[憂愁・MENUへ]

[憂愁・TOPへ]

曲:故郷の人々

gunkanki


空母翔鶴艦長

有馬正文少将


空母翔鶴艦長・有馬正文少将

経 歴
有馬 正文
1895(明治28)年9月25日生
1944(昭和19)年10月没
鹿児島県日置郡伊集院村出身
海軍中将
1915(大正4)年12月16日
  海軍兵学校(43期)卒 卒業成績95人中33番
 海軍少尉候補生 「磐手」乗組
1916(大正5)年8月22日 「敷島」乗組
1916(大正5)年12月1日 海軍少尉
1917(大正6)年9月10日 「磐手」乗組
1918(大正7)年11月1日 「卯月」乗組
1923(大正12)年12月1日 「出雲」分隊長
1925(大正14)年4月15日 「比叡」分隊長
1926(大正15)年12月1日 海軍大学校甲種学生
1928(昭和3)年 海軍大学校(26期)卒
 12月10日 「榛名」副砲長 分隊長
1929(昭和4)年9月5日 佐世保鎮守府参謀
1931(昭和6)年8月20日 「浅間」砲術長
1932(昭和7)年11月15日 第3戦隊参謀
1933(昭和8)年5月20日 第7戦隊参謀
1934(昭和9)年11月15日 海軍大学校教官
 12月15日 兼海軍経理学校教官
1937(昭和12)年7月11日 第10戦隊参謀
 10月20日 第14戦隊参謀
1938(昭和13)年12月15日 木更津空司令
1939(昭和14)年11月15日 横浜空司令
1941(昭和16)年4月17日 横須賀空副長 教頭
1942(昭和17)年5月10日 横須賀鎮守府附
1942(昭和17)年5月22日 空母「翔鶴」艦長
1943(昭和18)年10月26日 南太平洋海戦
1944(昭和19)
 4月1日 中部太平洋方面艦隊司令部附
 4月9日 第26航空戦隊司令官
 10月 台湾沖航空戦
 10月15日 フィリピン沖に来襲した
 アメリカ機動部隊に対し一式陸攻で
 体当たり攻撃を行う 戦死
 10月15日 海軍中将 功一級


禁欲主義の極致ともいうべき有馬正文夫佐(のち少将)。 刻苦勉励、瞳厳実直タイプの彼はまた、人一倍部下思いの指揮官でもあった。






謹厳実直の生涯を貫く

  戦争末期、有馬正文は少将で、第二十六航 空戦隊司令官として陸上で指揮をとってい た。昭和一九年(一九四四)一〇月一五日、 敵空母に体当たりする一式陸攻に同乗してマ ニラ郊外のクラーク飛行場から飛び立ち、司 令官の身分の人間としては例のない異常な死 を選んだのであった。決して将官に許される行為ではなかったが、 自らの身を呈して全軍に特攻を示した形となった。 それほど我が国は追い込まれていたのであった。 有馬正文の生涯を要約するならば、禁欲主 義の極致とでもいうほかはないであろうと云われるほどの、酒、 タバコ、バクチ、女……男性にとっての悪徳 のいっさいを意識的に拒絶し、わずかの間も 休むことなく刻苦勉励(こつくべんれい)「ひたすら努力を重ね、苦労して勉学や仕事に励むこと。」 して謹厳実直(きんげんじっちょく)「慎み深く、誠実・正直なさま。まじめな人間のようす。」を絵に描 いたような一生を送っていたのです。

  恋愛も経験したこ とがなく、見合いで結ばれた妻以外に女性を 知らなかったのではないかと、友人知己の間 ですらそう信じられていたのでした。(菊村到著 『提督有馬正文』)。 その人間性は、天性きまじめな性質と、厳 格な環境によって形成されたのではないのかと思われる。明 治二八年(一八九五)九月二五日、鹿児島県 日置(ひおき)郡伊集院(いじゅういん) 村に、父強太郎、母順子の長男 として生まれた有馬正文は、両親はともに教育者であっ たという。父強太郎が三六歳の若さで死去してか ら、母の順子は女手ひとつで正文をはじめ三 人の子を育てあげた。

  伊集院という土地は、文久二年(一八六 二)四月、京都伏見の寺田屋騒動で非業の死 を遂げた有馬新七の出身地でもある。維新後 の時代の波はこの九州の片隅にも押し寄せた が、正文の父強太郎も、高い志を持ちながら 挫折した人間の一人であろうと思える。 ふつう海軍兵学校は中学五年を終了してか ら受験するのであるが、有馬正文は鹿児島県 立第一中学校五年の途中で挑戦し合格してい るのである。ところが、抜群だった中学時代に比べ、 兵学校時代の成績は終始中くらいであったようである。

  旧海軍の軍人のなかでも珍しい部類に属す ると思うのだが、有馬は精神修養という ようなことを本気になって考えるようなとこ ろがあったようである。ガリ勉する時間をそちらのほう にふり向けようとしたらしく、たとえば以前 から尊敬する東郷平八郎元帥のもとを訪ねて、精 神訓話めいた話をすすんで聞いたという。 海兵卒業後は、水雷と砲術をそれぞれの専 門学校で学んでいる。海軍大学校卒業は、昭 和三年。主として戦隊参謀を務め、昭和一二 年から急に航空関係の勤務に転じている。

  昭和一 七年五月、珊瑚海海戦後の空母翔鶴艦長に補 され、ガダルカナル攻防戦に参加することに なったのだが、その間、ストイックな挿話はいくらもある が、部下思いだったという証言も目立ち、ガ ダルカナル島戦においても、いかにも彼らしいエピソー ドを幾つも残しているのです。



危険をおかし、未帰還機を待つ

  翔鶴は僚艦瑞鶴とともに、ミッドウェー沖海 戦後に新編成された空母部隊・第三艦隊の中 核となった。第三艦隊は連合艦隊命により、 八月一六日内地を出撃八月二四日第二次ソ ロモン海戦と呼ばれる戦闘に遭遇する。 二〇日正午ごろ、トラックの北方約三〇〇 浬の洋上を南下中、敵機動部隊発見の報に接 した。第三艦隊は所定のトラック入港を中止 して、さらに南下を続行することになった。 二四日の当日、第三艦隊は会敵を予期して ソロモン諸島北東方を南下したが、敵空母を 発見できなかったので、軽空母龍釀と重巡利 根および駆逐艦二隻を分派してガ島敵飛行場 を空襲した。

  ところがガ島攻撃を終えた搭載 機が帰還するより以前に、空母龍驤(りゅうじょう)は敵艦載機に 襲撃されて致命的な損傷を受け、日没後にな って沈没したにであった。 一方、翔鶴、瑞鶴から発進した索敵機は午 後一時すぎガ島東方海上に敵空母を発見、た だちに攻撃隊がさし向けられた。結果、空母 エンタープライズに損害を与えたが、戦闘不 能にするまでには至らず、残る一隻のサラト ガは見のがしてしまったのである。この日の戦闘にお いて、翔鶴、瑞鶴からは第一次攻撃墜二七機 に続いて、午後二時第二次攻撃隊の艦爆二七 機、零戦九機が発進していった。

  第二次攻撃隊は、教えられていた進撃針路 をとって飛び続け、午後三時四〇分ごろ目的 地に達したが、敵を見ることはできなかっ た。なおも日没ギリギリまで、あたりを捜索 したが、発見することができなかった。明ら かに針路が間違っていたのである。 ともあれ、敵を発見できなかった第二次攻 撃隊は、やむなく帰途についたが、途中で日 が暮れてしまった。その間、母艦は行動予定 を変更したのであるが、その通知が遅れたた め、攻撃隊はすっかり暗くなったなかを母艦 捜索に躍起(やつき)とならねばならなかった。

  そして、大部分は帰投に成功したが、艦爆四機が 機位を見失って還らず、一機が洋上に 不時着して味方艦艇に救助された。 このとき、艦長として翔鶴上にあった有馬 正文大佐は、しばらく敵機の行動圏内にとど まっても未帰還の部下たちを待つとを第三 艦隊司令長官南雲中将に願い出、許されると 探照灯(たんしょうとう=強い光源と反射鏡によって遠方まで照らし出せるようにした灯。サーチライト。)を点灯するという危険までおかした。 この有馬の行為は、当時翔鶴艦上にあった者 の眼をひき、彼の人間性を物語るもってこい のエピソードとしてのちに伝えられたのであった。 これだけの上司がいればどのような兵でも、有馬をしたうであろう。現在はとても望めそうもないですね。 我が身を省みない行動にこそ、後の彼の体当たり攻撃は十分うなずけるのである。この犠牲的精神が日本人の美徳ではないのであろうか! 只只、この犠牲的精神には感銘を覚えるのである。戦後、責任も取らずに我が世の春を謳歌した将軍たちとは別人である。




ホーネット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 日本軍の九九式艦上爆撃機に攻撃を受ける日本の本土初空襲にB-25ミッチェルを日本近海まで運だアメリカ海軍の空母「ホーネット」 その後、動けなくなったホーネットの船体に向けて日本軍の駆逐艦が4発の魚雷を発射し命中、ホーネットは(1942)年昭和17年10月27日の01:35にサンタクルーズ諸島沖で沈没した。


わが身を捨てる悲壮な決意

  ガ島をめぐって生起した空母同士の戦闘は 南太平洋海戦であるが、この戦場でも有馬正 文は、彼以外の人間では考えられないような エピソードを残している。 一七年一〇月下句、空母四、戦艦二、重巡 四、軽巡一、駆逐艦一五からなる日本艦隊 が、ソロモン諸島東北方の洋上を南下しつつ あったとき、二五日夜半に至って突如敵哨戒 機からの投下爆弾を受ける。敵の先制攻撃を 避けるため艦隊はいったん北上したが、夜明 けになって、彼我ともに索敵を実施したす え、それぞれに相手を発見したのでした。

  この時わが日本海軍の空母部隊は、高速な機動部隊、翔鶴、瑞 鶴、瑞鳳を中心とする第一航空戦隊と隼鷹を 中心とする第二航空戦隊であった。これに対 するに米空母部隊は、エンタープライズとホ ーネットをそれぞれ中核とする二つの機動部 隊と、戦艦一隻を中心とする艦隊からなって いたのである。 さて、翔鶴の場合。この海戦から、日本軍 も空母にレーダーを装備したのであるが、午 前七時一八分、あらかじめレーダーが探知し た方向に、敵一五機が、味方上空警戒機と交 戦しつつ接近するのを視認したのであった。

  上空警戒の 戦闘機の囲みをのがれて上空に達した敵機 は、しばらく積乱雲に身を隠しているように 思えたが、七時二七分、突然雲間から姿をあ らわして、不意を突くように翔鶴めがけて殺到してきたそうである。米側 資料によれば、このときの襲撃機は、空母ホーネ ットから発進したダグラスSBDドーントレス急降下 爆撃機であった。 翔鶴は水脈(みお=船の通ったあとにできる跡。航跡。)を長く曳きながら回避運動 を続け、投下爆弾二、四発目までは振り切った。 その後、敵機が高度二〇〇から三〇〇という 超低空より艦の進行方向に進入してくるよう になってからは避けきれず、ほとんど連続し て四発が中部発着甲板と砲台に命中したのであった。このように連続して低空から避けることは至難の技であったのではと思われる。

  その ために飛行甲板と格納庫が中破して、飛行機の 発着艦が不能となったという。それと同時に火災も発生した が、ほぼ五時間後には鎮火したのである。 第三艦隊の本隊は、攻撃隊を発進させたあ と北上を開始していたが、被爆した旗艦翔鶴上 の第三艦隊司令部は、敵機の再度の襲撃 を受けて同艦が沈むことを恐れ、火炎を負っ たまま敵の航続距離『(約三〇〇浬)555.6キロ』の圏外に のがれようとして、なお増速して北西進し始 めたのであった。 このとき、有馬正文はまたしても無能な艦隊司令 部の方針に異議をとなえたのである。この無能無策の艦隊司令部に、有馬少将は目に涙を 浮かべながら、翔鶴を戦場に残すよう南雲長 官に意見具申したが、容(い)れられなかった。この水雷屋上がりの司令長官には航空戦の才は無いと見るのが本道ではないのか。ミッドウェー海戦をの采配を見ればそれだけで彼の技量が分かるというものである。

  草 鹿参謀長によれば、傍(かたわ)らから草鹿龍之介参謀長 が有馬を諫(いさ)めると、「くってかかってきた」という。もうこの時には有馬少将の心は決まっていたと思われる。 有馬の考えはこうである。翔鶴がこのままいまだ無傷 の僚艦の瑞鶴付近にとどまって、再度来襲する であろう敵攻撃機をできるだけ吸収し、わが 身が犠牲となることによって、瑞鶴の戦闘力 を十分発揮させるという有馬らしい悲壮なも のであったという。なんとこの人の自己犠牲的精神は海軍で1、2を争うのではないかと思われる。 小澤冶三郎中将の犠牲精神とはまた別のものであろう。

  昭和一九年一〇月一五日、幻の戦果報告と言われた台湾沖航空戦の際、第二六航空戦隊指令官( 航空機整備担当)の有馬正文少将曰く、「戦争では年をとった者が先ず死ぬべきである」 との固い信念から、参謀たちの制止を振りきって攻撃隊と一緒に出撃し帰還しなかった。これぞ特攻の先駆けとなった出来事であろう。この数日後から、特別攻撃隊 の、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と次々にフィリピン沖の連合軍艦艇へ突撃攻撃が行われるのであるが、己が身も省みず、その先駆けとなって散華っていったのが有馬正文 少将であったのである。本来、司令クラスのこのような行為は厳しく戒められていたが、我が身を以て知らしめたのであった。 その数日後の昭和一九年一〇月二一日には、本格的な特攻攻撃がフィリピンで行われることとなったのである。



(更新/2005/08/24)
夏も終わりに近い残暑の日に名残を惜しみつつ記す。Homepage Owner kanno




参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第6巻・ 死闘ガダルカナル『人物抄伝・太平洋の群像56』)
新潮社・刊・菊村到・著『提督有馬正文』)

【 Page Top▲先頭へ戻る】