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gunkanki


第四艦隊司令長官

井上成美大将


井上成美大将


経 歴
井上 成美いのうえしげよし
1889(明治22)年12月9日生
宮城県出身
日本海軍軍人
海軍大将
兄、井上達三
妻、井上喜久代
後妻、井上富士子
宮城県尋常師範学校附属小学校
県立第一中学校分校
旧制仙台第二中学校出身
1909(明治42)年11月19日 海軍兵学校(37期)卒
 卒業成績179人中2番
大正6年1月 原喜久代と結婚
1924(大正13)年11月 海軍大学校(22期)卒
1929(昭和4)年11月30日 海軍大佐
1930(昭和5)年1月10日 海軍大学校教官
1932(昭和7)年11月1日 海軍省軍務局第1課長
1933(昭和8)年9月20日 軍令部出仕
1933(昭和8)年11月15日戦艦「比叡」艦長
1935(昭和10)年8月1日 横須賀鎮守府付
 11月15日 海軍少将 横須賀鎮守府参謀長
1941(昭和16)年8月1日 第4艦隊司令長官
1942(昭和17)年5月7日〜8日 珊瑚海海戦
1942(昭和17)年10月26日 海軍兵学校校長
1945(昭和20)年5月1日 兼航空本部長
 5月15日 海軍大将 軍事参議官
1975(昭和50)年12月15日 自宅で死去 享年86


井上成美は"ラディカル・リベラリスト"を自任し、帝国海軍きっての知性派としてつとに名高い。 しかし、日中戦争を通じて実戦の指揮経験を持たず、珊瑚海海戦では戦機を逸した。




「おれを殺しても精神は死なん」



  米内光政山本五十六とともに、帝国海軍 きってのリベラル派ないし非戦派の中心人物 の一人に数えられている。その硬骨漢(こうこつかん)ぶりを 伝えるエピソードは、ふんだんにある。 井上が軍務局第一課長だった昭和八年(一 九三三)のことである。軍令部長から、海軍 大臣あての「軍令部及省部互渉(しょうぶごしょう)規程改正」と いう商議がまわってきた。「統帥(とうすい)に関する事 項のあらゆる起案伝達等の権限はすべて軍 令部に移管する」というのが、要求の骨子で あった。 何かというと天皇統帥をタテにとる軍令部 の横暴を予防する意味合いから、井上はこの 改正案をツブす気で、なかなかハンコを押そ うとしなかった。

  軍令部からは連日のように 早く起草して捺印(なついん)せよといって きたが、その代表格が当時軍令部第二課長の南雲忠一大佐 であった。南雲は海軍兵学校三六期で、井上 の一期先輩にあたった。 それに、晩年の南雲は結構カドのとれた人 間になったようだが、当時は単細胞にして 血の気が多かったようである。ある日、ついにプッツン した南雲は、「貴様のようなものわかりの悪い 奴は殺してやる」と、強迫的な台詞(せりふ)を吐いて 詰め寄ったが、井上はひるまず、「殺される のがこわくて職務がつとまるか」とやり返し たという。そして、引きだしから一通の封書をとり 出すと、南雲に突きつけ、語気するどくいっ た。「おれを殺しても、おれの精神は死なん ぞ」封筒の中味は、遺書であった。さすがの 南雲も一瞬気をのまれ、いい返す言葉を失っ たという。

  井上成美(いのうえしげよし)はまた、 山本五十六と同様、対米戦に絶対勝ち目はないと思っていた。戦争を 避けるという意味から、日独伊三国同盟に断 固反対した。同時に、実際に戦争に突入して からの見とおしに関しても、現実に則した斬 新(ざんしん)な考えを持っていた。対米関係が緊迫の度 を加える昭和一六年一月、彼は「新軍備計画 論」と題する意見書を、海軍大臣及川古志郎(おいかわこしろう) に提出した。その内容は、「太平洋が戦場の 主な舞台となる上に、航空機と潜水艦の出現 により、必然的に日露戦争のような主力艦隊 同士の決戦の機会はおとずれないだろう。同 時に、太平洋上に散在する島々の航空基地争 奪が主作戦となる」というものであった。

  井上は先の軍務局第一課長のとき海軍を捨 てる決心をしたことがあるが、このときも及 川古志郎海軍大臣に辞意を表明した。及川は 井上の申し出を容(い)れなかった。井上の建白書 は、機密第七九八号文書として扱われ、原本 を含めて六部のタイプ印刷が作製され海軍省 の倉庫にしまい込まれ、陽の目をみることは なかったのである。 井上は、山本五十六を敬愛していたようで あるが、開戦壁頭(かいせんへきとう)の 真珠湾攻撃には賛成していなかった。この 作戦が大成功したという情報を、井上は トラックで聞く。第四艦隊の若い参謀が、 「おめでとうございます」と祝いの言葉を 述べたところ、あるまいことか「馬鹿者!」 と怒鳴り返されたというエピソードが残されている。歯に衣着せぬ、これこそが井上成美である。



合理主義者か、変人か



  合理的な側面を持つ井上は、偶像崇拝( ぐうぞうすうはい=絵画・彫刻・自然物などの可視的対象物を信仰の対象として崇拝・礼拝すること。)を嫌 った現実主義者であった。帝国海軍がこぞって聖将とあがめる東 郷平八郎元帥をも、"二等大将"という辛辣 (しんらつ)な呼び方をし、公然と批判して はばかるところがなかった。東郷の 日露戦争後の身の処し方が気にくわない というのであった。人間は 神になってはならないというのが井上の真情 であったのだろう。 そういう調子であるから、海軍部内におけ る彼に対する評価というものもまた千差万 別、戦中戦後を通じて毀誉褒貶(きよほうへん=ほめることと、けなすこと。さまざまな評判。) )はなはだし い。彼を貶(けな)す人は、まるでもう ケチョンケチョン、国賊みたいにいう。変人、 奇人呼ばわりする人も少なくない。  というよりも、理解ができないのだろう。

  実戦における井上の采配(さいはい)ぶりから導きださ れた「リクツは達者だが実戦はヘタクソ」と いう評もある。開戦後、第四艦隊長官とし て、ウェーク島攻略、続いて珊瑚海海戦を指揮したが、いずれの戦闘に おいても問題をあとに残した。 井上成美は、明治二二年一二月九日、宮城 県仙台市に生まれた。仙台二中を経て明治四 二年一一月、海軍兵学校卒業二七期。大正七 年、スイス駐在。一〇年、フランス駐在。一 三年、軍務局一課。昭和二年、イタリア大使 館付武官。七年、軍務局一課長。一二年一〇 月、軍務局長。一五年一〇月、航空本部長。 一六年八月、第四艦隊長官。

  開戦までの経歴をたどれば、以上のようで あるが、ほとんど軍政畠を歩いてきて、日中 戦争を通じても実戦指揮の経験を持たなかっ たことがわかる。その井上長官が指揮する第 四艦隊は南洋部隊とも称され、旗艦である練 習巡洋艦の鹿島、第十八戦隊(軽巡二隻)、 第十九戦隊(敷設艦等四隻)、第六水雷戦隊 (軽巡一隻駆逐艦八隻)、第二十四航空戦 隊(航空隊二隊)、第七潜水戦隊(呂号潜水 艦九隻)、第二、第四、第五、第六の特別根 拠地隊からなっていた。 そして、昭和一六年二月九日のグアム島 攻賂には成功したが、同一一日夜のウェーク 島上陸作戦には躓(つまず)いた。

  ウェーク島攻略は二三日に再開されたが、 今回はおりから真珠湾攻撃に成功を収めて帰 投中であった第二航空戦隊の支援を得ること ができたため(その最高指揮官が南雲中将で あったのも何やら因縁めいた語だが)、敵機 の妨害がなかったぶん作戦は容易であるはず であった。しかし、またしても大発(だいはつ=旧軍隊で、大型の発動機がついた舟艇。) おろしに 手間どったあげく、二隻の哨戒艇を海岸に擱挫 (かくざ=船舶が浅瀬、暗礁に乗り上げて動けなくなること。座礁。)させるという異常というべき手段を とらざるをえなかった。



戦機を逃した珊瑚海海戦



  以上のような不手際(ふてぎわ)は、 直接的には参加部隊の不覚というほかはない。 または不運続きといえばそれまでであったが、 事前の研究と訓練不足が影響していることは明 らかであった。そして、それら不祥事(ふしょうじ) の最終責任は、や はり長官である井上にあるとみられた。 そして次に、五月七、八両日の珊瑚海海戦 がめぐってくる。開戦以来、井上中将はトラ ック在泊の旗艦鹿島から指揮したが、この海 戦も同様であった。初の空母同士の激突が生 起したわけだが、井上にとっては借り物の空 母群であり、いっさいが目に見えぬはるか遠 方の決戦であった。

  それにしても、井上の戦いに対する見切り の時期は早かった。午後、軽空母祥鳳沈没の ショックはあったであろうが、敵空母が炎上 中で沈没を確認していないうちに、味方機動 部隊に追撃中止、北上を命じている。この処 置を不満とした山本連合艦隊長官は「此ノ敵 ノ殲滅(せんめつ)二努ムベシ」と督戦命令 (とくせんめいれい)を出し、これ を受けた井上中将はあわてて指揮下の各部隊 に対して、索敵追撃を命じたが、二隻の空母 翔鶴、瑞鶴は、井上の指示にしたがって、早 くから針路を北にとって高速で戦場を離脱し ており、戦機は去っていた。

  井上のとった処置を消極的すぎるとして、 連合艦隊司令部は大いに反撥(はんぱつ)し、大本営海軍 部も永野総長以下憤慨(ふんがい)の体(てい)であった。 この日以来、井上が二度と実戦の指揮をとる ことはなかった。以下、一七年一〇月、 海軍兵学校校長。一九年八月、海軍次官。 同年一一月、兼艦政本部長。二〇年五月、兼航空本部長、 大将・軍参議官に任じられ、最後の海軍大 将"と呼ばれた。 約二年間の海兵校長の間にも、いかにも彼 らしいエピソードを残している。

  兵学校内の 教育参考館壁面に額面入りでズラリ並べて掲 げられていた歴代海軍大将六六人の写真を、 井上はすべておろさせた。もうひとつの例。 敵性語であるという理由で英語の廃止案が出 されたことがあったが、「どこの国の海軍 に、自国語しか話せないよなな兵科将校があ るか」という井上の反対で立ち消えになっ た。井上成美はこのころ、すでに兵学校に学 ぶ若者が敗戦後の日々を生きる姿に思いをい たしていたのだという。  


        (更新/2005/09/06) 残暑の中で秋待ちわびて記し。Homepage Owner kanno



参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第4巻・ミッドウェー海戦・『人物抄伝・太平洋の群像37』)

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