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gunkanki


第二航空戰隊司令官

角田覚治中将・T


第二航空戰隊司令官・角田覚治中将

経 歴
明治23年生まれ、新潟県出身。
海軍兵学校39期(明治44年7月卒業)。
3・4航戦司令官を経て、昭和17年 7月
第2航空戦隊司令官となる。
同 年11月中将に進級。
18年7月、第1航 空艦隊長官。


音に聞にえた猛将・角田覚治少将。海軍兵学校教頭時代に 「飛行機がなくとも戦わねばならぬ」と檄を飛ばし、図らずも自身の最期を予言した。






みずからの最期をピタリと予言

 知っている人は、口をそろえたように"見 敵必戦"の猛将であったという。しかし、開 戦当時は、必ずしも正当に評価されていなか ったのではないか。履歴を見ていると、そん な疑問がわく。その能力を十分に発揮する機 会が与えられなかったような気がする。 明治二三年(一八九〇)九月、新潟県南蒲 原郡本成寺字(みなみかんばらぐんほんじょ うじすわしんでん)諏訪新田に生まれる。

 県立三条中学を経て、明治四四年七月、海兵卒。 大正七年(一九一八)四月、海軍大学校(乙) 卒。同年二百、砲術学校(高)卒。そのた めに、しばらくは各駆逐艦などの砲術長を務 める。 大正一二年一二月、海大(甲)卒。以後、 各参謀、艦長などを歴任する。昭和一一年一 二月、海兵教頭兼監事長に補されるが、ここ で彼らしいエピソードを残している。

 二一年のある日、当時第二連合航空隊参謀 だった源田実少佐が、海軍兵学校にきて講演 を行なった。源田は、日ごろからの持論であ る航空機の重要性を盛んにアピールした。終 わって源田が壇を降りるやいなや、教頭とし て会場に姿を見せていた角田大佐(当時)が ただちに登壇して、 「われわれ海軍軍人は、飛行機がなくても戦 わねばならない」 と、やったというのである。

 この角田の言動は、元来"鉄砲屋"の彼が、源田の力説す る航空機万能論にムカついたためと解釈され ている。そうであったかもしれない。しか し、どうであろう。飛行機の大量生産の見込 みが立たないのに、やたら先見の明ばかり誇 る人間に反発を覚えたとしても、とくに不自 然とは思われないのだが。また、この「飛行 機がなくても戦わねばならぬ」という角田の 言葉は、昭和一九年テニアン島で迎えた彼自 身の最期をピタリと予言しているかのよう である。

 以上のように角田覚治(かくたかくじ)は砲術 の専門家であり、軽巡木曽、重巡古鷹、練習艦磐手、戦艦 山城、同長門の各艦長を歴任するなど海上勤 務が豊富あったが、それから以後は航空に かかわるようになる。一五年一一月、第三航 空戦隊司令官となり、一六年九月、第四航空 戦隊司令官に転補された。 開戦後の第一段作戦における角田少将は、 小型空母龍驤一隻を与えられただけで、ダバ オの攻撃、蘭印(オランダ領東インド)の攻 略、インド洋作戦などに参加、それなりの役 割を果たしていた。

 第二段作戦の壁頭、ミッドウェー作戦が強 行された際、角田は困難なアリューシャン作 戦の担当を命じられた。六月とはいえ、北洋 は悪天候が必至である。そのう、今度の空 母は、約一ヶ月前に竣工したばかりの商船橿 原丸(かしわらまる)を改造した隼鷹であった。 ちなみに、改造空母というのは、そもそも主機関 の構造からして正規の空母と違っている。一定の経済 速力で走るぶんには問題はなかったが、速力 を変える場合には不便であり、かつ無理がと もなった。

 空母は戦場に至ると、搭載した航 空機を発着させるために、たえず速力を変換 させねばならない。 さらに、新編成の飛行機の整備を一ヶ月足 らずの間にやりとげた角田は、隼鷹に坐乗し て五月二六目、青森県・大湊(おおみなと) を出航、六月四日北洋の荒天を衝いて搭載機 を発進させ、ダッチハーバー攻撃を実施している。別働隊が アッツ、キスカ両島を占領したが、ミッドウ ェー海戦の大敗北で度を失った連合艦隊司令 部の緊急命令を受けて、隼鷹がしばらくミッ ドウェーの方向に走るというおまけまでつい て、本作戦は終了した。



裸一貫となっても



 続くガダルカナル攻防戦には、角田覚治は いぜん改造空母隼鷹に坐乗し、南太平洋海戦 以降に活躍する。ガ島戦における第一回目の 空母決戦第二次ソロモン海戦を戦ったの は、第三艦隊司令長官塵着中将直率の翔鶴 、瑞鶴、龍驤からなる第一航空戦隊であった。 この戦闘で龍驤が沈没した。 同年七月、ミッドウェー沖海戦の敗北後、連 合艦隊の全面的な編成替えが行なわれ、角田 は第三艦隊魔下の第二航空戦隊司令官に補さ れた。

 角田の指揮下にある空母は、新造の飛 鷹、隼鷹、瑞鳳の三隻であった。本来であれ ば飛鷹が旗艦となるはずであったが、南太平 洋海戦の直前にエンジン・トラブルを起こ し、トラックに帰っていた。旗艦は隼鷹に変 更されたのであった。当時のパイロットは、 ミッドウェーで母艦と搭乗機を失った蒼龍、 飛龍の生き残りが中心となって編成され、ベ テランがそろっていた。 南太平洋海戦は、ほとんど同時に彼我双方 の空母から飛び立った攻撃隊が、相手の母艦 めがけて殺到するという激烈な戦闘形態を呈 したが、敵発見の報に接したとき、隼鷹は一 航戦よりも遠い位置にあった。

 これより先の 第二次ソロモン海戦で喪失した龍驤の代わり として、一航戦に瑞鳳をまわしてしまってい たので、いまや角田の手持ちのコマは自分の 乗る隼鷹一隻しかなかったのである。 しかし、たとえ裸一貫となっても、敵に向 かって肉薄するのが角田の身上である。そこ には、何のためらいもない。隼鷹は、全速で 敵空母のいる方角に向かって突進を開始し た。といっても、隼鷹の最大速力は二五・五 ノット(47.22キロ)しか出なかったが。

近くの洋上には、近藤信竹中将の率いる前 進部隊(第二艦隊)の艦艇が散らばってい た。いずれ劣らぬ駿足ぞろいの戦艦、巡洋艦 群であった。そのなかを改造空母が一隻、ぐ んぐん抜けていく。したがうのはわずか駆逐 艦三隻だった。



猛将・角田の面目躍如



 隼鷹は、午前七時一四分、敵空母との距離 約二八○浬(約519キロ)になったと判断される地点で、零 戦二一、艦爆一七からなる第一次攻撃隊(指 揮官志賀淑雄大尉)(しがよしお)を飛ばした。 攻撃隊は予定の飛行距離をのばして三〇〇 浬(約556キロ)を飛び、ようやく敵を発見したが、空母は すでに大破して傾いていた(注、米空母ホー ネットであった。この空母は日本本土初空襲を行った時にドゥーリットル飛行隊を日本近海まで輸送した空母)。とまどっているうちに味 方の一隊が、近くの洋上に広範囲な雨と濛気 をもたらしていたスコールにまぎれて、高速 で疾走している敵空母部隊を発見した。

 九時二〇分、攻撃隊はこの空母に挑みかか り命中弾三発を数えた、と記録にある。わが ほうの被害も大きく、艦爆一七機中その一一 機を喪失した。この空母はエンタープライズ であった。この攻撃で前部エレベーターが使 用不能となって搭載機の格納が思うようにい かず、エンタープライズは戦意を失い、霧の中 艦艇をつれて戦場から避退を始めている。 隼鷹艦上の角田少将であるが、その後南雲 部隊(一航戦)と合同するよう命令を受け、 午前一〇時二〇分ごろ水平線上に南雲部隊の マストを発見した。

 当時隼鷹は、翔鶴、瑞鶴など他艦の艦載機 を一〇機収容していた。角田は、このなかか ら使用可能な機を選んで第二次攻撃隊に加 え、零戦八機(指揮官白根斐夫大尉一、艦攻 七機(入来院良秋大尉)を編成した。まだ攻 撃を中止する気はない。 第二次攻撃隊は、午前一一時六分隼鷹を飛 び立った。約二時間後、攻撃隊はまたもや、 ホーネットを捉えたのである。ホーネットに はもはや手持ちの飛行機はなく、自力で動く こともできなくなっていた。

 結局、空母ホーネッ トは新たに魚雷一本を受け、船体はさらに傾 いた。角田の闘争心はなおも衰えを見ぜず、 第二次までの帰還機のなかから使用に耐え得 る機を選び、零戦六、艦爆四からなる第三次 攻撃隊(志賀淑雄大尉)を編成した。攻撃隊 は午後一時一〇分、数隻の艦艇に囲まれて漂 泊中の空母(ホーネット)を発見し、付近の 海上を捜したが、別の空母部隊のいる様子は なかった。

 米側資料によれば、このときホー ネットはさらに爆弾一発を受けている。 以上で南太平洋海戦は終わった。大きな戦 果につながらなかったので宣伝されることは なかったが、この海戦における角田覚治の指 揮ぶりを、いかにも彼らしいと一部で称賛す る声がある。



(更新/2005/08/23) 夏の終わりの残暑厳しい日記す。 Homepage Owner kanno

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参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第6巻・ 死闘ガダルカナル『人物抄伝・太平洋の群像55』)

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