ガ島をめぐって生起した空母同士の戦闘は
南太平洋海戦であるが、この戦場でも有馬正
文は、彼以外の人間では考えられないような
エピソードを残している。
一七年一〇月下句、空母四、戦艦二、重巡
四、軽巡一、駆逐艦一五からなる日本艦隊
が、ソロモン諸島東北方の洋上を南下しつつ
あったとき、二五日夜半に至って突如敵哨戒
機からの投下爆弾を受ける。敵の先制攻撃を
避けるため艦隊はいったん北上したが、夜明
けになって、彼我ともに索敵を実施したす
え、それぞれに相手を発見したのでした。
この時わが日本海軍の空母部隊は、高速な機動部隊、翔鶴、瑞
鶴、瑞鳳を中心とする第一航空戦隊と隼鷹を
中心とする第二航空戦隊であった。これに対
するに米空母部隊は、エンタープライズとホ
ーネットをそれぞれ中核とする二つの機動部
隊と、戦艦一隻を中心とする艦隊からなって
いたのである。
さて、翔鶴の場合。この海戦から、日本軍
も空母にレーダーを装備したのであるが、午
前七時一八分、あらかじめレーダーが探知し
た方向に、敵一五機が、味方上空警戒機と交
戦しつつ接近するのを視認したのであった。
上空警戒の
戦闘機の囲みをのがれて上空に達した敵機
は、しばらく積乱雲に身を隠しているように
思えたが、七時二七分、突然雲間から姿をあ
らわして、不意を突くように翔鶴めがけて殺到してきたそうである。米側
資料によれば、このときの襲撃機は、空母ホーネ
ットから発進したダグラスSBDドーントレス急降下
爆撃機であった。
翔鶴は水脈(みお=船の通ったあとにできる跡。航跡。)を長く曳きながら回避運動
を続け、投下爆弾二、四発目までは振り切った。
その後、敵機が高度二〇〇から三〇〇という
超低空より艦の進行方向に進入してくるよう
になってからは避けきれず、ほとんど連続し
て四発が中部発着甲板と砲台に命中したのであった。このように連続して低空から避けることは至難の技であったのではと思われる。
その
ために飛行甲板と格納庫が中破して、飛行機の
発着艦が不能となったという。それと同時に火災も発生した
が、ほぼ五時間後には鎮火したのである。
第三艦隊の本隊は、攻撃隊を発進させたあ
と北上を開始していたが、被爆した旗艦翔鶴上
の第三艦隊司令部は、敵機の再度の襲撃
を受けて同艦が沈むことを恐れ、火炎を負っ
たまま敵の航続距離『(約三〇〇浬)555.6キロ』の圏外に
のがれようとして、なお増速して北西進し始
めたのであった。
このとき、有馬正文はまたしても無能な艦隊司令
部の方針に異議をとなえたのである。この無能無策の艦隊司令部に、有馬少将は目に涙を
浮かべながら、翔鶴を戦場に残すよう南雲長
官に意見具申したが、容(い)れられなかった。この水雷屋上がりの司令長官には航空戦の才は無いと見るのが本道ではないのか。ミッドウェー海戦をの采配を見ればそれだけで彼の技量が分かるというものである。
草
鹿参謀長によれば、傍(かたわ)らから草鹿龍之介参謀長
が有馬を諫(いさ)めると、「くってかかってきた」という。もうこの時には有馬少将の心は決まっていたと思われる。
有馬の考えはこうである。翔鶴がこのままいまだ無傷
の僚艦の瑞鶴付近にとどまって、再度来襲する
であろう敵攻撃機をできるだけ吸収し、わが
身が犠牲となることによって、瑞鶴の戦闘力
を十分発揮させるという有馬らしい悲壮なも
のであったという。なんとこの人の自己犠牲的精神は海軍で1、2を争うのではないかと思われる。
小澤冶三郎中将の犠牲精神とはまた別のものであろう。
昭和一九年一〇月一五日、幻の戦果報告と言われた台湾沖航空戦の際、第二六航空戦隊指令官(
航空機整備担当)の有馬正文少将曰く、「戦争では年をとった者が先ず死ぬべきである」
との固い信念から、参謀たちの制止を振りきって攻撃隊と一緒に出撃し帰還しなかった。これぞ特攻の先駆けとなった出来事であろう。この数日後から、特別攻撃隊
の、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と次々にフィリピン沖の連合軍艦艇へ突撃攻撃が行われるのであるが、己が身も省みず、その先駆けとなって散華っていったのが有馬正文
少将であったのである。本来、司令クラスのこのような行為は厳しく戒められていたが、我が身を以て知らしめたのであった。
その数日後の昭和一九年一〇月二一日には、本格的な特攻攻撃がフィリピンで行われることとなったのである。
(更新/2005/08/24) 夏も終わりに近い残暑の日に名残を惜しみつつ記す。Homepage Owner kanno
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