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gunkanki


マリアナ沖海戦・V

マリアナ沖の大敗北


サイパン島の鳥居

反映を誇ったマリアナ諸島サイパン島を占領した連合軍



昭和一九年六月一五日「あ号作戦決戦発動」が下令され、Z旗がひるがえった。





伝統の漸減邀撃作戦
 「あ」号作戦とは、昭和一九年 (一九四四)五月の大本営指示に よれば「決戦兵カノ大部ヲ集中シ テ、敵ノ主反攻正面ニ備へ、一挙 二敵艦隊ヲ覆滅」するといういわ ば帝国海軍伝統の漸減邀撃作戦に もとづいたものであった。そして その原型は、殉職した古賀峯一連 合艦隊(GF)司令長官が主張し ていた「Z作戦」にあった。 一九年二月、クェゼリン、ルオ ット等のマーシャル失陥によっ て、古賀長官の第一次Z作戦計画 は潰(つい)え去る。

 しかし古賀大将はな お屈せず、二月二九日パラオに移 動、三月八日新Z作戦要令を発令 する。その要旨は、 「マリアナ、カロリン、ニューギ ニアを結ぶラインは絶対確保しな ければならない。敵の来攻に際し ては、わが艦隊は付近の島嶼喚に展 開した基地航空部隊と協同、集中 可能の全兵力を挙げ、航空機を主 体として決戦す」 というもので、決戦線をマーシ ャル諸島からマリアナ、西カロリ ンの列島に後退させたいまこそ、 伝統の邀撃戦法を実現する好機だ と、古賀長官は考えたであろう。 こうしてサイパンは、本土から西 部ニューギニアを結ぶ「縦列不沈 連合艦隊」の旗艦となるはずであ ったが、古賀大将の不慮の死によ って実現されなかった。

 そういう 意味で古賀長官は、小澤治三郎中 将の指揮する第一機動艦隊の活躍 もさることながら、角田覚治中将 の率いる基地航空部隊である第一 航空艦隊に大きな期待をかけてい た。 しかし、この航空兵力が、別項 で述べたような経過をたどって急 速に消耗し、いざ決戦の日には役 に立たなかったのである。そうい う意味では、「あ」号作戦を直接 指揮した小澤第一機動艦隊長官 は、決戦に臨むにあたり、大きな ハンディキャップを背負わされて いたともいえよう。


日本軍守備隊を徹底的に制圧する連合軍艦艇

日本軍守備隊を徹底的に制圧する連合軍艦艇




第一機動艦隊



 「あ」号作戦の主役を演じること になった第一機動艦隊の編成は、 一九年三月一日付で実施され、そ の陣容は別表のようであった。 「あ」号作戦による決戦を前に編 成された第一機動艦隊とは、空母 を中核とし、戦艦をはじめとする すべての水上艦艇を配した大艦隊 であった。その狙いは、海上戦闘 における作戦部隊の総合戦力をよ り効果的に発揮させることにあっ た。換言すれば、第一機動艦隊が 従来の空母部隊と根本的に異なっ ていたのは、指揮権の統一にあっ た。

 従来は機動部隊の指揮官が指揮 できるのは空母部隊のみで、戦艦 を基幹とする第二艦隊は、第二艦 隊長官が直接GF司令部と連絡を とりつつ指揮するのが当然とされ ていた。 しかしこれでは、同一海面で戦 うとき、支障が出るのは当然であ った。せっかくの総合戦力が、二 分されてしまうことにもなる。機 動部隊指揮官が、所在の水上部隊 のすべてを統一して指揮する。そ れは、過去におけるミッドウェー から南太平洋海戦までの空母決戦 の痛切な体験から生み出された新 たな観点であった。

 一八年八月、第二艦隊長官が近 藤信竹(どうのぶたけ)中将から 栗田健男中将に変わった人事も、この新しい機動部 隊実現のための布石といえた。こ れで第三艦隊長官である小澤中将 が先任となり、第二艦隊をも統一 して指揮できることになった。 第一機動艦隊編成当時その主 力は次期作戦に備えて、スマトラ 島のリンガ泊地に集結し、猛訓練 を続けていた。リンガは、周囲を 島々に囲まれてかたちづくられた 天然良好の投錨地(とうびょうち) であった。

 石油の産地パレンバンに近いから、ま ず燃料の心配がない。かつ広大で あるうえに水深があまりないの で、敵潜水艦に襲撃される危険か らもまぬがれているという、艦隊 の訓練にはうってつけの泊地であ った。第一機動艦隊の旗艦である 大鳳をはじめ翔鶴、瑞鶴らの空母 の威容(いよう)も見られた。

 これら空母の 搭載機の飛行訓練は、シンガポー ルの陸上基地で行なわれていた。 ちなみに、古賀長官の遭難の報 は、四月二日艦隊に届いた。 泊地は、赤道直下に位置してい るので、艦隊の訓練などで少し移 動すると、一日のうちに赤道を跨(また) いで往復することになった。緑の 無人島の浜辺を、まっ白い砂が縁 どっている。人気ない静かな海面 を、内地では兄かけることのない 全身を極彩色(ごさいしょく) で彩られた蛇が泳い で渡る珍しい光景が、しばしば見 られた。

 夕方になって、ときには涼しい 風が吹き通る夕暮れ時、旗艦大鳳 の甲板上で、軍楽隊が演奏するメ ロディが、海面を伝って流れるこ ともあった。またときには、上甲 板に白布のスクリーンが張られ、 映画が上映されることもあった (福田幸弘著司連合艦隊・サイパ ン・レイテ海戦記』)。





「あ号作戦計画」の発令




 しかし、居心地がいいからとい って、艦隊はいつまでもこの泊地 にとどまっているわけにはいかな かった。五月三日、大本営の指示 にもとづいた連合艦隊の「あ号作 戦計画」が発令されたからであっ た。

「一、連合艦隊ハ主作戦ヲ中部太 平洋以南ニューギニア北洋二至〃 正面ニ指向シ、友軍ト協力同方面 ニ決戦兵カヲ集中シテ一挙二敵進 行兵力、就中(なかんずく) 敵機動部隊ヲ覆滅(ふくめつ)シ 以テ敵ノ反攻企図ヲ全面的ニ撃催(げきさい) セントス。

二、本作戦ヲあ号作戦ト呼称シ、 其ノ作戦要領ヲ別冊ノ通リ定ム (以下略)」

 となっていた。別冊要領には、 第一決戦海面をパラオ近海、第二 決戦海面を西カロリン付近海面と 定めていた。

 ところが、リンガからでは、指 定の決戦場マリアナまで三〇〇 浬、パラオまででも二〇〇浬もの 距離で隔(へだ)てられていた。いささか 遠すぎて、いざ出撃となったとき 支障が出そうであった。しかるべ き中継地点に移動せざるを得なか った。約二か月滞在したリンガ泊 地をあとにして、艦隊は逐次ボル ネオ北東部のタウイタウイをめざ すことになった。

 大鳳、翔鶴、瑞鶴等の第一航空 戦隊は、先頭を切るかたちで五月 一一日の未明、月明かりを利して 出発、一四日夕方目的地に着いて いる。一方、内地から直航した部 隊もあった。戦艦武蔵および改装 空母隼鷹、藤、龍鳳の第二航空 戦隊、改造空母千代田、千歳、瑞 鳳らの第三航空戦隊が後発組で、 五月一六日タウイタウイに到着し た。

 しかし、タウイタウイ泊地はリ ンガとはうって変わり、広さは内 地広島の柱島錨地くらいしかな く、艦隊が訓練することは不可能 であった。それではと外洋に出よ うとしても、このころにはすでに 敵潜水艦の危険がいっぱいであっ た。

 なかでもとくに念入りな訓練 を必要としたのは、搭載機であっ たが、あいにくと無風状態が長く 続き、機の浮揚に必要な風が欠乏 して、全くお手上げの状態となっ た。結局一か月近くを無為に過ご して、搭乗員たちは一段と技量を 落とすことになった。ベテランに なるとそうでもなかったが、急速 練成中の搭乗員は、訓練を中断す るとせっかく全得した技術が低下 するらしかった。


群れ成して上陸して行く上陸用舟艇

群れ成して上陸して行く上陸用舟艇




ビアク島に敵上陸



 豊田副武連合艦隊司令長官は第 一機動艦隊に対し、五月二日「あ 号作戦開始」を発令したが、当然 のことながら太平洋は広い。この ときになっても、GFも大本営 も、米軍が進攻してくるのはニュ ーギニアの線かそれともマリアナ であるのか、いずれとも決めかね ていた。 ところへ五月二七日、敵約一個 師団がビアク島に上陸との報が入 ったのであった。

 GFばかりか、 大本営陸海軍部が緊張した。と同 時に、これで米軍の進攻は濠北か らフィリピン南部の線だと判断 し、それまで同様に警戒していた マリアナ方面に対する可能性は薄 れたとみた。 無理もなかった。西北ニューギ ニア最大の湾口にあるビアク島 は、戦略上の要衝でもあった。飛 行場の適地が多く、ここを失えば フィリピン、タラカンの油田地帯 が敵機の爆撃圏内に入ることにな る。

 さらには、パラオ等も敵機の 攻撃圏内に入り、ミンダナオ東方 洋上での機動部隊の行動がきわめ て困難となり、「あ」号作戦自体 がなり立たなくなるおそれがあっ た。ビアクを敵手に渡すわけには いかなかった。 陸軍は海上機動第二旅団(五五 〇〇名)を急派することになり、 GFはこの上陸作戦を支援する

 「渾」(こん)作戦を発動した。この命に より、中部太平洋方面に展開して いだ基地航空部隊(角田中将)の 大部が移動することになり、同部 隊潰滅の原因となった。 敵は有力な水上部隊を行動させ つつあるようだが、空母はともな っていないと判断されたので、第 一機動艦隊から戦艦大和、武蔵を 含む第一戦隊(宇垣纏中将)を分 派することとなった。

 宇垣部隊は 六月一〇日タウイタウイ泊地を出 撃、他の第一機動艦隊も燃料補給 の目的で、一三日同泊地を出発、 ギマラスに向かった。 当時GF司令部には、この敵ビ アク上陸を戦局転換の好機ととら える空気があった。

 戦闘の推移に よって、米主力艦隊をパラオ近海 に誘い出して決戦する機全が生ま れると、読んだのである。しかし このビアク上陸作戦は、その実、 マリアナ上陸をカムフラージュす るための米軍の牽制作戦の意味あ いがあったのである。

 六月一一日、一時行方不明だっ た米空母部隊がグアム島東方洋上 に出現する。以後マリアナ各基地 に連続三日間の空襲と艦砲射撃を 反復、サイパン、テニアン両島に 対する攻撃はとくに苛烈(かれつ)をきわめ た。一二日ロタ、グアムなど各地 に展開していた基地航空部隊の兵 力が潰滅的な打撃を受けた。


戰艦長門

後方は戰艦長門、大和完成までは聯合艦隊旗艦を勤め生き残った。




はためくZ旗



 続く六月二日になって、米艦 隊はふたたびサイパン、テニアン 沖に姿を現わし、あらためて艦砲 射撃を加えきたった。さらに小艦 艇が泊地に侵入してきて掃海作業 を開始するに垢よんで、米軍のサ イパン上陸が明らかとなった。ち なみに、軽巡大淀艦上にあったG F司令部は、五月二二日以降、横 須加方面から、瀬戸内海西部の柱 島泊地に移動してきていた。一三 日夕刻、豊田長官は「あ号作戦決 戦用意」を発した。

 既述のように、二二日午前九時 (〇九〇〇)タウイタウイを出発 した第一機動艦隊は、フィリピン 中部のギマラス泊地に向かって回 航中に、このGF命を知った。一 四日午後ギマラスに着いた艦隊 は、夜を徹して決戦に備えての燃 料補給を行なった。こうなったら もはやビアク島どころではなく、 自然「渾」作戦は中止となり、第 一戦隊の戦艦大和、武蔵は反転し て機動艦隊主隊との合同地点に向 かった。

 六月一五日早朝、米軍はサイパ ンに上陸してきた。豊田GF長官 は、「あ号作戦決戦発動」を下令 した。続いて午前八時、小澤艦隊 に対して、 「皇国ノ興廃(こうはい)此ノ 一戦ニ在リ、各員一層奮励( ふんれい)努カセヨ」 と、激励電を発した。

 GF長官の命を受けた小澤艦隊 の旗艦大鳳に「Z旗」がはため き、全軍は真珠湾以来のZ信号に 奮い立った。艦隊は同日(一五 日)〇八〇○ギマラス泊地を出 撃、同日フィリピン中部のサンベ ルナルジノ海峡を抜け、敵を求め て東方に向かった。 翌一六日一七時、「渾」作戦に 向け派遣していた大和以下の第一 戦隊と合流し、夜を徹して洋上補 給を行なった。

 この時点において 小澤長官は、これまで各方面から 届いた情報を総合して、敵母部 隊は五群からなり、大型空母七、 小型空母八を基幹とする兵力であ るとほぼ正確に判断していた。な お補足すれば、プラス戦艦七、重 巡三、軽巡四、駆逐艦五八。艦載 機の総数は八九一機小澤艦隊の 倍近い機数であった。

 この機数の差は、彼我の搭乗員 の技量を比較すると、さらに重み を増してくる。もちろん、米軍の ほうがはるかに優(まさ)っていたのであ るが、小澤中将自身この事実をど の程度深刻に受けとめていたかは 明らかでない。このうえ中将は、 基地航空部隊(角田部隊)の協力 が全くあてにできなくなったとい う冷厳な現実にも直面していた。

 ともあれ小澤長官は、この目前に 追った決戦に対して、考えぬいた 独自の戦術-いわゆるアウトレン ジの攻撃法をもって挑もうとして いた。 アウトレンジの発想が小澤中将 の頭に宿った原因は、日本機が米 機にくらべて、航続距離の点では 一日の長があったからである。

 米 機は人命尊重の立場から、操縦席 や燃料タンクの保護に注意をはら っているために、どうしても重量 があった。その点身軽な零戦は、 五六〇浬先までの索敵が可能であ り、新鋭艦上爆撃機の彗星、攻撃 機の天山は、ともに三〇〇浬先の 敵艦を攻撃する能力を持ってい た。これに対し、米機の索敵距離 は三五〇浬が限界、また二〇〇浬 以上の攻撃は無理とされていた。

つまり、先に敵空母を発見し、  敵の攻撃機が届かない地点から攻 撃をかけるというアイディアであ った。ところが、当時小澤中将の ライバルであった米第五八機動部 隊指揮官マークニッチャー中将 も、小澤中将の手の内をぼんやり とではあるが予測していたらし い。彼我艦載機の航続距離の長短 に気づき、日本軍が間合いをとっ て攻撃を仕掛けてくることをおそ れていたのである。



苦肉のアウトレンジ戦法



 ミッチャー中将は、この内心の 不安を隠しておくことができず、 上司である第五艦隊司令官レイモ ンド・スプルーアンス大将に対し 意見具申した。攻撃こそ最大の防 御である。接近する日本艦隊に向 かって進撃する許可を求めたので あった。 このミッチャー中将の意見を、 スプルーアンス大将は容れなかっ た。

 われわれに与えられた主任務 は、サイパン、テニアンおよびグ アム等の攻略作戦を支援すること にある。したがって、サイパン等 から遠く離れることは適当ではな いというのが、スプルーアンス大 将の見解であった。

 ミッチャー中将はやむなく、不 安に駆られながら、サイパンの西 方洋上を遊弋(ゆうよく)しつつ、 近づく小澤艦隊を待つことになった。しかし ながら、スプルーアンス大将の頭 のなかには、上陸作戦支援の任務 のことばかりではなくて、この際 日本艦隊に突っかかっていくより も、待ち受けるほうが無難である という考えがあったのであろう。

 スプルーアンス大将のこの決断 は、結局正しかったのであるが、 彼の計算には裏打ちされたものが. あった。その一つは、一五〇浬前 方を探知できる電探(レーダー) が完備されていたこと。だからいついかなると きでも、日本機の奇襲はあり得な かった。さらには革命的な防御兵 器というべきVT近接感応信管を 装備した機銃弾の出現であった。

 それから電探は、空母だけでなく て、護衛の各艦艇や飛行機に至る まで整備されていた。以上のこと がらを小澤艦隊の首脳は、計算に 入れていなかったと思われる。い や、小澤中将だけでなく、大本営 もGFも考えがおよんでいなかっ た。

 ここでもう一度、アウトレンジ について検討してみたい。この一 見もっともらしく見える戦法が成 功するためには、満たされなけれ ばならないいくつかの条件があ る。何よりも必要不可欠なのは、 搭乗員の練度であろう。その一番 かんじんの条件を満たした上で、 まず先制索敵に成功し、その報告 を受けて発進した攻撃機が、通常 より遠距離の飛行に耐えたあと、 的確に目標の敵空母を発見しなけ ればならない。

 発見しても、むろんそれで安心 というわけにはいかない。群がっ て邀撃してくる敵機を撃破し、あ るいは振り切って、さらには熾烈 な対空砲火をかいくぐって、初め て目的を達することができるので ある。

 以上見てきたように、このアウ トレンジという戦法は、相当熟繰 した搭乗員でさえ、その達成は困 難であったろう。換言すれば、こ の昭和一九年当時の日本海軍の技 量をもってしては、とうてい実現 不可能な巧綴(こうち)にすぎる戦法だった のである。

 操縦技量または空戦能 力において、米軍に格段に劣ると いう事実を無視した非現実であっ たことがわかる。 当時の艦隊内部においても、反 対や批判の声があったといわれて いる。が、表立って反対する者は 一人もいなかった。そして、あく まで物量の意味あいからなのだ が、劣勢な戦力で優勢な敵を撃ち 破る唯一の秘策として採用された ものらしい。


TBMアヴェンジャー

聯合艦隊を悩ませた雷撃機TBM・アヴェンジャー。




旗艦大鳳が被雷



 決戦の生起は、六月一九日であ ると予想された。小澤長官は一九 日の黎明時マリアナ列島線の西 三〇〇浬付近に進出して、撃 かける計画を立てた。一八日、払 暁(ふつぎょうから索敵を開始。午後索敵機 が、北東方三八○浬の地点に、空 母六隻を含む三群の機動部隊を発 見した。小澤長官は、距離が遠す ぎると、一九日早朝に距離三〇〇 浬まで接近して攻撃する決意を固 めた。

一九日朝、小澤艦隊は三段索敵 を実施、合計四三機が発進した。 過去の失敗に懲りて、索敵だけは 入念に行なったのである。〇六一二 〇過ぎ、一段索敵の七番線機がサ イパンの西方海面に米機動部隊を 発見、その後他の索敵線を飛んだ 機からも同様の報告が入った。 〇七二五から〇九〇五にかけ て、総勢二四六機の第一次攻撃隊 が発進した。

 その詳細は、次のと おりである。 〇七二五、第三航空戦隊に属す る千歳、千代田、瑞鳳の三空母か ら、零戦一四、戦爆四三、天山 七、合計六四機が発進した。この 攻撃隊は「空母一、巡洋艦一に命 中弾各一発を確認、他の空母二隻 にも命中弾を与えたものと認む」 という報告をもたらしたが、敵艦 隊の前方一五〇浬付近に数百機に のぼる敵戦闘機が待ち伏せていて (米側資料によれば、F6Fへル キャット四五〇機)、指揮官機 (中本道次郎大尉)を含む零戦八 機戦闘爆撃機三磯天山二機 が未帰還となった。

 さらにVT信 管のおそるべき防御網をくぐりぬ けて艦隊の上空に達したわずかな 艦爆隊は、米側資料によれば、戦 艦サウスダコタに爆弾一発を命中 させ、重巡ミネアポリスに至近弾 一発を与えたが、空母まで到達し た機はなかったということである (『ニミッツの太平洋海戦史』)。

 続く〇七四五。第一航空戦隊の 空母大鳳、翔鶴、瑞鶴から零戦四 八、彗星五三、天山二七、合計一 二八機が飛び立った。 ここで思わぬアクシデントが起 きた。小澤長官のアウトレンジに は、攻撃面のほかにもう一つの狙 いがあった。それは味方空母を常 に安全圏におくという守りの観点 であった。

 敵攻撃によるヤリが届 かない地点にとどめておく味方空 母は常に安全であるはずだった。 しかし、敵は足元の海中にもひそ んでいたのである。米潜水艦(ア ルバコア)の大胆不敵なふるまい は、ついに戦場まっただなかの海 中に出没するようになっていたの である。

 垂井明(たるい)少佐率いる一航戦の攻撃 隊が全機発進し終わった直後の○ 八一〇ごろ、艦上爆撃機の彗星一 機、突然旗艦大鳳の右舷近くの 海面に向かって垂直に突入し、大 きな水柱が立った。故障による事 故かと一瞬誰もが思ったが、そう ではなくて、大鳳に向かって突進 してくる雷跡二本を発見し、その 一本に体当たりを敢行したもので あった。

 この勇敢きわまるパイロ ツトの名は小松咲男兵曹長。しか し、残りの一本が大鳳の右舷前部 に命中した。 しかし、この年三月に竣工した ばかりの三万四〇〇〇トンの大鳳 は、防御に万全を期して建造され ていた。現にいま、魚雷を一本食 らってもビクともせず、そのまま 悠然と走り続けて旗艦としての任 務を果たしていた。このすぐあと に、大爆発を起こそうとは誰ひと り相像する者はなかった。



攻撃隊の戦果とぼしく



 一航戦の攻撃隊二一七機は、そ のまま敵を求めて飛び続け、敵戦 闘機と防御砲火の厚いカベにはば まれながら、敵空母をめざした。 そして、空母一隻に命中弾、敵一 二機撃墜を認めたが、その他の戦 果は確認できなかった。この隊の 損害も甚大で、指揮官機を含む零 戦;二、彗星四一、天山二一二が遠 らなかった。

 ほかに彗星二が前衛 の第二艦隊(栗田中将)の付近に 不時着水し、搭乗員は救助され た。 米側の記録によれば、彗星一機 が戦艦インディアナの舷側に激突 し、大型空母バンカーヒルが彗星 二機による至近弾を受け火災を発 生したとある。

第二航空戦隊に所属する零戦一 七、戦爆二五、天山七、合計四九 機の出発は遅くなり、午前九時そ れぞれの母艦隼鷹、飛鷹、龍鳳か ら飛び立った。この隊(石見丈三 少佐)は結局、敵を発見できずに 帰還した。それでも敵戦闘機に遭 遇して、零戦一、戦爆五、天山一 を失っている。

 第二次攻撃隊は一〇時過ぎ、そ れぞれの母艦から出撃した。 一航戦隊(千馬良人(せんばよしと) 大尉)の零戦四、戦爆一〇、天山四、合計一 八機は、一〇二〇発進。しかし、 心配されていた航法未熟がわざわ いして目標を発見することができ ず、あげく隊形も支離滅裂(しりめつれつ) となり、戦爆八、天山一を失って引き 返した。

 前後一〇時一五分、二航戦の第 二次攻撃隊として、宮内安則大尉 が指揮する零戦二〇、九九式艦爆 九、天山三が、続いて一〇三〇 阿部善次大尉が指揮する零戦六、 彗星九が発進した。 宮内隊は、予定地点に到達した ものの敵を見ず、母艦に帰遠する ことをあきらめてグアム島に向か った。

 ところが、一五時着陸寸前 に、待ち伏せしていた敵戦闘機三 〇機の襲撃を受けて、上空より背 後を衝かれたこともあって、零戦 一四、艦爆九、天山三を失った。  第二次攻撃隊で何とか敵空母を 発見したのは、阿部隊の一五機の みであったが、戦果は確認できな かった。

 零戦一、彗星二が機位を 失って途中で母艦に引き返し、攻 撃後指揮官機はロタに、彗星一が グアムに不時着したが、その他の 一〇機の消息は不明のままとなっ た。ちなみに、米側資料では空母 ワスプ、バンカーヒルが爆撃され たが、被害はなかったとある。 な三航戦は、帰投してくる味 方飛行機隊収容のために、二次攻 撃には参加できなかった。


彗星艦上爆撃機

攻撃に向かう彗星艦上爆撃機。




驚天動地のできごと



 早朝の索敵機の発進以来、小澤 艦隊の上空に敵機は姿を見せず、 攻撃隊による戦果はまだ不明であ ったが、アウトレンジ戦法は成功 したかに思われた。戦果報告を待 ち受ける小澤艦隊全艦の士気はま すます昂揚(こうよう)していた。 ところが一四時過ぎになって、 一突如としてしかも続けざまに、そ れこそ驚天動地(きょうてんどうち) のできごとが小澤艦隊を襲ったのである。

 まず、一四時、真珠湾攻撃生き 残りの翔鶴が敵潜(カヴァラ)に 不意を襲われた。発射魚雷六本の うち、三本が命中し、大火災を起 こした末沈没した。奇禍(きか)はそれだ けにとどまらず、一四時二三分今度 は旗艦大鳳が大爆発を起こしたのであった。

 すぐには、再度の魚雷命中かと思われたが、今 度はそうではなかった。 午前八時ごろ、魚雷一本を食ら ったが、その後異常は認められな かったのである。傷は小さいと思 われていた。事実、雷撃で前部の 飛行機用エレヴェーターが故障し たのと、その付近の軽油タンクに 破孔(はこう)が生じた程度の軽い被害だっ た。

 しかし、その破孔から漏れる 揮発性ガスが次第に艦内に充満し ていたのに誰も気がつかなかっ た。 くり返しになるが、大鳳は、造 船技術の粋(すい)をつくした日本海軍の 最新空母で、とくに飛行甲板は急 降下爆撃による二五〇キロ爆弾に 耐え得る装甲がほどこされている とされていた。この自慢の厚い爆 弾防御甲板が、この際かえってア ダとなった。

 下からの膨張を押さ え込んだために、漏れたガスを溜 められるだけ艦内に溜め込んでし まったのだ。艦全体が爆発寸前の 巨大なシリンダーと化したとき、 何か電気系統の火花が引火したら しい。

 厚い甲板が小山のように盛り上 がりながら二つに割れ、隔壁(かくへき)を横 に打ち破った火柱が、舷側から轟 然と沖天(ちゅてん)に噴きあがった。 当時、大鳳は一〇〇機あまりの航空機を 抱え込んでいた。当然、航空用の 魚雷や爆弾が次つぎと誘爆する。

 黒煙と火柱が噴きあがるたびに、 他艦からは、航空機の破片に混じ つて四肢(しし)を大の字のかたちに突っ 張って虚空(こくう)に舞う、まるで黒いワ ラ人形のような人の影がおびただ しく望見できたという(福田幸弘 著『連合艦隊・サイパン・レイテ 海戦記』)。 一六時過ぎ、大鳳は艦尾から沈 み始めた。ニハ時二八分、サイパ ン島の南西約五〇〇浬、北緯二一 度五分、東経一三八度二一分の地 点に沈没、という記録が残ってい る。



全軍、一時北上せよ



 小澤長官は大鳳の沈没直則に、 司令部職員を帯同し駆逐艦若月を 経て、重巡羽黒に移乗していた。 羽黒は艦隊旗艦としては通信能力 が甚だしく貧弱 であった。それが 小澤長官の不安と焦燥(しょうそう) を助長したであろうことは察することができ る。しかし、絶望しきるまでには 至っていない。絶望するには、戦 況が判明せず航空機の現有数さえ も把握できていない状態にあった ともいえる。

 期待をかけていた攻撃隊の戦果 も、依然としてハッキリわからな かった。その実、戦果はほとんど なく、損害ばかりやたら多かった のだが、その実情すらもつかめて いなかったのである。 母艦に帰投した機数が極端に少 ないことが気にかかってはいた が、小澤中将は未帰還機のすべて を撃墜されたとは思わなかったよ うだ。

 燃料の関盤寸で母艦に帰り 着けないときは、パラオ等の基地 に着陸するよう許可を与えていた ので、大部分はそちらのほうへま わったと考えていたようである。 とにかく、一九日夕方の時点で は、小澤長官にはまだ明確な敗北 感はなかったようだ。

 日は暮れつつあった。夜が明け なければ、何事も始まらない。一 七時二〇分、小澤中将はいったん 戦場を離脱するかたちで、全軍に 北上を命じた。むろん、敗北処理 のためではなく、夜が明けたら戦 闘を再開するつもりである。

 一夜明けた二〇日。小澤艦隊は 早朝から何段もの索敵機を飛ばし て、敵情を探った。午前中、敵空 母の所在をつかむことはできなか ったが、索敵機のうち未帰還機が 出たので、もしかしてという不安 は残った。小澤長官は正午近く、 旗艦を重巡羽黒から空母瑞鶴に変 更した。

 瑞鶴に移乗後、小澤中将 は初めて、前日わがほうが三三〇 機を失い、残存の可動機が約一〇 〇機であることを知った。 一六時過ぎになって、ようやく 索敵機から、敵空母部隊発見の報 告が入った。小澤中将は航空機に よる薄暮攻撃を決意、とりあえず 小野賢次大尉指揮の雷撃隊天山七 機を発進させた。小野隊はついに 敵を発見できず、三機が未帰遠と なり、残る四機は母艦に帰り着く ことができず、味方駆逐艦付近の 海上に不時着して、結局全機が失 われた。




米パイロット

この航空海戦で撃墜数を増やした米パイロットたち。




最後の対空戦闘



 一方、米機動部隊も、早朝から 小澤艦隊の発見に躍起となってい た。米軍は前日(一九日)昼間の 激撃戦の大勝利を「飛べない七面 「烏狩り」と自画自賛していたが そのノリから日本艦隊を全滅に追 い込もうとする戦意が高まってい た。

 しかし米軍側も、小澤艦隊の所 在をなかなかつかむことができず にいた。小澤艦隊は無線封止を厳 格に守っていたので、方向探知機 が用をなさなかったのだが、索敵 という分野はもともと米軍の苦手 とするところであった。

 米軍の索敵機が、自隊の北西二 二〇浬の地点に初めて小澤艦隊を 発見したのは一六時であった。日 米両軍はほとんど同時に互いを捕 捉したのであっ尤。距離が少しあ るのと、帰りは夜になることが懸 念されたが、第五八機動部隊揖揮 官ミッチャー中将は追撃を決意す る。

 ただちに、二一六機(戦闘機八 五、急降下爆撃機七七、雷撃機五 四)が発進した。米索敵機の報告 には距離に関してミスがあり、二 二〇浬ではなく本当は三〇〇浬以 上離れていて帰りの燃料が心配さ れた。しかし、「七面烏狩り」を 体験してノリまくっている米軍搭 乗員たちは委細(いさい)かまわず、西に向 かってひた走った(事実、帰途八 ○機が燃料が欠乏して不時着水し ている)。

 約二時間の飛行ののち、米攻撃 隊は一八時近くになって、小澤艦 隊の上空に到達した。こうして、 本作戦における最後の対空戦闘の 幕が切って落とされた。すでに太 陽は西の水平線に沈んでいたが、 空はまだ明るさをとどめていた。 東の空には淡い月が懸(かか)っていて、 戦闘は約一時間、ところどころ茜 色に染まった雲が、そのなかばを 覆った空を背景にして、くりひろ げられた(福田幸弘著『連合艦 隊』)。

戦爆連合の大編隊が、とぎれる ことなく、小澤艦隊に波状攻撃を かけてきた。しかし、日が暮れか かっていたので、焦ってもいたの であろう。敵は整然と隊伍(たいご)を組ん だりせず、てんでんバラバラにな って突入してきた。輪形陣の各艦 から撃ち上げられる弾幕が、暮れ ていく空に点々と薄墨を落とした ように拡(ひろ)がる。

 小澤中将は、残存の戦闘機七五 機を飛び立たせて、邀撃に向かわ せた。前衛部隊の戦艦は主砲を水 平にして、低空で襲撃してくる雷 撃機を狙い撃ちした。敵機も損害 が続出したが、勝ちに乗じて気分 が昂揚している米軍搭乗員たちは ひるむことなく、次つぎと果敢に 突っ込んできた。



Z旗もむなしく



 小一時間にわたる戦闘の結果、 特設空母飛鷹に魚雷一本が命中 し、その後敵潜にとどめを刺され るかたちで、一九時二〇分沈没し た。その他空母瑞鶴、隼鷹、龍 鳳、千代田な。どが直撃弾を浴びた が、いずれも航行に支障はなかっ た。 敵機が去ったあと、小澤艦隊に 残っていたのは、戦闘機一七、戦 闘爆撃機八、九九式艦爆一、彗星 一、九七式艦攻四、天山四、計三 五機にすぎなかった。

 さまざまな 悪条件を抱えながら養成した航空 兵力のすべてが、わずか二日で消 滅してしまったことを悟った小澤 長官は、なお水上部隊に対し夜戦 の決行を命じた。しかし一九時四 五分、豊田GF長官から、敗北を 認め夜戦の中止を命じる電報が届 く。小澤長官はやむなく、二一時 全軍に北西方に避退を命じた。 かくして、二度目の栄光あるZ 旗も、むなしくひきおろされるこ とになった。

 「あ」号作戦は、日本 海軍が三〇年来練りあげてきた対 米漸減戦略の集大成であり、総決 算の意味を持っていた。それがこ のような頽勢(たいせい)のなか で決行しなければならなかったという事実は、 ひとり小澤長官の不運というにと どまらず、日本海軍全体の悲劇を 映し出している。

 より戦術的にいうならば、「絶 対国防圏」を死守して、頽勢を挽 回するために構想された作戦であ ったが、いずれもその悲願はなら なかった。また本作戦は、日本海 軍最後の組織的戦闘であったとい ってよく、これ以後の作戦は、そ れがいかに外見犬がかりなもので あっても、すべて"特攻"的性格 をおびている。

 大敗の責任を感じた小澤長官は 二一日夜のうちに、豊田GF長官 に辞意を伝えたが却下された。 小澤中将は、その後空母部隊を率い ていったん沖縄の中城(なかぐす) 湾に寄港したあと、瀬戸内海西部に帰り、他 の水上部隊は栗田健男中将に率い られてスマトラ島リンガ泊地に帰 投した。ちなみに、日本側はこの 海戦をマリアナ沖海戦と称し、米 側ではフィリピン沖海戦と呼んで いる。

 ここからが小澤治三郎中将の試練の 始まりであった。この後、レイテ沖海戦では 囮(おとり)になり、米高速機動部隊を一手に 引き受け死に花を咲かせよとの命令に応じ、 その後、艦隊なき聯合艦隊司令長官に 補っされ中将のままで就任し、海軍の死に水を 取ったのである。終戦後は質素に、言わず語らず 余生を送った。



(更新/2005/08/30) 残暑厳しい宵に記す。 Homepage Owner kanno





参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第8巻・マリアナ沖海戦・「あ」号作戦決戦発動・亀井宏・著)

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