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gunkanki


台南航空隊飛行隊長

中島 正少佐


中島 正少佐

経 歴
明治43年生まれ、福岡県出身。
海軍兵学校58期(昭和5年11月卒 業)。
24期飛行学生を経て12空、
佐伯 空各分隊長。
太平洋戦争關戦時は
台 南空飛行隊長。
その後、201空飛行長 となる。
平成6年7月現在84歳。


ガダルカナル島に米軍が上陸。戦局は一変した。台南空飛行隊長中島正少佐は零戦一八機を率いてラバウルから発進し、ガ島上空で華ばなしい戦果をあげた。




フネに弱いが「航空最適」



   昭和一七年(一九四二)八月七日、第一次 ソロモン海戦の初日。飛行隊長中島正少佐の 率いる台南航空隊の零式戦闘機一八機は、グ ラマン戦闘機四三機を含む米機四九機を撃 墜、撃破した。零戦は二機を失うにとどま る。米海軍みずから最悪の敗北と呼んだ海戦 の劈頭(へきとう)を飾るにふさわしい、 華ばなしい戦果であった。 ミッドウェー敗戦後二ヵ月、日本 海軍必死の反撃が功を奏したのだった。

 中島は福岡県三池中学板時代から展覧会に 絵を何度も出品し、最初は画家志望であっ た。従兄弟に勧められて海軍兵学校に進んだ が、当時の有名な禅僧釈宗演(しゃくそうえん)に心酔し、その 著書を読みふけって英語がおろそかになり、 危うく落第するところだった。卒業後の東洋 航海では船酔いして寝込み、作業ができず、 船乗りがこれではと、海軍をやめようと思っ た。が、帰国後の術科講習で「航空最適、甲 の上」という思わぬ適性検査の結果を知らさ れ、踏みとどまる。海軍士官としては一風変 わったタイプである。

 中島はまた無類の子供好きで、転戦した南 方各地で子供たちに親しまれ、相撲の相手を して喜ばれた。台南空は緒戦にフィリピン、 蘭印など各地を転戦した後、南太平洋のニュ ーブリテン島ラバウル基地に進駐していた。 基地にきて間もなくのこと。主計科から、そ れぞれでは人数に足りなかったが、合計する と搭乗員の数より多くなる量のバナナやマン ゴーの差し入れがあった。

 「(搭乗員の)人数より余分にくれたな」と 嬉しそうにつぶやく中島に、そばにいた第二 中隊長河合四郎大尉は驚いた。河合は主計長 とそりが合わず、主計科は人数より少なく寄 こすと、悪く解釈していたのである。中島の あたたかい見方に打たれた河合は、この隊長 のために労を惜しむまいと誓う。何気ない一 言が部下の信頼を深めたのであった。



ガ島上空、米機との攻防



 八月七日早朝、飛行場指揮所で中島は熱帯 の濃い緑に目を憩わせていた。と、電信室の べルが聞こえた。 "敵ノ兵力大。最後ノ一兵マデ戦フ。コレニ テ通信ヲヤム。。ツラギ島からの電報で、伝 える電信室当番の声は悲壮だった。 戦局が一変したのだ。ツラギに敵が上陸し たとすれば、すぐ南側のガダルカナル島にも 上陸したに違いない。そこには造成したばか りの飛行場がある。敵の目的がこの飛行場に あることは疑いなかった。 ラバウルの一式陸上攻撃機隊二七機は爆弾 や魚雷を積んで敵艦攻撃を命じられ、中島た ち零戦隊はこの陸攻を護衛していくことにな った。

 三九機ある零戦から航続距離の長い二 一型一八機を選び、九機ずつ二個中隊を編成 した。 中島は第一中隊長兼指揮官として、一八機 全体の総指揮にあたる。第二中隊長は河合四 郎大尉、小隊長は笹井醇一(ささいじゅんいち) 中尉、坂井三郎一飛曹、西沢広義一飛曹。以下も 百戦練磨の精鋭である。なかでも坂井、西沢は撃墜機数のは 多いことで、つとに勇名を馳せていた。 七日午前七時五五分発進。めざすは五〇〇 浬あまり南東のガダルカナル島である。

 盛岡 -大阪間に近い距離だ。ガ島はソロモン諸島 の東端に近く、ラバウルからは片道三時間以 上かかる。その上空に到達して空戦後に無事 に帰還できたとしても、疲労は極限で、空戦 が長引けば帰りの燃料が切れる。かつて経験 したことのない最長距離の爆撃行である。 中島は日米開戦前、すでに中国戦線で米の カーチス・ホーク3型、ソ連のポリカルポフ 16など列強の戦闘機と戦ってきたが、手強い と思ったことはなかった。しかし、米グラマ ンF4F戦闘機との対決は初めてであった。 酸素を節約するため高度二〇〇〇メートル の低空で飛ぶ。高度六〇〇〇メートルに陸攻 隊。ガ島まで三〇分に迫った。

 ここで中島は 急上昇し、陸攻隊よりさらに上空に出る。一 七機が続いた。中島は視力二・〇の眼で前方 を見張る。左右四五度の範囲を左から右へ、 右から左へとゆっくり見渡す。一回見回すだ けで三〇秒はかかる。初回で見落としたら二 回目に目をやったとき、敵は四、五〇〇〇メ ートルの距離に近づいている。敵が先に戦闘 隊形を作ることになり、これがこわい。 敵機の気配を、飛行機乗りはにおいがする という。目のよさに勘の鋭さが加わって感じ るのだが、中島をはじめ坂井、西沢は発見が 非常に早く「嗅覚」が冴えていた。

 ガ島が見えてきた。左前方がくさい。中島 が目をすえると、けし粒のような黒点が空の 彼方に浮かび、四〇あまりの数に増えた。 敵機だ。中島は翼を左右に大きくバンクさせ て列機に知らせ、使い果たした増槽(予備燃 料タンク)を落とし、機体を軽くした。中島 直率の列機がそれにならう。 中島は敵機より五〇〇メートル高く上昇し た。上方から突っ込むと加速がつき、増速し て敵機に反撃の余地を与えない。空戦では先 に敵機を見つけて上昇したほうが有利だ。 中島と並んで左側を飛んでいた第二中隊長 の河合は、敵機にまだ気づいていなかった。

 中島は機上の無線電話で河合に知らせようと したのだが、雑音がひどくて通話できない。 中島はとっさに左側に旋回し、第二中隊の上 に覆いかぶさって気づかせた。あとで河合は 「隊長のおかげで命びろいしました」と首を なぜながら礼を言った。 鳥が羽根を広げたような恰好で、一八機が 横一線に並ぶ。戦闘隊形である。中島を先頭 に、一気に敵編隊に突っ込んでいった。一一 時一五分。ツラギ上空である。 中島は驚いた。中国戦線のときとは勝手が 違う。グラマンは下から急上昇して激しく撃 ち上げてきた。退避のスピードも速い。初め て出会った、俊敏で執拗な相手だ。

 「こいつ ら、やるなあ」と、中島はうなった。護衛戦 闘機の主任務は、陸攻隊(または艦爆、艦攻 隊)を守るために敵戦闘機を排除することに あり、進んで敵機と戦うことではない。わか ってはいるが、つい空戦に力が入った。 中島はわれに返る。幸い陸攻隊は一機も撃 たれず、編隊を組んで爆撃針路に入るところ だった。陸攻隊は次々と投弾していった。 逃げ去ったと思っていたグラマン十数機が ふたたび後ろから襲ってきた。零戦隊は反 転、攻撃に向かう。

 中島の一機だけが陸攻隊 の援護にあたる。七人乗りの大きな一式陸攻 の群れの後ろを、小さな零戦一機が護衛につ いていく。珍妙な光景であった。 後ろから敵二機が追撃してきた。一機を追 うときは、必ず後ろにも注意して見張るのが 空戦の鉄則てある。中島は前後に細心の注意 を払って機をねじり、垂直にダイヴして二機 を退け、護衡任務を果たして帰投した。



自分の戦功をかえりみず



 第一次ソロモン海戦に先立ちニューギニア 島ポートモレスビー飛行場の攻撃で、中島は 列機一一機を率いて椰子の木すれすれに基地 を攻撃し、試運転中の敵大型機一二、三機に 機銃掃射を浴びせて破壊するという決死の銃 撃戦に出て、友軍をも驚かせた。 その直後、ポートモレスビーの別の飛行場 も攻撃。この戦闘で、中島は対空砲火などに より、エンジン頭部のシリンダーの吸気弁に 被弾した。機上の無線電話はこのときも雑音 で通じず、そばを飛んでいる部下に、中島は 手信号で「護衛して一緒に帰投してくれ」と 命じた。が、勘違いした部下は敵機を求めて 戦場に引き返してしまった。

 やむなく中島は スロットルレヴァーを少し引いてエンジン出 力を調節し、どうにか無事に帰投した。 雑音で航空通話ができなかったのは、アー スを取り付けていなかったからである。これ は敗戦近くになってようやく改良される。航 空通話は開戦前、中島が横須賀航空隊の分隊 長時代に実験して成功していただけに、実用 化の遅れは中島の胸に長く憾(うら)みを残した。 太平洋戦争では、中島自身は一度も敵機を 撃墜したことがない。指揮官は部下の列機に 存分に力を出させるのが仕事だからとして自 分の戦功は考えず、爆撃機の擁護(ようご)に徹したとある。

 しかしその後、中島少佐
はフィリピンのマバラカット基地へ移動して、 昭和一九年一〇月から二〇一空の飛行長として特別攻撃隊の指揮をする事になるのであるが、 その後、本土の鹿屋基地に移動して神雷部隊の作戦主任となるのだが、あまり評判は良くない。 陸軍・第四航空軍司令、富永恭次中将がフィリピンから部下を置き去りにして台湾へ遁走したように、 中島少佐も同じように逃げ出しているのである。その後、一九四五年一月、第三四三海軍航空隊副長、その後 同年六月に桜花神雷部隊第七二三海軍航空隊飛行長兼作戦主任へと就いた。

そしてフィリピンで爆戦特攻を指導したというのが唯一自慢の中島少佐は隊員たちを整列させ、 『特攻突入の要領は・・・』高々度行け、突入点は空母なら飛行甲板、戰艦なら煙突か艦橋 を狙え・・・などと声を張り上げたそうである。そばで聞いていた分隊長の林大尉は呆れた。

 それは喰うか喰われるかの戦場を飛んだことのない男の戯言(たわごと)机上(きじょう)の空論である。 中島が去るのを待って林、苦笑しながら、『敵船団への接近は、プロペラで波を叩くぐらい海上すれすれに 飛んでレーダー網をかわせ、突入は空母でも戰艦でも吃水線(きっすいせん)を狙え、出来れば艦尾に突っ込み 奴らを航行不能ににすることだ。航行(あし)さえとめれば、あとはどうにでもなる。』 林がそう言うのを待っていたかのように、隊員たちは躯(からだ)じゅうを口にして、 『宣う候』(ようそろ)と叫んだ。隊員たち にしても、高圧的な中島少佐の言動がままならなかったのである。

 軍紀厳正を振りかざして中島が、 隊員たちの"脱"を見咎(みとが)め酒席などで 岡村司令に「出撃に支障をきたせばど うするのかと酔って執拗に、ねちねち と絡んでいるというのを隊員たちは耳にしていた。 『腑抜(ふぬ)けたおのれに"脱"などといわ れたくないわ』岡村司令は言った。 フィリピン方面の戦況が不利にな って、飛行場が使用不可能になる直前、 いちはやく現地を飛行機で脱出して内 地に掃り、第三四三空を経て神雷部隊に配属……されて きた男だと、小城上飛曹はじめ隊員た ちはみな知っていたのである。

 敗戦後、小城久作上飛曹は、山岡荘八 が山梨県の一色村から運んだ鎌倉期の 建物を邸内の一郭に移設しそれを"空 中観音堂"と名づけ、従軍記者として 鹿屋で見送った神雷部隊の若者たちの 遺品や最後の署名帖を祀っていると聞 いて、山岡邸を訪ねた。 そのとき小城上飛曹は、岡村司令が木更津 で自殺していたことを知らされた。 「やはり……」 思いあがりの多い傲慢(ごうまん)な高級将校の なかで、岡村司令だけは小城上飛曹たちが心 から尊敬した指揮官であった。小城上飛曹は、 「例の……あの中島少佐は?」 そっと訊いてみた。

 山岡は、仏間に掲げられた光悦の孫 の茶人、本阿弥空中(ほんあみくうちゅう)の"空中"と書か れた扁額(へんがく)を見上げながら、 『岡村司令は、自分が特攻出撃する日 を求めながら指揮しておられた。が、 中島サンなどは日本海軍の飛行長かも しれぬが、到底、特攻に出撃できる軍 人ではなかったからね』 そう、ぼそりと眩(つぶや)いたという。

 中島少佐は戦後も生き長らえて、平成六年七月現在八四歳で鎌倉に在住していたが、 その後は私には分からないが、同二〇一空副長玉井浅一中佐は戦後隊員の供養のため僧侶となって生涯を終わったが、 この中島少佐(後中佐)は散々特攻に送り込んだ隊員の供養をしたようにも思えない。「予断であるが、中島少佐はフィリピン・マバラカットの二〇一空時代に 、特攻の直掩誘導護衛の任に付いた菅野 直大尉に帰還後、特攻機の戦果確認をした際、菅野大尉が確認は困難だった旨を述べると言い咎められ、ムッとした 菅野大尉は拳銃に手が行き、撃とうとしたようであるが、暴発して自分の足を撃ってしまったと言うことも有ったよである。」戦後、航空自衛隊空將補まで任官し、その後、特攻に関しての 著作として、第一航艦首席参謀猪口力平大佐との共同著作での神風特別攻撃隊があるが、 著作もいいが、その前に特攻隊員の供養をするべきではなかったかと思うのである。



  (更新/2005/09/05)  秋まだ遠き日に記す。 Homepage Owner   kanno



参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第5巻・ ソロモン海戦・『人物抄伝・太平洋の群像50』)
二〇〇二年十二月号・歴史街道・神坂次郎著
今日われ生きてあり(特攻隊員たちへの鎮魂歌)

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