうか。彼の親友で文学中間の一人だった玉澤は、菅野のドキュメント番組を組んだ仙台放 送のテレビ取材に際し、インタビューに代えて「菅野直兄を偲ぶ日記に即して」と題した一文 を草しているが、その中でこのことに触れて次のように述べている。

 「啄木については、いろんなことを聞かされた記憶が非常に残っておりますが……恐らく一年生の 時から始まったと思うのですけれども・・・啄木の歌集とか詩集とか或いは啄木論とかをどの程度目 を通していたのかということはわかりません。 啄木というのは、一般的な受け取り方としては、中野重治さんの本によれば、『浪漫的な感傷詩 人』ということだったと思いますが、彼の啄木に対する傾倒ぶりからみると、それに彼の書いたも のからみると、そういう段階ではなくて、もっと深く啄木を捉えていたような感じがします」 詩人菅野は、日記の中で百二十四首の短歌と十篇近くの詩を書き残しているが、 昭和十二年九月十四日にも、





































「吸」という字を書きければ


 啄木の「啄」という字に似てしまうかも
















 という短歌が見られ、菅野の中に占める啄木の存在の大きさがうかがえる。そして、啄木に傾倒 しただけあって菅野の文才は並々ならぬものがあり、三年生の三学期の中頃にあたる昭和十二年二 月三日の日記には、「作文を渡された、甲と甲上」と書かれている。 短歌は中学一年のときに作りはじめたが、地方新聞の河北新報の歌壇にもせっせと投稿し、たま に入賞したこともあるようだ。すなわち、前出の"「吸」という字を……"を詠んだ九月十四日は 実に五十首の短歌と、二篇の詩を書き綴っているが、一番最後の短歌、
























やはらかに軒の間をむらさきの


朝繭かしげる煙出づるも

 のところに「河北新報の短歌の選に入る」と注があり、それ以前にもこの年の一月十日の日記の 欄外に「河北新報選外佳作入選、安成二郎選」と書かれている。また、これらの短歌については友 人たちと互いに見せ合って批評を交わしていたらしく、九月十四日の日記にある数多い短歌の間に 「附言」として、「34の上の句、36の下の句良しと星に批評せられ、37の頭の句は漢然として駄目 と上田に批評せらる。我もそう思う」とあり、」こうして批判し合って推敲(すいこう)したも のの中から選んで応募したのであろう。

 短歌だけでなく、日記の中に随所に出てくる詩についても応募していたらしく、同じく九月十四日 に作った「姫押」という詩には、「河北新報の『秋草を想う』により女郎花(おみなえし) をうたいしものなり」とある。 つまり新聞の詩の課題に沿って作詩したもので、応募したかどうかは不明だが、精神的に少年期 から大人に移ろうとする若者の、いささか感傷めいてはいるもののみずみずしい情感をそこに見出 すことができるのである。以後の菅野 直の勇猛さはこの時点ではみじんも見せていないのである。
























  姫押

秋の河原に只独り
楚々たる身をば表わせり
あまりの憶みになよしおる
髪の乱れし姿なり
ロに悲しく念佛(ミノリ)の
声はもれて秋月の
照り映れる流水に
伝わる如く消えにけり
身をば躍らせ青淵に
夢もくだけし水胞
あわれ美しきあの心も
楽しさ天にさすらうらん
○(注・不明)の捨てし羽衣の
秋月に朽ちしそのあとに
淡くかすかに姫押
芽を出せりと云はれけり



 このあと(秋雨言たう」二篇「リヒ一アンスタインの古城」「ジヨンペティの戦勝を祈る騎士 を見て」などの詩作もあり、この日、菅野は日中、短歌や詩を日記に向かって書いていたらしい そして気がついたらすでに陽は沈み、夕暮れが訪れていた。 詩作にかけた情熱のほとぼりがまだ覚めやらぬ菅野は、その情景を描写することでピリオドを打 った。

グランドの真砂の上に死という字


   三度書いては悲しみにけり




























 昭和十二年九月十四日の日記にあったもので、一年後の同十三年九月二十一日には"文芸者の尊 い所以"について書き、文学や芸術に対する深い憧憬を告白している。 そんなことから菅野の文学仲間だった王澤幸男は、「で、文芸家・・文芸で身を立て ようという志を秘かに持っていたのではないか」と想像する。 その菅野の気持が軍人志望に変わった経緯については、本文でつまぴらかにするけれども、 文芸家を志望するような繊細さと、二歳上のおとなしかった兄巌(いわお)が友達にいじ められているのをみると、「かたき討ちにかかって行った」(妹和子談)という気の強さは、 どう結びつくのだろうか。想像もできないのである。

 そして文芸家志望の菅野と、軍人になってからのあの勇敢な戦闘ぶりや奔放な行動との 間の大きな落差を、どう解釈したらいいのだろう。兵学校を終了し、飛行学校のあたりから頭角を現してきて、さらに実戦で鍛えられたものなのではないかと思われるのだが! すくなくとも、菅野がその言葉から想像されるような柔弱な"軟派"でなかったことだけは確かである。 前出の同級生根元正平は陸軍士官学校卒業後、菅野と同様、航空の道に進み、沖縄作戦たけ なわの頃は軽爆隊の陸軍飛行第九十戦隊の中隊長だった。この九十戦隊は一時期、 連含艦隊の指揮下にあったので、九州の鹿屋基地における陸海軍合同の作戦会議に根元も 出席したが、そこではからずも三四三空飛行隊長として会議に来ていた菅野に会った。 その夜一晩、二人は中学時代の思い出話をさかなに飲み明かしたが、「酒はめっぽう強いし、 態度は荒いし、これがかつてのあの菅野かと思った」と根元が驚いたほどに菅野は変貌していたとい う。

 しかし、本当に菅野は変わってしまったのだろうか。「思いやりのある、やさしい兄貴だった」 いま角田市に住み、菅野家を継いでいる末妹和子はそういっているが、やさしい心の持ち主で あったが故に、彼が戦争で自分の任務に忠実であろうとすればするほど、自らに背いて振舞わ なければならなかったのではあるまいか。 〈違うんだよう……〉と、私には菅野の深い悲しみの声が聞こえてくるような気がしてならないのである。

 幼き頃の菅野は、文学少年であったと言うが、海軍兵学校以後の菅野 直からはとても想像もつかないのである。 実戦で鍛え行くうちに変貌してきたのか、後年の菅野をみるとまるで信じられない事実なのである。 幼き日の菅野のに、あの暴れん坊の菅野 直の姿は見当たらないのである。上記も記したように、実戦に鍛えられ、揉まれながらこのように変貌していったのか、 誰にも知る由はないのである。この菅野がと成長してからの菅野と逢った幼きころを知る者は驚きをかくせなかったのであろう。



満十七歳の菅野 直

海兵へ入隊まもない十七歳、海兵七十期の菅野 直



海の男の教育

 全員の記念撮影が終わったところから、新入生たちの兵学校生活が始まった。 海兵七十期会の会誌にのった前出の武田光雄の筆によって、彼らにとって最 も長い一日となったこの日の消息を追って見る。 其処から各分隊の伍長(一号生徒)に引き渡され、伍長の引率で校内旅行を した後時刻を見計って風呂場に連れて行かれる。当時は新生徒館のタイル 張りの明るい風呂場は未完成で、旧生徒館の石畳の暗い風呂場である。 「前を良く洗って入れ」とか「手拭を湯槽に入れるな」という入浴の心得を 教えられ手拭を渡されて、「娑婆の垢を良く落としてこいよ」とまるで〇○ 番外地を思わせ るような台詞があり、皆生まれたままの姿になって風呂に入る。正に七十期 の裸の付き合いの始まりである。

 ゆっくりお湯を楽しむ暇もなく外へ出ると、脱衣所には対番の三号生徒(後で 説明)が心を込めて準備して下さった越中褌(ふんどし)から下着、白シャツ、 軍服、軍帽から短剣まできちんと揃えてあった。 そのうえ褌と靴下と短剣以外は三号生徒の手によって墨できちんと姓名まで 記入してあった。越中褌の付け方から始まり、夏儒衿の上下、フランネル儒絆 (アーマー、すなわち装甲板という愛称の生徒の唯一の防寒衣一の上に白シャツ (Yシャツ)を着て軍袴(ズボン)をはく。兵学校の上衣はスマートな短ジャケ ットだから軍袴は胸の下まであり、バンドで止める訳には行かずズボン吊りで 吊るのだが、これをズボン吊りとはいわず「サスペンダー」とよんだ。

 英国海軍に学んだ帝国海軍には英語の呼び名がやたらに多く、これを覚えるだ けでも一苦労だった。大体サスペンダーなど今まで使ったこともないので付け方 の前後も分らないし、長さの調節にも苦労するありさまであった。 あれやこれや伍長の手とり足とりの指導の下に悪戦苦闘の末、やっとピカピカの 生徒が出来上がった。自分の姿は分らないが、他の人を見ると馬子にも衣裳で何 とかさまになるものだ。今まで着ていた中学時代の服、下着の一切は用意した風 呂敷で包み、あとで家に送るよう準備する。 昼食後分隊監事に引率されて大講堂に入り、前から分隊順に整列待機する。入校 式は新入生だけで上級生の参列はなく、有志の父兄は二階から参観されたと記憶する。

 一一五、すなわち午後一時十五分、教務副官が、「北村謙一ほか四百五十三名」 と呼んだのにつづき校長が、「海軍兵学校生徒を命ずる」と荘重な口調で令した。 「そしてこの中には、あの第一神風特別攻撃隊、敷島隊の指揮を執った関 行男と、 終戦の八月十五日に、五航艦の宇垣 纏中将を伴って沖縄へ突っ込んだ中津留達雄が居たのである。」 海軍兵学校長住山徳太郎中将が正面壇上の机の前に立つと、 この一瞬を、菅野たち七十期生たちは万感の思いで噛みしめた。そたは単に兵学校 に入校したというだけではなく、身を海軍に投じたことになり、この時から生命を 国に捧げることを意味するからだ。 校長の発令の言葉に対して、代表の北村生徒があらかじめ書かれた全員の宣誓書 を取りまとめて校長に提出し、つづいて十二名の部長(組に相当する各部の級長に あたる)の命令告達があり一最後に校長の訓示があって簡単だが厳粛な入校式を終えた。 こあともいろいろな行事が二二〇〇(午後十時)までびっしりつづいたが、中でも 生徒の卵たちの胆を縮み上がらせたのが、夕食後の一八三〇すなわち午後六時半か ら約三十分問にわたって行なわれた一号生徒の指導による出身校姓名申告であった。

 すでによく知られていることであるが、当時の兵学校は四学年制で、公式には下か ら順に一学年生徒、二学年生徒…と呼ぶべきなのだが、なぜか一学年は四号生徒で、 上級になるに従って三号、二号と数字が若くなり、最上級の四学年は一号生徒と呼ぶ ならわしとなっていた。 それはたとえば兵隊の階級でも四等水兵から古くなるにつれて三等、二等、一等と上 がって行くのと同じ感覚と思えばいいが、新米の四号生徒にとって一号生徒は絶対的 存在であった。七十期の入校当時の生徒数は一号(六十七期)二百四十八名、二号 (六十八期)三百一名、三号(六十九期)三百五十三名、四号(七十期)四百六十名 (病気その他で進級できなかった六十九期生が六名加わった)の合計一千三百六十二名 いて三十六個の分隊に分かれ、各分隊は各学年生徒が均等 に振り分けられた編成となっていた。

 「私が配属された四分隊を例にとれば、一号七名、 二号九名、三号十名、四号十二名の合計三十八名で構成されていた。この分隊が兵学校 諸基本単位で、自習室、寝室、食卓を共にし、一号生徒の指導の下に生徒の自治により 互いに切磋琢磨する場であり、旧制高校の寮の同室仲間とやや似た所であったと思う」 とは先の武田光雄の言葉だが、兵学校における分隊内の各学年をたとえて「鬼の一号、 むっつり二号、おふくろ三号、がき四号」といっていたように、一号と四号の関係は旧 制高校の寮の先輩後輩とは比較にならないきびしいもので、一号は絶対的な権威をもって 「がき」の四号をしごき、鍛えたのである。 出身校姓名申告はいわばその一号による最初のしごきであるが、そのときの模様を武田光 雄はつぎのように伝えている。

 出身校姓名申告というのは入校の日のメインイベントで、新入生の「娑婆気」を抜くため の最初の行事である。兵学校では何かにつけて「娑婆気」という言葉が出てくる。一言で いえば海軍という特殊世界の外の一般世間の仕来りとか考え方であり、三年間江田島で鍛 えられる間にこれが抜けて行き、海軍軍人としての人生観ないしは使命観が確立されて行くのだ。 自習室では前から下級生、上級生の順に前向きに机が並び、下級生は後方から上級生に監視 される形となっている。 午後六時二十五分、自習開始後間もなく、後方から「四号前へ出ろ」という野太い声がかかる。 四号は自習室の前に上級生の方に向かって一列横隊に並び、出身校姓名申告をすることになる。

 私が皮切りで、 「官立東京高等師範学校付属中学校出身、武田光雄」とごく普通に申告すると、途端に今まで やさしかった一号生徒の態度が豹変し、あちこちから、 「聞こえん」「やり直せ」の罵声が乱れ飛ぶ。二度目は大分声を大きくしたが駄目。三度目は 精一杯の大声を張り上げるが未だ駄目。こうなると長ったらしい学校名が恨めしくなる。四度目でやっ と合格。二人目以降は要領が分かったからいくらか楽だが、大抵三回から四回のやり直しを食った。 一番気の毒だったのは岩崎君である。「宮城県立古川中学校出身、岩崎芳光」だが、どうしても 「インワサキヨスミツ」と聞こえる。一号生徒の絶好の標的となり、「分からん」「日本語でやれ」 と何度もやり直しされると益々上がってお国なまりが出て来る。 色の白い温厚な岩崎君が顔を真ッ赤にして頑張り、六回目くらいでやっとパスしたと思う。 「あの鼻(はな)廻れば生徒館が見えるよ赤いレンガ(生徒館の外壁)にゃよ〜♪鬼が棲むよ〜♪」と巡航節に歌われるほど厳しい所であったようである。 一号生徒になるまではじっと我慢の子であったようである。四号生徒は最悪で、夜な夜な床については 泣いて居たと言われるほどの制裁があったようである。



























それも束の間夜風が吹けば

姓名申告すご面揃い

腰の震えを何としよう

お国なまりが恨めしい


  まさに「兵学校三勇士」の歌の文句の通りであった。 このとき出身校姓名申告で一号にしごかれた岩崎芳光生徒は、兵学校卒業後「高雄」「五十鈴」 「翔鶴」と乗り継いだ後、潜水艦乗りに転じ、昭和十九年三月二十四日、マーシャル方面作戦で、 乗艦の「伊三二」潜水艦がアメリカ海軍駆逐艦の攻撃を受けて沈没、戦死した。



満十七歳の菅野 直

海兵入団を祝い、旧友による送別会。菅野(前列中央)



菅野デストロイヤー

 昭和十八年二月一日、戰闘機専攻学生となった菅野たち三十七名(うち一名は六十九期) は、大分航空隊に入隊した。後に三四三空で共に戦うことになる林啓次郎、光本卓雄、 七十期では菅野に次ぐ撃墜スコアをもつ香取頴男らが一緒で、菅野の飛行教官は二号の とき同じ分隊の伍長だった岩下邦雄中尉(神奈川県鎌倉市在住)であった。 一号の岩下から見た二号生徒時代の菅野についての印象は、東北の人は朴訥蓼で無口だから目立たないが、彼も同様でどちらかといえばおとなし く、目立たないという点ではウチのクラスの林喜重と似ていた」というものであった。

 林 喜重 は岩下と同じ六十九期の戦闘機乗りで、後に三四三空で六十八期の鴛淵孝(おしぶち) や七十期の菅野とともに飛行隊長をつとめ、三人の中では一番先に戦死するが、あまり闘志 を表に現わさない穏やかな男であった。その林喜重と同じに見えたというのだから、少なく とも先輩の前では菅野は猫をかぶっていたことになる。 鴛淵も大分航空隊で学生の教官をやっていたことがあり、岩下はその鴛淵に操縦を習った。 そして岩下が実用機教程を卒業したとき鴛淵は実戦部隊に転出したので、その後任として 今度は岩下が教官になった。つまり、菅野は岩下を介して鴛淵の孫弟子ということになるが、 この弟子の操縦たるや紳士である二人の師のそれとは正反対の荒っぽさで、兵学校時代のおと なしい印象をくつがえすに充分であった。この辺から変貌してきて、後の菅野の勇敢さと荒さが形成されたのではないかと思うのである。

 大分空には零戦や九六艦戦があり、実用機教程の最初は九六艦戦を複座型にした二式練戦 (A5M4-K)を使って教官同乗のもとに離着陸からはじめ、なれてくると単座型で単独飛行と なるが、戦闘機だけに何といっても特殊飛行と二機で行なう単機空戦訓練が最大のハイライト だ。そしてこの空戦訓練で、教官の岩下中尉はそれまで抱いていた兵学校生徒時代とはまった く違う菅野の一面を発見することになった。 単機空戦には追躡運動、相手より高い高度から空戦に入る優位戦、相手より低い高度から空戦 に入る劣位戦、同高度で空戦に入る同位戦などがあり、これを教官と学生が一対一で交互に 立場を変えて行なう。

 大分空教官はいずれも一期か二期上のクラスで、しかも成績優秀なのが多い。現に菅野の 教官である岩下は兵学校では恩賜組、そして一期上の三十七期飛行学生では期トップ 優等受賞という輝かしい経歴の持ち主だ。教員とよばれる下士官たちも戦地帰りの強者揃い だから、学生はどうやっても勝てるはずがない。同位戦はおろか絶対有利なはずの優位戦で すら二、三回まわるとたちまち相手を見失なってしまい、気がついたら後にぴったりつかれ ていて、「ハイ貴様、撃墜」ということになる。はじめのうちは仕方ないとしても、 何回もやっているうちに負けず嫌いの菅野は段々口惜しくな ってきた。

 当時、日本海軍戦闘機隊では戦闘機同士の格闘戦を武士の真剣勝負に見立て、絶対に勝つ技 を工夫するという風潮があり、そうしたところから「ひねり込み」という独特の戦法が生 まれた。これは斜め宙返りの頂点で特殊な舵の操作をすることにより垂直面の旋回半径を極度 に小さくする方法で、操作が難しいうえにみんな自分の秘技としてめったに他人に教えようとしなかったから、もちろん学生にはできっこない。 (畜生、何とか教官に勝つ方法はないものか…) 考えた末に菅野が採った戦法は、何が何でも教官の飛行機に食いついて離れないようにする もっと極端にいえば、教官機に自分の飛行機をぶつけるように持って行く危険きわまりない方法だった。

 ある日、いつものように岩下教官と菅野学生は二機で大分空飛行場を離陸した。この日は同位戦 で、二機編隊で上がったあとバンクを振って互いに遠ざかり、反転して二機が向かい合ったとこ ろから戦技がはじまる。ふつうは対向したところで衝突を避けるために互いに反対方向に切り返 してから空戦に入るのだが、この日の菅野の行動はいつもと違っていた。正面から来る教官機を 避ける気配も見せず、突っ込んで来た。 〈危ない!〉 岩下が一瞬の間にかわして衝突を避けたが、この間にできたわずかな隙をついて菅野が追躡して 来る。それもまるで機体をぶつけるようにしてやって来るのだ。

 「追尾して来る菅野を見ていると、まるでガムシャラで、失速寸前のフラフラの状態になりなが ら食いついてくるので、私は前にいて非常に危険を感じた」実戦になれば追尾されている飛行機 にとってはここが逆転のチャンスなのだが、これは訓練であり、それに学生が事故を起こしては 困る。教官は訓練上の保安に関して責任があるので、危ないと思ったら操作をゆるめる。そこを 狙って菅野は教官機の後にピタリとつき、〈どうだ、勝ったぞ〉 と機上で快哉を叫ぶ。 地上に降り立つなり、岩下教官のカミナリが落ちた。「あれは一体、何だ。貴様とはもう一緒に上がらん」 そういって荒々しく立ち去る教官の後ろ姿を見ながら、菅野はニヤリとした。

 かって日本陸軍で試作戦闘機キ-44・二式単座戦闘機「鍾馗」)と、ドイツから輸入したBf109メッサーシュ ミットMe109戦闘機との空戦実験をやったことがあった。このときも優位戦、劣位戦などを日本側の ルールに従ってやることになっていたが、ドイツ側のテストパイロットである空軍大尉は、あらかじ め定められていたルールを無視した。不得意な格闘戦を避けて一撃離脱戦法に徹し、形勢不利と見 るや雲に隠れるという実戦的な方法を採ったから比較にならなかった。 しかし、よく考えて見ればきわめて合理的で、ヨーロッパ戦線で多くの実戦を経験しているMe 109のパイロットにしてみれば、最大限に自分の乗る飛行機の性能を生かし、利用できるものはあ まさず利用して勝つということしか念頭になかったのである。菅野の考えもまったく同じで、 一見、無茶苦茶で横紙破りのような彼の行動も、考えようによってはむしろ合理的だったといえ るかも知れない。

 空戦訓練には、このほかに実弾射撃もあった。といっても実機同士で撃ち合うわけにはいかないから、 曳的機の曳航する吹き流し標的に対して射撃を行ない、各自弾頭に色をつけ、吹き流しの弾痕の色に よって命中弾が識別できるようになっていた。射撃が終わると曳的機は飛行場に戻って未て、吹き流 しを指揮所の上で落とし、それを拾って色別に弾痕を数え、「菅野中尉、命中○○発」 「光本中尉、命中○○発」などとやっていた。(注、昭和十八年六月一日、菅野たち七十期は中尉に 進級) 菅野の射撃の成績はかなりよかったが、あまりにも吹き流し標的に接近しすぎて危険なので、菅野学生 のときは曳的機の搭乗員はヒヤヒヤだったらしい。

 とにかく菅野の行動には意表をつくことが多かったが、それだけによく飛行機を壊した。香取穎男によると、 「学生のうちに四、五機は壊している」 といい、そのせいで「菅野デストロイヤー」の異名は艦爆・艦攻の学生がいる宇佐航空隊にまで聞こえていたという。 そして彼が飛行機を壊すたびに、クラスメートたちは肝(きも)を冷やす思いを味わわされた。 一例を紹介しよう。大分空の飛行場は草原の真ん中にコンクリートの滑走路が一本あった。ここは平坦な舗装 路だからゴツゴツする草の部分に降りるより気分がいいけれども、左右の脚の間隔がせまくブレーキが悪 い。これはほとんどの日本機に共通した欠陥だったが、九六艦戦は引っくり返りやすく危険なので、 学生がコンクリートの部分に降りることは禁じられていた。ある土曜日、午前中のことだった。 午後は課業もなく、昼食が終わったらすぐ外出できる。航空隊に近い別府の温泉街には若い士官た ちにとって魅力的な場所がいっぱいあり、それぞれお目当て のS(エス=芸者の陰語)がいる。それを思うと、指揮所にいても何となく尻が落ちつかない。

 交代の飛行作業も終わりに近くなり、もうじき外出ができると学生たちが気もそぞろになったこ ろ、思いがけないことが起きた。九六艦戦の一機が、禁じられているコンクリート滑走路の上に悠々 と降りて来るではないか。「ヤ、あれは誰じゃ」「馬鹿め、着陸禁止のところに降りやがって。 引っくリ返ったらどうするんだ」指揮所で学生たちが口々にそういっていると見張りが、 「菅野中尉機、着陸しまーす」と大声で叫んだので着陸して来る飛行機の主がわかった。 案じていたとおり、その飛行機は着陸したとたんに片側にクルリとまわされたかと思うと、 逆さまに引っくり返り、そのまま火花を散らしながら滑走路上を三十メートルほど滑ってとまった。

 九六艦戦(零戦の出現いらい第二線機となり、もっぱら九三式中練から零戦に進む中間のステップ として使われていたが、教官が同乗できるよう複座に改造した専用の練習機型も併用されていた。九六艦戦は、 開放型のコクピットのため転覆の際の乗員保護とヘッドレストを兼ねた背びれが操縦席の後ろに設け られていた。しかし、着陸の際には前方視界をよくするため座席位置を上げるので、頭が背びれより上に出る。 それで引っくり返ったとき地面で頭をっぶされて死亡した事故をこれまでに何度も目撃していたから、学生たちは騒然となった。 <アー、これで海軍葬だ。午後の外出はフイになった……>いまいましく思いながらも、学生たちは一 目散に事故の場所まで飛んで行った。そして逆さになった飛行機の操縦席をのぞき込んだが、人影がない。 「いないぞ、どうしたんだ」すると誰かが叫んだ。 「や、あんなところにいやがる」見ると、いつの間に脱出したのか、ずっと離れたところに菅野がゲラゲラ 笑いながら立っている。

 狐につままれたような気持で傍に行ってみると、ひたいに大きなコブができていた。コブつきの幽霊なん ているわけがないと思いながら、 「貴様、どうしたんだ。おどかしやがって」 といささか怒りをこめて級友がたずねると、菅野がシレッとしていったという。 「オレは引っくり返るぞと思った瞬間、座席をいっぱいに下げて身体を縮めた。で、引っくり返って 滑って止まったから、背びれと地面の間のすき間からはい出して急いで機体から離れたんだ。 火が出てガソリンにでも引火したら丸焼きだからな」 それにしても、こうしたパニック状態における瞬間的な判断とそれに応じた素早い行動は驚異的 であり、菅野の優秀な空中戦士としての素質の片鱗を示すものといえる。 筆者は、かつて似たような話を、有名な撃墜王である坂井三郎から聞いたことがあると言う。

 まだ戦後の復興も十分でない道路事情の悪かった頃、地方のいなか道を走っていた坂井の 車が道路工事の盛り土に片車輸を乗り上げ、逆さに引っくり返ったままかなりの距離を滑って止まったこ とがあった。車の屋根はつぶれ、坂井は車内に閉じ込められたが、かすり傷ひとつ負わず無事だった。 引っくり返った瞬間、坂井は火が出ないよう車のエンジンキーを切り、身体を横に倒して身を縮め、 あとは運を天にまかせたという。

 こうしたエピソードと思い合わせるにつけ、菅野が後に 戦闘機乗りとして頭角を現わすようになったのは当然という気がする。 菅野が飛行機を壊したのはこのときだけではない。大分で同じ戦闘機の実用機教程を過ごした香取頴男 によれば、「九六艦戦を二、三機。ほかに零戦も壊したという。 いずれも着陸のときで、命とりになる離陸時の事故でないのがいかにも菅野らしい」 ということだが、まさに「菅野デストロイヤー」の名にふさわしい奮戦ぶりである。 それにしても、これだけ飛行機を壊しても飛行学生をクビにしなかったのだから、 帝国海軍もずいぶんおおらかなものだったようである。そして菅野の大者ぶりがうかがえる、ご立派の一言である。 大物たる菅野の由縁であり、三四三空時代のB-29を背面急降下で逆落としに突っ込んでいった事も十分うなづけるのである。

   菅野はのちに飛行学生、練習航空隊を通じてよく飛行機をこわし、 飛行学生同期で偵察を選んで宇佐航空隊に行った岩井滉三の耳にまで大分航空隊"菅野デストロイヤー" (破壊者)の名が聞こえていたという。「相当九六練戦をこわしたのではないか」(岩井)といっている。 菅野ら兵学校七十期生徒の航空実習に際しては、操縦では小川正一、 石見丈三両大尉をはじめ支那事変で勲功をあげた教官や教員があたり、座学でも発着装置、計器飛行 を担当した楠美正少佐、飛行要務の国定謙男大尉、それに整備術担当の士官なども優秀な人たちが 配されたことで、生徒たちの航空への関心はいやが上にも高まった。 これら教官の一人、小川大尉は菅野らの九年先輩にあたる兵学校六十一期の出身で、彼を有名にした のは支那事変での敵飛行機焼き打ち事件であった。

 昭和十三年七月十七日、第十五航空隊の艦爆、艦攻、艦戦合同の二十五機による南昌の新旧飛行場空 襲が実施された際のことだ。艦攻、艦爆両隊による爆撃が終わったあと、艦爆隊は撃ちもらした敵機 を殱滅すべく南昌旧飛行場を偵察したところ、地上に十二機を認めたので銃撃を加えた。ところが 低空に舞い降りてよく見ると、すべて巧妙につくられた囮機だった。そこで新飛行場に戻ってよく見 ると、先の爆撃したものも囮機だったことがわかった。 しかし、整然と並べられた囮機の中に点々として本物の飛行機があるのを見つけて爆撃隊は銃撃によ って数機を炎上させた。なお残る飛行機に銃撃を加えようとした小隊長小川中尉は、前方固定銃の 弾丸を撃ちつくしてしまったことに気づいた。

 僚機もまた同じ状況と判断した小川中尉は、完全な 敵機を残したまま帰るにしのびず、敵飛行場に着陸して旋回銃で焼き払うことを決意した。 まず小川中尉機が着陸、小隊の三機がこれに続いた。先の爆撃であいた無数の穴や障害物を避けな がら地上滑走をつづけ、旋回銃で焼き払ったり、着火しにくい敵機に対しては乗機から降りて夕 ンクに火をっけるなどして、残っていた七機全部をやっつけて離陸するという大胆な離れわざをやってのけた。 この間、僚機は上空にあって敵戦闘機を警戒するとともに、地上の敵兵の行動制圧に任じた。 もとよりこの勇敢な行動は快挙とよぷにふさわしいものだったが、ひとつまちがえば飛行機がやられてふたた び離陸できなくなり、あるいは人が傷ついて完全な兵器が敵の手に渡るおそれがあるところから以後厳禁され たが、当時の日本海軍航空隊の士気の高さを物語る逸話となった。

 こうした海軍言葉でいう行きアシのある(元気がいい、前向きな、の意味)小川大尉と、この点ではこれまた 天下一品の菅野との間で、空中の練習機上でどんなやり取りがあったかは興味をそそられるところだが、後に 戦闘機パイロットになってからの菅野の積極果敢な戦闘ぶりは、多分に小川大尉と共通するものがある。 小川大尉は明くる昭和十七年六月五日のミッドウェー海戦に、空母「加賀」の艦爆分隊長として参加して戦死、 二階級特進で中佐になった。座学を担当した楠美少佐も同じく「加賀」飛行隊長で戦死、中佐になっている。 飛行要務の座学を担当した国定謙男大尉一兵学校六十期一もすばらしい教官だった。 「話も上手だし、絵もうまかった。空戦の様子だとか母艦への着艦方法などを、黒板にみごとな絵をかいて生 徒を感心させた。その人がこれからは飛行機の時代だといったので、その影響で航空に進んだ者が多い」 と武田光雄は語る。

 才能に加えて人間的にも生徒たちの信望を集めた国定大尉は、その才を買われて後に軍令部の航空参謀となった が、終戦の日から一週間後に自決してしまった。 兵学校では上級生になると、航空以外にも水雷、砲術、航海など専門的な教育が加わり、航空実習や乗艦実習な どで、より具体的に学ぶ機会を与えるが、この間に生徒は自分の将来の進路を決める。それぞれの教官は自分の 専攻分野に優秀な生徒を引っぱリたいので、教育の合い間には自分の科の宣伝をするが、生徒の志望は教官の人 柄に左右されるところが大きいので、各科とも優秀な人材を兵学校教官に送り込むし、実習先の航空隊や軍艦で もそれなりの気を使う。

 兵学校生徒は今の求人戦争どころではない限られた金の卵であり、特に急速な増強がはかられていた航空は一人 でも多く志望者をふやすべく、その熱意はなみなみならぬものがあった。 生まれてはじめて空を飛ぶという貴重な体験をみやげに半月ぶりに兵学校に戻った七十期生徒たちは、にわかに 忙しくなった。というのは、本来七月のはずの六十九期の卒業が世界情勢、特に日米関係の緊迫化にともなって 四ヵ月早まり、三月二十五日と決まったからだ。 そこで三月二十二日には七十期会が開かれ、一号になるに際しての心構えや方針などが討議されたが、彼らの四 学年進級は五月末まで待たなければならなかった。それというのも六十九期の卒業が四ヵ月早まったために七十 期の学科の進度が追いつかず、やむを得ず四ヵ月の半分の二ヵ月だけしか進級を早めることができなかったから である。

 三月二十五日、六十九期三百四十二名が卒業したが、このあと五月三十日に七十期四百三十名が四学年に進級 六十九期より三名編入で計四百三十三名にたっするまでの約二ヵ月の間の出未事で、最大のものは草鹿任一中将の校 長就任だった。 生徒の自治を重んずる海軍兵学校で、最も影響力の大きいのはもちろん最上級の一号、その次が分隊幹事で、校 長ともなると雲の上のような存在だった。だから誰が校長になろうと生徒の関心は薄かったが、草鹿校長だけは 別だった。第二遣支艦隊司令長官に転出した前校長新見政一中将に代わって、草鹿中将が兵学校の校長に着 任したのは、昭和十六年四月十二日のことだった。

 散りかけた兵学校名物の桜に迎えられて着任した草鹿校長は、とかく抽象的、精神的な話が多かった歴代の校長 訓示の型を破り、開口一番、「君たちは何のために兵学校で勉強しているのか」と生徒に問いかけたのである。 これには生徒たちも意表をつかれたかたちで即座に答えが出ず、校長にうながされてやっと意見が出る始末だっ た。ひととおり元気のいい発言が揃ったところで、草鹿は「(兵学校教育の目的は)戦さに強い軍人をつくり上 げることにある」ときっぱりいった。そして、「単に強いだけではいけない。それにはまず正しい心を養うこと が第一である」とつけ加えた。

 草鹿は厳格な反面、人間味にあふれた人物で、訓練にもよく出てきて生徒たちとの接触を心がけていたから、 彼らから身近なおやじとして慕われ、軍規厳正な兵学校には珍しく生徒間では「任ちゃん」の愛称で呼ばれていた。 草鹿中将は太平洋戦争が始まると第十一航空艦隊司令長官兼南東方面艦隊司令長官としてラバウルに赴任した。 文字どおり南の第一線だったラバウルで、ガダルカナル攻防戦から終戦までこの重要な拠点を守り通したが、 この間、七十期生たちの多くが部下として直接草鹿の指揮を仰いだ。直接の部下でなくとも、七十期生たちは作戦 行動の途中、ラバウルに立ち寄ったときなどよく草鹿を訪れたが、いつもあたたかく迎え、励ましてくれたという。

 草鹿にとって七十期が兵学校長在任中に卒業式を行なった唯一のクラスということもあって、特に親近感を抱いて いたのは事実で、クラスヘッドの平柳育郎中尉(戦死後大尉)が駆逐艦「文月」の砲術長として、カビエン沖で敵 機約八十機との交戦で重傷を負いラバウル病院に入院後、草鹿長官はみずから病院に平柳を見舞い、その最後を見とっている。 菅野はラバウルには行っていないので卒業後は縁がなかったが、兵学校生活の最後の年に草鹿のような存在感のある 校長を得たことは、彼にとって幸運だったといわねばなるまい。そしてもし菅野がラバウルに行っていれば、必ずや" 第二の笹井" (笹井醇一少佐、 士官パイロットとして最高の撃 墜数を記録、ラバウルのリヒトホーフェンとよばれた)になったであろうし、彼の性格からしてもさぞや草鹿に 愛されたことと思われる。



昭和一七年一一月三日、明治節式典の際の記念写真。(中央が菅野)

昭和一七年一一月三日、明治節式典の際の記念写真。(中央が菅野)



未来の提督

 兵学校生活を一年近くもはしょり、二年十一ヵ月に短縮された七十期の 卒業生は四百三十四名だった。入校時の数が四百五十四名で、これに 六十九期からの編入六名を加えて四百六十名だったものが、途中で 六十九期からの編入や七十一期への編入などによる増減はあったものの、 卒業時に三十名近くも減っているのは、兵学校としてはじめて十二月一日 の入校となり、すぐ厳冬訓練に入った不運や、在校期間短縮による無理な どが重なったせいであり、彼らは戦場に赴く前からすでに苛 酷な運命を負っていたといえよう。

 この日、"恩賜の短剣"を授与された七十期のいわゆる恩賜組は成績の順に 平柳育郎(埼玉県浦和中学)、新藤尚男(同川越中学)、江本義男 (東京府立一中)、塩坂博(神奈川県横浜三中)、三浦節 (兵庫県加古川中学)、山下卯兵衛(香川県丸亀中学)の六名で、首席 (クラスヘッド)となった平柳育郎生徒が七十期生徒を代表して御前講演 を行なった。 戦前、七十期生徒の兵学校生活をえがいた『勝利の基礎』(海軍兵学校の記録) という記録映画が製作されているが、その中に恩賜の短剣を受ける平柳生徒の さっそうたる姿が映っている。

 大講堂での卒業式が終わると、七十期生徒たちは少尉候補生の身分となる。 御名代の高松宮をお見送りしたあといったん生徒館に帰り、卒業証書を受け 取ると用意してあった軍刀や候補生の帽子を着用して出直す。教官、職員、 在校牛式に参列した家族たちをまじえての簡単なパーティーのあと、そろっ て八芳園神社に参拝する。 すべての行事が午後二時頃に終わると、いよいよ別れのときだ。生徒館前か ら海岸の表桟橋まで並ぶ見送りの列の中を、挙手の礼を返しながら歩を進め て行く。

 もっとも晴れがましくかつ感動的なシーンであるが、これまで 六十七期、六十八期、そしてつい八ヵ月前に六十九期の先輩たちを見送っ て来たのが今度は見送られる側になってみると、呉軍楽隊の演奏するロン グサイン(蛍の光)のメロディーも、いっそう感傷をそそる。しかも、 それが遠洋航海ならぬ戦場への旅立ちともなれ ばまた格別であったのだ。 新候補生たちは桟橋に横付けされた内火艇と、これも候補生を運ぶ小型練習艦 「阿多田」に乗り移る。映画には去って行く「阿多田」艦上から別れを告げる 新候補生たちが映っている。

 そして、 岸壁に並び、海軍恒例の「帽振れ」で見送る教官や父兄たちの姿も…。特に 卒業生を見つめる草鹿校長のクローズアツプされた表情が印象的だ。その 面上には、愛する教え子たちをすぐ戦場に送り出さなければならない哀惜の ようなものが、ありありとうかがえる。 候補生を収容した「榛名」「阿多田」の出港までには若干の時間があるので、 この間に在校生た、は生徒館に戻って事業服に着替え、全員が軍艦の近くまで カッターを漕いで行く。やがて錨を揚げて「榛名」とか「明多田」が静かに動 き出すと、在校生たちの乗るカッターはいっせいにオールを垂直に立てる 「榛立て」(かいた)の礼で送る。

 この頃、豊後水道で訓練を終えた連合艦隊の主力は旗艦「長門」「陸奥」 以下が江田島の南にある柱島付近の海面、空母「赤城」「蒼龍」「飛龍」 および第二戦隊の戦艦群「伊勢」「日向」「山 城」「扶桑」などが九州佐伯湾に、空母「翔鶴」「瑞鶴」はすぐ近くの 別府湾などに分散碇泊しており、このほか呉、横須賀、佐世保の各軍港 に入っているフネもいた。 「榛名」の任務は、柱島および佐伯湾、別府湾にいる船に候補生を "配給"することで、配乗する候補生の数は重巡洋艦が一艦につき 十〜十五名、空母が五、六名、軽巡洋艦が二〜三名・残りが戦艦となっ ており、戦艦の場合は各艦二十名前後と最も多かった。

 いっぽう練習艦「阿多田」は、呉、横須賀、佐世保などに在泊中のフネに 赴任する候補生たちを乗せ、呉軍港と山陽本線宮畠口駅前の桟橋で候補生 たちを降ろした。艦艇の泊地に候補生を乗せたフネがつくと、信号で迎えに 来た内火艇に候補生たちは乗り込み、それぞれの艦に向かったが、なかには なかなか引き取りに来ない艦もあって付き添いの教官を やもきさせた。 菅野は他の同期生二十名とともに佐伯湾にいた戦艦「扶桑」乗り組みとなっ たが、ここで恩賜で卒業した平柳育郎以下の六人の消息について触れておくと。 阿川弘之著『軍艦長門の生涯』(新潮社刊)の下巻に、平柳や新藤らのこ とがのっているので少し引用させていただくと。

 『そのころ、新任の少尉候補生が二十一名、連合艦隊司令部附を命ぜられて、 長門に乗りこんで来た。 十一月十五日江田島を卒業した海兵七〇期の若者たちで、首席が平柳育郎である。 もとの長門電信員大沢武兵曹は、町の映画館で偶然、浦和中学時代の同級生平柳が 恩賜の短剣を拝領するニュース映画を見、まぶしい思いを味わった。 十二名の中に、平柳育郎と並ぶ恩賜組の新藤尚男候補生、戦後海上自衛隊で 暗号理論の研究にたずさわる小森日出夫候補生らがいた。二十一人の司令部附候補生は、 暗号電報翻訳の手伝いをさせられることになった。

 「一番で卒業するほどだから優秀だったにはちがいないが、平柳はいわゆるコチコチの軍人ではなかったらしい。 兵学校生徒は海軍機関学校や陸軍士官学校生徒も同じ在学中の冬季休暇には元旦の拝賀式に母 校を訪れるのがならわしだったが、その折り平柳は、「諸君はいたずらに軍人に憧れてはならない。 軍人は、一部の者だけが使命とすればそれでいい。我々はこれから海へ出て戦うが、諸君はそれぞれ 自分の志を貫いていただきたい」(宮崎三代治著 『江田島健児の賦』まつやま書房刊より)と、後輩たちに諭しているのだ。 自らは軍隊に籍を置く身で、しかも軍国主義一色に塗りつぶされようとしていた 時代に、」こうした意見を堂々とのべることはかなり勇気のいることだった。





紫電改二一型の原型機、中翼単葉の紫電十一型

紫電改二一型の原型機、中翼単葉の紫電一一型



 
 その平柳も他の多くの兵学校生徒同様、熱烈な航空志望だった。入校したときか ら航空に関心を抱いていた平柳は、二年生になった昭和十四年八月の夏季休暇を 利用して横須賀航空隊を訪れ、見学と同時に同乗飛行をも試みようとしたが、 天候不良で果たせなかったということもあった。 だかそれから二年後、昭和十六年九月の航空第二次身体検査後の航空志望調査では 「熱望」と書き飛行操縦者になることを望んでいた。ところが艦隊決戦思想にこり 固まり・大艦巨砲こそ戦いの主役であるとの考えが主流だった当時の海軍にあっては、 平柳のように兵学校での成績が特にすぐれた者は大艦の砲術士や航海士に配置されるな らわしだったから、航空に進むことはできなかった。

 その意に反し、「長門」「大和」「愛宕」と乗り継いだ平柳は、昭和十八年八月に 駆逐艦「文月」の砲術長としてソロモンの激戦地に向かい、昭和十九年はじめ来襲した 敵機約八十機との交戦で重傷を負った。 ラバウルの病院に収容されたかっての"教え子"平柳を見舞いに行った草鹿南東方面艦 隊司令長官はその日の日記に次のように書いている。 「文月砲術長平柳育郎中尉胸部及腹部貫通銃創にて重傷入院後間もなく戦死し、 見舞いに行きたる時はまさに火葬場に送らむとする間際なりしが、拝礼の後副官を 九三八空に派し級友に通知せしむ佐々木中尉直に病院に行き、他は火葬場に集まる 可く信号せし由なり。

 彼は七十期の首席として晴れの卒業式の光景なお記憶に新たなり。駆逐艦においても 大いに司令以下の信頼親愛を受け居りし由なるに惜しむべし」草鹿長官の計らいで ラバウルにいた同期生たちは平柳の最後に立ち合うことができたのであるが、 草鹿の文中にある佐々木中尉(正雄、神奈川県三浦町在住)は、卒業後、菅野と 同じ三十八期飛行学生となり、同クラスのテストケースとして飛行学生卒業後すぐ 激戦のソロモン方面に送られ、以後一度も内地に帰ることなく草鹿とともにラバウルで終戦を迎えている。 ちなみに平柳家には四人の男の子がいたが、「平柳育郎大尉(三男)に続いて、 昭和十九年四月二十八日には次男の三郎がマラリアをこじらせて戦地の病院で死去、 二十年四月一日には長男の誠が"阿波丸事件"に巻きこまれて台湾海峡で殉職、さらに 五月四日には四男の芳男が第六十振武隊長として沖縄へ特攻出撃、かくして平柳家の 若者たちは戦争のため皆死絶え、後には母親の錫生が唯一人とりのこされてしまった」 (宮椅三代治『江田島健児の賦』)という悲運の一家であった。

 平柳につぐ二番で卒業した新藤尚男は、「長門」のあと昭和十七年二月に潜水艦乗組に転じ、 「伊七潜」でキスカ撤収作戦に活躍し、「呂一〇五潜」を経て「伊五五潜」航海長となったが、 昭和十九年七月、テニアン輸送に向かう途中で消息を断ち戦死と認定された。 こうして七十期の首席、次席ともに戦死したが、このほか戦艦「比叡」配乗の塩坂博、戦艦「日 向」配乗の山下卯兵衛の二人も後に三十八期飛行学生として航空に進んだあと、それぞれ戦死 および戦傷死している。

 結局、七十期恩賜組六人のうち生き残ったのは、戦争末期に学校の 教官をやっていた江本義男一東芝バロティー二社長)と三浦節(東京船舶社長)の二人だけだった。 七十期の卒業式より十日前の昭和十六年十一月五日に、山本連合艦隊司令長官から、御前会議の 決定にもとづく「軍機機密、連合艦隊命令作第一号」という作戦命令が発せられ、十一月十三日 にはかって菅野たちが航空実習を行なった岩国航空隊で、この作戦に関する打ち合わせ会が開かれて いたのであった。いわゆる真珠湾攻撃作戦であるが、その後半年余りでミッドウェーでトラの子の 空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍を失い、敗戦への道を歩むこととなる。

 



菅野 直大尉の乗機、紫電改二一型

菅野 直大尉の乗機、紫電改二一型配色見本




嗚呼〜悠久の大義に敷島隊は征く

 ヤップでの大型機邀撃戦のある日、敵機来襲の報で菅野大尉は列機三機をひきいてヤップ 島第一飛行場を離陸した。 菅野に従うのは二番機、勢津賢三上飛曹(甲飛八期一、三番機笠井智一一飛曹(甲飛十期)、 四番機松尾哲夫一飛曹(甲飛十期)の三人で、いずれ劣らぬ菅野一家の元気者たちであった。 この頃、早朝から上空哨戒に上がっていた二機の零戦がいたが、そのうちの一機には、勢津、 笠井らと一緒にダバオ憲兵隊長をなぐった四人組の一人富田隆治一飛曹(甲飛十期)が乗っていた。 高度五千メートルに達した菅野編隊が希薄になった空気を補うため酸素マスクのコックを開いたころ、 地上の対空見張用電探(レーダー)から敵大型機の接近を報じて来た。

 ヤップ島、パラオ島は連日のようにB24「リベレーター」四発爆撃機による空襲をうけていたが、 それも決まって午前十一時半前後に定期便のように几帳面にやって来るのだった。 四機の零戦はゆるやかに旋回しながらさらに高度を上げ、七千メートルに達したときOPL照準 器のスイッチを入れ、機銃も発射準備を終えて戦闘態勢に入った。やがて、青く澄んだ南の空 の彼方にキラリキラリと白く光るものが見え、接近するにしたがって大型機の二群二十機編隊 が認められた。だが、この大型機はこれまで対戦して来たB24とは違っていた。 一番機の菅野大尉は無線の電鍵を叩いて"新大型機"の出現を基地に報告したが、これこそ アメリカが日本を屈伏させる切り札として開発した超大型爆撃機ボーイングB29 「スーパーフォートレス」であった。

 B29は占領したばかりのサイパン島アスリート飛行場から飛来したもので、この年の秋から予定さ れていたマリアナ諸島基地群からの日本本土空襲の訓練も兼ねてヤップ上空に姿を現わしたのだった。 これがB29であるとはまだ知らなかったが、B24よりひとまわり大きく、しかもズングリしたB24に くらべて胴体も翼もすんなり伸びた美しい形をしており、見るからに高性能を思わせた。 まず菅野編隊が攻撃を開始、つづいて先に上がっていた富田一飛曹たちの二機も攻撃に入った。 激しいB29の編隊火網が六機の零戦に注がれたが、それをかいくぐって零戦が一機また一機と B29編隊に突っ込んで行く。 「照準はよし、距離もよし、笠井は翼の二十ミリ弾を思い切り叩きこんだ。ダダダダダ…… 二十ミリ弾がB29に吸い込まれ、翼にも胴体にも大きな穴があいていく。だが落ちない。急所を それているからなのだ。

 敵の弾道を回避しながら第二の攻撃を開始する。射つ、当たる、だがいぜんとして落ちない。 笠井はあせってきた。さらに一撃を加えると、今度はB29の機体から白い煙が出た。燃料を噴 き出したのだ。『やった!』と切りかえして確認しようとした時、四番機の松尾が猛然とB29の 胴体下に潜りこんでいくのが見えた」(甲飛十期の記録『散る桜、残る桜』より) 菅野の三番機だった笠井一飛曹の経験したB29との初戦闘のさわりであるが、笠井が見た四番機 の松尾は、被弾して空中火災を超こしながら攻撃をつづけて一機撃墜した後、折りから海上に 浮上していた敵潜水艦に体当たりして自爆した。その状況を目撃した笠井は、あとで菅野隊 長にそれを報告したという。 富田隆治一飛曹もまた猛火に包まれた愛機を巧みに操縦して、敵第二群の指揮官機に体当たり を敢行、瞬時に撃墜したが、この二人の勇敢な行為は昭和二十年二月一日付で海軍省から公表 され、それぞれ二階級特進の飛行兵曹長に任ぜられた。

 なお、松尾と富田の戦死は七月二十一日 となっているが、翌二十二日にはダバオ事件四人組の一人である勢津賢三上飛曹もB24邀撃戦で戦死し、 残るは笠井智一だけになってしまった。 その笠井にとっては七月二十一日が菅野と編隊を組んで戦った最初の日だったが、この日以後、笠井 は菅野が死ぬまで行動をともにすることになった。勢津上飛曹が戦死した七月二十二日の戦闘では、 菅野大尉も負傷した。この日やって来たB24の編隊に対し攻撃を加えたが、なかなか墜ちないのに業 を煮やした菅野は、三回攻撃を反覆したのち四回目の攻撃でついに敵機に体当たりした。といっても そこは練達の菅野のこと、背面になって突っ込みながら右翼でB24の尾翼を引っかけたのである。

 B24の尾翼は水平尾翼の両端にほぼ楕円形に近い大きな垂直尾翼がついているが、それを破壊すれば 機体はバランスを失って墜ちる。そして、あわよくば自分は生き伸びることができる。だが、 F1レースの直線の倍近いスピードで、しかも自分の進行方向と直角の方向に移動しつつある目標 に対してそれをやるのは神技に近い。しかも、多少なりとも恐怖心がちらついたら、熟練したウデ は本能的に衝突回避操作をやってしまう。よほど豪胆な神経の持ち主でなければ難しい。回避か、 さもなくば衝突か。その中間のギリギリのところを菅野は狙って突っ込んだ。そして驚 くべきことに、菅野は狙ったとおりのことをやってのけたのである。

 菅野機の右主翼がB24の尾翼 の片側を粉砕し、その衝撃で菅野は失神した。右翼の半分を失った零戦はキリモミの墜落状態とな って降下したが、途中で意識を回復した菅野は右翼の半分を失った愛機を立て直し、胴体着陸でヤ ップの飛行場に滑り込んだ。もちろん、菅野が体当たりしたB24の撃墜は地上から見ていた人たち によって確認された。 ちょうどこの頃、ヤップ島には菅野と角田中学の同級で陸軍士官学校に進んだ南部信次陸軍大尉 が守備隊長としてパラオから派遣されて来ていたが、たまたま海軍の兵曹長と話をしているうち にこの勇敢な飛行隊長のことが話題になった。それが菅野であることを知った南部陸軍大尉はすぐに 海軍航空隊の指揮所をたずねたが、すでにパラオに引き揚げたとかで会うことはできなかった。

 飛行機と部下を三人も失ってしまった菅野は、生き残った笠井らとともに木造百四十トンの特設駆 潜艇に乗ってダバオに帰ることになったが、空に上がれば無敵の菅野も海には弱かった。まして 小さなフネとあって自信のない菅野は、船酔いの予防にと持ち込んだウイスキーの小瓶を一気に飲 んでしまった。 船は揺れる、アルコールはまわる、で早く酔ったのはいいが、同時に船酔いのほうも義理がたく 来てしまったから悲惨なことになった。パラオからフィリピンのダバオまでは、直線距離で一千 キロ近くある。零戦なら三時間足らずの航程だが、無線諜報によると途中でアメリカ機動部隊に遭 遇する公算が多いというので、まわり道をしたため距離が伸び、おまけに低速の木造駆潜艇とあっ て二昼夜近くかかった。この間、空の勇士はグロッキーだったが、陸地が近づくと元気を取りもどし、 別人のようになる菅野であった。

 ある日、玉井副長から「貴様、内地へ帰れ」 というと、彼は案に相違して頭を縦に振らない。  「もうじきフィリピン方面に大戦闘が起こります。いま内地に帰ると、この戦闘に間に合わぬかも 知れませんから自分は嫌です。どうか他の分隊長に代えて下さい」 そういって頑強にねばる。 私は、「故海軍少佐菅野直」だけのことはあるなあと思いながらも、引っ込むわけにはいかない。 「貴様の代わりに他の者を帰したら、それが戦闘に間に合わんじゃないか。他の者は皆一度ずつ 帰っていて、貴様だけがまだなのだから帰れ!」と嫌がるのを押しつけて無理に帰した。 ところが菅野大尉の予想通り、旬日を出でずして敵の本格的フィリピン進攻が始まり、 ついにレイテの上陸となって、大戦闘が起こってしまったのであった。




霞ヶ浦三八期飛行学生第二飛行隊前列右四人目が菅野大尉

霞ヶ浦三八期飛行学生第二飛行隊前列右四人目が菅野大尉。




散る桜、残る桜も散る桜



 菅野が内地に帰ったあと、フィリピンでの大規模な戦闘が開始され、関行男大尉以下 の特攻隊がつぎつぎに「必死」の攻撃に向かい、敵側に大きな衝撃を与えたが、 このことがよほど菅野の心に引っかかっていたらしく、後に彼が、「おれが関の ところをやるんだったんだがなあ……」と愚痴とも羨望(せんぼう)ともつかぬ 言葉をもらしたことがあった。事実、玉井副長の脳裏にも真っ先にその名がひらめ いたほどだったから、指揮官を決めたあの十月十九日夜、もし菅野が現地に居合わ せていたとしたら、最初の神風特別攻撃隊の指揮官はまちがいなく彼になっていた と思われる。もし指名にはずれたとしても、彼は他の者を押しのけてでもその役を 奪い取ったに違いない。

 愚痴ともつかぬ菅野のつぶやきを耳にした中島飛行長が いった。「馬鹿いうな。先にいこうと後でいうと、国につくす心は同じじゃないか。 貴様だって名声なんか少しも眼中に入れておらんだろう?」 すると菅野は、 「それはよくわかっていますが、やっぱり一番先にいきたいですものなあ」 といって、せっかくのチヤンスを逃した口惜しさをあらわにしていたという。 目立ちたがりやで、野心も功名心も鬱勃(うつぼつ)たる菅野にしてみれば当たり前であり、 彼にとっては何としても先頭でなければならなったのである。 中島は、その著書の中で、菅野と特攻について次のように述べている。

 彼の空戦技倆は抜群であった。そしてその卓越した技倆のために、彼は再三・特別攻撃隊員 を熱望したにもかかわわらず、隊員にはしてもらえなかった。彼はぎしても直掩隊や 制空隊にはなくてはならぬ存在だったのである。(中略)最後までその特別攻撃隊の 志願は容れられなかったが三〇一空の搭乗員がこぞって特別攻撃隊員となり、比島 (フィリピン)方面特別攻撃隊の中心となりえた一因には、彼の精神的な感化があず かって力あった、といわなければならない。 いずれにせよ、最初の特攻隊長になりそこねた菅野は、そのときは何も知らずに部下 十数人をつれて内地に帰っていた。

 彼の任務は群馬県太田の中島飛行機小泉航空機製 作所で完成したばかりの零戦をテストし、不具合を直させてフィリピンに持ち帰る ことであった零戦はもともと三菱航空機の設計になる飛行機だが、その図面をもと に中島飛行機でも生産していたもので新型の改良などに追われていた三菱より生産量 はむしろ中島のほうが多かった。同じ図面でつくられていたものの、両社の作る零戦に は微妙な違いがあり、三菱製ほうができがよかったというパイロットもいた。しかし、 この頃になると過大増産要求から不慣れな作業者が急増した結果、製造品質の低下には 各社ととも頭を悩ましていた。

 たとえば、日本の飛行機の多くは空気抵抗を減らすため、一機体の表面には沈頭鋲 (ちんとうびよ)という、表面が平らになるリベットが使われていたが、作業員が 未熟なためにリベットのかしめが不完全なもの がしばしばあった。空中にあがってテスト中にひどい振動が出たので驚いて降りて 来てしらべたところ、かしめたはずのリベットの頭がはずれて骨組みから外板が浮 いており、危うく惨事をまぬがれたというようなこともあったようである。

作業の質の低下とともに、もう一つの悩みは作業者のモラル(風紀、士気)の低下で、 それが製造品質を一層悪くしたり、納期を遅らせたりする原因の一つにもなっていた。 菅野は飛行機をすべて自分でテストし、不具合な個所をあげて修理を依頼したが、 思うように作業が進まず、しかもこの間にフィリピンの戦局は急速に緊迫の度を加 えて、十月十七日には敵がついにレイテ湾口のスルアン島に上陸したところから、 菅野の焦りは頂点に達したのだ。 そこで菅野は、飛行機の完成を待たず、すぐに帰隊したい旨の電報を二〇一空司令部あてに打っ た。しかし、本隊からの返電は「予定どおり飛行機を整備空輸せよ」というものであった。

 飛行場に面した工場の前にはテストを待って整備中の飛行機や、不具合な個所が直ら ないため領収されない飛行機が何機も並んでいたが、翼の下で何人かの工員が座って のんびり雑談していた。部品待ちか何かだったかも知れないが、作業の遅れにイライラ していた菅野が、これを見て怒りを爆発させた。 「オイ、そこらにある棒切れを持って来い。できるだけ節のあるようなのをな」部下に持 って来させた棒を下げて、菅野は座っている工員たちのところに行き、「貴様ら、 ちょっと集まれ。戦地ではどんな戦争やっているか知っとるか。ノソノソとこんなと ころでサボリやがって。どいつもこいつも今から根性を叩き直してやる」といって 片っ端から殴った。

 軍人が民間人を殴ってはいけないことくらい菅野も百も承知だが、 戦地ではノドから手が出るほど欲しがっている飛行機が目の前に ありながら、持って帰れないもどかしさが彼をしてこうした行為にかり立てたものだろろう。 こうしている間にも、中島飛行機小泉製作所ではテスト飛行も終えた完備機が十数機そろっ たので、それを持ってフィリピンに帰ろうとしたところ、台風の来襲で移動空輸ができなくなってしまった。 以下は、このときの菅野隊長についての、空輸員として菅野に同行した笠井智一上飛曹の思い出である。 「当時、私たちは産業報国会の別館に泊まっていました。台風が来て飛べないので、隊長から 『笠井はドンガラ(体格)が大きいから、今から横須賀の軍需部に行って酒保物品を三十人 ぶん受けてこい』といわれ、二、三人で取りに行きました。

 内容は当時、貴重品だった ウイスキー(サントリーの角瓶)、虎屋の羊羹(ようかん)、その他の日用品など でしたが、何しろ量が多いので受領して帰るとき、浅草雷門駅での電車の乗りかえで 大変困った記憶があります。 宿舎の産報別館には二十五、六歳と思われるきれいな寮母さんがおられました。 夜になるとその寮母さんを囲んでウイスキーを飲みましたが、私たちが邪魔になるのか 『オイ、遊びに行こう』といって引きつれて女郎屋に行き、みんなが上がったのを見届け ると、隊長は宿舎に帰って寮母さんと話がはずんだようでした」 そのあとはいうもヤボということだったらしい。

 菅野が内地にいたのは前後の往復を除き、十日から二週間ほどと思われるが、フィリピン のマバラカットに戻ったのは、関 行男大尉 のひきいる敷島隊が特攻に出た翌日の 十月二十六日と推定される。もっとも、その前に菅野は間違えてバンバン飛行場に 降りてしまった。バンバン飛行場はクラーク地区飛行場群の最北端にあり、 二〇一空指揮所のあるマバラカット西飛行場はその南西の少し離れたところに位置していた。 菅野はひとまず指揮所に行ってこの基地の司令に報告したところ、 「貴様だれだ。自分の部隊の飛行場をまちがえるとは何事だ」 と、ひどく叱られた。

 指揮所前に整列していた杉田や笠井たちが〈うちの隊長と知らずに、 あんなことをいって……〉 と、はらはらして見ていると、思ったとおり菅野の顔がプーッとふくれた。 (これは隊長、何かやるぞ!)以心伝心、列機の彼らにはぴーんとくるものがあった。 出発線につく前に飛行機の尻を指揮所に向けてならび、菅野の合図でいっせいにエンジン を全開したからたまらない。数機の零戦がまき起こすプロペラ後流が指揮所を襲い、 天幕を吹き飛ばしてしまった。 それを見てニヤリとした菅野は、長居は無用とばかり、さっさとマバラカットに向け て飛び立った。マバラカットの二〇一空本部では、司令、副長、飛行長以下全員が 菅野たちの帰着を待ちわびていた。

 空輸の途中、立ち寄った台湾からの電報 でそれを知った基地では、「あいつ帰ってくると、 きっと真っ先に『それ見たことか、はじまったじゃないか』っていうぞ」などと冗談をいい合って いた。案の定、飛行機から降りて指揮所にやって来た菅野が、何もいわれない先から、 「だからいわんことじゃない」 といったので皆がどっと笑った。 特攻攻撃が開始されてからのマバラカット基地は、当時のさる関係者によれば"陰々滅々"とい う感じがしたといわれるが、菅野の頼もしい空戦技倆や指揮官ぶりに加え、彼の持つ天性 の明るさが人びとの気持を和ませ、笑いをもたらしたのであった。

この当時、一航艦長官大西瀧治郎中将は最初、特別攻撃隊は敷島、朝日、山桜、大和の四隊の体当た り機十三機だけで、相当数の敵航空母艦のせめて飛行甲板だけでも撃破して一時使用不能とし、十月二十 五日に予定されていた栗田健男中将指揮の水上部隊のレイテ突入を可能にすれば、「捷一号」作戦 の勝機をひらく目的が達成できると考えていたらしい。 しかし、二十日以降、各航空部隊による連日の攻撃にもかかわらず一隻の空母も撃破できず、こ の問、出撃した特攻隊も敵艦隊を発見できずに空しく帰投を繰り返すという状況の中で、二十四日 には栗田艦隊が敵機の攻撃圏内であるシブヤン海に入るというせっぱつまった状況に追い込まれ、 大西中将は特攻の機数をふやさなければ目的を達することはできないと思うようになった。

 「捷一号」作戦成功の鍵をにぎる基地航空部隊の主力として、第二航空艦隊二百五十機の大兵力が 長官福留繁中将とともにルソン島クラーク飛行場群に進出して来たのは二十三日であった。そこで 一航艦長官大西中将は、さっそく福留中将に二航艦戦闘機隊の特別攻撃隊への加入を強く申し入れた。 従来からの大編隊による通常の攻撃を主張する福留中将はこれに反対し、意見の一致は難しいかに 思われたが、もっとも大切な二十四、二十五の両日に行なわれた二航艦二百五十機による攻撃が、 巡洋艦二隻と駆逐壁二隻を撃破したに過ぎなかったのに反し、二十五日の一航艦特別攻撃隊が、 敷島隊のわずか五機で空母一隻撃沈、同一隻撃破、巡洋艦一隻轟沈、さらに菊水隊の「彗星」 艦爆一機が空母一隻撃破一いずれも日本側の確認によるものという戦果をあげたという事実が、 事態を変えた。

 特攻攻撃に反対していた福留中将も熟慮の末に、二十六日の深更にいたって特攻受け入れを決心した。 この結果、北海道から本土、九州、沖縄、台湾を経て二十六日クラーク地区に到着した 北方部隊の戦闘機隊はすべて一航艦の指揮下に入り、その日のうちに特別攻撃隊に編入された。 翌二十七日、この新編特攻隊は菅野大尉にひきいられて、マバラカットを出発してセブに向かっ た。北方部隊から来た十三機も含めて十七機の零戦が、途中、マリンダック島上空にさしかかった際、 グラマン戦闘機十六機と遭遇して激しい空戦となったが、その十二機を撃墜し、味方は一機を 失ったのみという大戦果をあげた。

 この戦闘は、ほとんどが北海道からやって来たばかりで、しかも実戦経験の少ない混成部隊であり、 高度も敵が上方にあってこちらが圧倒的に不利であった。その不利な状況にもかかわらず、 劣位から立ち上がって果敢な戦闘をいどんだ捨て身の菅野の戦法が功を奏したもので、まれな例と してこの戦閾は横空が出した戦訓集にも取り上げられたという。 「この隊には、出発時に脚の上がらない機があったので、指揮官菅野大尉はすぐ帰投するよう 信号したのであるが、その機の搭乗員は指揮官を拝んで、ぜひ連れていってくれ、とついてきた。 まもなく敵に遭遇して激しい空中戦となり、菅野大尉はその機を守るためひどく苦労させられた、と帰 着後に話していた」。

 このときの菅野について飛行長だった中島少佐は『神風特別攻撃隊の記録』の中でそう述べてい るが、空戦ともなれば自分の身を守るだけでも精一杯なのに、故障機に乗った部下をも守った菅野 のやさしさもさることながら、戦さ慣れしたその余裕には驚かされる。ただ菅野には彼のためなら 命を捨てることも辞さずという杉田庄一上飛曹ら歴戦の猛者がついていたから、後方に敵機がつく のを気にすることなしに戦えた。 特攻攻撃は、ふつう特攻機とその掩護および戦果確認にあたる直掩機による小編成で行なわれた。 たとえば、第一神風特別攻撃隊で最初に戦果をあげた敷島隊の場合は特攻機五機、直掩機四機の編 成で、特攻機はいずれも直掩機と同じ零戦だった。

 「我々は、特攻精神をもって出発する。だから落下傘は着用しない」 菅野は出発にあたって部下にそう訓示し、直掩機の要員といえども落下傘をつけないよう命じたという。 前述のように、神風特別攻撃隊は最初の敷島、大和、朝日、山桜の四隊で終わるはずだったが、 一航艦長官大西瀧次郎中将がその継続と拡大を決意し、二航艦長官福留中将もこれに同意したことから、 二十七日には新たに純忠、誠忠、忠勇、義烈の四隊が生まれ、編成と同時に出撃した。 新たに特攻隊が生まれたことから、最初の敷島隊以下の四隊には第一の名が冠せられ、純忠隊以 下の四隊は第二神風特別攻撃隊と呼ばれることになった。このあと続々と新しい特攻隊が生まれる が、第二神風の諸隊は十月二十七日午後三時から四時の問に、それぞれレイテ湾やラモン湾東方海 面の敵機動部隊および艦船を攻撃すべく、マニラ市南郊の第一ニコルス基地を発進した。 このうち、午後三時半に発進した忠勇隊の三機には、菅野大尉以下八機の直掩機がついた。

 第二神風特攻隊の特徴はいずれも二人乗りの艦上爆撃機で編成されていたことで、急降下爆撃が、 専門であるこの艦爆特攻隊には多大の期待がかけられた。特に菅野が直掩を担当した忠勇隊は、新鋭の「彗星」だったからなおさらであった。 幸運にも忠勇隊は目標上空に達し、それぞれ目標を定めて突入を開始した。以下は菅野に従って この攻撃に参加した笠井智一上飛曹の話である。 「下からどんどん撃ち上げてきた。雲が多かったが、その切れ目から突っ込んだ。特攻機と一緒に 降下して、引き起こすとそのまま直進した。こちらは隊長に離されないよう編隊を組むのに精一杯 で、特攻機がどうなったかなどと見る余裕はない。やっと避退してセブに帰って来たときは、日が 暮れて真っ暗になってしまった。

 帰る途中、下を見るとあちこちでノロシがあがっていた。 帰りに隊長に聞いたら、『あれはゲリラの信号だ。お前ら、あんなところに不時着したら虐殺されるから 絶対に降りたらあかんぞ』といわれた。 飛行場に着陸しようとしたら、暗くてよくわからない。ふつうは着陸位置を示すカンテラがつく のだが、それをつけると敵の夜間戦闘機がやってくるので、つけてくれない。そこで全くのカンで降りた。 私は夜間着陸をやったことは初めてだったが、何とか無事着陸することができた」 着陸したあと、すぐ指揮所に行って飛行長に戦果を報告した。列機は何もわからなかったが、 さすがに菅野隊長は攻撃の様子をしっかり見ていた。それによると三機がそれぞれ目標に突入し、戦 艦、巡洋艦、輸送船を各一隻ずつ撃破した。

 しかし「猛烈な対空砲火と敵戦闘機の妨害で沈むとこ ろまでは確認しておりません」とっけ加えたのに対し、飛行長が「最後まで戦果を見届けずに帰る とは……」というような不満をもらしたことが菅野のカンにさわった。 〈命中を確認するだけでも大変だったんだ。あの凄い現場の実情も知らずに何をいうか!〉 菅野は怒りのあまり腰の拳銃に手がいき、暴発してしまった。 「ダーン」という乾いた発射音があたりに響き渡り、まわりの人たちは何事かとびっくりした。 報告を終え、敬礼して帰ろうとすると、菅野が顔をしかめていった。 「おい、ちよっと肩をかしてくれ。足が痛くてな」 笠井たちはそれで拳銃暴発の主が菅野であり、足の指先を拳銃弾で負傷したことを知ったが、菅 野が怒ったのはもっともであった。

 菅野がこの日、直掩に行った第二神風忠勇隊の隊長は兵学校一期上の山田恭司大尉で、操縦員は 笠井と同じ甲飛十期出身の野々山尚一飛曹だった。野々山一飛曹の操縦する一番機は最初に突っ込 んだとき降下角度が深すぎて機体が浮き、目標をオーバーしたために上昇してやり直し、二度目に 体当たりに成功した。 「特攻に行って、しかもあの激しい対空砲火の中でやり直しをするとは大した度胸だ」 菅野は笠井たちにそう語ったが、そうした崇高な最期よりも、目標が沈んだかどうかの確認だけ を気にするような飛行長の発言が、どうにも我慢ならなかったのである。

 敵の激しい妨害の中で体当たりするのはもちろん大変なことだが、その特攻機を目標地点まで護 衛し、突入を確認する直掩機の任務もそれに劣らない困難さをともなう。だから直掩機には特に技 倆の優秀な者が選ばれるのが通例であった。 十月二十五日の敷島隊の直掩機として戦果を確認した西沢広義飛曹長(後に中尉)などもその一人で、西沢飛 曹長はラバウル航空戦いらい数十回の空戦で撃墜八十機以上という日本海軍最高のエースだった。 敷島隊の直掩に出動した日もグラマンF6F二機を撃墜したが、直掩隊は搭乗機を次の大和隊に引 き渡すことになり、大和隊のいたセブに差陸し、そこから零式輸送機(米製ダグラスDC3を改造したもの)に便乗してマバラカットに向かっ た。ところが途中でこの乗機が敵戦闘機、グラマンF6Fヘルキャットと遭遇して撃墜され、 敢無く戦死してしまったのである。

 何度か特攻隊の直掩をやった菅野にも、似たようなことがあった。 やはり特攻隊の直掩を終えたあと、乗機を置いてセブからマバラカットに向け、輸送機に便乗し たときのことである。大小無数の島々から成っているフィリピンの中ほどにあるセブ島基地から、 二〇一空本部のあるルソン島のマバラカット基地までは、直線で六百キロ少々ある。だから、ほと んど敵の制空権下にあるこの空域で、武装のない輸送機が発見されずに飛ぶことが至難であること は、死んだ西沢飛曹長の例を見ても明らかであった。「西沢飛曹長、ラバウルなどで坂井三郎中尉らと活躍した日本のトップエースである。」 それでも運よく敵に見つからず、もう少しでマニラだというところで敵戦闘機と遭遇した。敵は 双胴の悪魔とよばれ、山本連合艦隊司令長官機を撃墜したアメリカ陸軍のロッキードP38だった。 こちらは一式陸攻を改造した輸送機で、ワンショット・ライターなどといわれたほどに燃えやすか ったこの飛行機にとって、P38の出現は絶体絶命であった。

 単機で、しかも非武装とあなどった敵はしつこく攻撃をくり返し、やがてあちこちに機銃弾が命 中しはじめ、撃墜されるのは時間の問題と思われた。 「もう駄目です。皆さん、覚悟して下さい」 輸送機の機長がそういったとたん、菅野大尉が怒った。 「馬鹿いうな。どけ、おれが操縦する」 というな否や、操縦員を席から引きずりおろし、自分が操縦桿をにぎったと言う。 戦闘機の操縦にかけては抜群の菅野も、双発の陸攻は初めてだったが、さすがに飛行学生時代、 練習機を何機も壊したり教官を青くさせたりという経験の持ち主だけに、その操縦ぶりは 大胆きわまるものだったようである。 やにわに降下して高度を下げ、山や谷をすれすれに、這うような飛行をはじめた。

 全速で、しかも地形をなぞるような菅野のスタントまがいの操縦に搭乗者たちは真っ青になったが、 もっと驚いたのは敵機の操縦者だったのではないか。鈍重であるはずの双発爆撃機が、戦闘機 顔負けの飛び方をする。しかも高度が低すぎるので、へたに攻撃すると自分が地面に突っ込むおそ れがある。上空から攻撃の機会をうかがいながら海上に出ると、今度はプロペラが海面を叩かんば かりに低く飛ぶ。 やがて島影が現われ、菅野が操縦する一式陸攻は滑り込むようにその海岸の砂浜に胴体着陸した。 すぐ全員が飛び出してジャングルに逃げ込んだが、その直後に飛行機はP38の銃撃で炎上してしま った。

 彼が滑り込んだ島は、戦後二十九年ぶりに小野田陸軍少尉が発見されて話題になったルバング島 だった。 ルバング島はルソン島の西南端の沖合約六十キロ、フィリピンの首都マニラから約百二十キロの 海上に浮かぶ小島で、ここには少数の陸軍の守備隊がいるだけだった。救出されて本隊のあるマバ ラカツトに帰るまで、何日か滞在を余儀なくされたと思われるが、期友で後に三四三空で一緒に戦 うことになった光本卓雄の次のようなエピソードを語っている。 「彼がフィリピンの一小島にある基地に駐留中、俺は『日本のプリンス・カンノ』だといって 現地島民の敬愛を集め、まるで島の王様のように過ごしたものだと、当時を懐かしみながら彼一流の話 術で面白く話してくれました。彼の茶目っ気とともに、気宇の壮大さを物語るものでしょう」 光本が菅野から聞いた話が、ルバング島での出来事かどうかは明らかではないが、いずれにして も菅野ならそれくらいのことはやりかねないだろう。

 十月二十五日の敷島隊の突入成功に始まる神風特攻は、その後二十六日、二十七日、二十九日、 三十日と連日のように実施された。そして一航艦だけでなく二航艦も加わるようになって、新しい 特攻隊が次々に編成された。このため、本来は本人の希望による志願が建て前の特攻隊貝の任命が、 一方的な上からの命令によることも少なからず起きた。こうした場合、その人選は指揮官にまかさ れるが、全員一緒ならまだしも、部下の中から一人とか二人さし出せといわれると、指揮官はつら い立場に立たされる。 十月三十日、セブ基地を発進した第一神風特攻葉桜隊の六機がスルアン島沖の敵空母群に突入し たが、一日おいて十一月一日、二五二空の角田和男少尉(予科練乙五期)はセブ基地から マバラカット基地へ零戦四機の空輸を命ぜられ、搭乗員三名とともに早朝セブを飛び立った。

 高度三千メートルでマニラ湾を通過した頃から、角田少尉の乗機の風防前面にオイルがポツポツ つきはじめ、それから二、三分後にはたちまち真っ黒になって、前方が見にくくなったばかりか、 エンジンも被弾したときのような激しい振動が始まった。マバラカット基地のあるクラーク飛行 場群へはあと十数分のところだったが、あきらめてマニラの手前のニコルス飛行場に不時着すること にした。 エンジンの振動はいよいよひどくなり、しかも白煙を吐き出して水平飛行も困難な状態になった。 そのまま着陸コースに入ったところでついにエンジンが停止してしまったが、滑空で何とか飛行場 に降りることができた。そのまま行き足がなくなり、滑走路の中ほどで止まったところ、整備員が 駆け寄って来た。

 原因はエンジンのシリンダーの一つに亀裂が入って不調となり、そこから洩れたオイルが風防を 汚したもので、火災を起こさなかったのが不思議なくらいだと整備員にいわれ、危うく命拾い したものと胸をなでおろした。恐らくシリンダーの材質不良によるものと思われたが、この頃の機 材には信頼しかねるものが多く、それが搭乗員や整備員たちにとって大きな悩みのタネでもあったのである。 列機が着陸して揃うのを待ち、迎えに来た車に乗って指揮所に報告におもむいた角田少尉は、車 から降りるやいなや指揮所から大声で怒鳴りつけられた。

 「馬鹿者、何で滑走路の真ん中に飛行機を止める。ここは内地とは違うぞ。すぐ飛行機を掩体壕に入れろ。 ぽやぽやするな!」 驚いて上を見上げると、床の高いバラック建ての指揮所には中将、少将、大佐級のお偉方がぞろぞろいて、 誰かがここの基地の指揮官が見つからない困ったなと思って居ると、先に怒鳴った士官が「俺が報告を 受けよう一と進み出た。大佐の階級章をつけ、参謀肩章のないところから、 どうやらこの基地の司令と思われたが、すでに多くの戦いを経験して来ている角田少尉から見ると、 あまり戦争慣れしていない様子がうかがえた。 (掩体壕まで操縦して行けるかどうか、着陸時の飛行機の様子を見ればわか冬つなものを、ちよっと頼り ない司令だな) そう思いながらも一応型通りの報告をすませ、その後の指示を受けるべく待機していたところに、 一人の若い士官が降りて来た。見ると、角田が厚木空時代に補習学生として教えたことのある菅野大尉だった。

 「分隊士・さっきはどうも気を悪しないでくれ。いきなり頭の上から白煙もうもうと噴きながら 着陸して来たものだから、すわ空襲かと見張りを怒鳴りつけるやら、司令部は防空壕に飛び込むやら で大騒ぎしたんだ。それでみんな気が立っていたもんで、悪かったな」 菅野は言い」て大佐の代わりに慰めてくれたが、そのあとの言葉を聞いて角田は傍然とした。 飛行機は当基地に置いて、陸路マバラカットに帰ること。ただし、当地でいま編成中の特攻隊に 一名欠員が出たので、この四名の中から一名を選抜して特攻隊員として残すようにというのであ る。不時着した先でそういれても、即座に返事はできないと思った角田は、「私の一存で決める ことはできません。マバラカットに飛行長新郷少佐がおられますから、許可を取っていただきたい」 と答えると、それもそうだな、といったん階上に上がって行った菅野が、しばらくするとふたた び現われて角田にいった。

 「分隊士、駄目だなあ。飛行隊の指揮系統は、所在基地の先任者がとることになっている。 ここに着陸した者は自動的にここの指揮官の指揮下に入ることになる。それで作戦に関しては、 二五二空、もマバラカットの飛行長も関係なくなるわけだ。 マニラの先任指揮官は一航艦長官の大西中将であり、ニコルス基地の指揮は直接長官がとられる。 これは長官の直接の命令なんだからどうにもならんのだよ」 気の毒そうにいう菅野に返す言葉もなく、さりとて部下三人の中から一人を特攻隊員として残し て帰ることなど、角田にはとてもできなかった。思いあまった末、自分が残ることを決意し、 帰隊したらこの状況を飛行長に報告するよう部下の先任に頼んで彼らを帰した。以下は 『二〇一空戦記』「二〇一空元隊員共著」「角田和男氏は自著作、光人杜・刊 零戦特攻に も掲載されている。」に寄せられた角田和男少尉の記述の抜粋である。

正午過ぎになって特攻隊の命名式が行なわれるからと、艦隊司令部に案内された。民家を徴用し たのであろうか、芝生の庭がきれいだった。ここで先着してきた尾辻(是清)中尉以下の隊員に紹介されたが、 あまりにも突然のできごとなので頭の中はがあんとなって、いたずらに緊張するばか りだった。そして私たちは神風特別攻撃隊梅花隊と命名され、同時に命名された聖武隊とともに尾 辻中尉の指揮下に入り、私はその中の直掩戦果確認機四機の隊長ということになったのである。 正面にずらり並んだ将官参謀方の数は我々十二名の隊員をはるかに超えている。一航艦長官大西中将、 二航艦長官福留中将、南西方面艦隊長官大河内中将と、こもごも立って訓示される。

 だが、 その言葉は一我々特攻隊員の心情とは)何か食い違ったものがあるような感じを受ける。ひと通り訓 示が終わると清酒が酌まれ、大西長官は右端の尾辻中尉より順次その前に立ち、皆の顔を見てまわ られた。そして私の前では、私の右手を両手でしっかり握り、喰い入るように鋭く見つめて、 「頼んだぞ」 といわれた。その胃は鉄鎚のように頭に響き、心の底まで見通してしまうような鋭い眼光にそ れまで抱いていた不平、不満、疑問も消し飛んでしまい、いよいよ俺も最後だなと覚悟した。

 この後三十分待機となり、これがずっと続いた。日没には宿舎のマニラホテルに帰り、日の出と ともに司令部の庭先の野天椅子で索敵機の情報を待つ。今か今かと一分一秒の時の流れが息苦しい。 しかし、皆落ち着いているように見える。無口ではあるが悩んでいるような顔は一つもない。 実に澄み切った心境が現われているようだ。私は、この人たちに遠く及ばないと感ぜずにはいられなかった。 梅花隊の隊長となった尾辻是清中尉は、兵学校も飛行学生も菅野より一期下の、まだ二十二歳七 ヵ月の若さであったが、角田が感動しているように実に立派な隊長だった。

 尾辻は直掩隊の隊長となった自分よりずっと年上の角田少尉に自分の財布を渡し、部下の特攻隊 員たちを適当に遊ばせてやってくれと頼んだ。 朝から小雨が降っていたある日の午後、その日は索敵機が出ないので待機を解くとの指令があり、 特攻隊貝たちは慰安所に行き、慰安婦たちとトランプに興じていた。様子を見に行った角田は、慰 安所の裏口に一人たたずんでいる尾辻中尉に会った。 「隊長も一緒に仲間に入ったら」という角田の言葉に尾辻中尉は静かに首を振って、 「私が行くと隊員たちが遠慮しますから」といいながらはにかむように微笑んだ。 「彼らとあまり年の違わぬその顔を見て私は胸がつまった。まだ二十歳をいくらも過ぎていない だろうというのに、特攻隊の隊長として徹し切っていて、無我無心の慈母観音といったような表情だった。

 戦後かなり経ってから東京世田谷に特攻観音が建立され、私も戦友に誘われてその除幕式に参列 したが、私はこの観音様よりも尾辻中尉のほうがずっと観音様らしい顔をしていたなと悲しく思い 出していた」 痛切な角田少尉の回想であるが、尾辻中尉と同期の生存者たちの集まりである「七一会」が編纂 した『同期の桜・海兵七十一期』によると、 「隊を編成した十一月一日以未、部下隊員の直掩にあたり、次々にその突入を見届けた十二日の午 後四時四十五分、僚機一機を率いて、直掩二機に守られながらセブ基地を発進した。 出発十五分後、セブの北方でP38と交戦し、直掩機はセブに帰ったが、隊長機は消息を絶ち、そ の最期を確認されることはなかった」 となっている。

 当時フィリピン方面で特攻作戦の実際の指揮指導にあたった猪口(詫間)力平・中島正両氏の共著 になる『神風特別攻撃隊の記録』には、十一月十二日に特攻七隊が出撃したが、このうち梅花隊は 特攻二機、直掩一機が出撃し、全機未帰還で「戦果ナシ」とある。 直掩に同行した菅野大尉によって、その最期と戦果を確認された第二神風忠勇隊の山田恭司大尉の ようなケースもあれば、この尾辻中尉のように次々に部下の最期を見届けたあと、みずからの 最期は誰に確認されることもなく死んで行った例も少なくない。

 山田大尉の場合は、特攻三機に対して菅野大尉を含む強力な八機の直掩機がついた。しかし、 尾辻中尉のときは隊長機も含めて特攻は二機、そして直掩機わずかに一機(または二機)というさび しい出撃であった。そして攻撃地点に到着する以前に敵戦闘機の待ち伏せにあい、消息を絶ってし まった。たとえ攻撃に成功したとしても、たった一機か二機の直掩機がぶじ帰還して、その戦果を 伝えることは恐らく不可能だっただろう。二十三歳にも満たない特攻隊長は、すでにそうした名利 をいっさい超越して、先に逝った部下の後を追うべく淡々と出撃したのであろうか。 特攻を語ることは悲しく、傷ましい。

 特攻の記録を見ると、関大尉以下の最初の神風特別攻撃隊の四隊二十二名のうち、菅野が隊長だ った戦闘二〇六飛行隊の隊員は三名で、あとの若桜隊、葉桜隊も含めると六名いる。しかしこれら の隊員は、いずれも飛行隊長の菅野が飛行機を取りに内地に帰って不在の間に指名されたもので、 フィリピンに帰ってからの菅野は、自分は特攻を申し出たが部下からは出さないようにしていたら しい。

 特に菅野が嫌ったのは、角田少尉が遭遇したようなケースで、本人の意志もそれ相応の心構えも なしにいきなり特攻に指名するような、搭乗員の気持をまったく無視したやり方であった。だから 菅野は、セブに飛行機を空輸して帰ったとき、部下の中から特攻要員として誰かを指名するように いわれたが、断固として拒否した。 上層部も、その抜群の技術を惜しんで菅野を特攻に出す気はなかったので、部下を出すくらいな ら自分が行くという菅野の申し出を受けるわけにはいかず、あきらめざるを得なかったということ があった。



96艦戦に乗り込む菅野 中尉

九六艦戦に乗り込む菅野 中尉。



集いくる精鋭



 特攻攻撃はその後もつづいており、そのまま推移すれば、いつかは菅野も直掩機ではなしに、特 攻機そのものとして出撃するときがやってくると思われたが、このころ中央では新しい動きが始ま っており、菅野は内地に呼び戻されることになった。 すでに二〇一空の主柱的存在になっていた菅野が、フィリピン戦線から引き抜かれたのは、内地 で編成する新しい戦闘機隊の飛行隊長に予定されたためであった。 その新しい戦闘機隊とは、当時、海軍航空作戦の主務参謀だった軍令部の源田実大佐の発想にも とづくもので、その部隊創設の意図と経緯を、源田は次のように説明している。

 「昭和十九年七月六日のサイパン玉砕に次ぎ、八月三日、テニアン「マリアナ諸島」も玉砕するにおよんで、戦局は ついに本土に及ぶ態勢に陥った。その間、私が頽勢挽回のために企画し実施した施策のすべてが志 と違い、ズルズルと後退を余儀なくされていった。私はつくづくと考えた。主役の海軍が、海上航 空戦で圧倒されているが故に今日の敗退があると。 軍令部の航空作戦主務参謀としての、またもう一つは海軍戦闘機隊出身者の一人としての私に課 せられた責任を果たすためにできること、そしてぜひともやらねばならぬことはただ一つ、敵に脅 威となる部隊を持つということだ。それができればその部隊の戦闘を突破口として怒濤のような敵 の進撃を食いとめ、頽勢挽回の緒をつかむこともできる。

 かくて出発したのが第三四三航空隊である。この航空隊はフィリピンにあったのを内地に引き揚 げ、戦闘三〇一、戦闘四〇七、戦闘七〇一の三飛行隊と偵察第四飛行隊を充当して、愛媛県松山基 地で編成し直すことにした。 各飛行隊長はそれまでの戦闘経験において闘魂、技量抜群であると認められる人々であり、その 下の搭乗員には若い人達もいたが、各編隊の核心となる者には、歴戦の古強者が相当数入ってい た」(『三四三空隊誌』より) 源田の構想によると、三人の戦闘飛行隊長には戦闘七〇一が兵学校六十八期の鴛淵孝大尉、戦闘 四〇七が同六十九期の林喜重大尉、戦闘三〇一が同七十期の菅野直大尉とし、偵察第四飛行隊(偵 四)はそのまま橋本敏男大尉(のち少佐、戦後航空自衛隊空将補)があてられた。

 いずれ劣らぬ歴戦の隊長たちであったが、最初の神風特攻隊編成のとき、その隊長の人選にあた って二〇一空副長だった玉井浅一中佐の脳裏に最初にひらめいたのが菅野であったように、 源田も部隊の構成を考えるにあたってまず菅野の名を思い浮かべたようだ。 源田はそれまで、直接、菅野に接したことはなかったが、すでに海軍航空部内にあっては彼の勇 名は知れ渡っていたし、どちらかといえば派手なその戦いぶりや日常の行動は源田好みともいうべ きものがあった。 偵四も含めて四人の飛行隊長の中では菅野の着任がもっとも早く、「三四三空戦時日誌」による と、菅野の着任は昭和十九年十二月二日となっている。そしてこのあと、日光安治、笠井智一、杉 田庄一、酒井哲郎、新里光一、飯田一、 らがフイリピンから戻って横須賀に集まった。

 米田伸也、山本精一郎らの隊員たちが、数次に分かれてフィリピンから戻って横須賀に集また。 つまり、三四三空は菅野を中心とした戦闘三〇一を核にスタートしたもので、新機種の審査および 実用実験を担当する横空審査部古賀一(はじめ)大尉の指導で「紫電」による完熟飛行がはじめられた。 「この頃の三〇一飛行隊の保有機は紫電一一型(私たちはJとよんでいた)が三・四機あるだけだった。 初めて間近に見る紫電はずんぐりした中翼、脚は二段引込式、なんと四枚プロペラでエンジンがいやに大きく、 翼には二〇ミリの銃身が四本もつき出ていて、見るからに強そうな印象を受けた。ただ胴体はかなりオイル で汚れていたので、ハハァこれは油圧系統に問題があるなと直感した。思ったとおり脚の出ないもの、 ブレーキの不調、空戦フラップの作動不良などの油圧系統の故障が多く、搭乗員や整備員が泣かされた。 それはともかく虻(あぶ)を思わせる紫電の姿に、だれかが隊長によく似ているなあといったので一同大笑い。 隊長も怒るわけにもいかず、苦笑するばかりであった。 古賀大尉から機内の説明と計器、性能などの説明書。物静かな中にも、これで貴様たちは大任を果すのだぞという気迫が、 その端々にうかがえた。この紫電にくらべると、それは乗りなれていた零戦がいやに弱々しく感じられてならなかった」(笠井) こうして一日目は座学と操作説明、それに機体になれるための地上滑走で終わり、午後から着陸訓練となった。

 古賀教官の説明では、(紫電)は零戦にくらべると翼面積が大きいため・失速速度が非常に大き く、背面錐揉(きりもみ)みに入ると絶対に回復しないから注意するようにということで、かなりの不安 と緊張があった。しかし、さすがに選ばれたパイロットたちだけに、初めての着陸も難なくこなし、 訓練は順調にすすめられた。 訓練が開始されてから一週間も過ぎたある日、オレンジ色に塗られた試作機が着陸した。紫電に 似ているが、胴体の中ほどから主翼の出ている紫電と違って低翼で、機体もかなりスマートになっ ていた。 それが「J改」すなわち「紫電改」であると聞かされ、隊員たちはそのまわりに群らがった。ちょうど今 の若者が新型車に強い興味を示すのと同じで、さっそく乗り込んで座席に座ってみると、前方視界もよくなり、 シートの座り心地も改善されていた。また左右に一挺ずつ翼下面に吊り下げ られていた機銃は翼内に収められ、給弾方式もドラム式からベルト式「金属製」になって、携行弾数も大幅に増加し ていた。

 飛んで見ると、一層その良さがわかった。 「Jの短所はほとんど改善され、J改は非常に乗りやすい飛行機になっていた。零戦にくらべても 舵の効きが心持ちおそいことや、縦安定に少々劣る感じは受けたが、どのような操作をしても無理 がきくし、舵の効きも、いったん効きはじめれば抜群であった。また、空戦フラップが、Gに応じ て出たり入ったりするさまは、珍しくもあり、またみごとなものだった。 引き起こしの際のGのかかり具合も、零戦とはまったくちがった。同じつもりで引き起こすと、 目の前が真っ暗になって意識がもうろうとしてくる。慣れるにしたがって目の前が暗くなっても、 "まだまだ"と意識して無理な引き起こしをしたこともあった。

 こんなとき、翼端から飛行機雲を引くことがあった。飛行機雲といえば敵のB-29だけだと思って いたが、そうでないことがわかった。その発生状況を見ると、小さい渦が霧のように翼の先端から 連続して発生しているのがわかる。それだけスピードが出るということで、零戦では味わえないこ とであった。 一機しかない『紫電改』は宝のようなもので、交替で乗るのが楽しくて訓練時間も大幅にオーバ する毎日であった」(笠井) ちょうどそんな頃、空襲警報が発令され、偵察にやって来たB-29の魅撃命令で横空から戦闘機が 一斉に飛び立ったことがあった。 訓練申の戦闘三〇一隊員たちも手近にあった飛行機で飛び上がったが、その一人、笠井智一は上 昇途申でどうも勝手が違うと思ったら紫電に乗っていたというが、すかさず宝物のオレンジ色のJ 改で上がった素早いのもいたという。

 それにしても、きわめて短期間にここまで紫電や紫電改をのりこなした彼らの技倆もかなりのも のであったようである。これもベテラン古賀教官の指導と、勇将菅野隊長にひきいられていたせいであろう。 はからずも、これが三四三空戦闘三〇一飛行隊の初の戦闘行動となった。もっとも、このときは まだ三四三空は正式に発足していなかったが。 このころから、フィリピンの戦場や内地の各部隊から二人、三人と転勤者が集まってきた。甲飛 十一期の浅間六郎、大森修、西村誠一以上戦死一、特乙一期の伊沢秀雄、深山喜一、桜井和彦、丙 十四期の沖本堅、それに宮崎勇少尉らが加わった緒果、隊員も十数名にふえたので、ある朝、訓練 前の整列で菅野大尉が全員を前に三四三空の全貌について話をした。 笠井智一によれば、それは次のような内容であったという。

 「われわれ三〇一飛行隊は"新選組"というニックネームで呼ばれることになったが、この隊名は 久邇宮殿下の命名であること、源田司令は来年一月に着任されること、また当初の直掩任務は二 五二空の零戦隊が受けもち、三四三空は紫電改の制空隊となること、などを初めて聞かされた」 菅野はあまり意味のないことはいわない。仙台弁とも少し違う角田(かくだ)なまりはあるものの、歯切れ のよい簡潔な表現で要点だけを伝えた。

 「昭和十九年八月、当時、第四〇五航空隊付大田光男少尉が、一式陸攻の胴体下に超高速力の単座 小型強力爆弾滑空機を携行して、敵艦船から数十浬離れた上空でこれを離脱発進させ、敵艦に体当 たりして撃沈する特攻機の製作を上司に提案したのが起源である。本機は提案者の姓名にちなんで ○大(マルダイ)部品という秘密名称が与えられ、その試作が空技廠(海軍航空技術廠)に発令され た」 菅野が語った○大について、『日本海軍航空史編纂委員会編・日本海軍航空史』(時事通信社刊)の 第三巻「制度・技術篇」の中に、その生まれたいきさつがこう書かれているが、一トン前後の弾頭 をつけて敵艦船に体当たりするいわば有人滑空爆弾であった。 のちに「桜花」と名づけられたこの持攻機は、空技廠技術陣の超人的努力の緒果、一ヵ月足らず で試作機が完成し、同時に部隊も編成されて十一月中旬には訓練が開始されていた。

 笠井がフィリピンからと内地に帰って菅野と再会したとき、彼らの任務について聞か されたのは「新編成の三四三空で、新兵器の○大という親子飛行機の護衛」だったという。そして他 の隊員たちとともに、シートをかぶせて置かれてあった秘密兵器の○大を見せてもらった。 戦闘三〇一飛行隊が○大の直掩から、源田大佐が三四三空編成の際に発想した制空権の奪回を目的 とした制空隊に変わったのは、本筋に戻ったといえるものであった。 格好をつけることの嫌いな菅野は、指揮官としての話を終えるとすぐふだんの口調にもどり、部 下たちにこういった。

 「どうもここ(横空)はせまいし、それに何かと窮屈でいかん。もう慣熟飛行もひと通り終わった ことだし、どこかいい基地を探さにゃいかんなあ」 それ以前の「彗星」(艦上爆撃機)や「銀河」(双発の陸上爆撃機の時もそうだったが、新鋭機の 部隊編成にあたっては、操縦や取り扱いなどを横空で部隊の基幹要員に教え、そのあと別の基地に 移って本格的な部隊としての錬成を行なうことになっていた。だからいずれはよそに移るにしても、 菅野は早く横空から出たくて仕方がなかった。 横空の飛行場はせまいだけでなく、新鋭機、新兵器の実験を担当する横空審査部や他の部隊、そ れにひっきりなしに各基地から連絡に飛来する飛行機で錯綜していた。

 訓練にしても、慣熟飛行程 度ならその間隙をぬって何とかやれるが、本格的な戦闘訓練、それも大規模な編隊空戦訓練などに なると、まったく無理だ。しかも横空は海軍航空隊の総本山であり、横須賀鎮守府管下とあって最 も規律のやかましいところであり、これも菅野の性に合わない。 そこでワイワイやって候補に上がったのが、比較的空いていると思われる四国松山基地だった。 「じゃ、オレが見に行って来よう」 そういって紫電改で気軽に飛びたった菅野は、その日のうちに帰るはずが、一泊して翌日の昼ごろ戻ってきた。 「オイ、松山に決めたぞ」 開口一番、菅野は上機嫌でそういったあと、行ってきた様子を彼らしいおどけた調子で語った。

 それによると、もちろん基地としての条件もさることながら、飛行場近くの大西さんという土地の 名士の家で歓待されたことですっかり気に入ってしまったらしい。 正式に基地移動の手続きをへて、ダグラス(DC3を国産化した零式輸送機)、零戦、紫電、 二式練習戦闘機などに分乗して全員が松山に移ったのは、それから間もなくであった。 記録によると、「三四三空は昭和十九年十二月二十五日、松山で開隊」となっている。 そして基地を訪れた豊田副武聯合艦隊司令長官は、搭乗員一人一人に「頼むぞ」といいながら握手した。 それには、この戦闘機隊をもって制空権奪回の端緒としたいとする全海軍の熱い願いと期待がこめら れていたのである。

 孤軍奮闘のかたちだった戦闘三〇一飛行隊であったが、一月に入ると戦闘七〇一飛行隊の隊員た ちが少しずつ集まって未たし、そこに宮崎基地から移ってきた撃墜王の坂井三郎少尉(元、台南空のエース撃墜数六十四機)が加わるなど にぎやかになった。 坂井三郎少尉はガダルカナル攻撃の際に負傷して片目の視力が低下したため戦闘は無理だったが、 豊富な飛行経験を生かした教え方は評判がよく、その赫々たる戦歴とともに若い搭乗員たちに 心技両面にわたって影響を与えた。 坂井に対する旧搭乗員仲間の評価はいろいろだが、ある隊員が「戦闘七〇一の飛行事故が他の隊 にくらべて少なかったのは坂井さんの上手な指導のおかげ」といっているように、源田がベテラン 坂井に期待したのも、むしろそうした貢献にあったのではないか。

 一月八日、戦闘七〇一飛行隊長鴛淵孝大尉が着任した。海軍兵学校六十八期、菅野の二期先輩に あたる鴛淵は、坂井が負傷して内地に帰るのと入れ違いにラバウルの台南空に着任し、激烈なソロモン 航空戦を生き抜いたのちフィリピンに転戦し、タクロバンの敵上陸地点攻撃のさいに地上砲火で足 を負傷したため、内地で療養生活を送っていた。 気性が激しく行動的な菅野を「動」とすれば、温厚な鴛淵は対照的な「静」であり、これは部隊 のチームワークにとってきわめてうまい人事配置であった。鴛淵が菅野と同じようなタイプだった ら、おそらくもめごとが絶えなかったに違いない。また鴛淵は先任飛行隊長となったが、もし菅野 が先任だったら三四三空全体はどうなったであろうか。そう考えると、鴛淵も菅野もそれぞれ所を得 た配置だったというべきだろう。

 鴛淵隊長や坂井少尉が着任して戦闘七〇一飛行隊の訓練もボツボツ始められたが、先に来ていた 戦闘三〇一飛行隊の訓練はそのピッチをいっそう早めた。 鴛淵大尉が着任した二日後の一月十日にはそれまでで最多の実に延べ七十八機が編隊訓練飛行を 行ない、やがてそれは大編隊同士の空戦訓練に進んだ。つまり、この時点では二個戦闘飛行隊の中 では戦闘三〇一の仕上がりが格段に早く、このことが菅野隊長の大胆な指揮ぶりとあいまってのち に戦闘三〇一が最も沢山の撃墜数を記録する結果にもなった。 鴛淵戦闘七〇一飛行隊長につづいて、一月十四日に飛行長志賀淑雄少佐、そして五日おいた十九 日には司令源田実大佐が着任した。

 「源田司令は准士官以上の出迎えを受けて着任された。黙々と報告を受け、言葉少なく語られて余 談なし。要の堅い扇の如く空気にわかに引き締まる。夕食後の一刻、士官室で隊長達と語られる笑 顔は慈父のようであった」 飛行長志賀淑雄少佐は司令着任の日の様子を『三四三空隊誌』にそう記述しているが、海軍部内 に令名高く、しかも戦闘機乗り出身の源田司令の着任は、部隊の中に緊張と興奮をもたらした。 海軍大尉として横空戦闘機隊分隊長だった当時の源田は、優秀な下士官搭乗員の列機とともに三 機編隊の華麗な特殊飛行を各地で披露し、「源田サーカス」の名で広く知られるようになった。も ともとこの編隊特殊飛行は、源田の前任者だったイギリス帰りの小林淑人大尉(のち大佐、海兵四 十九期。源田は同五十二期)が編み出したもので、それを源田実、岡村基春両大尉「後の第271航空隊・神雷部隊司令長官」が受け継いだので あるが、なぜか源田のほうが有名になってしまった。

 当時は愛国運動が盛んで、陸軍が愛国号、海軍が報国号の名で飛行機がさかんに献納され、その 献納式が各地にある飛行場で行なわれた。ちょうど今の航空白衛隊のアクロバット飛行チーム「ブ ルーインパルス」が各地の航空祭などでやっているように、報国号の献納式には横空の「源田サー カス」が出場して式典を盛り上げた。 源田はその後、参謀や軍令畑に進み、一線の航空隊勤務からは遠ざかったが、彼自身は戦闘機パ イロット出身であることを誇りとし、その思いが軍令部を出て一航空隊の司令として再出発するこ とを決意させたと考えられる。そうした背景が、"黙々と報告を受け、言葉少なく語られて余談な し"であったにもかかわらず、"要の堅い扇の如く空気にわかに引き締まる"と飛行長の志賀少佐 をしていわしめたように、個性豊かな搭乗員たちを一つに結集させたといえよう。

 源田は隊員の気持を引き締めるため、士官たちの長髪を禁じ、全員に遺髪と切った爪を用意させ たが、源田司令の着任を、もっとも喜んで迎えたのはほかならぬ菅野だった。奔放な菅野のコント ロールは、なまじっかな司令ではつとまらない。権威や階級をタテに押さえつけようとすれば猛然 と反発するし、といってまったくの放任では軽蔑される。その辺の緩急をうまく使いわける手綱さ ばきと同時に、それを可能ならしめるには菅野を心服させる人間的魅力を持ち合わせていなければならない。 「最初に会った印象は傲岸不遜な男といった感じで、あとから来た戦闘七〇一飛行隊長の鴛淵大尉 や四〇七隊長の林喜重大尉がきわめて紳士的であったのと好対照だった。

 菅野は、気に入らなければたとえ上級者といえども上級者と見なさないというようなところがあ り、その意味では異色の存在だった」 先に松山基地に行って受け入れ準備して菅野らを迎えた三四三空整備分隊長簸品名淳大尉 (機関学校五十期)の話であるが、 こんな話がある。 少しあとのことだが、三四三空が松山から九州の大村に移る間、一時、鹿児島の第一国分基地に いた。ここには温泉があったので、ある夜、菅野は部下の宮崎少尉をつれて隊を脱け出し、温泉旅館に行った。 一杯やったあと温泉に入ったが、湯気がもうもうと立ち込める広い浴槽には人影もまばらで、二 人はいい気分で大声でしゃべりながら湯につかっていた。ところが、しばらくして湯けむりがうす れ、人の顔がはっきり見えるようなったとき、二人は仰天した。何と彼らのすぐ近くにいたのは他 ならぬ源田司令だったからである。

 大目に見てもらっているとはいえ、脱外出は明らかに軍規違反である。それに余人ならまだしも 管理最高責任者である司令とハチ合わせするとは運が悪い。そう思って恐縮する二人に源田は笑い ながらいった。 「温泉はいいのう。気をつけて帰れよ」 これでまた菅野が、いっそう源田に頭が上がらなくなったことはいうまでもない。 この辺が源田の人の使い方の旨さであろう、さすが聯合艦隊飛行参謀長を務めただけの度量があったといえる。 「しかし、この源田という司令は良く分からん人間感である。カリスマ性もあるが、突然の強引さも持ち合わせた 司令官であった。海軍の航空機の進歩を妨げたのも、かれの航空機に対して考え方の偏見が大いに影響しているのである。 同期の柴田武雄大佐の意見を海軍上層部は受け入れず、すべて源田案を採用したためである。上層部受けの良い人間だったようである。 しかし、実戦経験はまったくないのである。戦闘機無用論もかれが持ち出した意見であったが、このお蔭でどれ程の爆撃機が犠牲になった事か、 この件だけでも相当の責任がかれにはあるのだ。」 このことについて、角田中学から菅野と一緒に兵学校に進んだ期友の小島光造は、 「菅野には既存の秩序に逆ってそれを打ち破ろうとしていたようなところがあったようである。だから規則に うるさい上司だったら、菅野は秩序を乱す不届者として見られ、彼自身くさってしまったかも知れない。人は扱う人間によって良くも悪くもなるのである。

 源田さんはその点をうまく見抜き、とにかく戦闘に勝ってくれればいいんだと細かいことは一切いわなかった。 菅野もそうした源田さんの知遇にこたえて、戦闘では抜群の働きを示した。 今、日本の社会では活力をいかに引き出すかが問題になっている。偏差値教育が徹底した結果、 既存の組織と秩序の上に乗っておとなしく働く人間だけが歓迎される結果、企業にしても活力の低 下に悩むことになった。だから、これからの社会にはいろいろ個性的なくせ者も必要であり、そう した集団を束ねていかに活躍させるかが、優秀な管理者の手腕ということになるであろう。  源田さんと菅野の間にはまさにそれがあった、と思う」。

と語っているが、菅野と部下の間柄も同様であった。部隊切っての暴れん坊だった杉田庄一が菅野にほれ込み、 少しでも隊長の悪口をいおうものなら、その人間になぐりかかったというのもうなずけよう。ただ源田の場合は、 いちおうそれがよりよい結果をもたらすと思考した結果であるのに対し、菅野はまったくそうした意識もなく、 その自然な行動の結果が部下をして心服せしめたというところが異なっていた。 菅野はあまり細かいことをいわなかった。その指示は単純明快であり、最もよく実情に即する方 法をとった。 昭和十九年十二月のはじめ、松村正二大尉が、まだ横須賀航空隊で訓練していた戦闘三〇一飛行 隊に着任したとき、開口一番、菅野が松村にいった言葉は、「あいさつ代わりに古いパイロットを なぐれ」であった。 いわれた松村はびっくりしたが、これには菅野なりの思惑があったのである。

 松村は兵学校は菅野の一年後輩だったが、飛行学生は二期あとの四十期で、昭和十九年六月に卒 業した。あと教官として残り、筑波、百里、谷田部空などで練習生に操縦を教えていたが、すでに 燃料事情が切迫して飛行訓練もままならない時代となっていた。しかし、とにかく空を飛びたい一 心の松村は、飛行機の運び屋を買って出た。青森に海軍の航空廠があり、そこで整備した飛行機を 霞ヶ浦航空隊まで運ぶのだが、そんなことを三回ほどくり返したあと、今度はフィリピンヘの飛行 機空輸を命じられた。 「飛行記録を見て、松村さんは実戦経験もないし飛行時間も少ないなと思った。四番機の西村も 験が浅いし、三番機の今井が少々あるくらいで、私が経験は一番の経験者だった。

 四機が一つの集団としての力を発揮するためには、技倆と同時に四機編隊の心がぴったり合わな ければいけない。たとえば頭を傾けたとか、手のちょっとした動きとか、飛行機の動きなどで一番 機の意志が読み取れるようにならないと、渾然一体(こんぜんいったい)の行動はできない。 そこでまず基本になる編隊行動の訓練をやり、各人の性格やクセもわかってチームワークもでき てから、編隊による空戦訓練に入る。それをやらずにいきなり編隊空戦をやると、空中衝突などを 起こす。編隊訓練をやってみると、果たしてバラバラになったので、訓練のあとの研究会で僭越 (せんえつ)な がら松村さんに注文をつけたと彼はいう。

 『自分が一機ならどうにでも動けるが、一番機に急に動かれると、列機は振りまわされて移動が大き くなります。だから編隊長が動くにも呼吸があるんですよ。さっきの訓練ではついていきにくかっ たから、今度はもう少し遠まわりして下さい』 上等飛行兵曹のいうことを、大尉で分隊長の松村さんは素直に聞いてくれ、次からは悪いところ を改めるよう努力したという。 松村さんは決していばったり、高飛車にものをいったりしなかったし、さりとてお世辞をいうわ けでもなかったが、部下はみんな信頼してついていった」 菅野とは経歴も性格も違う松村は、彼自身のやり方で部下の心をつかんだのであった。

 一番早く松山基地にやって来た戦闘三〇一飛行隊につづいて、昭和二十年一月早々、 鴛淵孝大尉の戦闘七〇一飛行隊が戦列に加わったが、残る一つの戦闘四〇七飛行隊は、まだ鹿児島県の出水基 地で訓練を続けていた。 飛行隊長は海軍兵学校六十八期鴛淵七〇一隊長と同七十期菅野三〇一隊長のちょうど中間にあたる、 六十九期出身の林喜重大尉で、鴛淵、菅野両大尉がそれぞれ戦闘七〇一および戦闘三〇一飛行隊長 になってまだ日が浅かったのにくらべると、林は昭和十九年三月十五日に戦闘四〇七飛行隊長兼分 隊長に任ぜられて以来だったから、隊長と隊員たちの結びつきは最も強かった。 林は昭和十八年二月に大分航空隊での戦闘機専修学生の課程を終えると同時に豊橋基地で錬成中 だった二五一空に配属され、一期先輩の鴛淵孝中尉とともに五月にラバウルに進出、ガダルカナル 攻撃を初陣に以後ブイン邀撃戦、ムンダ、レンドバ島攻撃戦など、ソロモン戦線で十数回の出撃を重ねた。

 二五一空には鴛淵と兵学校同期の大野竹好中尉が先任分隊長をしていたが、六月十五日、ラバウルから ブーゲンビル島北端のブカ島の基地に零戦二十七機を率いて進出した。大野はそれから二週 間後に戦死するが、彼の遺書の中にたまたま林のことが出ているので紹介してみたい。 この夜、二五一空の士官たちは入手した貴重な一本のウイスキーを皆でなめながら、魅惑的な南の夜空を 仰いで星座について語りあった。 「しかし、これらの話は海軍士官の、特に飛行機乗りの話としてはそんなに永つづきしなかった。 まもなくあれが星でなく金平糖であったらとか、最近五、六年、金平糖など食べたことがないと大 宅中尉(注、秀平、操練十四期、この翌日戦死)がいえば、金平糖(こんぺいとう)の代用品としては アルコールが最適などと磯崎少尉(後出)が茶化す。

 それからひとしきり酒の話で賑って、やがて女 の話が出はじ めたころ皆、眠くなってくる。とにかく人生の快楽は睡眠にしかずとは、ただしショーペンハウェルが 喝破せし名言にあらずやと林中尉のいうのを機に、皆ぞろぞろ立って椰子の下の細道を宿舎に帰ったのである。 この中で林中尉とあるのがのちの林喜重大尉のことで磯崎少尉とはのちに鴛淵、林らとと もに三四三空に転じ、菅野の戦闘三〇一飛行隊分隊長になった磯崎千里大尉のことで、 磯崎は当時の林中尉を評して「ウイットに富み、ユーモアもある明るい人で、よく皆を笑わせた」といって いる。 二五一空は僚隊である二〇一空および二〇四空とともに、いわゆるラバウル戦闘機隊として ソロモン航空戦の花形であったが、兵力とその補給力で上まわるアメリカ軍によって消耗を強いられ、 戦力の低下は覆うべくもなかった。

 そこで、内地から進出してきた双発戦闘機「月光」編成された 夜間戦闘機隊に改編され、残った零戦と搭乗員たちは二〇一空と、九月上句サイパンから進出し てきた二五三空に転属となった。 記録によると・林中尉は昭和十八年十月一日付で二五三空分隊長となつており、坂井三郎が負傷後退 したあとのラバウル台南空の撃墜王西澤広義飛曹長「のちに中尉」らとともに二五三空に移った。 鴛淵や林が二五三空に転属して一ヵ月後の十一月二日、ラバウルはそれまでの最大といわれる戦 爆連合二百機による空襲を受けたが、こちも二〇一空、二〇四空、二五三空に母艦の零戦隊も 加えた百十機が邀撃にあがり、彼我三百機以上による大空中戦が展開された。

 この日の邀撃戦で敵機約百二十機を撃墜したといわれるが、戦果発表の常でアメリカ側の記録で は自軍の損失十九機、逆に日本機の撃墜八十五機となっている(酣燈社刊)「日本海軍戦闘機隊」によ る)。 林中尉も二五一空いらいの部下数人とともにこの空中戦に参加し、共同撃墜も含めてかなりの 戦果をあげているはずだが、そうした記録はない。し(この戦闘を最後に林は半年の激し 戦地勤務から解放され、厚木航空隊付の教官として内地に帰った。 兵学校六十九期の仲間うちでは、「中尉でラバウルに行った者は、大尉にならなければ内地に帰れない」 というジンクスがあった。つまり、それまで生きのびることが難しいという意味だが、武運強く林は 中尉のうちに帰ることができた。

 ところで、ここに興味ある事実を見出すことができる。林の厚木航空隊付発令は昭和十八年十一月 五日となっているが、厚木空には九月に大分の実用機教程を卒業した三十八期戦闘機専修飛行学生 二十七名のうち、築城に行った母艦組を除く陸上組が 配属され、その中に菅野もいた。つまり、林は半年間のラバウルにおける実戦体験を教官として菅 野たちに伝えるめぐり合わせとなったのであるが、こうして林は鴛淵とは戦地で、菅野とは内地で 前後して同じ時を過ごしたことになる。そして、この三人はその後、別々の道をたどりながら、約 一年後に三四三空で一緒になった。

 厚木空以後の菅野の足跡についてはすでに述べたが、林は昭和十九年二月二十日に厚木空が実戦 部隊の二〇三空にくら替えしたあと、二二一空に転出し、三月十五日付で大尉に進級と同時に新編 成の戦闘四〇七飛行隊長兼分隊長になった。 戦闘四〇七は千葉県香取基地で編成されたが、 すぐ九州鹿児島基地に移って錬成を開始した。昭 和十九年五月に鹿児島基地で撮った飛行隊の写真には、隊長の林喜重大尉と並んで機関学校五十期 出身パイロットの蛭澤久也大尉の姿が見られる。蛭澤大尉については拙著『機関学校八人のパイロ ット』に詳述してあるが、このあと七月十日付で二二一空が四コ飛行隊に改編されたとき戦闘三〇 八飛行隊長となるのであった。

 蛭澤は林のコレスだが、整備学生を経ているために飛行学生は林より二期あとの三十九期で、全 く実戦経験のないままに飛行隊長の重任を負うことになったが、飛行隊長としては先輩にあたる林 が親切に指導したであろうことは容易に想像できる。




帰省した最、陸士へ進んだ友と写した写真、右、菅野。

帰省した最、陸士へ進んだ友と写した写真、右、菅野




阿修羅の如く



 先にできた「紫電」は、すでに一千機近く生産されていくつかの航空隊に配備されていたが、そ の改良型である最新鋭の「紫電改」は、少数の実験機が横空にあっただけで、部隊は三四三空だけ だった。したがって川西の鳴尾製作所でつくられた紫電改は、完成すると直ちに部隊から派遣され た隊貝たちによって引き取られた。 虎の子の紫電改は本番にそなえて極力温存するようにし、訓練はもっぱら旧型の紫電で行なわれ たが、たまに紫電改に乗ってみると扱いやすく、すべての点にわたって改善されていることが感じ られた。 出おくれていた戦闘四〇七、戦闘七〇一両飛行隊の訓練も徐々に戦闘三〇一飛行隊に追いつき、 三月に入ると全戦闘機隊が十六機の編隊空戦ができるようになったが、司令である源田の目算では あと二、三ヵ月の訓練期間が欲しかった。

 各人の技倆の向上もさることながら、アメリカ軍の戦法 に対抗するためにこちらも編隊空戦を採用する必要があり、そのために綿密なチームワークをつく り上げる時問が必要だったからである。 だが、戦争はこちらの都合で待ってはくれない。三月に入ると敵の来襲、それも機動部隊の艦載機 による空襲の可能性が増した。 二月十六日、機動部隊艦載機による最初の本土空襲が関東、東海地区にあり、二十五日にふたた び関東地区を襲ったが、その後しばらくは鳴りをひそめた。敵機動部隊が足場としていた西カロリ ン群島のウルシー環礁に帰り、次の作戦行動のための整備補給に時を費やしていたためだが、 三月中旬ごろの通信諜報でひそかに出撃したことがわかった。行く先は不明だったが、 わが航空部隊や水上部隊の主力が展開している瀬戸内海西部や九州地方一帯の空襲を企図している公算が大きかっ たので、各部隊とも警戒を強めた。 制空隊のホープである三四三空では、源田司令、中島副長、志賀飛行長に各飛行隊長が加わって 図上演習をくり返し行ない、邀撃計画を練り上げていた。

 三月十三日の早朝、警戒警報が発令になった。この日の当直飛行隊は戦闘四〇七飛行隊だったの で、林大尉の指揮で約四十機の紫電改が上空哨戒にあがった。 薄雲りの空に、後続機に気を配りながら林隊長はスロットルをしぼり加減にして、旋回しつつ高 度をとった。二千メートルに達したと思われる頃、突然、編隊の周囲に高角砲弾が炸裂(さくれつ)し出した。 猛烈な弾幕が周囲をつつみ、爆風にあおられて編隊を乱す機も出たが、先頭を飛ぶ林隊長機と二番機が 一番ひどく、林隊長機は一気に数百メートルも落ちた。さいわいすぐに誤認とわかり、射撃はやんで 事なきを得たが、射撃したのはそのころ瀬戸内海の 柱島泊地付近で出撃待機中だった戦艦「大和」以下の連合艦隊主力艦艇であった。林隊長機が大き く高度を下げたのは爆風にあおられたのと高射砲弾の破片が当たって右翼端を損傷したせいで、危 うくこの得がたい飛行隊長を失うところだった。

 沈着な林は飛行に支障がないとみると、そのまま哨戒任務を続けたのち着陸した。隊長機を点検 した整備分隊士は修理のため予備機と交換するよう進言したが、林はそれを認めず夜間修理を命じ た。林隊長の愛機は機番号「三四三B一二八」であったが、それほどに彼はこの飛行機が気に入っ ていたのである。 菅野が一時期乗っていた「三四三A一五」は有名だが、鴛淵も愛用していた機体があり、それ を部下がこわしたときはしばらく不機嫌だったという。(注)機番号の数字の頭のアルファベットはA が戦闘三〇一、Bが戦闘四〇七、Cが戦闘七〇一を示す) それからも連日、、上空哨戒が続けられた。もちろん、ふたたび誤射などのないよう艦隊に対して 巌重な抗議が行なわれ、三月十七日頃から敵来襲にそなえて厳戒態制に入った。

 果たして、敵の機動部隊は十八日になってふたたび日本近海に姿を現わし、九州南部の航空基地 群を襲った。この日、三四三空は鴛淵大尉を総指揮官として、三飛行隊合わせて七十二機の紫電改 および紫電が空にあがった。 二千馬エンジンの大編隊の威容はさすがで、身ぶるいするような頼もしさであったが、敵の攻 撃が九州南部に限られたため、会敵することなく着陸した。 今日こそはと意気込んだ隊員たちにとってはいささか抽子抜けの感があったが、これまでの敵機 動部隊の行動パターンからして、一両日中の来襲は必至と予想されたので、その意味では本番前の 予行演習としての効果があった。

 そして張りつめた気持の中にも、若干の余裕のようなものが生ま れた。 「本日巡検なし。明日の食事、戦闘配食」 その夜、隊内のスピーカーがそう伝えると、(いよいよ明日だ)という緊張感が、早春の冷たい 夜気を通して基地の隅々にまでみなぎった。



昭和一七年六月霞ヶ浦で訓練の順番待ちをする菅野 直。

昭和一七年六月霞ヶ浦で訓練の順番待ちをする菅野 直。




杉田上飛曹逝く



 「鹿屋基地では桜の花もすっかり散り果て、若葉が美しかった。この日、私は何とはなしに気の重 い朝を迎えた。指揮所にはZ旗があがり、搭乗割は一番機杉田上飛曹、二番機笠井上飛曹、三番機 宮沢豊美二飛曹、四番機田村(恒春)飛長の編成で、朝から即時待機別法で待機していた。 「敵編隊鹿屋に向かって北上中」の情報が入り、直ちにエンジン始動もそこそこに一番機 の杉田上飛曹がうしろを振りかえり、上空を指しながら猛然と離陸をはじめた。続いて三番機も。 そのとき七、八機のグラマンが銃撃をしながら急降下してきた。ハツと思ったが、私も直ちに 離陸すべくチョーク(車輸止め)をはずす合図をしたとたん、ロケット弾が炸裂して翼に大穴 があいた。

 もはやこれまでと、機外に飛び出そうとして今し方一番機と三番機が離陸していった方向に 目をやった途端、そこに信じられない光景を見た。飛び上がったばかりの杉田機が、グラマンの一 撃でグラッと傾き、黒煙を吐きながら飛行場の端に突っ込んで行くではないか。 『杉田兵曹!』 私は声にならない叫び声をあげた」 二番機笠井智一上飛曹の語る杉田の最後であるが、司令の源田によると敵編隊接近の情報ととも に待機戦闘機に即時発進を命じたが、そのとき基地上空に敵機が姿を現わしたため「発進を止め避退せよ」 を下令したという。と、二番機の笠井上飛曹は回想している。

 しかし、その指令はすでに発進体勢に入っていた杉田に届かず、しかも発進を示すZ旗が上がっ たままだったため、一番機と三番機は発進してしまった。だが、もし発進中止の指令が届いたとし ても、敵機を目前にして戦いを放棄することは、杉田にとって耐えられなかったに違いない。 源田は「情報入手時機が遅かったのと、はじめ迎撃可能と判断したために私の発進中止命令が機 を逸してしまった」と悔やんでいるが、それはほんの数秒の差であった。 杉田につづいて離陸滑走を開始した宮沢二飛曹の機も離陸直後にやられた。 杉田は新潟県の出身で、昭和十七年三月に予科練丙三期を卒業するとすぐミッドウェー作戦に参加、 以後ソロモン、マリアナ、カロリン、フィリピンと数多くの戦闘を生き抜き、昭和二十年春には 坂井三郎少尉とともに多数機撃墜者として表彰された。

 公認記録によれば個人撃墜七十機、協同撃墜四十機となっており、その勇猛果敢な戦闘ぶりは群を抜いていた。 性格も豪放そのものであったが菅野に心酔し、その技倆を買った源田は隊長護衛役として杉田を菅野の下につけた。 そんなところから菅野も杉田と気心を通じ、その信頼関係は上官 と部下の域を超えた、仲のよい兄弟のようなところがあった。 菅野の落胆ぶりに思いをはせた源田は、収容された杉田の遺骸を前に菅野に謝ったと、その著書の 中で述懐している。 「菅野大尉、私の決心が遅れたために、杉田を殺してしまった。全くすまない。君もさぞ力を落と したことと思うが、私は天に誓って、杉田に劣らないほどの操縦者を補充してやるから、しばらく 待ってくれ」 源田が菅野にそういったのは決して気休めではなく、菅野の護衛の任にあたる菅野中隊第二区隊 長に、杉田に劣らない優秀なパイロットをつけようと真剣に考え、横須賀航空隊にそのことを申し 入れていた。

 その人の名は武藤金義少尉といい、杉田以上に実戦経験も豊富な名パイロットで、特 に二ヵ月ほど前の敵機動部隊艦載機による関東地区空襲のさい、紫電改の試作機に乗って単機でグ ラマンF6F四機をつぎつぎに血祭りにあげたことで、「空の宮本武蔵」と称されたほどだった。 そんな優秀なパイロットだったから横空で簡単に手離すわけがなく、源田は戦闘七〇一飛行隊の 分隊士坂井三郎少尉との交換を申し入れていた。 「彼は名人ではあるが、負傷後視力も低下しているし、ここしばらくは第一線に立ち得る見込みは ない。

 しかし、横空のような実験研究部隊ならば、彼の腕を振るい得る余地もあるだろうと思っ た」 「通常、搭乗員の補充について、部隊としては、人数とか練度に関しては希望を述べるが、個人名 は中央当局の裁量に依存していた。杉田君の場合、私が特に後任者の個人名まで考えた理由は、菅 野直というまれに見る闘魂を持った飛行隊長を、むざむざ殺したくなかったからである。彼は勇猛 果敢な攻撃に終始し、戦果もまた大であった。だが彼が十分に働き得るためには、その列機にあっ てこれを掩護するものに優れたバイロットがいなければならない。杉田上飛曹と菅野大尉とは離す べからざるものでもあったのである」 その著書『海軍航空隊始末記』(文藝春秋刊)の中で源田はこう述べているが、「菅野大尉は源 田さん好みのパイロット」という元隊員もいるほどに、鴛淵、林、菅野と三人いた剣部隊初代飛行 隊長の中でも、源田は特に菅野を好ましく思っていたようだ。

 結論をいうなら、横空がなかなかウンといわなかったため坂井少尉と武藤少尉の交換はずっと遅 れ、それが実現したのは三ヵ月後の七月初めだった。そして移籍間もない七月二十四日の豊後水道 上空の空戦で、武藤少尉は鴛淵隊長ら六人の未帰還者の一人として空に散った。(拙著『紫電改の 六機』参照) 戦死した杉田の遺体は一晩安置されて翌日の昼ごろ、火葬に付されたが、鉄道の枕木を並べて火 葬の最中に空襲があり、P51ムスタングのロケット弾攻撃で杉田の遺体が吹っ飛んだという。 最後まで壮絶な杉田の終焉であった。 なお杉田には日本女子大出の才女の彼女がいて、松山時代には彼女が新選組屯所(戦闘三〇一隊 員たちは指揮所をそう呼んでいた)にやって来たこともあった。美しい彼女の来訪は他の隊員たちを ひどく羨やましがらせたが、「杉さんなら当然」と誰もが納得した。

 戦死した杉田は、それまでの功績に対して連合艦隊司令長官による全軍布告の栄与を受け、二階 級特進で海軍少尉となった。 杉田につづいて離陸した宮沢豊美二飛曹は、離陸直後を狙われて鹿屋市の国立療養所の庭に墜ち、 全身黒焦げの遺体となって収容されたが墜落した現地には碑が建立され、今でも近くの人たちに よる墓参法要がつづけられているという。 至宝杉田を失った翌四月十六日、「菊水三号作戦」に呼応して剣部隊からも鴛淵大尉の指揮で三 飛行隊合わせて三十六機が鹿屋基地を発進した。途中で三機が引き返したので三十三機となったが、 この日の戦闘は剣部隊が初めて喫した敗北であった。

 天候は快晴、視界二十キロときわめて良好だった。奄美大島の南端で左に旋回し、喜界島を前下 方に望むあたりで、高度六千メートルを北東に向けて飛行中のF6F+六機を発見した。これこそ 特攻機を食おうとして網を張っている敵機群で、タイミングよく会敵したのであるが、敵も同時に こちらを発見したらしい。 五百メートルほど優位の高度にあった敵編隊は、高度を取るべく上昇しつつあった第二中隊の林 編隊に対して後方から襲いかかった。先を行く鴛淵隊長指揮の第一中隊は、これに気づかずに林中 隊から離れてしまい、後ろにいた菅野第三中隊が応援のため戦闘に加入した。

 林中隊と離れた鴛淵中隊の八機は、電話の不具合からか味方とうまく合同できなかったのに対し、 電話の性能が優秀なアメリカはたちどころに援軍を呼びよせ、林中隊十一機、菅野中隊十四機に襲 いかかった。 態勢不利、兵力劣勢の剣部隊にとって、かさねての不幸は、林大尉の乗機の増槽が投下装置の不 具合いで落ちなかったことだ。そのため運動性を減殺されたことに加え、それとわかる鮮やかな二本 の白帯が胴体にえがかれた隊長機は、格好の獲物とばかり徹底的に追いまくられた。林隊長機だけ でなく、列機もばらばらとなり、単機ごとに敵の数機に追われる羽目となった結果、かなりの損害 を出してしまった。

 結局、約十五分間にわたる空戦で、グラマンF6F三機撃墜(うち不確実一機)に対し、こちら は自爆未帰還合わせて九機、不時着一機というみじめな結果となったのである。 作戦的に見れば、紫電改が敵機と交戦している間に、特攻機は妨害を受けることなく第一の敵警 戒線を突破することができたのだから、任務は充分に果たしたといえるが、菅野大尉の指揮で敵機 二十機以上を撃墜した四月十二日の「菊水二号作戦」のときにくらべると、この日の総指揮官だっ た鴛淵大尉はにがい思いを味わったに違いない。 基地に帰着した鴛淵は、飛行機から降りると駆けつけた用務士の中島大次郎少尉には目もくれず、 そのまま大地に寝転がって目をつむっていたという。

 指揮官としてまずい戦闘をしたという悔恨の念にかられたからだと思われるが、それにも増して 大きな精神的衝撃を受けたのは、自爆未帰還九機のうち半数をこえる六機を自分の隊からだし、し かも直率の列機を三機とも失った林大尉だった。 特に彼の三番機だった小竹等飛行兵長は、フィリピン以来、生死をともにした仲で、林も目を かけていただけにその悲しみもひとしおであった。 個々の戦闘の結果や部下の死をいちいち気にしていたのでは飛行隊長はつとまらないが、そうし た感情をすぐ昇華させてしまうには、林はあまりにも繊細な心の持ち主であった。



『昭和十八年四月の山本五十六司令長官の乗った一式陸攻がヴーゲンビル島ブイン上空で 撃墜されたときに護衛の任に付いたのが、二〇四空の六機の零戦であった。その中の一人が杉田庄一上飛曹であった。 この六名のうち生存して終戦を迎えたのは、負傷して内地に戻った柳谷謙治飛兵長だけであった。』

柳谷謙治飛兵長

柳谷謙治飛兵長


山本五十六長官の護衛戦闘機
第一小隊 一番機 森崎武中尉
二番機 辻野上豊光一飛曹
三番機 杉田庄一飛兵長
第二小隊 一番機 日高義巳上飛曹
二番機 岡崎靖二飛曹
三番機 柳谷謙治飛兵長







くつろぐ菅野 直大尉。

くつろぐ菅野 直大尉。




空戦と懐悩の日々



 鹿屋は南九州最大の航空基地であり、しかも特攻機の発進基地でもあったから、出てゆく機、帰 ってくる機で混雑し、指令の伝達の遅滞や混乱は避けられなかった。敵編隊北上の情報でスクラン ブルをかけようとした杉田や宮沢がやられたのもそのせいであり、用兵上の不便を感じた源田司令 は、四月十六日の出撃を最後に、基地を鹿児島湾の北側にある第一国分飛行場に移した。 ここは鹿屋ほど広くもなく施設も十分ではなかったが、鹿屋より約四十キロ北に位置しているぶ ん、わずかではあるが飛行隊運用のための間含いもとることができた。

 国分基地に移って二日目の四月十八日朝、基地は突如としてB29による爆撃を受け、爆弾が 基地北端の戦闘四〇七の列線一帯に落ちたため、飛行隊の高田忠義一等工作兵曹ほか二名が戦死、小室 喜平一等整備兵曹ほか九名が重軽傷という被害を受けた。 B29による空襲の意図は、飛び立つ前に特攻機を基地で叩こうというものであったが、この日以降、 剣部隊は「菊水作戦」での特攻機の進路啓開と併行して、マリアナ基地から来襲するB29の邀 撃作戦をも担当することになった。 元来、三四三空は敵戦闘機との制空戦を目的として編成され、訓練された部隊だから、いきなり 大型爆撃機の邀撃への転用は無理なのであるが、ほかに立ち向かえる飛行機がないとあっては止む を得なかった。

 三飛行隊長の間でさっそく「紫電改」をもってするB29の攻撃法について研究が行なわれ、活発 な意見が交わされた。しかし、大型機の攻撃、とくにB29と実際に戦った経験を持っていたのは菅 野だけであり、菅野の主張する前上方から背面になって垂直降下し、敵編隊の中を突き抜けるとい うきわどい攻撃法については、鴛淵も林も容易に賛成しかねた。 結局、結論を得るにいたらず、「やってみて、その実績の上で決めよう」ということになった。 四月二十日、剣部隊として初のB29邀撃戦を実施したが、一機も墜とすことはできなかった。林 はこのことがよほど腹にすえかねたらしく、帰ってきてから菅野との間にちょっとしたやりとりが あったようだ。

 「もし明日も撃墜できないようだったら、俺はもう帰ってこないぞ」(林) 「そんなにまでする必要はないじゃないですか。運が悪くて墜ちない時は仕方がない。また次の機 会ということもあるでしょう」(菅野) 「いや、君はそれで気がすむかも知れんが、俺にはどうしても我慢できんのだ」(林) そういって二機も墜とせなければ帰ってこない」を繰り返す林に、菅野もいささかむっとした。 「林さんがそれほどまでにいわれるなら、そうされたらいいでしょう。その代わり、私も墜とせな かったら帰ってこないことにします」二人の間にこんな口論があったことを、後になって 菅野から聞かされたと源田は著書の中に書いているが、二期上の鴛淵には一目置いていた菅野も、 林とは遠慮なしによく議論した。

 それに、お よそ対照的な性格の林と菅野は、兵学校が一期違いということもあって互いに競争心をもやしてい たらしく、四月十八日のB29の空襲の際は爆撃の間中、防空壕に入らずに指揮所の椅子にすわって 我慢くらべをやっていたという。 そんな間柄だったから、売りことばに買いことばで少々言い過ぎたことを反省したが、この夜の 思いつめたような林の言動にただならぬ気配を感じた菅野は、志賀飛行長に知らせるとともに、鴛 淵や戦闘四〇七分隊長の市村吾郎大尉(兵学校七十一期、東京都世田谷区在住)と一緒に、林をなだ めた。

 志賀飛行長の報告を受けた源田司令も林を自室に呼んで考え過ぎないようさとしたが、これがか えっていけなかったようだ。真面目な林は、司令をはじめ周囲が自分にいろいろ気をつかって くれることに感激し、B29を墜とさなければという気持をより一層強くしたのではないか。 翌二十一日、早朝からB29が九州南部に侵入し、心中深く決意を秘めた林大尉は、列機四機とと もに鴛淵大尉直率の第一中隊第三小隊長として出動した。 この日の作戦機数は、七〇一飛行隊十一機(うち一機引き返す)、四〇七飛行隊五機(うち一機引 き返す)、三〇一飛行隊九機、それに四〇七飛行隊の別働隊として松山基地から市村大尉指揮の七 機が加わったので総数三十機だったが、各中隊とも緊密な連繋がとれず、小単位ごとのバラバラな 攻撃となった。

午前七時、林区隊三機は国分基地のすぐ南、姶良郡福山上空で北西進するB29十一機の編隊を発 見、これに攻撃を加えた。しかし、この日の林はいつもの冷静な指揮官ではなく、とにかく墜とし たい一心で攻撃に熱中のあまり、列機と離れてしまった。 厚い装甲と防弾タンク、それに強力な武装でまもられたB29への攻撃は困難をきわめた。 とくにこの日のように充分な数の揃わない攻撃側にとって、B29の編隊火網の中に飛び込んでゆくことは それ自体が決死的行為であり、列機が隊長機についてゆけなかったとしても無理はなかった。

 約十分後、これも本隊とはぐれて単機行動中だった菅野区隊の三番機清水俊信一飛曹は、出水上 空で十九機のB29編隊にたった一機で攻撃を加えている味方機を発見した。近寄ってみると、胴体 に画かれた二本の白帯から林隊長機であることがわかったので、すぐ攻撃に加わった。 十九機のB29編隊からは百挺以上の十二・七ミリ機銃の火矢が、いっせいに林、清水両機に注が れた。だが、すでに生死は念頭になく、ただ攻撃の執念にもえた林隊長の攻撃は執拗をきわめた。 スピードのあるB29に対しては、一撃してっぎの攻撃を加えるまでには時間がかかる。

 とうとう 一機のB29が黒煙を吐き、急激に高度を失いはじめた。なおも攻撃の手をゆるめず、ついに海上に 墜落したのを確認した林隊長は、基地に向け「B29一機撃墜」を誇らかに報じた。 だがその喜びもつかの間、運命は暗転した。すでにエンジンに被弾し、垂直尾翼の一部を飛ばさ れた林機は、飛びつづけることが困難になっていた。 不時着を決意した林は、国分基地から約六十キロ離れた出水郡阿久根町(鹿児島県)の折口海岸 に、脚を収納したまま滑空で降りようとした。





第三種軍装姿の菅野 直大尉

第三種軍装姿の菅野 直大尉。



林大尉の戦死



 しかし、零戦と違って重い紫電改は機体の沈みが大 きく、しかも胴体下面の増槽がついたままだったので、つんのめるようにして海面に突っ込んだ。 墜ちた位置は海岸から約四百メートルほどの沖合だったが、遠浅でしかも干潮だったため、胴体 と右翼および尾翼を海面に露出したまま着座した。 不時着の様子を目撃していた地元の警防団員たちが小舟六隻で救助に駆けつけたが、増槽が引っ かかって前のめりになった際の衝撃で林大尉は顔を前面の計器盤に打ちつけ、頭蓋底骨折で死亡していた。 ときに午前七時四十分。半時間にわたるB29追撃の末の壮絶な戦死であったが、機体に増槽がついたまま だったのは、投下装置の不具合で落ちなかったのではなく、攻撃が追撃を含めて長時間に 及ぶことを考慮しての行動だったのではないかと想像される。

 そうして林はB29を墜として菅野との約束を果たしたが、ついに生きて還ることはできなかった。 林大尉と協力してB29を撃墜した三〇一飛行隊の清水俊信一飛曹も、エンジンに被弾して蕨畠の 北二千メートルの海中に突入し、機体とともに海没したため遺体はあがらなかった。 林大尉、清水一飛曹戦死の報はすぐ基地にもたらされた。 (ゆうべ、あんなことをいわなければ…) 同じくB29一機を撃墜して帰還した菅野の顔は、悔恨と苦渋にゆがんだ。

 警防団員たちによって収容された林大尉の遺体は、氏名を確認したあと、海岸の松林の中で引き 上げられた機体とともに火葬に付され、翌日、駆けつけた隊員たちに遺骨が渡された。 後日談になるが、その場所に地元の人たちの手で石碑が建立された。残念なことに、このことは 生き残った部下たちに知られないまま、石碑はその後、生い茂るやぶに覆われ、訪れる人もなかっ た。 それから約三十年後、折口浜の石碑の存在を知った戦闘四〇七飛行隊分隊長一同、牟礼春男大尉(飛 行予備学生十三期、熊本県植木町在住)ら元部下たちの手で慰霊祭が行なわれた。

 その後、一同牟礼ら の発案で碑の周辺を整備するとともに、四〇七飛行隊全員の慰霊碑もあらたにつくられた。 「温厚で非常な部下思い。兵学校出の士官の中には予備学生を見下した人もいたが、 林隊長にはそういうところはまったくなかった」 今も林隊長を敬慕してやまない牟礼の言葉だが、林はフィリピンに進出の頃からはっきり死を 覚悟していたらしい。 「お前がいるから俺は安心して死ねる。軍人だから、今死ななければ犬死だ」 自分の後を追って同じ湘南中学(神奈川県の名門、現在の湘南高校に入った弟治美に残した林の 最後の言葉であったという。

 林が戦死した二、三日後、その弔い合戦の機会がやってきた。この日、B29来襲の報に菅野を総 指揮官とした紫電改十数機が基地を飛び立った。雲量二〜三で、わりに好天の中を南に飛行中、 桜島の北東を南下中のB29数機の編隊を発見、菅野から攻撃開始の無線電話とともに、 戦闘四〇七飛行隊に対して「はやて、はやて、上空支援に残れ」と指示があった。 「はやて」-疾風は、四〇七飛行隊の陰語で、命を受けた飛行隊は支援のため味方編隊上空でバ リカン運動を開始した。

 バリカン運動というのは、編隊が左右に分かれて交叉しながら飛ぶ フォーメーションで、ふつう攻撃機の編隊を敵戦闘機の攻撃から守るため護衛の戦闘機が行なうものだが、 この頃からB29にはしばしば小型機が同行するようになっていたため、それを警戒しての菅野の判断であった。 戦死した林隊長に代わって戦闘四〇七飛行隊の指揮をとっていた市村吾郎大尉は、胴体下の増槽 を落として直ちに上空支援体勢に入ったが、そこで市村は思いがけない光景を見た。 「菅野機を先頭に、B29編隊の直上方から矢のような突撃に入るのが確認されたが、つぎの瞬間B 29の一機がまるでビデオをスローで見るように右のエルロンの内側のヒンジがはずれて飛び散り、 同時にあの大きな機体がゆるやかに、きりもみ状態で落下して行くではないか。

 二十ミリ機銃の一 撃がこれほど偉力のあるものかと痛感させられたが、このときの光景は四十数年たった今なお昨日 のことのように眼底に焼きついて離れない」 難敵だっただけに、初めて眼前で見たB29撃墜の印象がそれほど強かったわけだが、B29に手を焼い たのは海軍だけではなかった。 陸海軍を問わず、日本の戦闘機も1万メートルの上昇は出来ても機体の姿勢を維持するだけで 決して戦闘などというものは出来るものではなかった。高空に上がると飛行機も人も酸素不足でアップアップしていた。 これが機械式の過給機と排気式の過給機の差であろう。 これに対してB29は優秀な排気ガスタービン(排気TURBO)によるエンジンの過給をやっていたので、高空に上がっ ても性能が低下することなく、速度は日本の零戦などととほとんど変わらなかった。

 しかも防弾がすぐ れていたので弾丸が命中しても容易に発火せず、業を煮やした陸軍ではついに体当たり専門の戦闘 機隊を編成した。 「震天制空隊」と名づけられたこの部隊の使用機は、高空での性能低下を少しでも減らすため、装 備を極力おろしたほか、機体の塗装まではがして軽量化につとめた。 実際にこの「震天制空隊」の戦闘機がB29に体当たりし、飛行機はどちらもバラバラになったが、 双方の搭乗員のパラシュートが大空に幾つも浮かんだ光景を目撃したことがある。

 体当たりした戦闘機のパイロットは無事に生還したが、菅野はこうした計画的な体当たり戦法を 好まなかった。もとより命を惜しんだわけではなく、あらゆる可能性に挑戦してみて、それでもダ メだったら最後の手段として体当たりもやむを得ないという考えだった。 堅固な防弾装備と強力な防御火網を誇るB29の編隊に対しては、こちらも多数機をもって同時攻 撃をかける以外に有効な手だてはない。それができないとあって、反航体勢から背面になって敵編 隊の中を垂直に突っ切るという、差しちがえ覚悟の戦法を菅野は編み出した。

 だが体当たりと紙一重のこの戦法には大変な度胸とウデを必要とし、誰にでもやれるというもの ではないから、菅野自身も決してベストと考えていたわけではないが、すでに正攻法が通用しなく なっていた状況下ではもっとも有効な、そして究極の大型機攻撃法であった。背面逆さ落としの急降下速度は700キロを超えたという。 昭和二十年四月十八日に開始された第一国分基地からのB29迎撃戦は、同二十五日までの一週間 で終了したが、B29三機撃墜の戦果に対し、至宝戦闘四〇七飛行隊長林喜重大尉を含む二機が未帰 還となり、他に空戦による大破二機、基地被爆による炎上・大破約十五機という大きな損害をこう むった。 とにかく紫電改」を含む日本の戦闘機群にとって、B29は難敵中の難敵であり、それは終戦にいた るまでついに変わることはなかった。



大分空の零戦二一型の前で菅野 直大尉。

大分空の零戦二一型の前で、菅野 直大尉。




 戦闘に生命を賭ける搭乗員たちの活躍の陰には、整備科をはじめ彼らを支える多くの 基地要員たちの地味な働きがあったが、そんな隊員たちの苦労を最も心にかけていた のは司令の源田で、彼はときどき夜中に整備地区を見まわっては、整備員たちを ねぎらった。懐中電灯を向けて近づいてきた相手が司令であることを知った整備員は、 恐懼(きょうく)して立ちつくした。 戦闘七〇一飛行隊長の鴛淵孝大尉も、その点では源田に劣らなかったようだ。 整備員は飛行隊出動に先立ち、朝の三時、四時頃から飛行機を出して整備や暖機運転をやるが、 鴛淵はいつもそれにつき合っていたらしい。めったに部下を叱らない鴛淵だったが、あ る朝、七〇一飛行隊先任分隊長山田良市大尉は寝ているところを起こされ、 「分隊長、何やってる。 飛行隊長が早く起きて整備を見ているというのに。明日から早速やりなさ い」といわれた。

 「それで一日か二日は出たが、眠くて仕方がないのでやめてしまった。鴛淵さんはずっと続けてい たのでは……」 と山田は語るが、先に戦死した林喜重四〇七飛行隊長にも似たようなところがあったらしい。で は、われらが菅野隊長はどうだったか?残念ながらそれについての哲言は聞かれないが、夜な夜 な脱外出をしていたのでは、とてもそれどころではなかったろう。 整備科とともに、飛行機の修理を受け持った工作科の仕事もまた典型的な裏方であり、縁の下の 力持ちであった。

 出撃のたびに大小の破損機が出るが、弾痕の補修程度ならいいが、翼、胴体、方向舵などの狂い を修正したり、亀裂の拡大を防いだりする作業が加わるとやっかいなことになる。なかでも口 や数字では表わせないデリケートな舵の修正や、空中分解につながりかねない亀裂の補修には神経をす り減らす。 「苛酷な夜間作業が終わると本当にほっとするが、『酒保入湯許す』があるでなし、上陸(外出) があるでもなし、味気ない基地暮らしであった。 でも若い兵隊たちは文句一ついわず、忠実に軍務に励んだ。出撃から帰ってくるまではやはり 補修個所が心配で、紫電改が帰ると誰よりもいち早く駆け寄るのは工作科員だった。 補修個所は大丈夫か?それ以上亀裂はないか?入念に点検する。

 搭乗員にはもちろんのこと、被弾した飛行機に対してもよく働きよく帰還したといたわり、明日 もまた頑張れよと心の中で励ますのだった」 工作科員たちの心意気について、渚水博一等工作兵曹(名古屋市北区在住)は『三四三空隊誌』 にそう述懐している。 日本軍に残された最強の戦闘機隊として、三四三空剣部隊の基地は重要な攻撃目標とされたらし く、松山から鹿屋、国分、大村と行く先々でB29や小型機による空襲を受けたが、六月頃から敵は 攻撃方法を変えてきた。 大村に対しては航空廠も飛行場も主要な建物や施設はほとんど破壊しつくしてしまったので、敵 は大型爆弾から小型爆弾による人員の殺傷へと戦法を切りかえたのである。

 この小型爆弾には瞬発信管がついていて、接地と同時に爆発してキャラメル大の無数の細片とな って飛び散り、半径三十メートル以内の地上にあるものをくまなくなぎたおすという恐ろしいもの で、七月五日の戦爆連合による空襲で地上員二十五名が戦死傷するという大被害を受けたのも、大 部分はこの爆弾によるものであった。 瞬間的に爆発する爆弾とは対照的に、着弾したあと、時間が経ってから爆発する時限爆弾も手に 負えないものだった。 今日の空襲にも何とか無事で生きのびたと眠りに入った深夜、ドカンと爆発する。空襲警報も発 せられず、爆音も聞こえないのに爆発音が聞こえる。

 数日間はいつどこで爆発するかわからず、 それこそ爆弾をかかえているような無気味さがあった。 そんな中にあっても、整備員や工作科の隊員たちの作業は休むことなく続けられた。 大村基地も本土決戦場と化していたのである。 大村基地は九州の北西、長崎線諌早駅で大村線に乗りかえて三つ目の竹松という小さな駅を降り たところにあった。駅を降りて海のほうに少し行ったところに、道をはさんで飛行場と海軍航空廠 があり、航空廠は前年秋の中国大陸からのB29による爆撃でほとんど破壊されていた。

 しかし、敵に廃墟と思わせるためわざと修理せず、焼けただれた鉄骨に天幕をかぶせた状態のも とで航空廠修理とよばれる、一線部隊ではやれない機体やエンジンの大修理を行なっていた。剣部 隊はいわば大修理工場を背後にひかえるという幸運にも恵まれたことになり、航空廠とは密接な関 係にあった。 昭和二十年のはじめ頃から燃料事情が逼迫しはじめ、剣部隊でもしだいに訓練が窮屈になったが、 大村に移ってしばらくは出撃待機の合い間をぬって飛行訓練が行なわれていた。 そんなある日のこと、菅野がちょっとしたいたずらをやった。 この日は飛行作業があり、「新選組屯所」と大書した木の看板を立てた戦闘三〇一飛行隊指揮所 では、順番待ちの隊員たちが待機していた。少し離れたところでは、大村海軍航空廠で働く乙女た ちが、休憩時間か何かだったらしく草むらに腰をおろして飛行作業を眺めていた。

 彼女たちは隣りの航空廠で、部隊から修理に出された紫電改の修理を受け持ち、リベット打ちや 羽布張り、塗装、洗浄などなれない仕事に懸命に取り組んでいた女子挺身隊員たちだった。 右額にしめた日の丸の鉢巻、モンペ姿の可憐な乙女たちの目を、若い隊員たちも何となく意識した が、一番強く意識したのはどうやら隊長の菅野であった。 「ヨーシ、手のすいている者はみんな立ってそこに一列に並べ」 と、菅野が命じた。 何だろうと思っていわれたとおり並ぶと、今度は「そこで小便をしろ」という。

 離れてはいるもののうしろで見ている乙女たちの手前、格好悪いと思いながらみんなモソモソと 飛行服のズボンの前を開いてオチンチンを取り出した途端、菅野が「まわれ右、うしろを向け」と やったからたまらない。 遠目で定かではないが、大小とりどりの砲列を見せっけられるかたちとなった乙女たちは キャッといって逃げ出した。 茶目気の多い菅野らしい行為だったが、そのころの菅野の胸中にはどこへもぶっけようのない 憤懣(ふんまん)があった。それは三月十九日の迎撃戦以降、四月十六日の喜界島上空の 対小型機戦、五月五日の B29迎撃戦を除くと、これといった目ぼしい戦果がないことだった。

 日増しにひろがる彼我の戦力差のせいであったが、これではまずい。搭乗員はもとより、整備を はじめとする基地員たちの士気にも影響する。そこで「たまには基地上空で空戦をやって欲しい」 という要望が出されたりして、司令を困らせたが、そのモヤモヤを一掃したのが六月二日の戦闘だ った。 この頃になるとB29や小型機による日本各地の空襲は一段と激しさを加え、五月二十九日にはB 29と護衛のP51戦闘機合わせて六百機が横浜を、六月一日にはB29四百機が大阪を空襲するなど、 攻撃の手はとどまるところを知らなかった。

 沖縄戦も特攻を含む「菊水作戦」が十回も実施されたが、損害のわりに成果はあがらず、地上戦 も優勢な敵の前に終局を迎えつつあった。 六月二日、この日も実施された沖縄航空攻撃は不成功に終わったが、敵は事前に基地を叩くべく、 早朝、艦載機百七十機をもって南九州一帯を襲った。 情報によって剣部隊からは午前八時四十五分、二十一機の紫電改が飛び立った。この頃になると、 可動機が減ってかつてのように飛行隊ごとにきっちりした編成を組むことが難しくなっていた。そ こで戦闘四〇七、七〇一両飛行隊を合わせた第一中隊を総指揮官の林啓次郎大尉がひきい、戦闘三 〇一飛行隊は第二中隊として菅野が指揮をとるという編成だった。

 基地からの電話による誘導で、二十一機の紫電改は午前九時五十五分、敵の攻撃目標とおぼしき 鹿屋上空に進入した。 高度六千メートル。視界は良好で、桜島をかかえた鹿児島湾が絵のように見えた。上空にも雲は なく、同高度に断雲が若干浮かぶ程度で見張りには絶好の日和だったが、どうしたことか、いるは ずの敵機の姿が見えない。 (おかしい)と思いながら目を下に転じた林隊長は、特異な翼の格好をしたヴォート・F4U「コルセア」の 十六機編隊を発見、直卒する四〇七、七〇一両飛行隊をもって攻撃を開始した。 敵はこちらの攻撃に気づいていないらしく、編隊を組んだまま南下をつづけている。高度差が大 きいので、過速に陥らないよう慎重に高度を下げ、距離が縮まったところで林区隊からまず射撃を 開始し、つづいて各区隊ごとに手近の目標を定めて襲いかかった。

 ほとんど完全な奇襲となり、第一撃で早くも数機が火を吹いたり翼が飛散したりして墜落し、ま ともな格闘戦に入れないままに十六機のうち十三機が撃墜されてしまった。 この間、上空支援の位置にあった菅野中隊は、別のF4U八機が南進中であるのを発見、この敵 に襲いかかった。もしこの敵が反転して本隊の林中隊の戦闘に加入すれば、形勢が逆転するおそれ もあったが、本隊の攻撃が余りにも奇襲であったため得意の電話連絡をする余裕もなかったらしく、 後方の戦闘に気づかないまま背後から恐るべき菅野中隊の攻撃を受けてしまったのである。

 「菅野隊長機には胴体にそれとわかる目印をつけていたらしいが、アメリカの戦闘機隊でも歴戦の 隊長機にはそのような識別があった。 そのような敵の隊長機と一騎討ちした話、空中戦闘の中で相手のバイロットの表情までわかるん だという話、菅野機を何とかうち落とそうと必死で突っ込んでくるアメリカ戦闘機の勇敢な姿、彼 が相手を深追いして別のアメリカ機に狙われ、すんでのところで列機に助けてもらった話などなど ……」 菅野と同期で偵察第三飛行隊の分隊長だった森田禎介大尉が、たまたま戦場で出合った菅野から 聞かされた話として思い出したものだが、相手のバイロットの表情がわかるまで肉薄する勇猛果敢 な攻撃にあっては敵もたまらない。「のちにアメリカのパイロット達は三四三空の攻撃を称賛しているのである。」

 まして敵の気づかぬ間の後上方優位からの奇襲とあって、八機編隊のうち五機が撃墜され、本隊 である林中隊の十三機と合わせて十八機撃墜の戦果をあげた。対する剣部隊の被害は、戦闘三〇一 飛行隊見上英司、戦闘七〇一飛行隊船越二郎の両上飛曹が未帰還であった。 たとえ二名といえどもその損失は重いが、久しぶりの胸のすく戦闘だっただけに、基地は沸いたようである。 「数日後、アメリカ側放送が、 『ハルゼー提督の飛行機隊が、六月二日、鹿児島湾上空で精強な日本の航空部隊に捕捉され、 散々な目にあった。日本にまだこんな強い部隊が残っていたのか』 という意味のことをいっていたと伝えられたが、前後の関係から、林啓次郎大尉のひきいた部隊 のことであるようだ」 源田がその著書『海軍航空隊始末記』の中でこう述べているが、あえてほかの部隊の名誉のため にいうなら、こうした勝利は剣部隊だけではなく、こちらの飛行機の数と条件さえ許せばなおか なりの戦果をあげることができたのである。要するに航空機の数が足りなかったのである。 これは源田實の自画自賛の我が田水引的な、少々の自慢と考えるべきであろう。





模型で空戦の要領をとく菅野分隊長

模型で空戦の要領をとく菅野分隊長。




終焉は急速に近づきつあった。



 紫電改による六月二日の鹿児島湾上空での十八機撃墜より二ヵ月前の四月三日、菅野と同期の香 取穎男大尉が指揮する六〇一空戦闘機隊の零戦三十二機は、喜界島上空でアメリカ戦闘機群と交戦 し、八機を失ったものの敵十六機を撃墜している。 紫電改にくらべると性能的にかなり劣る零戦でのこの戦果はりっぱだったが、圧倒的に優勢な敵 の戦力の前には、折々の戦果もしょせんあだ花でしかなく、六月二日に大戦果をあげた指揮官林啓 次郎大尉も、それから二十日後の六月二十二日、喜界島上空の戦闘で未帰還五機のうちの一機と なってしまった。

 林啓次郎大尉戦死の前日、菅野はめずらしく同期の親友武藤敏雄大尉の訪問を受けた。空に進ん だ菅野に対し、武藤は"ドン亀乗り"といわれた潜水艦乗りの道を選んだ。「潜水艦乗りは地味で潜行したらバッテリー 進むため、数ノットのスピードしか出ず遅かったので、ドン亀と呼ばれた。」 武藤は兵学校卒業後、約半年の戦艦「山城」での実習を終えたあと潜水艦に進み、途中、一年間 の戦艦「長門」の乗組のほかはずっと潜水艦で過ごした生粋のドン亀乗りだった。 昭和十九年秋の比島沖海戦を最後に壊滅状態になった日本海軍は、「波二〇〇型」とよばれる小 型潜水艦四十隻の急速建造を開始した。「伊」号、「呂」号につぐ「波」号二〇〇型はもともと沿岸 防備用の小型水中高速潜水艦として計画されたものだが、本土決戦が予想されるようになったので 特攻に使われることになり、ほかの艦艇の工事に優先して着工されたのである。

 "潜高小"の略号でよばれた「波二〇〇型」は呉と佐世保で建造が開始されたが、敵機による空襲 に加えて資材不足が追い打ちをかけ、工事は遅れがちとなって昭和二十年五月ごろからやっと完成 しだした。艦長には菅野と同期の兵学校七十期組が多く任命された。 まだ二十三、四歳の、日本海軍切っての若い艦長の誕生で、武藤はその五人目として海軍工廠で 艤装中の「波二〇五」の艤装に立ち会うべく佐世保に来ていたが、大村に菅野がいることを思い出 して訪ねたのであった。

 「司令の源田さんは、わざわざ菅野をたずねてくれたというので歓待してくれ、昼食を出してくれ た。菅野と私は食べる間も惜しんでつもる話をぶつけ合ったが、その間じゅう源田さんは傍に座って、 (こうして仲良くしゃべっているが、それもこれで最後じゃなあ)という顔で聞いておられた。 菅野は源田さんにとても可愛がられていたようだ」 武藤の思い出だが、命令があればすぐ迎撃にあがらなければならない菅野との束の間の再会であ った。帰り際に菅野と一緒に写真をとったが、はからずもこれが生存中の菅野の最後の写真になっ た。もっともこのあと、武藤は完成した「波二〇五」潜水艦の訓練のため大村湾に入ったとき、も う一度、菅野に会っている。

 「艦長が船をあけるのはよくないが、どうしても菅野に会いたく、二期下の航海長に空襲になっ たら沈座せよと命じて大村の沖合からゴムボートに乗って上陸した。 敗戦真近のあの時期、ただ菅野のさわやかさを求めて会いに行ったように思う」 武藤はそう語るが、それが七月十日か十一日だったというから、あるいはそれから三週間後の菅 野の戦死を予感したがゆえに、あえて軍律をおかしての行動となったのかも知れない。

 武藤敏雄が感じたように、菅野に源田がとくに目をかけていたのは事実で、それは源田の著書を 読んでも歴然としている。 四月十五日、鹿屋飛行場で敵機の空襲にあって杉田庄一上飛曹を失ったとき、かならず杉田に 代わるべき優秀なパイロットをとってやると、源田は菅野に約束した。そして、杉田の後任として横 須賀航空隊の武藤金義少尉を考えていたが、横空が武藤を手放したがらないことから実現は伸び伸 びになっていた。 武藤金義は杉田より八歳も年上で、すでに妻子もいたが、支那事変いらいのベテランで総撃墜機 数は二十数機を数え、その技倆、闘志ともに申しぶんのない工ースパイロットだった。

 源田は武藤とは直接面識はなかったが、彼の活躍についてはよく聞き知っていたし、とくにこの 年の二月十六、十七両日の厚木基地上空で目撃された武藤の活躍ぶりを聞かされて強い印象を受け ていた。 関東地区に対する敵艦載機による初空襲となったこの戦闘で、武藤は基地上空に侵入してきたグ ラマンF6F「ヘルキャット」十二機編隊に対し、紫電改一機で空戦をいどみ、あざやかな手法で 四機を撃墜した。 筆者「碇 芳郎氏」の友人であるMr.Henry SaKaidaの調査によると、この空戦に相当すると思われるのは空母 「べニングトン」第八十二戦闘中隊のF6F-5+六機で、うち九機が厚木上空で十二〜十六機の 日本機と交戦し、四機が撃墜されたことになっている。 戦果や戦闘状況の確認はむずかしいので、この四機が武藤一人であげたものかどうかは不明だが、 地上から見た限りでは二機までが確認されているようだ。 いずれにしても武藤の技倆が抜群なことには変わりなく、源田はこの武藤獲得のため、戦闘七〇 一飛行隊の坂井三郎少尉との交換を横空に申し入れていた。

 坂井は武藤と年齢も同じで、輝かしい 戦歴とすぐれた技倆を持っバイロットだったが、ソロモンの戦場で負傷いらい片目の視力が落ち、 第一線で戦うには無理があった。しかし、横須賀航空隊のような実験研究を主任務とする部隊なら ば、充分にその技倆と経験を生かす余地はあるだろう、というのが源田の考えだったが、横須賀航 空隊としても武藤のような得難いバイロットを出したがらないのは当然で、坂井と武藤との交換話 は五月になっても六月になっても実現しなかった。 約束が果たせないで苦慮している源田の心中を察した菅野は、自分からその中止を訴え出た。

 「杉田の代わりを入れることはなかなか困難な様子ですが、もうこれ以上、司令にお骨折りいただ くことは私としても心苦しいので、無理に武藤少尉を引き抜くことはやめていただきたいと思いま す。私は杉田の後任がいなくてもやっていきますから」 菅野の言葉ではあったが、源田はなおあきらめず、たまたま現地視察の途中で立ち寄った人事局 員に事情を話し、横須賀航空隊との仲介を頼んだ。源田の意を受けた人事局員が横空でそのことを 話したので、それまでこの交換話を握りつぶしていた横須賀航空隊としても、人事局員じきじきの 申し入れとあっては放っておけず、直接の上官である塚本祐造少佐が武藤に話した。

 塚本とすればこの優秀な部下を、遅かれ早かれ死ぬことになるかも知れない三四三空に出したく なかったので、しきりに隊に残るようにすすめたところ、武藤がきっぱりいった。 「それだけ望まれるというのは、男冥利につきます。行きましょう」 こうして武藤少尉の三四三空への転勤が決った。 武藤が大村基地の剣部隊に着任したのは、彼が妻にあてた手紙から推測して七月の十三日か十四 日あたりのようで、この頃に武藤の歓迎会が大村市内の鎮海荘で開かれた。

 厚木上空での勇戦はよく知れ渡っていたので、誰もがこれがあの有名な武藤少尉かと一目置いた が、当の武藤は謙虚そのもので、たとえ自分より年齢も経験も下であっても、階級が上の者に対し てはキチンと礼をつくした。 「あの宴会のとき、武藤さんは若輩の私の前にやってきて静座し、『分隊長、お流れの盃をちょう だい致します』といって盃を差し出した。私はその姿を見て、これこそ日本海軍の至宝なんだなあ と感激した」 海軍機関学校五十二期出身で、分隊長とはいっても大尉になりたてだった小林秀江の話だが、そ の小林は、当時まだ二十三歳。いっぽうの武藤は二十九歳の少尉だったが、その振舞いは彼の 空戦と同様みごとというほかはなかった。

 待望の武藤が着任して申告にやってきたとき、源田はいった。 「菅野を頼むぞ」 初対面ではあったが、戦闘機出身の源田司令に尊敬と親しみを覚えた武藤は即座に答えた。 「私が参りました以上、菅野大尉を殺させるようなことは致しません」 それは男の約束であった。 「飛行機の補充もままならない。燃料も不自由となり、質もどんどん悪くなる。補修用部品も足り ず、可動機が少なくなる。そんな状況が五月頃からひどくなり、七月になると飛べない日がでてき た」。

 飛行長志賀少佐が語る武藤着任前後の部隊の状況であるが、そのため武藤が最初の出動までに充 分な訓練ができなかったのは、彼にとって不幸なことだった。 昭和二十年七月二十四日、武藤にとってその最初の出動の日がおとずれた。 この日の午前、早い時間に機動部隊から発進した数百機の艦載機が、呉軍港方面を空襲して、多 数の艦艇の撃沈破を含む大きな被害を与えた。かつて部隊がまだ松山にいたころは、数十機で待ち かまえて空襲にやってくるところを叩いたが、あれから四ヵ月たった今は飛べる飛行機の数が激減 し、かってのようなはなばなしい空戦は望むべくもなかった。 この日午前九時四分、大村基地を発進して迎撃に向かったのは三飛行隊合わせてわずか二十一機。 林啓次郎大尉が戦死した六月二十二日の喜界島制空戦いらいの、全力出撃であった。

 これに対して敵は数百機の大兵力で、四国を縦断して呉地区を空襲したあと、三十機程度が一梯 団を形成しながら豊後水道を通って続々と南下しつつあった。 源田の作戦はこの帰投しつつある敵の大集団の中から一梯団を狙って奇襲をかけ、ほかの梯団から 応援にかけつける前にすばやく引き上げようというもので、九州東北部の国東半島上空で旋回し ながら基地からの指示を待っていた総指揮官鴛淵孝大尉指揮の紫電改二十一機は、十時二十分、豊 後水道上空に突入した。 下方はるかに、幾つもの梯団に分かれて南下する敵の大集団を発見すると、その一梯団に目標を 定めてまず戦闘七〇一と戦闘四〇七の両飛行隊が攻撃を開始した。

 奇襲のかたちとなったが、敵もさるものですぐに防御体勢をとり、爆撃機を攻撃から守るために 戦闘機の八機編隊が四機ごとに分かれてバリカン運動をはじめた。その運動コースは爆撃機の上を 覆うようにして、数メートルの高度差で互いに交叉するので、爆撃機を攻撃できないだけでなく、 戦闘機の一編隊四機を襲おうとすると、他の四機編隊によって攻撃されることになり、うかつには 近寄れない。 先に突入した戦闘七〇一、四〇七両飛行隊と、反撃に転じた敵戦闘機との間ですでに壮絶な空戦 が展開されていたが、最後に戦闘に加入する菅野小隊八機は、このバリカン運動をする敵戦闘機に 狙いをつけた。

 下には四国、九州の山々がつらなり、その間を群青の太い帯のように豊後水道が南に向けて開け ていた。 そんな絵のような情景の中で、空では敵味方の戦闘機が旋回、上昇、下降と入り乱れて戦ってい たが、戦さなれした菅野はそれにまどわされることなく、冷静に攻撃のチャンスを待った。 菅野が攻撃しようとしていたのは空母「ヨークタウン」および「べニングトン」の戦闘機隊で、 F6F「ヘルキャット」およびF4U「コルセア」だった。

 機をうかがっていた菅野は、F6F編隊の四機と四機が交叉したあと、距離を開いてふたたび内 側に指向しようとする瞬間を狙い、九州寄りの四機の後上方から急降下した。 菅野中隊は、第一小隊は菅野、第二小隊は松村大尉がそれぞれ小隊長兼第一区隊長、第二区隊長 は、菅野小隊が堀光雄飛曹長、松村小隊が武藤金義少尉という三飛行隊の中では最も強力な編成で あった。



大空に消えたエースたち

大空に消えたエースたち、左より、鴛淵大尉、杉田庄一上飛曹、武藤金義少尉




撃墜王帰らず



 四月二十一日、戦闘四〇七飛行隊長林喜重大尉。六月二十二日、二代目戦闘四〇七飛行隊長林啓 次郎大尉。そして七月二十四日、戦闘七〇一飛行隊長兼先任飛行隊長鴛淵孝大尉。いずれも有能な 飛行隊長が相次いで戦死し、部隊編成いらいの飛行隊長は最後の菅野だけになってしまった。 失ったのは飛行隊長だけではない。杉田庄一や武藤金義をはじめ失われた搭乗員の数は、 三月十九日の松山上空邀撃戦から数えても八十名近くなろうとしていた。源田の要請によって搭乗員の補 充が行なわれ、三四三空の錬成部隊となった戦闘四〇一飛行隊からも、つぎつぎに新しい搭乗員が 送り込まれた。

 とはいっても、新しい搭乗員が戦闘になれて戦力を発揮するようになるまでには時間もかかり そのうえ絶対数も減っていたから部隊全体の戦力低下は覆うべくもなかった。 しかも空襲や資材不足で工場の生産能力がガタ落ちとなり、機材の消耗に補充が追いつかない状 況だったから、部隊の保有機数が激減し、せっかく搭乗員が補充されても乗る飛行機がなく、しか も燃料不足で訓練はおろか出撃すら難しい状況となった。 そんな状況から出撃もひかえ、極力温存策がとられるようになったが、それは本土決戦にそなえ た大本営の決定でもあった。だから七月二十四日の出撃以降は、三四三空でも防備と退避に明け暮 れる日々がつづいた。

 空襲警報が発令されると、対空関係員は高角砲、高射機銃などの配備について大村基地の防衛に あたり、整備員その他の基地要員は基地内の防空壕に退避した。 それなのに、搭乗員は特別待遇で、トラック二、三台に分乗して付近の山の中に隠れることにな っていた。飛行機に乗らないとはいえ、多数の戦友を基地に残して自分たちだけ安全な山中に退避 するのは、彼らにとって少なからず心苦しいことであった。しかも隊外の道路に出ると一基地周辺 の人たちが多数、同じように小走りに山に向かっているのに出くわす。 その傍らを砂塵をまきあげて追い抜いて行くトラック上の搭乗員たちは、申し訳ないような思い でまともに目を合わせることができなかった。たまに外出したときなど、そうした人たちの不満の 声を耳にすることがあった。

   「あれだけ敵機がわれわれ国民を苦しめているというのに、なぜ航空隊は邀撃に飛び上がらないの か。食糧、酒、衣類など優遇されている海軍の搭乗員たちは、一体、何をしているのだ」 それが切実な声であるだけに三四三空の隊員たちにはこたえたが、機材や燃料の不足はどうする こともならず、このころになって実施できる唯一の攻撃手段は特攻だけだった。それも第一線機は ほとんど使い果たし、技倆の優秀な搭乗員も少なくなったことから、練習機までが狩り出される ようになっていた。 大村基地へも、内地の練習航空隊を集めて編成された第十航空艦隊の一部が進出してきて訓練を 始めた。とはいっても特殊飛行などは一切やらず、基地の指揮所目がけて急降下をしては低空で引 き起こす、特攻のための突入訓練だけだった。

 複葉の練習機なので、地上から突入訓練を見ていると、たいしたスピードでもないのに主翼がブ ルブルとふるえているのがよくわかった。しかもこれは単なる訓練用ではなく、そのまま特攻機と なる本番の機体だった。 「あんな飛行機では、とても敵戦闘機の警戒網を突破して、目標とする敵艦までたどりつけないだ ろう。そう思うとおそろしくなり、どうせ死ぬにしても、日本最優秀の戦闘機で思う存分戦って最 期をかざることができるわが身の幸運に感謝した」 とはさる紫電改搭乗員の述懐だ。

 それでもこの特攻隊は出撃して行ったが、剣部隊にもこのころ特攻の話はあった。源田司令から 大本営の意向を聞かされた志賀飛行長の反対で沙汰止みとなったが、このことからも最後が近いこ とを誰もが覚悟するようになった。 昭和二十年八月一日。めずらしく出撃命令が出た。占領した沖縄基地から発進したB24爆撃機約 三十機が南西諾島を北進中との情報があり、剣部隊が邀撃することになったからだ。 久しぶりの出撃であり、しかも七月二十四日に戦死した鴛淵隊長、武藤少尉ら六人の弔い合戦と あって、菅野隊長以下全員が勇み立っていた。 午前八時十二分、菅野機を先頭に離陸を開始した。全力出撃とはいっても機数は二十機をわず かに越す程度であったが、士気は旺盛だった。

 菅野隊長の戦闘のうまさは、これまでの経験から誰 もが知っており、この隊長に従っている限り負けないという絶対的な信頼感があった。 以下はこの日の戦闘に参加した堀、三上光雄飛曹長の記述『紫電改空戦記』と、当日の菅野区 隊の列機としてただ一人の生き残りである田村恒春二飛曹の話から構成した戦闘の模様であるが、 その前にこの二人の経歴についてふれておかなければならない。 堀光雄は三四三空に転勤する前は台湾の台南航空隊で教員をしていた。台南空はかって 笹井醇一中尉を筆頭に、西沢広義、坂井三郎、太田敏夫らのトップエースを擁してラバウル航空隊の華とう たわれた名門戦闘機隊だったが、のちに練習航空隊に変わって予備学生や予科練などの若い搭乗員 の教育訓練をやっていた。

 その教育も昭和十九年九月には終わり、近く予想される敵の大規模な攻撃にそなえ、教官や教員 たちもつぎつぎに他の部隊に転出していった。ところが、堀をはじめ二、三人にはなかなか転勤命 令が出ず、そのうちに十月十二、十三両日の台湾沖航空戦があり、堀もっい先まで学生や練習生の 教育用に使われてガタガタになった零戦で邀撃に上がる羽目になった。 その数日後、敵のフィリピンに対する本格的な攻撃がはじまり、台湾は第一線になったフィリピ ンと内地の中継基地として、ひんばんに飛行機が行き来するようになったが、いぜんとして堀たち の新しい任地は決まらず、いらいらしていた。 そんな堀が、内地からやって来た人から耳よりなニュースを聞かされたのは十二月に入ってから だった。新しい「紫電改」という強力な戦闘機が生まれ、この紫電改で部隊が編成されてすでに訓 練が開始されているというのである。

 堀と横山友一、清水俊信の三名に待望久しい転勤命令が出たのはそれから間もなくであった。そ れも戦闘三〇一飛行隊、紫電改の部隊とあって三人は躍り上がって喜んだ。 「おれが三〇一飛行隊長の菅野大尉だ。しっかりやってくれ。堀上飛曹は先任搭乗員だ。頼むぞ」 台湾から苦労して松山基地に到着した初対面の堀に、菅野は簡潔なキビキビした口調でそういっ た。 堀は同じ戦闘三〇一飛行隊の分隊長松村大尉の二番機、清水は菅野大尉の四番機となり、菅野の 列機になったことはないが、先任搭乗員として菅野の意を体して隊をまとめ、飛行兵曹長に昇進し たあとも菅野の信任が厚かった。 余談だが、戦後三上と改姓し、全日空パイロットとして第二の空の人生を送った。

 新しくできた特乙予科練一期生の田村恒春は、昭和二年生まれの最も若い搭乗員だった。 はじめ館山の二五二空戦闘三一五飛行隊にいたが、転勤命令で松山に行き、あとからやってきた 菅野大尉らと合流した。昭和二十年二月に編成があり、菅野の第二区隊長杉田庄一上飛曹の四番機 となった。きびしいが、一方では部下思いの杉田のもとでメキメキと腕を上げたが、四月十五日の 鹿屋での奇襲で杉田と三番機の宮沢豊美二飛曹を失い、その後、二番機の笠井智一上飛曹も負傷し て戦列を離れてしまった。たった一人になった田村は、しばらくの間、連絡などの地上勤務につい ていたが、四月二十一日のB29邀撃戦で菅野隊長の四番機だった清水俊信一飛曹が戦死したため、 田村がそのあとに入ることになった。

 はからずも田村は杉田庄一、菅野直という日本海軍屈指の名戦闘機パイロットの列機になるとい う幸運に恵まれることになったが、先の一番機杉田とともに、菅野についてはかずかずの強烈な思 い出を持っている。 「五月十一日、菅野大尉の列機として初めてB29の攻撃に行ったときの様子は、今でもまぶたに焼 きついて離れない。 煙を吐いている一機を二機ではさむようにして飛んでいるB29の三機編隊を発見した。菅野隊長 の合図で、千メートルほどの一目同度差をもって全速で敵編隊の前方に出た。この間に四機が単縦陣に なり、約四十五度の角度で敵編隊を下に見る位置で切りかえした。隊長機を先頭に背面になり、急 降下しながら射撃を開始した。隊長機が敵の一番機すれすれにかわったと思った瞬間、その一番機 がガクッと機首を下げ、まっ逆さまに墜ちて行った。

 日頃、主翼の付け根を狙えと教えられていた が、まさにその通りやったのを見て、これは神わざだなと思った」 「六月二日の艦載機邀撃戦のときだった。大村から出て大隅半島上空に達したとき、私の乗機の エンジンがストップしてしまった。 『菅野一番、菅野一番、コチラ菅野四番、菅野四番(四番機のこと)。エンジン停止、只今ヨリ不 時着』 電話でそう伝えると、折りかえし菅野隊長から『落チツイテ着陸セヨ』と指示があったので 志布志湾の砂浜に降りた。 尾部から接地してうまく胴体着陸したつもりだったが、飛行機が逆立ちして目の上を計器板に打 ちつけ、一時意識を失ってしまった。

 さいわい志布志の警察署長や陸軍の兵隊がかけつけてくれ、 救助された。警察で治療を受けて二日後に帰隊したら菅野大尉がとても喜んでくれ、すぐ医務室に 行くようにといって隊長用の乗用車を出してくれた。 そのとき、こんなに自分のことを思ってくれる隊長のためならいつ死んでもいいと思った」 「私たち四、五機が燃料不足で出水基地に不時着したことがあった。ふだんあまり見かけない紫電 改の突然の出現で、すわ敵機来襲とばかり基地では大騒ぎだったらしい。 着陸したら整列させられ、『貴様ら、なぜ翼を振るとかして味方識別をやらなかった』といって 基地の中尉から殴られたことがあった。帰ってそれを菅野隊長に話したらひどく憤慨して、 『ヨーシ、俺が行ってそいつをぶん殴ってやる』といってくれた。

 わざわざ大村から出水まで出向いて殴ることはしなかったと思うが、隊長がわれわれを思ってく れる気持が伝って本当にうれしかった」 いずれも田村の回想だが、いかにも熱血漢菅野らしいエピソードである。 ここで本題の戦闘の話に戻ると、 「私は菅野区隊の四番機。一番機はもちろん菅野隊長。二番機は真砂福吉上飛曹で、三番機は誰だ ったかどうしても思い出せない」(田村)は回想する。 堀は菅野区隊の後ろにつく第二区隊長で、菅野区隊四機が滑走路から浮き上がるのを見はからっ て滑走を開始した。

 指揮所にはZ旗があがり、飛行長、要務士、整備員たちがずらり横に並んで帽 子を振って見送った。このころ、源田司令は防空壕の司令室で刻々入ってくる情報に耳を傾け、指 令を発していた。 「見送りの姿がぐんぐん後ろに遠ざかっていった。この人たちは、今日も誰かが帰ってこないと、 いたましい思いで見送っているのだろうか。そんな思いは離陸とともにかき消え、私たち四機は前 方上空でゆるやかに旋回をしている菅野区隊を追い、その後ろについた」(堀) 二十機あまりの編隊を組むのに、それほど手間はかからなかった。 これはかっての一飛行隊の出撃機数に過ぎず、わずか四、五ヵ月前、七十二機とか四十八機とい った大編隊で飛んだあの頼もしい光景は、もはや二度と見られぬものとなっていたのである。

 島原半島を過ぎたころ、エンジンからオイルを吹き出して引き返す飛行機が出たが、編隊は九州 西岸に沿って高度をとりながら南下を続けた。視界は良好で、地図そのままの薩摩大隅両半島を はるか下に望みながら過ぎ、東シナ海に出て高度六千メートルで屋久島近くに達したとき島の西 方、高度五千メートルあたりにB24が二機、編隊を組んでゆっくり旋回しているのを菅野隊長が発 見し、すぐに電話で全機にしらせた。 やがてB24は一機また一機と数がふえはじめた。

 ここは沖縄を飛び立つたB24の集合点になっ ているらしく、ここで編隊を整えたうえで九州に進入するものと思われた。 隊長機の胴体下から増槽が離れるのを合図に、全機一斉に増槽を落とす。落下索を引くとコツン と音がして、増槽はくるくると回転しながら落ちていった。 いよいよ戦闘開始である。各区隊長は列機を振りかえって目くばせする。多少なりとも若い列機 の緊張をほぐし、「さあ、いこうぜ」と気合いをかけるための仕草だ。 紫電改の編隊は獲物を求めて、旋回中の敵編隊の上空に進入した。

 三機と二機の二個編隊にふえたB24は、旋回をやめ密集隊形をとりながら南下をはじめた。日本 軍戦闘機の出現で爆撃行をあきらめたものと思われたが、各銃座から突き出た機銑は、みな紫電改 に向けられていた。 「われわれの編隊は、針路を約五十度南寄りに変え、敵編隊の前方に位置するよう降下気味に進ん だ。 左斜め前方約千メートルにつくと、隊長はチラッと後上方を見たあと機首を下げ、敵と反航態 勢で攻撃に入った。私もとっさに後を追う。 目標は敵編隊の左端にいる二番機。敵五機はいつせいに機銃を撃ち出す。私の風防の外を シューッ、シューッと赤い炎が行き交っている。何を!と照準器を覗きこんだが、それにも曵痕弾がう つった。 一撃かけて敵の後下方の射距離外につき抜けた。急降下の途中、『ワレ機銃筒内爆発ス。ワレ、 カンノ一番』と電話が入った。

 機を引き起こしながら隊長機を探すと、前上方に引き起こしているはずの隊長機が見えない。機 を水平に戻して、四周を見まわしたがやはり見えない。翼を傾けて右下方をのぞくと、ずっと下を 水平に飛んでいるのが目に入った。すぐに降下して隊長機に接近した」「堀」 「B24編隊に対し、まず菅野隊長と三番機が攻撃に入った。つづいて二番機と私。B24の一機から 燃料が吹き出すのが見えた。引き起こしてもう一撃かけようと二番機についたとき、不意に上から 黒い影が降ってくるのが見えた。〈戦闘機か?〉と思ったが、確認もできないまま二番機と私は、 とっさに垂直旋回で退避した。

 そのため、菅野隊長とははぐれてしまい、合流することができなか った」(田村) 菅野機が筒内爆発を起こしたのはその直後と思われるが、電話の感度のせいか菅野の「ワレ機銃 筒内爆発ス」の声を田村は聞かなかったという。 筒内爆発は正確には翼内爆発と書くが、何かの不具合から銃身内で機銃弾が爆発を起こすおそろ しい事故だ。 紫電改は左右両翼に二十ミリ機銃を二挺ずつ装備しており、その威力は絶大だが、それだけに筒 内爆発はへたをすると自機を撃墜することになりかねない。たいてい未帰還になってしまうからわ からないが、これが原因で搭乗員の生命と飛行機が失われることもままあったのである。 これからあとの菅野隊長については、田村は見ていないし、堀もすでに亡くなってしまった今と なっては、堀の記述に頼るしかない。

 「隊長機の左後ろについたとき、隊長機はゆるやかな旋回をはじめた。左翼に孔があいているのが 見え、『やっぱりか!』と思った。 少し高度を高めて近寄り、上からのぞき込む。翼の中央、日の丸のマークの少し右に大きな破孔 がある。一メートル近い日の丸の直径の三分の一ほどの大きさだ。 私のほうをふり仰いだ隊長と目が合った。顔をしかめて『しまった!』といいたそうな表情であ る。爆発によって翼の強度が減じているだけでなく、速力も落ちているので、もはや空戦は無理で ある。あるいは帰還の途中、墜落してしまいはしないかという心配もわいた。電話を使って隊長に いろいろ問い合わせたいが、混信防止を強調されているので、直接戦闘に関係がないことには、無 線電話を使うわけにはいかなかった」(堀) そこで、隊長機を護衛しようと決心した堀と菅野との間で、無言のやりとりが始まった。

 菅野は指先でB24の方向を指示した。「俺に構わず敵を追え。攻撃を第一にしろ」という意味だ。 堀は二、三度、軽くうなずいてみせただけで、離れようとしなかった。 すると今度は、左手で何度も敵の方向を指しながら、堀を睨んだ。いうまでもなく「攻撃に行 け」の催促だった。 「それに対して、私は左手をあげて隊長の意図はすでに了解していることをはっきり示し、頑是な い子供を『よし、よし』とあやすように、大きく二、三度うなずいて見せた。指揮官機を失うのは 列機搭乗員の大きな恥である。

 



握り飯をほおばるヤンチャナ菅野 直大尉。

握り飯をほおばるヤンチャナ菅野 直大尉。




 この際は止むを得ないと、私は隊長の命令を無視した」 だが菅野の指さす方を見ると、上空の紫電改の攻撃ぶりは残念ながらほとんど効果を発揮してい なかった。遠くから撃ちはじめて、早目に避退している様子で、B24は一機の落後もなく飛び去っ てゆく。B24には乗員保護のための強力な防弾鋼板のほか、外周を厚い防弾用のゴムでおおわれた燃料夕 ンクを装備しており、タンクに命中してもゴムが溶けてすぐに破孔をふさぎ、失火しても消化装置 がはたらいて火が消えるようになっていたから、少々の被弾では墜ちないのであった。

 闘志満々の菅野大尉は、指揮官としての立場もあって、一機も墜とさずに逃がしてしまうことに 我慢がならないのであろうか。堀に向かってこぷしを振り上げてなぐる格好をした。 「隊長は飛行眼鏡の中から、キッと私を睨みつけている。完全に怒りだした表情である。私は、少 し前、大村の料亭でいくらかの酒が入った隊長が、どこかの隊の軍医少佐と口論になり、つい ポカポカなぐりはじめた様子を思い出した。 それならば隊長の命に従うより仕方がない。私はバンクしながら目礼を送った。

 怒った隊長の顔 がやわらいだ。思えば、このとき隊長の顔を見たのが最後となったのであった」(堀) 隊長機に心を残しながら堀は空戦場に戻ってB24の攻撃に加わったが、隊長が気がかりで効果的な 射撃ができなかった。もう一撃と思って高度をとっていたとき、レシーバーに「空戦ヤメ。アツ マレ」と指令を伝える菅野の声が入った。 堀はすぐに菅野がいると思われる屋久島海面上空にとって返した。 ところが、一刻も早く隊長機の護衛をと願う堀の意志とは裏腹に、どこにも隊長機の姿が見当た らない。堀の胸は早鐘を打った。そして「カンノ一番、カンノ一番」と幾度か電話で呼びかけてみ たが、何の応答もなかった。

 もしや屋久島海岸にでも不時着したのではないかと、上空から翼を傾けて海岸を念入りに見てま わったが、機体らしいものは何一つなかった。念のため、もう一度「カンノ一番」と呼んでみたが、 応答はなかった。 こうして堀が屋久島付近を飛びまわっているうちに、堀機を認めた紫電改が二機、三機と集まり はじめたので、六機になったところで捜索をあきらめた堀は、一緒に大村に帰ることにした。空戦 で燃料を大量に消費したため、それ以上、現地上空にとどまることは無理だったからだ。 「大村基地に着陸して滑走の行き脚が止まり、整備員が翼の上にあがってきたとき、 真っ先に私は彼の耳に口を寄せて大声で聞いた。愛機のみならず、着陸してくる紫電改のエンジン轟音が滑走路を圧していた。 『隊長は帰られたか』『いいえ、まだです』 整備員はまったく心配していない。

 私は志賀飛行長が、吹き流しの傍に立っているのを見つけると、機から飛び降りて駆け寄った。 『飛行長、隊長機が筒内爆発を起こしました』 『なにツ!』といったきり、飛行長の顔がこわばった。私の目を凝視してつぎの言葉を待つ飛行長 に、隊長機の左翼の破損状況と、隊長がどうしても護衛につくのを許さなかったことを説明し、 『帰途もずいぶん時間をかけて探しまわりましたが、ついに発見できませんでした』 とつけ加えた。驚いた飛行長は、すぐに山の指揮所にいる司令に電話でしらせるとともに、 要務士に対して、鹿児島県の諸基地に菅野機の不時着の有無を問い合わせるよう指示した。だが、いずこの返事で も菅野機の消息は得られなかった。

 もうこのころでは、菅野大尉の名はどこの基地にも知れわ たっていたのであるが……」(堀) この間にも、編隊がくずれてバラバラになった紫電改が、二機、三機と基地のかなたの空に姿 をあらわし、そのたびに飛行長や堀は、それが菅野機であるようにと念じながら望遠鏡をのぞいた。 また、電話が鳴るたびに耳をそば立てたが、いずれもむなしい期待に終わった。 司令や飛行長が最も信頼を寄せていた指揮官を、護衛の任を果たせずに未帰還にしてしまったと 自責の念にかられる堀に、飛行長は「君は隊長の命に従ってB24を攻撃するために離れたのだから ……」といって、何の叱責もなかったという。

 しかし、攻撃の途中で菅野と分離し、あとの事情もしらないまま帰還した四番機の田村は、 「列機として、なぜ隊長機から離れたか」と、飛行長からかなり強い口調で叱られたと語っている。 沈着冷静な志賀飛行長としても、最後の砦ともいうべき菅野隊長の未帰還ということで、かなり気が動転し ていたのではないかと思われる。 願いもむなしく、菅野大尉はその日、ついに帰ってこなかった。

 そして一切の手がかりが得られ ないまま、当分は行方不明者として扱われることになり、お通夜は行なわれなかった。 菅野は筒内爆発を起こし、護衛に近寄った堀機を攻撃に向かわせたあと、どうしていたのか。あ とで堀が「空戦ヤメ、アツマレ」という菅野の電話の声を聞いたというのが事実なら、少なくとも その時点まで菅野は空中にいたことになる。

 もっとも、列機だった田村二飛曹は「筒内爆発」も 「空戦ヤメ、アツマレ」も聞いていないといっており、若干の疑問は残るけれども、これは田村 の乗機の無線の具合が悪かったからということで説明がつく。とすれば、堀が隊長の電話を聞い てから在空地点と思われる屋久島南方海面上空に達するまでの 数十秒あるいは数分の空白の間に、何かが起こったと考えられる。 参考までに菅野の最後を確認する公式文書として、飛行長志賀少佐名で書かれた昭和二十年八月 十日付の見認証書を次に紹介すると以下の通りである。「海軍大尉菅野直 右者、第二四三海軍航空隊戦闘三〇一飛行隊長として勤務中、昭和二十年八月一日敵編隊南西諸 島北進中の報に接するや、これを邀撃して撃滅すべく紫電二一型『343-A-01・2号に搭乗、○ 八二一大村基地発進。

 一〇〇〇屋久島北方上空高度五千メートルにて編隊を成形しつつ北上せんと する敵B24約三十機編隊を発見、ただちに接敵、勇猛果敢な反覆攻撃を開始す。勇戦奮闘よく 二機を撃墜するの赫々たる戦果をあげ、全軍の士気を大いに昂揚せるも、 一〇一五高度六千メートルの優位よりP51六機の奇襲を受け、壮烈なる戦死を遂げり。右見認す」



大分空のガンルームでのスナップ。

大分空のガンルームでのスナップ。




 これによると、菅野はP51に撃墜されたことになっているが、堀の記述にはP51は出てこない。 冒頭にも紹介したが、一九四五年八月一日のアメリカ第五空軍第三四八戦闘集団の戦闘記録によ ると、この日午前九時過ぎに沖縄の伊江島基地から発進した四機のP51が九州西南の海面上空で、 B24爆撃機編隊を攻撃していた十六機のフランクを下方に発見し、優位の体勢から攻撃を加え、個 個に四機を撃墜したとあり、撃墜時間がいずれも十時十五分となっている。

 フランクというのは日本陸軍四式戦闘機「疾風」のアメリカ側のニックネームであり、菅野が乗 っていたのは海軍の「紫電改」である。しかし、陸軍の疾風部隊が同時刻に屋久島方面に出動した という記録は見当たらないところから、彼らがフランク「疾風」だと思ったのは、実は紫電改であった可能 性はきわめてたかい。 なぜなら、P51とP47、あるいは双胴のP38のように外見上の相違がはっきりしているものは別 として、空中にあっての日本機、とくに単発戦闘機の正確な識別は彼らにとって困難であったろう し、疾風と紫電改は同じエンジンを装備していたからなおさらだったと思われる。 堀の記述にP51はないけれども、見認証書にある以上、誰かがP51の出現を見ているはずである。

 残念ながらその証言は得られないが、菅野の列機だった田村二飛曹が、B24編隊に対して二撃目を かける隊長機と三番機に続こうとした際、上空から降ってきた黒い影に気づき、とっさに垂直旋回 で逃れたといっているのは興味深い。 田村はその黒い影の正体を確認していないが、おそらく非常な高速で飛行する小型機が近くをかす めたと考えられ、アメリカ側の記録にあったようにそれがP51の優位な体勢からの奇襲であった とすれば、避退するのが精いっぱいでその正体を見る余裕などなかったとしてもふしぎはない。ま た、B24の攻撃に専念していた堀が、少し離れたところで発生したP51の奇襲に気づかなかったの も当然と考えられる。

 残るはアメリカ側の主張するP51、四機がそれぞれ一機ずつの合計四機を撃墜したとする主張と、 菅野隊長も含めて三機しか失っていない日本側の記録との違いだが、これは空戦の撃墜報告の通例 からしてもたいした問題ではない。 ただし、もしアメリカ側がいうように撃墜四機が日本陸軍戦闘機疾風との空戦で発生したのだと したら当然、日本陸軍戦闘機隊が行動していたことになるが--どうだろう。紫電改が攻撃されたの は別のP51編隊か、あるいは疾風と空戦をまじえたのと同じP51のいずれかということにな るが、アメリカ側の日本機の機種識別が正しいとすれば、先方の記録にない以上P51による紫電改の 撃墜はないことになる。

 とすれば未帰還となった三機の紫電改のうち、戦闘七〇一飛行隊吉岡資 生上飛曹と戦闘二〇一飛行隊森山作太郎一飛曹の二機はB24によって撃墜された可能性が高い。た だしB24の乗員による日本機撃墜の記録はない。

 残る一機の菅野大尉機は、筒内爆発で早期にB24攻撃から脱落しているので、すくなくともB24 による被撃墜はあり得ないから、いずれにしても菅野機はB24にもP51にも撃墜されていないので はないかという推測が成り立つ。 もちろん、すでに主翼に破孔があって戦闘不能となり、しかも単機で援護すべき列機もいない菅 野機をP51によって撃墜するのはきわめて容易であり、この種の記録が完壁であり得ないことを思 えば、撃墜された可能性がまったくないわけではない。

 だが、その最後は誰も見ていないし、それ を確認するすべも今となってはない。 あと考えられるのは、飛行不能になって墜落したか、もはやこれまでと覚悟してみずから水中に 突入したかのいずれかだが、一つはっきりしているのは、不敗の撃墜王菅野直にとって、むざむざ 敵機によって撃墜されるのは最大の屈辱だったということだ。 ここで、冒頭に紹介した中学四年生のときの菅野の日記を思い出していただきたい。

 「僕の瞳を左上から右下に切り下げたものがある。金星の流れ星だ。夕タッターと一丈ばかり 下界に向って突進した。気持がすうっとした。すると亦なんだか悲しいような気持が心を占領した めぐらしい。悲しさに身が小さくなったようだ。あその後天空には何もない。頭を廻らせば 東の方に星は仲よく私語いていた。人生はこれ閾干(らんかん)たる星辰の明滅の間」 七年前、十六歳の菅野少年は、すでに自分の最後を予知していたかのような文章を書いている。 異色の撃墜王菅野直の最後を飾るのにもっともふさわしい表現であり、これ以上つけ加える言葉は 何もない。因みに、この日の菅野機は愛機の「343-A-15」号機ではなく「343-A-01」号機での出撃であったという。 これもまた事故に何らかの関連があったのか、今では確認する術も無い。



指揮所で順番待ちをするサングラス姿の菅野 直大尉。

指揮所で順番待ちをするサングラス姿の菅野 直大尉。




エピローグ



 菅野大尉死す!そのとき受けた衝撃の大きさを、司令の源田はその著書(『海軍航空隊始末記』)の中で次のように 述べている。 「"菅野大尉帰らず"の報は、三〇一飛行隊はもちろん、全航空隊に異常な衝撃を与えた。司令の私も、 相次いで三人の隊長を失い、今また最後の一人、菅野大尉を失ってガッカリもし、自分の弟を失った ような悲しみを覚えた」 "自分の弟を失ったよう"というくだりに、源田の菅野に対する思いがうかがえるが、源田はこの 菅野の数々の戦功にむくいるため、戦争が終わって一ヵ月以上も経った昭和二十年九月二十日、海 軍大臣あてに菅野の二階級特進を具申している。敗戦後の混乱、そして実質的には日本海軍が崩壊 したさなかにあって、なおこうした具申をキチンとしたところが源田の偉さだが、これが認められて 菅野は終戦後に海軍中佐になった。

 源田は前出の著書で、菅野についてこう書いている。 「彼の戦闘ぶりは上杉謙信流で、つねに最先頭に立ってみずから奮戦した。多くの指揮官は、先頭 に立って最初の攻撃はかけるが、二撃以後は上空に占位して全戦闘を大所高所から指揮し、必要に 応じて戦闘に加入するのを例としていたが、菅野隊長は最初から最後まで指揮官兼一列兵として戦 った。ほとんどの戦闘で、飛行隊の中で撃墜機数がもっとも多いのは彼であった。飛行隊が苦戦に 入ったときなど、彼はただ一機戦場に踏みとどまって部下列機の避退を容易にした。こんなところ にも、彼が若年の飛行隊長でありながら、多くの老練の部下パイロットを掌握して、ピクリともさ せなかった統率の一端がうかがわれるのである」菅野を称して上杉謙信とは言い得て妙であるが、 実は源田自身も謙信流の戦いを好んだのではあるまいか。

 源田は、戦闘機パイロットとして優秀な技倆の持ち主だった。若き日、彼は横須賀航空隊戦闘機隊長 となったが、間瀬平一郎、青木与両兵曹を列機とした三機編隊によるアクロバット飛行を全国 各地で行なわれた飛行機の献納式で被露したことから、「源田サーカス」の名は天下に鳴りひびい た。 それほどの技倆の持ち主でありながら、源田は実戦で敵戦闘機とまみえたことがなく、したがっ て撃墜の記録もない。 優秀な源田に目をつけた海軍の上層部が、早くから源田を実戦部隊から引き上げて幕僚のコース を歩ませるようにしてしまったからだが、おそらく源田は、若いときに果たせなかった自分の 夢を菅野に託そうとしたのではあるまいか。

 源田については、旧海軍軍人の中でも評価がわかれ、必ずしもいい話ばかりではないが、すくな くとも部下の掌握、とりわけ個性が強すぎていささか扱いにくい菅野を心服させ、彼の能力を 最大限に引き出したという点では、すぐれたマネジャーだったといっていいだろう。 菅野は脱外出の常習犯だった。軍隊にとっては重大な軍規違反である。しかし、菅野にとっても 彼の部下たちにとっても、若いエネルギーを発散させることは、戦力発揮に欠かせない行為であった。 源田はそれによき理解を示し、あえて彼らの脱法行為には目をつぶってわがままを許した。 剣部隊の任務は、怒濤のような敵の進撃をくいとめるため、一機でも多くの敵機を墜とすことであり、 ほかのことは瑣事に過ぎないという源田の大局的判断からであった。

 国分基地で、部下の宮崎勇少尉と脱外出をした菅野は、温泉の浴槽の中で源田とばったり会って しまった。さすがの菅野も小さくなっていたところ、笑いながら、 「気をつけて帰れよ」 といっただけだった。もちろん、あとから何のおとがめもなしである。 もっとも、こうしたことの背景には、「日本海軍のリベラルな空気があった」 と語るのは、角田中学から一緒に海軍兵学校に入った同郷の小島光造であるが、松山のクラブで飲ん で大騒ぎしていた菅野が、「うるさい」といわれたのに腹を立てて隣室に乱入したとき、怒った 参謀たちを制して「もうよい、帰れよ」といって静かに菅野をたしなめた某少将の話などはまさ にその好例といえよう。

 とにかく、菅野は元気があった。 戦闘だけでなく、日常の生活もそうで、夜な夜な脱外出したのもあり余るエネルギーを吐き出す ためであった。飛行作業の余暇に行なわれた騎馬戦ではいつも上に乗り、ガキ大将よろしく暴れま わった。もっとも予科練出身の若い搭乗員などは、大っぴらに隊長をやっつけられるのはこのとき とばかり、菅野に手荒く突っかかっていったらしい。 菅野には飄々としたところがあり、茶目っ気もかなり旺盛であった。そして、その行動は一見あ っけらかんとして屈託がないように見えたが、その心の奥には圧倒的な敵の戦力に対して、ままな らない歯がゆい思いがたえずうずまいていたようだ。

 戦闘三〇一飛行隊で杉田庄一上飛曹(戦死後二階級特進で少尉)の列機だった笠井智一の記憶して いるエピソードにそれがうかがえる。 笠井は初代三四三空、通称「隼」部隊いらい、ほとんどの戦闘に菅野とともに参加しており、 昭和十九年秋に新品の飛行機受領のため、菅野がフィリピンから内地に帰った際にも空輸員の一人として従った。 日中は受領する飛行機の試験飛行をはじめ、厚木や鈴鹿などへの出張で、せっかく故郷から会い にきてくれた親友にも会えなかったほど多忙な菅野だったが、夜になると部下と一緒によく遊んだ。 そんなある日の夕食時、横須賀の軍需部からせしめてきたウイスキーをチビリチビリやりながら、 珍しく神妙な顔つきで菅野がいった。

 「この戦争は日本が必ず勝つとは限らない。今の戦況では非常に危険な状態にあり、われわれは 一刻も早くフィリピンに飛行機を持ち帰って何とか打開しなければならない」 戦争に負けるとの言葉はなかったが、それをにおわせるようなことをいわれたのを思い出すと、笠井は語っている。 菅野は合理的な考えの持ち主だったから、決して"皇国不敗"などとは考えていなかったに違いない。 それどころか、最前線でつねに敵としのぎを削って戦っている身であれば、いや応なしに思い知 らされることであったし、司令に近い彼の立場からすれば、日本がどれほど悲観的な状況にあるか もよく知っていたはずである。 菅野はこのときすでに日本の敗戦を予感し、死の覚悟を決めていたと思われるが、ごく親しい友 人を除いてはそれを口にすることはなかったし、またヤケになることもなかった。

 そしてどんな不 利な状況下にあってもつねに最善をつくし、一そのなかで最高の戦果をあげることに生き甲斐を求め ていたようだ。 特攻についても、彼が飛行機受領で内地に帰っていた間に同期の関行 男が隊長として出撃したこ とを知り、 「俺が関のところをやるんだった」 といって口惜しがった菅野であったが、その後、彼の心境は微妙に変化している。 昭和二十年六月二十一日、同じく同期でドン亀乗りの武藤敏雄が大村基地の菅野をたずわたとき の言葉がそれを物語る。

「関は雄々しくフィリピン沖に特攻攻撃をかけて散って行った。しかし僕(菅野は親しい友人には 俺といわずに僕といった)は特攻はかけない。敵を攻撃し、絶対に生きのびて反復攻撃をくり返す 自信があるよ」 そのときの彼は相変わらずの澄んだ瞳を輝かせながら、興奮する様子もなく語ったと武藤はいっ ているが、度重なる空戦ですっかり腕を上げた菅野は、絶対に死なないという自信を持っていたよ うだ。 飛行学生時代、飛行機を四、五機こわして"菅野デストロイヤー"の仇名をちょうだいした菅野 だったが、それは決して彼の技倆がへただったからではなく、タブーとされていることに対し てなぜそうなのか試してみたいという旺盛な探求心(あるいは好奇心)と、ちょっとしたいた ずら心がもたらしたものだと考えられる。

 もし飛行機をこわしたことで不適格とされ、菅野が飛行機搭乗員のコースからはずれていたとし たら、日本海軍は大変な損をしたことになる 何しろ、菅野の公認撃墜数は協同撃墜二十四機を含めて四十二機、三四二空以前の個人撃墜破三 十機を加えると実に撃墜破七十二機に達する。それも高価な第一線機ばかりで、なかには四発大型 機も含まれている。菅野が飛行学生時代にこわしたのは練習機数機-これでも大変な数だが 実戦でこわしたぶんを含めても問題なくこちらの得である。 菅野は空戦の技倆が抜群のうえに、度胸もよかったが、それに加えて強い運の持ち主であった。

 いわば三拍子そろった撃墜王ということになるが、彼の運にまつわる一つのエピソードがある。 戦局がしだいに日本側に不利に傾くようになってから、前線の兵隊の中でコックリさんという占 いがはやるようになった。 コックリさん占いは、まず新聞紙大の白紙に、アイウエオの五十音の文字、一から十までの数字 および曜日を大きな文宇で書く。 つぎに二十五センチほどの長さに切った白い雌竹を三本揃え、真ん中をひもで結んで三脚をっく る。その三脚の上に丸い蓋をのせて白布をかぷせ、小さな祭壇として供物を捧げた三脚を文字が書 いてある紙の上にのせる。

 からだを清めて祭主となった者が三脚のうちの一本を、もう一本を別の者が持ち、残りの一本を フリーにしておく。そこで祭主になった者が「三州三河の国、豊川稲荷大明神、……」とか何とか 呪文をとなえ、それが最高調に達すると、ふしぎなことに二人が押さえている三脚がゆっくりと文 字の上をすべり、フリーの脚がそこの文字のコツンと叩く。これをくり返すと、たとえば「いつ内 地に帰れるか」といった願いごとに対する答えをコックリさんが出してくる。 フィリピンでも菅野の部下たちがこれをやろうとしたが、どうしてもコックリさんが動かないの で占いができなかった。しらべてみたら菅野隊長が戌年生まれであることがわかった。

 お稲荷さんの使いであるコックリさんは犬がきらいだったから、恐れをなして現われなかったの である。もっとも、菅野にずっと従っていた杉田や笠井たち搭乗員は、特攻指名をまぬがれてその 後内地に帰ることができたのだから、コツクリさんより菅野のほうがよほど確かな守護神だったと いえる。 それだけではない。ある手相見が、菅野の手相を見て、「この人は絶対に死なない」といったと 源田はその著書の中に書いているが、その強運の菅野にしてなお機銃の筒内爆発という不慮の 災厄を避けることはできなかった。 もっとも菅野の性格からすれば、おそらく耐え難い衝撃となったであろう敗戦を知らずに死ん だことは、むしろ天運であるという見方も成り立つ。

 ともあれ愛機が筒内爆発を起こし、近寄ってきた堀機を追い返したあと、ただ一機大空の中に取 り残された菅野は、奇妙な寂蓼の中で何を考えていたのだろうか。 おそらく、七年前に自分の運命を予知していた菅野は、今こそそのときがおとずれようとしてい るのをはっきり知覚したのではあるまいか。 稀代の英傑西郷隆盛は西南の役に敗れたあと、郷里の城山に戻って自刃したが、逃避行の途中、 敵弾を受けた西郷は従っていた部下の別府普介に「普どん、もうよかろう」といって介錯を命じている。

 この西郷の「もうよかろう」こそ、当時、空にあった菅野の心境であったように思わ れてならない。それはやるべきことをすべてやり、二十三歳十ヵ月の生命を燃焼しつくしたという 満足感ではなかったか。菅野隊長も死んだ。これで飛行隊長は、戦闘四〇七飛行隊二代目の林啓次郎 大尉を含めてすべて 戦死した。代わって戦闘三〇一飛行隊長には兵学校七十一期の松村正二大尉、四〇七飛行隊長には 菅野と同期の光本卓雄大尉、七〇一飛行隊長には松村と同じ七十一期の山田良市大尉がそれぞれ昇 格した。

 「この頃は、もはや一機の飛行機も補充されなかったし、一人の搭乗員の補充もなかった。この戦 況において、飛行機や搭乗員の補充を要求すること自体が無理であると考えた私は、現在手持ちの 人員、機材をもって最後まで戦う腹を決め、八月に入ってからは一切の補充要求を取り止めた。私 の腹を察したか、飛行長志賀少佐は紫電改の慣熱飛行を始めた。彼が指揮官として出て行っても、 この状況では一ヵ月持つか持たないかであろう。彼が戦死したならば最後に私が出る。私としても 何回の空中戦闘に耐え得るか疑間であった。」それにしても紫電二一型の生産数が少な過ぎたの否めない、この機が 数千代の数に達していればもう少し最後の散り花を咲かせられたのであろうが、陸軍の大東亜決戦号と言われた陸軍ご自慢の キ-四八「疾風」位の数は欲しかった。日本海軍はあまりに零戦に頼り過ぎた。しかし、紫電改数がいかに多くとも 敗戦とになるのは間違いなかったのである。ただそれをいくらかでも先に延ばすこと位であったろう。

 『武人らしい、飛行機乗りらしい最期をとげたい というのが私の希望であり、隊員全部の希望でもあった』源田著(『海軍航空隊始末記』) 菅野戦死前後の部隊の状況について源田はそう述べているが、やがて剣部隊あげての最後の出撃 のときがやってきた。 八月八日、戦爆連合二百数十機が、天草方面から九州に侵入して来た。これとは別に、中国大陸 からは北九州工業地帯を狙ってB29もやってきた。 午前七時半、先任飛行隊長光本大尉のひきいる戦闘四〇七(第一中隊)、松村大尉の戦闘三〇一 (第二中隊)、山田大尉の戦闘七〇一(第三中隊)の順にやや時間を置いて大村飛行場を離陸した。 相次いだ爆撃で飛行場は孔だらけとなり、往時のような大規模な編隊離陸はできなくなっていた。 有明湾上空でP47、P51戦闘機をともなったB24リベレータの大編隊・を発見し、北九州工業地帯を目指す敵 機群と乱戦になった。そして北九州上空では新たにB29とこれを護衛するアメリカ戦闘機を発見し たため、各中隊ともバラバラに分散しての攻撃となり、あまりにも優勢な敵の前に紫電改の犠牲が 次々に出た。

 とくにB29は難敵で、戦闘四〇七飛行隊分隊長、二十二期操練出身で三十二歳のベテラン 石塚光夫少尉はB29を攻撃して被弾し、空中分解した機体とともに熊本県益域郡三加和町の山中に墜落、 戦死した。 「チャン」の愛称で親しまれた石塚少尉は妻帯しており、飛行場に残飯をあさりにやってくる 野良犬をいじめる隊員がいると、真剣に怒るやさしい心の持ち主であった。石塚の墜ちた三加和町には 地元の人たちの手によって墓碑が建立されている。 同じく戦闘四〇七分隊長服部敬七郎大尉もB29を攻撃中に被弾し、重傷のまま落下傘降下して一命 は取りとめたものの、左腕を失った。

 このほか、戦闘四〇七飛行隊の益本栄上飛曹、久多見政行上飛曹、西本宣之二飛曹、久世龍郎二 飛曹、戦闘三〇一飛行隊の須崎重雄上飛曹、戦闘七〇一飛行隊の横堀嘉衛門上飛曹、油田未治二飛 曹の七人が戦死しているが、なかでも戦闘三〇一飛行隊須崎重雄上飛曹の壮絶な最期は、菅野隊長 亡きあとの変わらない飛行隊の士気を象徴するかのようであった。 基地を発進して一時間と少し経った午前十時ごろ、太宰府上空で二十機のB29編隊に遭遇した 須崎上飛曹は、その一機に左前方から体当たりを敢行した。須崎機はそのまま墜落したが、 ぶつけられたB29も火を発し、その後、壱岐島東方の海上に墜落したことが確認され、のちに 菅野と同様、二階級特進が上申された。

 この日の戦闘はいつものことながら圧倒的に数の多い敵に小数機で立ち向かったのであるが、 P47サンダーボルトやP51マスタングといった米陸軍の強カな護衛戦闘機が多数ついていたことが攻撃をいっそう困難にしたし、若年搭 乗員の増加で全体の技倆レベルが低下したことも被害を大きくした一因であったと、 「源田は著者の中で」そう述べている。 「この戦闘には特筆すべきものはない。ただいって置きたいことは、この頃は、飛行機も少なく熟 搭乗員の数もずいぶん減っていたが、士気については、それこそ一分の衰えも見せなかったとい うことである」(『海軍航空隊始末記』)それは決して誇張ではなかったが、やはり菅野亡きあとの 部隊には、何かが欠けたような一抹のさびしさは拭えなかった。

 菅野には彼がいるだけ で周囲を明る くする天性と、彼がいる限り大丈夫と思わせる絶大な信頼感があり、部隊にとってそれだけ大きな 存在だったのである。 八月九日、燃料も機材も欠乏して飛行作業もままならない部隊では、飛行長、各飛行隊長、分隊 長を先頭に搭乗員全員が基地の裏山に登山することになった。 山の中腹まで登ったとき、誰かが「落下傘!」と叫んで大村湾を隔てた山の向こうを指さした。大 きな落下傘が見えた瞬間、突然、頬に暖か味を感じる巨大な閃光が目に入り、やや間を置いて 大音響とともに巨大なキノコ雲がムクムクと上昇するのが見えた。上空には白く光ったB29が一機、 東南の方向に飛び去って行った。この時まで菅野大尉が戦闘三〇一を指揮していたら原爆投下以前に 撃墜したかもしれないというのも見逃せないであるが、現状としてこの時点で源田大佐は、航空機、燃料ともに温存のため 出撃はしなかったとうのが現実であった。

 「原子爆弾だ!」 すでに三日前に広島に落ちた新型爆弾がそれであることを電信情報で聞いて知っていたので、全 員、急いで下山した。 八日から九日未明にはソ連が中立条約を破って参戦し、事態がいよいよ最後の段階を迎えていること は誰の目にも明らかだった。 八月十二日、三四三空にとって最後の出撃があった。長崎県一帯に来襲した戦爆連合の敵機群の 親撃で、戦闘の詳細は不明であるが、戦闘四〇七飛行隊分隊長大塩貞夫大尉(兵学校七十二期)が 戦死した。

 八月十五日終戦。どこもそうであったように混乱はあったが、源田のすばやい行動と的確な判断 で事態を収拾した。終戦から四日後の八月十九日、第五航空隊司令部の指示に従って血気盛んな搭 乗員や現役隊員から先に復員することになった。 「大村を引きあげたのは八月二十一日か二十二日ごろだったと思う。家に帰ってからもしばらくは、 今ごろ菅野隊長は大村に帰っているかなあと思い続けた」 菅野の最後の列機となった田村はそう語っているが、結局、菅野は帰らず、源田実司令による九月二十 日付けの二階級特進の具申をもって正式に戦死と認定されたのであった。そして最後の撃墜王伝説は終わりを告げたのであった。

 菅野の遺骨はないが、魂は故郷に還った。だが菅野大尉が今でも明るい笑顔で突然帰還するような気がしてならない。 だれも大尉の最期を見たものはいないのであるから、益々そう思いたい心境に駆られてしまうのである。 今、菅野 直中佐は仙台の南約三十キロ、東北本線の槻木駅から阿武隈急行に乗りかえて四つ目の宮城県角田市島田 に菅野家の菩提寺国平山称念寺があり、菅野家累代の墓と並んで、「故海軍中佐菅野 直」の墓が共に戦い散華していった戦友たちを偲ぶように、 遠い彼方を見つめ静かな佇まいの中にひっそりと建っている。 戒名は快男子菅野大尉にふさわしく、「隆忠院功誉義剛大居士」と言う勇ましい戒名が掘り込まれている。今頃、菅野直大尉は大空の彼方からイヤ"それほどでもないよ"と、 笑っているかも知れない。きっとそう思う。ヤンチャナ彼のことであるからきっとそう言っているだろう。 菅野大尉は帰らなかったが、彼等、英霊の自己犠牲的精神の勲があればこそ、 現在の日本の繁栄があるのだと思うと、只々冥福を祈るのみである。       合掌



松山三四三空で戦闘第三〇一飛行隊長をつとめた菅野 直大尉。

第三四三航空隊「剣部隊」戦闘第三〇一飛行隊長をつとめた菅野 直大尉の勇姿。




藍き空の果てに ますらをは還らじ


  いま故郷の山河の 野辺の花となりて


    母のみむねに帰り咲かなむ


         献歌  管理人   





































(更新/2005/08/13) 月遅れのお盆の入りに記す。 Homepage Owner Kanno






参考文献 
光人杜・刊 碇 芳郎・著
最後の撃墜王・ 紫電改戰闘機隊長・菅野 直の生涯
光人杜・刊 豊田穣・著 蒼空の器 若き撃墜王の生涯
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第5巻・ ソロモン海戦
文芸文庫・刊・源田實・著・海軍航空隊始末記
モデルアート社・刊 日本海軍機の塗装とマーキング「戦闘機編」

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