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gunkanki


第二水雷戦隊司令官

田中頼三少将 


田中頼三少将・第二水雷戦隊司令官


経 歴
田中 頼三(たなからいぞう)
1892(明治25)年生
1969(昭和44)年没
山口県出身
日本海軍軍人
海軍中将
1913(大正2)年 海軍兵学校(41期)
1919(大正8)年 大尉に昇進
1920(大正9)年 水雷学校高等科修了
1925(大正14)年12月 少佐に昇進
1935(昭和10)年11月 大佐に昇進
1937(昭和12)年1月 第2駆逐隊司令
軽巡「神通」艦長
1939(昭和14)年11月15日〜
1941(昭和16)年4月15日 戦艦「金剛」艦長
1941(昭和16)年5月 第6潜水戦隊司令官
 9月 第2水雷戦隊司令官
 10月 少将に昇進
 12月8日 太平洋戦争開戦
 フィリピン攻略戦の支援に参加
 蘭印攻略戦の支援に参加
1942(昭和17)年2月27日〜28日 スラバヤ沖海戦
 6月5日〜7日 ミッドウェー海戦
 8月23日〜25日 第2次ソロモン海戦
 10月26日 南太平洋海戦
 11月12日〜15日 第3次ソロモン海戦
 11月30日 ルンガ沖夜戦
 海戦後、ガダルカナル島への
「ネズミ輸送」任務に2度従事するが失敗
 12月31日 第2水雷戦隊司令官解任
1943(昭和18)年2月 舞鶴海兵団長
 10月 第13特別根拠地隊司令官  ビルマに赴任
1944(昭和19)年10月 中将に昇進
1945(昭和20)年 ビルマで終戦を迎える


日本海軍の精華と謳われた水雷戦隊。 その精鋭二水戦を率いてスラバヤ沖
海戦を戦った田中頼三少将は、駆逐艦乗りとしてほ異色の存在であった。




潮風のしみた"駆逐艦乗リ"



 いわゆる生えぬきの"駆逐艦乗り"である。 加えて、水雷戦術の権威でもあった。それら のことは、開戦までの経歴の中から適当にひ ろってみても、わかる。 明治二五年(一八九二)、山口県に生まれる。 大正二年、海軍兵学校卒業四一期、九年、水 雷学校卒業一二年、軽巡由良水雷長、一四 年、水雷学校教官、昭和五年、駆逐艦太刀風 艦長、六年、駆逐艦潮艦長、二年、第二駆 逐隊司令、同年、軽巡神通艦長、一四年、戦 艦金剛艦長、一六年九月、第二水雷戦隊司令 官。開戦後、第二水雷戦隊司令官である彼田中少将が、 最初に実戦を体験したのは、スラバヤ沖海戦においてであった。

 昭和一七年二月二六日夕刻から翌二七日 未明にかけて、スラバヤ沖で生起した戦闘である。 このとき、第二水雷戦隊の旗艦・神通以下 駆逐艦四隻は、第五戦隊と第四水雷戦隊に伍 して、巡洋艦五隻、駆逐艦六隻からなる蘭、 英、米の連合国軍艦隊と四次にわたって戦い を演じた。その結果、日本軍全体をもってで あるが、敵巡洋艦三隻、駆逐艦六隻を撃沈し、 巡洋艦数隻を大破させ、わがほうの被害は駆 逐艦一隻中破と報告した。しかし、本当の戦 果は駆逐艦二隻を沈め、巡洋艦一隻を大破し ただけであった。



水雷戦隊の「精神」に反する



 この過大な戦果報告の原因として、自分た ちが発射した当時日本海軍が世界に誇る自慢の九三式酸素 魚雷が、敏感すぎたせいか目標に達する以前 に自爆するケースがひんぴんと起きたことが あげられている。ともあれこの戦果報告は誇 大にすぎるとして、中央の心証を害したので あった。 そのうえ、一連の戦闘において、ことに第 二水雷戦隊ら駆逐艦部隊は、遠距離から魚雷 戦をくり返し、そのために各戦闘場面では敵 よりも有利に立っていたにもかかわらず、そ の戦力差にふさわしい戦果をあげることがで きなかった。駆逐艦がいわばおよび腰で魚雷 を発射するなどとは、帝国海軍の果敢の精神 に反するとされたのであった。

 その中央のきびしい要求には、艦隊決戦に 対する過重な期待が込められていたことも事 実である。このときすでに戦果が明らかにさ れていたハワイ奇襲攻撃とマレー沖海戦は、 帝国海軍の伝統とはいえない航空機を主体と した戦闘であった。それにひきかえ、引き続 いて行なわれたこのスラバヤ沖海戦の場合は、 いわば日本海軍の正統的な戦闘様式であった。 過去長年にわたって研究と訓練を積んできた 砲戦、魚雷戦のよきテストケースになるはず だったのである。

 なかでも駆逐艦部隊(水雷戦隊)こそは、 対米戦になったらこれで突破口をひらくのだ として、日本海軍が期待をし自信を持ってい た、秘策に近いものであった。従って、水雷 戦隊は、肉を斬らせて骨を断つ式の、日本人 好みの戦法を常に信条とした。敵の内ぶとこ ろに侵入することをモットーとし、何より勇 猛果敢さ、敏捷(びんしょう)さが要求された。 たとえば、魚雷戦においては、昼間ならば 目標まで五〇〇〇メートル、夜間であるなら二〇〇〇メートル まで肉薄するという不文律(ふぶんりつ)があった。ち なみに、スラバヤ沖海戦において第二水雷戦 隊が魚雷を放ったのは、敵艦までの距離二万 メートルに近い地点からであったといわれる。

 だから、駆逐艦の艦長や隊司令には、半ば 伝説化したような剛の者が多く出ている。そ ういう連中から比べるなら、田中頼三(らいぞう)という 人はあるいは物足りない点があるかもしれな い。 よけいな憶測はつつしまなければならない と思うが、汗くさい男の多い"駆逐艦乗り" の中にあって、どこかクールで醒(さ)めたところのあった 人物のような気がする。プロの軍人でありながら、 細心で慎重な性格を秘めていたような感じを受け。 闘志を表面にたぎらせることを照れるタイプだった のではないか。逆上してわれを失うようなことは、 どのような場面に遭遇してもなかったにちがいない。

 田中頼三の名前は、他の少将クラスの水雷 戦隊司令官に比べると、ひどく売れていてポ ピュラーである。その理由としては、のちの ガダルカナル島争奪戦において、ルンガ沖夜 戦に大勝したことが考えられる。 約半年間にわたって続けられたガ島戦にお いて、日本軍側はほとんど敗北一辺倒だった から、それだけ第二水雷戦隊の勝利は目立ち、 彼の名前は当時から米軍側にも聞こえていた ようである。 『モリソン海戦史』の著者サミュエル・モリ ソン教授ほか何人かのアメリカの軍事評論家 が、田中の名前を書きとめ、褒めている。



ルンガ沖夜戦の勝利も評価されず



 田中頼三少将は、依然二水戦司令官として、 ガ島戦の初期から参加している。昭和一七年 八月、一木支隊輸送の護衛に任じられたのを 皮切りに、その年の暮まで、断続的にラバウ ルの前進基地・ショートランドとガ島の間を 麾下の駆逐艦を連ねて何度も往復した。 ガ島のルンガ泊地沖で夜戦が起きたのは、 一一月下旬のことであった。このころになる と、制空権は全く敵手に渡っていて、高速で 小回りのきく駆逐艦が夜暗を利用してかろう じて到達する以外、ガ島に対する補給の手段 はなかった。

 一一月中旬に第三次ソロモン海 戦が起きており、敵機による甚大な被害を出 したうえ、新たな輸送船団による兵員、武器 弾薬、食料の輸送計画は潰(つい)えていた。 この後は、駆逐艦による食料輸送のみとい うことになったのであった。しかも、ガ島泊 地に着いてからの揚陸作業時間の短縮という 観点から、米をはじめとする食料をドラム缶 に詰めて運ぶという手段が考案されていた。

 一一月二九日午後一〇時、田中少将が直接 指揮する警戒隊(駆逐艦二隻)の援護のもと に、ドラム缶を積んだ第一輸送隊(駆逐艦四 隻)および第二輸送隊(駆逐艦二隻)はショ ートランド泊地を出撃した。三〇日の夕刻、 ガダルカナル島とサボ島間の海面に、高波を 先頭に第一輸送隊、親潮、黒潮、陽炎、巻波、 ついで田中少将坐乗の旗艦・長波、第二輸送 隊、江風(かわかぜ)、涼風の順に単縦陣で突入した。 そして、ドラム缶を海中に投下する準備に かかったとき、前路警戒のため単独先行して いた高波が敵を発見した。敵は巡洋艦五隻、 駆逐艦六隻だった。後方から三番目の長波上 の田中少将は、いっとき逡巡(しゅんじゅん)してから、 午後九時二〇分「揚陸作業止メ、全軍突撃」を令 した。


参加艦艇

日本側

第一次ガ島増援部隊(田中頼三少将)
第二水雷戦隊(田中少将直卒)

警戒隊
第三一駆逐隊:駆逐艦「長波」「高波」

第一輸送隊
第一五駆逐隊:駆逐艦「親潮」「黒潮」「陽炎」
第三一駆逐隊:駆逐艦「巻波」

第2輸送隊
第二四駆逐隊:駆逐艦「江風」「涼風」


アメリカ側

第六七任務部隊(カールトン・H・ライト少将)
重巡「ミネアポリス」「ノーザンプトン」「ペンサコラ」「ニューオリンズ」
軽巡「ホノルル」
駆逐艦「フレッチャー」「ドレイトン」「モーリー」「パーキンス」「ラムソン」「ラードナー」

損害

日本側
沈没:駆逐艦「高波」

アメリカ側
沈没:重巡「ノーザンプトン」
大破:重巡「ミネアポリス」「ペンサコラ」「ニューオリンズ」


敵はまず雷撃ついで照明弾を打ち上げて 砲撃を加えてきたが、約一五分間で勝敗は決 した。ただ、先頭の高波のみは、米艦隊の標 的と化し、ついに沈没した。日本軍は各艦そ れぞれの判断で、砲戦を捨て魚雷戦を選び距 離約三〇〇〇から八○○○メートルで魚雷を 発射重巡一隻撃沈、同三隻大破(その後一 年間戦線に復帰することができなかった)の 戦果を得た。米軍側は、重巡のすべてを一五 分間のあいだに破壊されて二の矢が継(つ)げなかった。 戦場はたかだか、縦一〇浬、幅一五浬の海面であった。

 日本の駆逐艦はそのさして広くもない洋上を自在に疾駆して、 小よく大を制する水雷戦闘の一典型を太平洋戦史に残した。 しかし、田中少将個人の働きは今度も中央 では評価されず、高波を単独先行させて犠牲 にしながら、長波坐乗の自らは後方にあって 戦闘に積極的に参加しなかったことを非難す る声が聞かれたという。

 少将はその年の一二 月三〇日付で第二水雷戦隊の指揮を辞すると 内地に帰遠したが、その後海上勤務に復帰す ることはなかった。 その後の経歴は次のとおり。昭和一七年一 二月、軍令部出仕(しゅっし)。一八年二月、舞鶴海兵団長、 一八年一〇月、第士二根拠地隊司令官、一九年一〇月、中将に進級、二一年六月、 予備役。昭和四四年七月、山口県山口市の郊外で没した。 


      
(更新/2005/08/25) 秋まだ遠し熱き日 Homepage Owner kanno


参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第3巻・ 勇進インド洋作戦『人物抄伝・太平洋の群像27』)

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