昭和一七年(一九四二)一一月一二日深
夜、ガダルカナル北方が火の海と化した
第三次ソロモン海戦で、日本海軍は巡洋艦一隻、
駆逐艦四隻撃沈、巡洋艦、駆逐艦各三隻大中
破の戦果をあげた。殊勲に輝いたのは吉川潔
中佐の率いる駆逐艦夕立で、吉川艦長と彼の
部下は、連合艦隊司令長官から感状を授与さ
れた。この海戦に先立つバリ島沖海戦に次ぐ
二度目の授与であった。
第三次ソロモン海戦で夕立は、駆逐艦春
雨(はるさめ)、五月雨(さみだれ)とともに挺身攻撃隊と
して一一月九日トラック島を出撃一路南下した。
攻撃隊の隊形は、前路掃討隊として夕立隊(夕立、
春雨の順)が縦に並んで先陣を引き受け、後方三キロ
を軽巡洋艦長良(ながら)を先頭に戦艦比叡(ひえい)、霧島両艦が
駆逐艦六隻に守られて進む。その後方に三隻の駆逐艦が続く。
夕立隊は二日午後一一時四三分、右正
横、(せいおう)ガダルカナル島ルンガ岬方面に七隻以上
の艦影を発見。重巡など二二隻の大艦隊であった。
夕立の行動は大胆だった。一本棒となり、
向かってくる敵艦隊の前面を押さえつけるよ
うにして、後続の春雨とともに全速で取り舵
(左転)をとり、米艦隊の直前を横切る。
驚
いた敵は、各艦思い思いに舵を切り、深夜の
海上で味方同士の衝突を避けようと懸命だった。
夕立は少し進んだかと見るや一八○度急反
転し、敵の後方から襲撃態勢に入る。激しい
動きで夕立と春雨は互いを見失う。
「いまから突っ込む」
吉川艦長の声が甲板を圧する。一五四セン
チの小柄な体に闘志がみなぎっていた。
「(魚雷発射管の)全射線を撃ちますか」
敵艦隊を右に見、水雷長の中村悌次中尉。
「こんな好機はない、当然だ」
吉川の叱声(しつせい)が飛ぶ。
敵艦との距離はまたたく間に狭まる。
二〇
〇〇メートル。海上ではすぐ目の前だ。敵艦
群のまっただ中に飛び込んだ。
夜戦訓練で鍛え抜いた吉川の目は、正しく
敵艦の動きを捉え、それにあわせて自艦を操
作する。彼のアダ名は「南海の黒豹」。その
鋭い目が光を増した。
「取り舵いっぱい。発射はじめ」
午後一一時五四分から五五分にかけ、下令
後、間を置かずに魚雷八本が発射された。
たちまち大きな火柱が数本噴きあがり、二
隻撃沈を認める。
魚雷発射後は次発装填のため、いったん戦
場を離れるのが戦闘常識だが、吉川はかまわ
ず敵の隊列を突破し、「どんどん撃て」と、
砲術教本には出ていない、型破りの号令を
椛島千蔵(かばしませんぞう)砲術長に発したのであった。
大巡を距離三〇〇〇から一五〇〇メートルで砲撃。
全弾命中して敵艦はまっ赤に燃えあがった。
別の敵巡も至近距離から砲撃、これも全弾命中した。
一三日午前零時四分、防空巡洋艦を二〇〇
〇メートルから砲撃零時一〇分、駆逐艦二
隻を三〇〇〇メートルから砲撃、炎上。
戦後アメリカ側の調査と照合し、冒頭の戦
果が確認された。日本側は比叡、暁(駆逐
艦)を失い、そのほか駆逐艦二隻小破。夕立
も沈んだ。敵味方入り乱れての夜戦のさな
か、夕立は敵か味方か不明の艦に砲撃された
らしい。吉川は首や肩に負傷したのであった。
「オレだってこわいよ」
吉川は明治三三年(一九〇〇)一一月三
日、広島市大畑町に生まれた。父貞弼(ていすけ)
は戦国の雄、毛利輝元麾下の名将、吉川元春の流れ
をくみ、小学校長を務めた。漢学の大家でも
あった。母チヨも女丈夫で七男四女を育て
た。潔は男兄弟の四番目。親に負担をかけな
よう、息子たちは金のかからない軍人の学校
を選び、潔も大正八年八月、五〇期生徒とし
て海軍兵学校に入校した。同期生のなかで、
もっとも背が低い一人だったが、体力、気力
にあふれ、相撲、柔道、剣道、水泳に長じ、
分隊競技で優勝に導いた。
実務で腕をあげる
ことに務め、成績はあまり気にしなかったようである。
昭和二年末大尉に進級。水雷学校高等科学
生を経て重巡鳥海水雷長、一五年一一月、駆
逐艦大潮の艦長に補せられた。
開戦後の一七年二月一九日夜、バリ島沖で
僚艦と協力し、巡洋艦三、駆逐艦七の優勢
な米蘭連合軍(アメリカ・オランダ)と四次にわたる戦いをいどみ、
オランダの駆逐艦ピートハインを砲撃と雷撃
で撃沈したのをはじめ、巡洋艦三隻中破、
駆逐艦三隻小破という大金星をあげた。
四月に一時内地に帰還し、夕立艦長に補せられる。
七月末、インド洋方面の海上交通破壊作戦
のため夕立はマレー半島に進出したが、米軍
がガダルカナル島に来攻して作戦は中止、ト
ラック島に向かい、前進部隊に復帰した。
夕立はソロモン海北西の島を基地に、八月
三〇日、陸軍・一木支隊の残る兵員をガ島に
上陸させることに成功。この日以来、第三次
ソロモン海戦開始までの二か月半、夕立はガ
島に一八回往復。うち二面は陸軍部隊の増
援輸送である。うだる暑さ、絶え間ない空
襲、まとめて二時間と寝ることのない不眠の
なかで、一回に約一五〇人の陸兵と一五トン
から三〇トンの武器、弾薬、食糧を送る。
険と疲労の極にあって四一歳、最年長の吉川
は明るさを失わず、乗員のなかへ入って気軽
に語り、笑いの渦を巻き起こしたという。
輸送任務の合間、軍医長の永井友二郎中尉
は吉川に尋ねてみた。
「輸送を何べんやっていても、急降下爆撃機
に突っ込んでこられると、首をすくめてしま
います。艦長はこわくないのですか」
「そりゃ、おれだってこわいよ。だが、対空
戦闘や操艦で頭がいっぱいだから、こわいの
を忘れているだけだ。軍医長のように、する
仕事がなくて、ただ、どうなるか待っている
のはこわいはずだ。自分の使命感で耐えるほ
かはないだろう」
率直に吉川は答えたという逸話が残っている。永井はこの言葉に納
得し、任務第一を心がけるように努めたという。
輸送作戦に従事していた九月四日には、駆
逐艦二隻の指揮官として吉川は、陸兵をガ島
に揚陸後、飛行場を砲撃し、さらに駆逐艦二
隻を撃沈している。連合艦隊参謀長宇垣 纏少
将は、九月五日の日記に「吉川中佐の如き攻
撃精神旺盛、体力気力抜群の者が武人として
よく勝ちを収める」と激賞している。
俺だって怖いよと言う何と人間味のあふれた言葉であろうか、
顔の髭に似合わぬ言葉には誰もが恐れ入った事でしょう。
艦長がそのような言葉を吐くと言うこと自体いかめしい
海軍に合って、何と心和む言葉ではないでしょうか。
このような人の下で働いてみたいと思いたくなるのが
人間の人情ではないでしょうか、私だったら真っ先に
飛び込んで行きたいと思います。人間、何事も人柄ですので、
やる気にさせる上司だと思います。
駆逐艦長ただ一人の二段進級
吉川の戦歴見ると全海戦で八隻撃沈、一
二隻撃破というめざましい戦果をあげた戦闘
に参加し、その主導的な役割を果たしている
のだが、功(こう)を誇るようなことはなかった。
吉川は訓練に厳しく、必ずみずから号令を
下し、砲戦、水雷戦が自分の意図どおりに行
なわれるようにした。第三次ソロモン海戦を
振り返って中村悌次は、「闇夜のなか、流れ
るように口をついて出る的確な号令は、まさ
に自己訓練の賜物だった」と、吉川の責任感
の強さと冷静で果断な攻撃を語っている。
吉川はしかし、戦いに強いだけの武人では
なかった。看護長の奥村忠義二等看護兵曹
は、吉川に「おれは死んでも代わりがある
が、お前が死んだらだれが病気やけがの面倒
をみてくれるのか。体に十分注意しろよ」と
言われ、感激した思い出があるという。
バリ島沖海戦では、撃沈したピートハイン
からボートで脱出中の敵乗員一〇人を吉川の
大潮が救助し、マカッサルの捕虜収容所に送
った。一ヵ月ほどして、捕虜の食糧が欠乏し
ていると聞き、吉川は「そりや大変だ」と言
って先任将校の水谷秀澄(みずたにひですみ)
大尉をともない、食糧、菓子、タバコを持って
慰間した。
吉川が捕虜を見る目は温く、自分の息子に語しかけ
ているように見えたと、水谷は語っている。
第三次ソロモン海戦後、吉川は兵学校教官
への転任を断り、駆逐艦大波の艦長を引き受
けて、ふたたび激闘のソロモン海へ向かう。
ガ島撤退後、敵の北進を阻止するため、大
波はブーゲンヴィル島北端のブカ島への輸
送、補給に参加した。目的を果たして帰投中
の一八年一一月二四日、最新式レーダーを装
備した米駆逐艦に雷撃され、大波は大爆発を
起こし、数分で乗員もろとも海底に没したのであった。
吉川は戦死後、駆逐艦長としてただ一人、
二段進級の栄誉を担い、少将に任ぜられたのであった。
(更新/2005/08/24) 秋待ちわびし残暑の日記す。Homepage Owner kanno
|