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gunkanki

第一航空艦隊司令長官

大西瀧治郎中将


大西瀧次郎中将
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経   歴
大西 瀧治郎
1891(明治24)年6月2日生
兵庫県氷上郡芦田村出身
日本海軍軍人 海軍中将
父、亀吉
母、うた
5人兄弟の第3子
妻、大西淑恵
1912(明治45)年7月17日 海軍兵学校(40期)卒業
  1916(大正5)年4月 横須賀航空隊勤務
1926(大正15)年2月 佐世保航空隊飛行隊長
1927(昭和2)年12月 結婚
1928(昭和3)年11月 「鳳翔」飛行長
          第2連合航空隊司令官
1940(昭和15)年11月 第1連合航空隊司令官
1941(昭和16)年1月 第11航空艦隊参謀長
1942(昭和17)年3月 航空本部総務部長 内地に帰還
1943(昭和18)年5月 中将に昇進
 11月 軍需省航空兵器総務局長
1944(昭和19)年10月 第1航空艦隊司令長官就任
  最初の神風特別攻撃隊を出撃させる
1945(昭和20)年8月16日 自刃
1945(昭和20)年8月16日没






















「特攻長官」として知られる大西瀧治郎中将。酒席での武勇伝は数知れず。大西長官の本質は、野人の衣を着たテクノクラートそのものであった。






侠気を持ち合わせた技術者
 大西瀧次郎という人間は、スマートさがウリの帝国海軍の中では、際立って個性の強い野人であったと言われている。なにしろ、海軍大学校を受けている とき、酒席で芸者をしっぱたいたカドによりその後の受験を拒否されてしまったという赫々たる武勇伝の持ち 主なのだ。壮年のころまで、酒を飲み取っ組み合いの喧嘩をするなどは、ほとんど日常茶飯事のことであったようである。見合いの席に も顔に真新しい傷跡をつけて現れたほどであったと言われている。そればかりではない、何と見合いの席へ事もあろうに芸者を大勢呼んで騒ぎをしたという。 だが、それがかえって姑になる女性に気に入ら れるといった破天荒ぶりだった。「このお見合い相手がのちにラバウル台南空にて坂井三郎一飛曹などの小隊長で、 坂井とは士官、下士官を超えた無二の親友であった笹井醇一中尉の叔母にあたる人である。

 草創期の海軍航空界に立ち会ったモロ生え抜きの飛行機乗りだった。航空に関するすべてを、体験を通して 習得しなけらればならなかったから、テスト飛行における遭難には何度もあっている。日本人として最初の 落下傘による飛び降りテストに敢然として挑戦しているし、イギリスに留学して飛行機だけでなく、飛行船 に関する技術も修得していた。昭和一二年(一九三七)、航空本部・教育部長時代、渡洋爆撃を視察に行き、 そのまま攻撃隊の中攻に同乗して南京上空まで飛んでいってしまったことがあった。

 しかし、そのような放胆 の反面、非常に細心の心も持ち合わせていた。飛行機乗りの適正に関して、大胆にして細心ということがいわ れるが大西はその典型であったのでであろう。その本質は、案外技術官僚といった辺りにあったのかも知れない。 開戦前には、真珠湾奇襲を思いついた山本五十六大将が、最初に打ち明け相談したのが大西であったともいう 。彼の技術者としての側面を見抜いていたからだろうとおもわれる。山本大将から計画を聞いた彼は、きわめ て冷静な態度で応じ、その本体はテクノクラート(註・技術官僚の意)ではあっても、野人の衣で包まれてい るために、単一な物差しで測っても、どうしてもはみ出す部分がある。まるで昔の火消しの頭領みたいな侠気 (きょうき)を蔵していて、一部民間人を含め熱烈な支持者があったといわれる。戦前、上海に「児玉機関」を設け財を成し、戦後は右翼の裏のドンととも言われ、 ロッキード事件で有名になった児玉 誉士夫(こだま よしお)などが居る。


特攻の創始者


 海戦時、第一一航空艦隊参謀長として台湾・高雄基地にあり、比島航空撃滅戦を指揮しだい成功をおさめる。 一七年二月には内地に凱旋して、中央の役職を歴任するが、一九年一〇月、第一航空艦隊司令長官に補され 、敗色濃い一線に出て行くことになった。 当時GFは、フィリピン方面決戦である「捷」号作戦を実施しようとしていた。しかも、大西が現地フィリピン に到着するころには、まさに秒読みの段階に入っていた。作戦計画をより具体的にいうと、GFが総力をあげて 支援するうちに、戦艦大和、武蔵を擁した水上部隊(栗田艦隊)がレイテ突入、陸揚げのため入泊している米船 団を砲撃でもって粉砕しようという悲壮な作戦であった。

 「このような消極的な戦いを昭和一九年後半にはしな ければならなくなっていた。一時は、米英に勝る艦隊と熟練の兵を持ってならした日本帝国海軍連合艦隊も、輸 送船団を攻撃するために、連合艦隊のほとんどの艦船を出撃させて攻撃するような艦隊となっていた。囮作戦 と、統率の外道と大西中将に言わしめた特攻攻撃まで行ったが、ほとんど得るものはなく連合艦隊を消滅させてしまった。 これ以降、作戦だった艦船の作戦は不能となっり、昭和二〇年四月七日(一九四五)大和、ほか軽巡二と一〇数隻の 駆逐艦をもって実施された沖縄水上特攻を決行し、坊ノ岬沖海戦において大和ほかを失い、ほぼ日本海軍は機能 をしなくなり、これ以後、航空機にたよることとなる。艦艇のない海軍はただの陸に上がったカッパと同じであ った。何と犠牲の多かったことか、犠牲に比べ戦果はほとんどあがっていない。航空特攻での戦果の方が多いのであ る。

 そして、本作戦における第一航空艦隊の任務は、進撃する栗田艦隊を空から援護するというものであった。第一航 空艦隊とはいうものの艦艇は一隻も持たず、すべて基地による航空機で編成されていたが、消耗に消耗を重ねて、 大西が任地クラークフィールドに到着したとき、稼動機はわずか四〇機内外というぞっとするような状態にあった。 大西瀧治郎は、特攻の創始者であるといわれる。しかし、その絶望的な状況は一線において、彼と直接かかわりな く醸成されつつあった。みずから進んで敵に体当たりを敢行するケースは以前からあったし、さらには技量未熟で 、敵と遭遇すれば一〇中八九は打ち落とされるようになっていた。搭乗員のレベルにおいても、緒戦のころとはま ったく逆転していて、我が方は米軍の敵ではなくなっていた。もちろん、自分の意思で体当たりを決行することと 、命令というかたちでそれを他人に強制することとは、おのずからべつの事柄に属する。

 大西が特攻の実施をいつ決心したかは明らかではないが、赴任先に到着以前に覚悟を決めていた事は確実である。 赴任の途中彼は、敵の執拗な反復攻撃に遭って、台湾で一週間ほど足止めをくらった。考える時間はあったとみて よい。考えてみれば、「捷」号作戦における栗田艦隊の行動全体が、特攻の色彩をおびていたのである。 大本営もGFも、同艦隊の生還は考えていなかった。「このような破れかぶれの戦いを強いられていたのであるのだ から、もう大本営もGF司令部自体も収集のつかない状態であったと思われる。まるで作戦だてての戦いにはどう してもみえてこないのである。

 それとも、レイテに突入させて全艦全滅のうきめにあったらそれで戦争を止める気で いたのか?それはないであろうに、先の見えない作戦を遂行していること自体が、もう完全に戦いを捨てているよ うにしか見えてこない。たとえこの作戦が成功したところで、体制に大きな変化は望めなかったであろうが。」
基地航空部隊だけが安全地帯にいるわけにはいかないと、連日愚弄(ぐろう)するように上空を乱舞する米機を見て いるうちに、大西がしだに追い詰められた気持ちになっていったことも想像できる。


「百年ののちも知己はなし」


 大西は一〇月一七日、マニラに着く。翌一八日、前一航艦長の寺岡中将とのあいだに引継ぎが行われ、ここにおいて 大西は、自分に任せられた一航艦の兵力が全機種あわせて可動約四〇機しかないことを確認する。この日大西は、寺 岡中将および一航艦参謀長小田原俊彦大佐に対し、自分の決心を述べたものとみられる。ちなみに、同日レイテ湾に 米艦隊が侵入して掃海を開始、その上陸意図が明らかになるにおよんで、夕刻GF司令部は「捷」一号作戦発動を下令 した。

 「これによって、人類史上組織立てて行われたことの無い、特攻作戦が多くの犠牲を持って行われることとなった。 国のためとはいえ、命じる者も命じられ者もの苦悩が続く、こののち終戦までの約一〇ヶ月弱を、死地へと送り送られたのである。 翌一九日、大西は副官門司親徳(もじちかのり)主計大尉一人を帯同して、クラークフィールドに赴く。二〇一空 司令山本栄大佐および飛行長中島正少佐両名に向かって、「捷号作戦にしっぱいし、フィリピンを敵手にわたせば 、南方の資源地帯と本土との連絡線は切断し戦争の遂行は不可能となる。本作戦を支援するため、一航艦としては 零戦に二五〇`爆弾を抱かせて、隊員もろとも体当たりを敢行する。」と自分の決心を告げた。

 そして、
関行男大尉以下二四名の搭乗員が決定した。神風特別攻撃隊と称するが、「神風」(しんぷう)は猪口中佐 の命令であるという。このあたりのいきさつ関しては、公式記録にはの残っていないが、戦後書かれた猪口、門司 両人の著作によって広く知られるようになった。二〇日朝、大西は二〇一空本部の狭い前にはに置かれた木箱に立ち 、整列した関大尉以下二四名のすでに選ばれた特攻隊員を目の前に訓示を行った。

 「日本はまさに危険である。この危機を救いうるものは、大臣でも司令部総長でも、私ごとき長官でもない。それは 諸子のような若く純粋で気力に満ちた人たちである。皆は体当たりの結果をしることができないのが心残りであるに ちがいない。諸子の戦果はかならずみとどけて上聞(じょうぶん)に達するようにする。一億国民に代わってお願 いする。しっかり頼む」大西の顔面は最初から蒼白であったが、訓示が進むにつれてひきつったようになり、体もこ きざみにふるえ、傍から見ていて異様な光景であったという(猪口力平・中島正共著「神風特別攻撃隊の記録」、 門司親徳著「回想の大西瀧治郎」)。 当初彼は、神風特別攻撃隊の起用を「捷」号作戦だけと考えていたフシもあるが 、周知のようにその後もひっきりなしに続くことになり、彼がのちに台湾に去り、やがて軍令部次長となって内地に 帰還してからもやむことがなかった。

  当初の大西中将の考えはと言えば、敵空母の甲板を使えないように出来ないかとの発想でこの特攻攻撃が持ち上がったようである。 そうするのに最も手っ取り早く行えるものはと考えて見れば、何の事は無い零戦に250キロ爆弾を搭載して、敵の空母の甲板に 穴を開けてしまえば、しばらくは航空機の発着に支障をきたすであろうとの考えから行われたものであった。 そしてレイテ湾への突入の援護を試みようとしたのである。これが意外と戦果をあげることとなり、1週間程度の 特攻予定は、いつの間にか大西中将の最初に明言した言葉とは違うものとなっていたのである。 あまりの効果の大きさに「統率の外道」と自らが口にしながらも、この特攻作戦は続行されて行くこととなって行ったのであった。 反対する者、従わぬ者はたたき斬ると恫喝したという。

  結局、一時的な戦法であった特攻攻撃がフィリピンの海軍航空勢力あげての戦術と変わったのである。大西中将はこのようにも言っているのである。 「敵に50隻の空母があっても、こちらに50機の特攻機があれば勝てる」豪語している。 この特攻、繰り返し行へばいつか天皇が止めてくれると考えていたとも言われる。 「天皇陛下は、このこと(特攻)を聞かれたならば、必ず戦争を止めよと仰られるだろう」「これを(特攻)お聞きに なって陛下自らの御心で戦を止められたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するだろう」 そのためにも更に特攻攻撃を続けたのであろうか。 しかし、この特攻の詳細を明かされた天皇の言葉は、そこまでせねばならなかったかの一言で終わっているのである。止めろとは言わなかった。 だが大西中将には最後の責任を覚悟していたのであろう、大西中将が内地の軍令部に帰るまで特攻攻撃は行われたばかりか、 その後も終戦まで敢行されたのであった。

 戦後、大西は、暴将、遇将と散々な悪評をうけることになるが、(だが私に言わせれば一中将がこのような作戦を 一人で決められるものか!私は不審に思えてならない。私の考えでは、大本営も軍令部も全て責任を大西に押し付けてしまったようにしか思えないのである。 そうすれば、後々も自分は責任を問われないと考えたのであろう。)しかし彼はそのことを生前十分予想していたであろう 。自分が採用した、特攻が「統率の外道」であるとみずから明言していた。(前出『神風特別攻撃隊の記録』)。 「人間の声価は棺を覆うてさだまるというが、自分のような者は、百年ののちも知己はないだろう。」と予言した。 (前出『回想の大西瀧治郎』)。敗戦の翌日、『特攻の英霊に日す、善く戦いひたり深謝す』の遺書を残し、渋谷区 南平台の軍令部次長官舎において割腹自決をとげた。そして傍には大西中将の懐刀とも言われた、戦後、右翼の黒幕でロッキード事件で名を馳せた児玉誉士夫が寄り添っていたという。




遺  書

特攻隊の英霊に日す 善く戦ひたり深謝す

最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり

然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに到れり

吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青少年に告ぐ
 
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ

聖旨に副ひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり

隠忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ

諸子は国の宝なり

平時に処し猶克く特攻精神を堅持し

日本民族の福祉と世界人類の為 最善を尽くせよ。


     海軍中将 大西瀧治郎


























辞世

これでよし


 百万年の仮寝かな



































(更新/2004/09/30)   残暑厳しき秋の日に記す。  Homepage owner kanno

(更新/2008/09/21)   追記



参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ第九巻・レイテ沖海戦・太平洋の群像85)
徳間書店・刊 生出 寿・著 特攻長官・大西瀧治郎
宝島社(刊)別冊宝島1420号 特攻 特別攻撃隊


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