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星条旗


米海軍第三八任務部隊司令官

ウィリアム・F・ハルゼー大将・T


米海軍第三八任務部隊司令官・ウィリアム・F・ハルゼー大将

経 歴
ウィリアム・F・ハルゼー・ジュニア
1882(明治15)年8月30日生
1959(昭和34)年8月16日没
ニュージャージー州エリザベス出身
代々船乗りの家系で父は海軍軍人
1899(明治32)年 ジョージア医科大学に入学
ジョージア医科大学中退
1900(明治33)年 
  大統領推薦枠でアナポリス海軍兵学校に入校
1904(明治37)年 アナポリス海軍兵学校卒
1905(明治38)年 戦艦「ミズーリ」艦上で暴発事故に遭う
1908(明治41)年 少尉の時、親善艦隊乗組員として来日
        東郷平八郎を戦艦「三笠」艦上で胴上げした
1918(大正7)年 駆逐艦艦長
1927(昭和2)年 大佐に昇進
1935(昭和10)年 パイロット資格取得
1934(昭和9)年 空母「サラトガ」艦長
1940(昭和15)年 中将に昇進 航空艦隊司令官
        太平洋戦争開戦時、海軍中将
 第16任務部隊司令長官(空母エンタープライズに坐乗)
 ウェーク島に海兵隊の航空機を輸送し帰投中
1942(昭和17)年2月1日 マーシャル諸島を空襲
 4月18日 日本本土初空襲
 第16任務部隊司令官をスプルーアンス少将と交代
 6月5日〜7日 ミッドウェー海戦
 10月18日 南太平洋方面海軍司令官 大将に昇進
1943(昭和18)年3月15日 第3艦隊長官
 4月18日 海軍甲事件 山本五十六長官機撃墜作戦を指揮
1944(昭和19)年10月24日〜26日 比島沖海戦
 12月 台風に遭遇 駆逐艦3沈没 損傷21艦艇
1945(昭和20)年5月 九州沖で台風に遭遇 損傷艦艇36
          同年 元帥に昇進
 9月2日 降伏文書調印式に出席
1947(昭和22)年 定年前に退役
1959(昭和34)年8月16日 
カリフォルニア州ロングアイランドの避暑地で心臓発作のため死去
墓所、アーリントン国立墓地
 妻とともに葬られている
 隣には父親の墓がある






直情径行、直感で行動するタイプの猛将ハルゼー。 もともとは駆逐艦乗りだが、五〇代初めに航空に転科し、空母部隊を率いて対日反攻作戦の先頭に立った。












五二歳でウィング・マークを獲得
ウィリアム・F・ハルゼー・ジュニアは、 船乗りの家に生まれた。 『米軍伝記事典』によると、彼の父も兵学校 出身の海軍士官で、一八七三年(明治六)の クラスだったが、大佐で退役になった。 その子のハルゼーは、一九〇〇年に兵学校 に入った。成績は中位だったが、フットボー ルをやり、海軍チームをたびたび打ち破った。 一九〇四年、卒業すると、ハルゼー少尉は 戦艦カンザス乗組として、セオドア・ルーズ ヴェルト大統領の作ったグレート・ホワイト フリートに参加、世界一周航海をした。

 米国が第一次世界大戦に参戦すると、ハル ゼー中佐は、アイルランドのクイーンズタウ ンを基地とする米駆逐艦部隊に加わり、まず ベンナム、次いでショウの駆逐艦長として活 躍、その功によって海軍殊勲章を授与された。 第一次大戦が終わると、ハルゼーはいろい ろなポストを回った。ロード・アイランドの ニューポートにある海軍大学校や、ワシント ンの陸軍大学校に行ったことのほか、大部分 の年月を駆逐艦乗りとして送った。 その後は、航空母艦に乗る方向に向きを変 える。初め、フロリダのペンサコーラ航空基 地で訓練を受け、一九三五年(昭和一〇)、五 二歳のときにパイロットの資格をとった。

 そ して、まず空母サラトガ艦長となる。 日本では、ハルゼーに三年遅れ、砲術の専 門家である山本五十六大佐が、志願して霞ヶ 浦航空隊教頭となった。四〇歳というのに、 自ら操縦桿を握って飛行機の操縦を練習して いる。宙返りまでできるようになったか、そ れとも水平飛行どまりか、詳しくはわからな いが、四九歳でウィング・マークをつけたキ ング、五二歳でつけたハルゼーと、どちらが 上手だったか。 真珠湾攻撃で、南雲部隊攻撃隊総隊長を務 めた淵田美津雄大佐は、回顧して、 「航空部隊の上級指揮官たちが、飛行機乗り だったらよかったのに」と残念がった。 飛行機の発達が、艦船に比べて大きく遅れ、 飛行訓練を受けた飛行機乗りは、ほとんどが 若い。

 航空部隊の上級指揮官は、軍隊のバッ クボーンである「指揮」をするうえから、ど うしてもある程度の古参者でないと、うまく いかない。 米軍では、五〇歳くらい(大佐)までの士 官から募って、飛行訓練をし、一人前のパイ ロットの経験と技量を持たせ、資格を与えた。 資格を持つ者でないと、航空部隊の指揮はさ せなかった。どちらが含理的だったか。 航空では、日本は米国より発達が七、八年 は遅れていたから、性急には割り切れないが。



空母部隊を指揮して戦争英雄に



 ハルゼーに戻る。 一九四〇年春、海軍省はハゼーを中将に 進めて航空戦闘部隊司令長官に任じ、太平洋 艦隊の全航空部隊を指揮させることにした。 一九四一二年七日(現地時間)、日本海 軍が真珠湾を攻撃したとき、彼は空母エンタ ープライズ、巡洋艦三隻、駆逐艦九隻を率い、 オアフ島の西一五〇浬の地点にいた。急ぎ 真珠湾に戻り、補給を終えると、敵潜水艦狩り の命を受け、一二月九日未明、エンタープラ イズを出撃させる。 一方、チェスター・W・ニミッツ大将が、 ハズバンド・E・キンメル大将から太平洋艦 隊司令長官の職を引き継ぐ。

一九四二年一月下旬、ニミッツはハルゼー の指揮する空母部隊を指定して、マーシャル 群島の日本軍基地を攻撃させた。結果は不首 尾に終わったが、空母部隊としては、貴重な 戦闘経験を得た。そして、中部太平洋の日本 軍防御陣地の攻撃をくりかえす。そのうちに、 ハルゼーは、戦争英雄の海軍第一号として、 国民の歓呼(かんこ)を浴びることになった。

 真珠湾に戻ると間もなく、ハルゼー部隊は、 ジュームズ・H・ドゥーリットル陸軍中佐のB 25爆撃機隊を、東京の攻撃圏内に前進させる 作戦命令を受けた。ドゥーリットルと部下たち は、一九四二年四月一八日に攻撃を決行。そ れほどの損害を与えることはできなかったけ れど、東京が現実に爆撃されたというニュー スがアメリカ人の士気を高めたことは絶大だ った。



優れたリーダーシップの持ち主



 一体、ハルゼーという人は、危険を承知で それをあえて冒そうとする勇気を多量に持ち あわせていた。危険の多い作戦を、喜んで担 当した。 第二次世界大戦が始まる前の数年は、ハル ゼーはまるでキリスト教の伝道者のようにし て、海軍航空の重要性、その効果の大きいこ と、何にでも使える融通性を持っていること を、説いてまわった。 「飛行機は、戦場を、お定まりの水上決戦の 凄惨な現場から、遠く離れた平和な、美しい 街と庭にするものだ」 このような戦争では、太平洋の広大さが、 強大な高速空母機動部隊を不可欠なものとす る。この空母機動部隊こそが、大遠距離を疾 駆して敵を攻撃できるからである。

 ハルゼーは、このようにして神出鬼没な高 速機動任務部隊が、必要なときと場所に、上 陸作戦のための制空権を獲得できる史上最強 の武器であると説き、満々たる自信のほどを 示したものだ。 この稿の守備範囲からは、いささか外れる が、今日にいたるまで、海軍史を研究する学 生たちの間で、こんな論争が続いている。 「ハルゼーがレイテ沖で、敵空母部隊攻撃の ため位置を離れ北進したのは、正しかったか。 いや、ハルゼーが、そうすることで、キンケ ード中将を見殺しにしたのは、正しかったか」 ハルゼーの主張は、彼の北進決意は正しか った、というにある。

 もし中央部隊(栗田艦 隊)がサン・べルナルディノ海峡を通り抜け 得たとしても、それは、 「単なるヒット・エンドランにすぎない」 と信じていた。つまり、 「一撃したら後をも見ずに逃げ帰る」 線香花火的作戦で、歯牙(しが)にかける にも足りない、というのである。 ハルゼー大将は、米海軍を代表する知識人、 頭脳の一人、という人物ではなかった。彼の 公式報告といっても、新味のない言葉で綴っ ただけのものだった。 彼の語し方、私信、報告などからしても、 しばしば古臭い考え方をするし、使う言葉も 決まり文句で、狭い語彙(ごい)に限られていた。

 そのような短所はあっても、彼は、知的能 力の飛びきり高い士官を幕僚にして、その知 能を活用しつつ彼の意思決定をする特技を持 ちあわせていた。幕僚の意見を拒(しりぞ) けて自説を押し通すことが、稀にはあったけれども。 ある幕僚の一人が、思い出を語った。 「ハルゼー提督のもう一つの特徴は、彼の幕 僚をほかからの攻撃から守る、弁護するとき の激しさ、すごさだった。いや、部下の場合 も、これと少しも変わらなかった。提督は、 勝利を勝ちとったのは、彼の募僚や部下の手 柄であり、失敗、敗北は彼自身の責任だ、と 考えていた」 ある海軍指揮官はいう。

 「ハルゼーは、たいへんな直観力を持ってい た。どんな状態にあっても、彼の部下たちの ベストをつくさせるにはどうすればいいか、 それをパッと見抜いた」 もう一人の彼の幕僚が書いている。 「ハルゼー提督のもっとも大きく傑出してい た点は、彼の最高のリーダーシップであった。 彼自身がいつも専門家、プロであると同時に、 彼の部下にも、プロとして抜かりのない仕事 をすることを厳格に要求した。その点で、彼 らを強く惹(ひ)きつけるカリスマ的な 統率効果を持っていた。それは、ちょうど 魔法の杖で触れられたようなもので、そうして 触れられた者は、誰でも人に負けまいと頑張ったものだ った」スプルーアンス提督は、「一緒に仕事をした い最高の人物で、優れた船乗りであり、敵を 木端微塵(こっぱみじん)にする男だ」と評した。 このハルゼー提督なる男、大の日本嫌いであったようである。 「ジャップを殺せ!ジャップを殺せ!もっとジャップを殺せ! もし任務を的確に果たそうとするなら、黄色い野獣を殺すようにせよと あおった大の日本嫌いのようであった。

 ハルゼー提督は、敵国日本人が過酷な戦場では肉体的に 優れているという米軍の恐怖心を否定することがぜひ 必要であると信じていた。それでなくても精神的に毎日のように 突っ込んでくる特攻機に精神状態に異常をきたす米兵が大かったそうである。 そこで、「日本人どもを殺せ」 というスローガンを掲げたのであった。「死んだ日本人がいい日本人だ」 として人種的に侮辱し、戦意を高めた。勇猛果敢な戦闘精神の 権化ともいえるハルゼーは、特攻をジャップの自爆テロとして、 卑劣な行為として憎悪したという。しかし戦争に卑劣も何も無いのが 分からなかったのでしょうか、このブルドック提督は。

米軍兵士がカミカゼ特攻隊を恐れ、尊敬していたとする日本の識者は多い。 しかし、カミカゼが吹き荒れていた当時、カミカゼ・パイロットを尊敬し ていた米兵は例外であったと言う。そうでしょうね、それ程の精神力で 攻撃すると言うか、出来る者も居なかったであろう。 米軍は、戦死した特攻隊の死体を艦艇上で見つけ、 海葬にしてた時もあった。しかし、戦利品として、戦死した特攻隊員の遺体 を皿に載せ、ジャップ・ステーキとして嘲笑したり、遺骨・特攻機の破片や 残骸を戦利品として持ち帰っていた。要するにお前たちヤンキーのが卑劣ではないのか。

 現在でも、寄せ書きの有る日章旗や軍隊手帳が、遺族に返却される 「美談」が報じられるが、このような 戦利品が持ち帰られた一因には、日本兵への敵意や憎しみがあったのである。 それが今になって気が変わったのか、ヤンキーは色々と返還するようになって来たのである。 しかし、それを言う前にお前等が日本の非戦闘員を何十万も殺したことの反省をしろ、謝罪をしろと 言いたくなる。特攻は非戦闘員は攻撃をしていないのである。



(更新/2005/08/25) 行く夏を惜しみつつ記す  Homepage Owner kanno

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参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第3巻・勇進インド洋作戦人物抄伝・太平洋の群像30』)

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