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gunkanki


伊十九号潜水艦艦長

木梨鷹一中佐・U


木梨鷹一中佐

伊十九号潜水艦艦長(木梨鷹一中佐)

経 歴
明治35年生まれ、大分県出身。
海軍兵学校51期(大正12年8月卒 業)。
伊64潜、砲艦、駆逐艦、敷設艦に 航海長として勤務。
昭和17年7月伊 19号、
18年10月伊29潜水艦長。
19年7 月26日、ルソン島北方海上で戦死。
海軍少将に昇進

ますらをは 吾が任果し

南溟なんめいの果てに 永久に眠る

  いさおわするな 時過ぎし遙かのちにも



彼の名は ソロモンの全海戦史を通じ、際 立って高い位置を占めている。戦果に輝いたのち、苦難の深海航行にいどみ、重大使命を帯びたドイツ訪間に成功する。半世紀を超えたいまもなお、 その功績を讃える声が絶えない。




米正規空母ワスプを撃沈し、同時に他の二隻をも撃沈破した潜水艦長。



伊十九潜水艦に沈められた健在なりし頃の空母ワスプ。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


伊十九潜水艦に沈められた健在なりし頃の空母ワスプ。


空母ワスプを仕留める

 こちらに向かってくる。敵空母が、間違い なくわが伊号第十九潜水艦に近づいてきてい る。今度こそは、と艦長木梨少佐は潜望鏡の 把手(はしゅ)をしっかりとつかみ、敵艦に 焦点を合わせた。昭和一七年(一九四二)九月一五日 朝。主戦場となった南太平洋、オーストラリ ア東方のソロモン海域である。 伊号は大型潜水艦で、魚雷六本を搭載。こ の日に先立つ八月二五日午後、伊十九潜は巡 洋艦、駆逐艦各一隻を発見し、急速潜航して 巡洋艦を狙ったが見失ってしまうのである。

 翌八月二六日一四時二五分、伊十九潜は空 母、戦艦、巡洋艦、駆逐艦による敵機動部隊 を一〇〇〇メートルの至近距離に発見、襲撃 運動に入った。が、すぐに木梨は、 「潜望鏡下げ」「発射やめ」「深さ四〇(メー トル)」と、たて続けに下令する。敵空母が 直進してきて、危うく体当たりをくうところ であった。 空母はシャワシャワと推進機の音を響かせ ながら、悠々と伊十九潜の真上を通過してい く。水中から真上に発射できる兵器があった ら一発で仕留められるのにと、機関長の渋谷 郁男(しぶやいくお)大尉は悔やしがったという。が、息をひそめて 通過を待つしか手はなかったのである。一難去ったあ と、敵駆逐艦にかぎつけられ、深度七〇メー トルに潜航して回避する。

 「きょうは、ひどい目にあったな」 敵機動部隊の真っただなかに入り込み、爆 雷を受けて沈没する危機に直面していなが ら、表情ひとつ変えない木梨艦長の肝っ玉の 太さに、軍医長の宮沢寿一郎中尉は感銘を受 けた。襲撃に失敗すると、艦長は何をやって るんだという気まずい空気が艦内に生じて士 気が鈍る。水面下に閉じ込められ、欝屈(うつくつ)した 作業環境とあって、乗員の焦りはつのってい く。これが潜水艦乗りの一般的な心理なのだ が、木梨はどこ吹く風と涼しい顔なのである。その結果、乗 員のいら立ちは消えていった。 八月三一日に至り、伊十九潜は僚艦四隻と ともにソロモン諸島の南東のはずれ、サンク リストバル島からさらに南東方で潜航行動に 入ったのである。

 神奈川県・横須賀軍港を出て一か月。真昼 の空を何日も見ていない。潜航中は空気を汚 さないよう禁煙となっているから、夜間浮上 したとき艦橋に上がって一服するのである。待ちかね て一度に二本もくわえて吸う者もいたようである。艦内 はとても暑い。エンジンの小故障は続発し、食事は 毎日缶詰ばかり。洗面もできない状態なのである。 このようにして迎えた九月一五日、ついに 三度目のチャンスが到来したのであった。伊十九潜の聴 音機は午前九時五〇分、艦艇の集団音を捉え る。木梨が潜望鏡をのぞいて見ると、空母を 含む機動部隊で、重巡一隻、駆逐艦数隻が認 められた。方位四五度(北東)、伊十九潜か らの距離八浬ほどであった。

 敵は伊十九潜の北東の方向から西へ進んで いく。潜水艦の水中速力は電池を節約するた めに三ノット(時速五・六キロ)、人が速足(はやあし) で歩く程度のスピードである。このままでは 追いつけない。敵は正規空母を中心とする機 動部隊であった。「潜水艦は潜水中はバッテリーで進むためドン亀いわれるようにとても遅かったのである。 今の原子力潜水艦のように優速での航行は不可能であった。」 敵機動部隊は複雑な動きをしている。午前 一一時二〇分、突如二二〇度の方向(南東) に変針し、伊十九潜に急接近してきた。待っ ていたとばかり、伊十九潜は北東に針路をと り、敵艦へ近づいていく。魚雷戦用意を完了 し、はやる心を懸命に鎮(しず)めて木梨はときを待った。 距離九〇〇メートル、方位角五〇度、敵速 ニノット、絶好の射点である。 「(撃)てえっ」 木梨の号令が響く。撃てという声が「てえ っ」と聞こえた。 六本の魚雷が順次発射される。ときに一一 時四五分。日本が誇る九三式酸素魚雷は、航跡を残 さず目標に向かってまっしぐらに突っ走る。 かたずをのむ乗員の体にズシンと力強い手ご たえを伝え、命中音四発を響かせた。

 爽快感(そうかいかん)が乗員の背筋を走る。思わず万歳を 叫ぼうとし、あわてて抑える。魚雷を発射し てみずからの存在を知らせたからには、次 はこちらが一方的に攻撃される番なのだ。伊 十九潜は深度八〇メートルに潜り、敵空母の 航跡の下に隠れた。魚雷発射から六分後に敵 爆雷初弾の爆発音を聞いた。続いて第二弾、 第三弾と、あらゆる方向から爆発音が起こ る。数隻の敵艦が伊十九潜を取り巻き、一斉 に爆雷攻撃にかかっているのを体全体で感じ るのであった。 渋谷機関長は配置についた電動機室にじっ とすわり、爆雷を一発受けるたびに釘で隔壁(かくへき) に正の字をつけていった。船体が激しく震動 する。空気は濁り、温度は四〇度に上昇。ま な板の上の鯉だが、乗員は意外に冷静だっ た。

 敵の攻撃は五時間半におよび、渋谷がし るした正の字は爆雷八五発を示した。幸運に も一発も至近弾がなく、船体に被害はなかっ た。しかし南海の月明は昼間のように明る く、すぐには浮上できない。しばらく潜航を 続け、月没時の二〇時一〇分に水面に出た。 敵艦群が姿を消しているのを確認し、しみじ みとビールで祝勝、司令部に打電したのであった。 「本艦は魚雷六本を発射し、命中音四発を聴 知(ちょうち)したが、敵駆逐艦八〇発におよぶ 制圧を受け効果を確認し得ず」 この電文に木梨の慎重で謙虚な性格を見る ことができる。打電と同時に隣接配備中の伊 十五潜から「一八○〇空母沈没を見とどけた り」と入電、伊十九潜の戦果が確認された。

 爆雷攻撃から離脱して浮上後、艦橋から一 緒に降りてきた潜水隊司令の小野良二郎大佐 に木梨が、「襲撃のとき、空母の周りや水平 線の向こうにマストやら煙突やらの先端部が いっぱい見えたので、目標をはずれた魚雷が 一本くらい、どれかに命中したかも知れませ ん」と、語しているのを宮沢軍医長がそばで 聞いている。のちに述べるように、それが一 本ではなく、二本もみごとに命中していたの である。


ワスプ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


伊十九号に攻撃を受け炎上するワスプ。




ワスプ雷撃で見せた操艦の妙

 ここで魚雷発射に至る手順を簡単に説明す ると、艦長の「撃て」の命令を受け、方位盤手 がボタンを押すと、方位盤に調定された方位 角、的速などの諸元(発射に必要なデータ) が、魚雷発射管室のそばのダイヤル(元針) に自動的に伝わり、表示される(方位盤は発 射時の態勢を二五秒前に計算する)。同時 に、後に述べる斜進角(しゃしんかく)も表示される。 このダイヤルは同心円の形になっていて、発射管手 が斜進角を追針(おいばり)で重ね合わせると発射する。 発射後は魚雷に内蔵されているジャイロ(真鍮 (しんちゅう)製のこま)が回転し、斜進角の方向に走っていく仕組みである。

 ワスプ襲撃の場合、注目すべき点は、木梨 が得た発射諸元である。方位角つまり潜水艦 と目標を結ぶ直線と、目標の進む線が作る角 度が五〇度というのは、的速二一ノット、距 離九〇〇メートルで発射すると、四九ノット の雷速(三六秒後弾着)から見て、魚雷は敵 艦の舷側に直角に命中する。最大の効果をあ げる射点である。 このとき魚雷の進む方向に潜水艦の首尾線 がまっすぐ向いていれば、諸元ど括りに発射 できるのだが、実際にそのような態勢は望め ない。

 動いている目標と潜水艦の角度は大き くかけ離れているのが常である。潜水艦の魚 雷発射管は水上艦艇の砲塔と違い、固定され ていて動かせない。といって潜水艦を目標に まっすぐ向けるには時間がかかる。 そこで魚雷の進む方向が重要な課題とな る。図に示すように、潜水艦の首尾線と発射 時に魚雷が進む方向が作る角度を「斜進角」 という。 この斜進角は狭いほど誤差が少なくてす む。

 斜進角が開きすぎると車が急カーブを大 きく回るような形となり、速度が落ちて目標 からはずれてしまう恐れがあるのだ。 木梨は斜進角を極力狭くするように艦を操 作した。そのためには、まず方位角を適切に とらねばならないが、あまり接近すると潜水 艦の音が聴知され、航跡も発見されてしま う。また、目標の針路を見きわめるのが難し い。このような悪条件を乗り越えて、木梨は 操艦の妙をふるったのである。 その結果、魚雷の斜進角は右九度と算出さ れた。これは理想に近い角度であったのだ。


雷撃の斜三角図

雷撃の斜三角図。




六本発射、五本命中の快挙

 ここで、アメリカ機動部隊の動きを追って みよう。日本の戦艦や空母はサンタクルーズ 諸島の北側に、他の有力部隊は中、北部ソロ モン諸島に潜んでおり、士気旺盛な航空部隊 がニューブリテン島のラバウル基地で満を持 している。そのうえソロモン海域には約二〇 隻の潜水艦が伏在(ふぐざい)している厳しい現状を、ア メリカ側は察知していたのだ。 しかし、ガダルカナル島を確保するための兵員、武器 の輸送はアメリカにとって急務で、その輸送 船団を守る必要があった。このため、アメリ カ側は無傷で残っていたワスプとホーネット の二空母群を輸送船団擁護(ようご)の任に あたらせたのである。

 アメリカの主力空母は、 すぐるミッドウェー海戦でヨークタウンを日本側に撃 沈されたあと、エンタープライズが損傷を受 けて修理のため真珠湾へ回航され、次いで八 月末にはサラトガも損傷して戦列を離れ、戦 えるのはワスプとホーネットの二隻だけとな っていたのだ。 レイ・ノイエズ少将の坐乗するワスプは巡 洋艦四隻、駆逐艦六隻の輪形陣を、その北東 五、六浬にホーネットが戦艦ノースカロライ ナを含む巡洋艦三隻、駆逐艦七隻の輪形陣 を、それぞれ組んで航行していた。

 午前一一時二〇分、ワスプは上空対潜哨戒 のため二二〇度(南東)に変針し、一八機の SBD急降下爆撃機と八機のF4F戦闘機を 発進させ、速力を落として三機のSBDと八 機の戦闘機を収容した。飛行機の発進と収容 のためか、艦は複雑な動きをくり返してい た。伊十九潜に襲撃されたのは、その前後で あった。 ワスプはエスピリツサント島北西二五〇浬 の地点で沈没した。 アメリカ側は一〇月二七日に至り、「日本 潜水艦の魚雷三本命中」として、ワスプの沈 没を発表した。わが潜水艦が無傷の正規空母 を撃沈したのは、太平洋戦争を通じて伊十九 潜が最初であり最後でもあった。

 伊十九潜の戦果はしかし、これだけではな いことが戦後二〇年ほどもたってからわかっ たのである。ワスプよりも遠方を航行中の戦艦ノース カロライナの左舷前部と、その前方数百メー トルにいた駆逐艦オブライエンの艦首にもほ ぼ同時に魚雷が命中し、ノースカロライナを 小破、オブライエンを沈没させていたのであ る。 ワスプの右舷などに三本の魚雷が命中、他 の一本はワスプを護衛する駆逐艦の船底をく ぐって北東のホーネット群の方向に進んだ。

 これを認めた艦が無線電話で警報を送った が、どの艦も本気にしなかったのだ。炎上するワ スプを南西五、六浬に見ていたが、まさか同 じ潜水艦の魚雷が自分たちを襲うとは信じら れなかったのだろう。アメリカはまだ日本の 九三式、九五式酸素魚雷の威力をよく知らな かったのである。アメリカは別にもう一隻の 潜水艦がいたのだと信じていた。 結局六本の魚雷のうち五本が命中。三隻を 撃沈破するという、海戦史上空前の三重殺を 伊十九潜は果たしたのであった。 ワスプの沈没により、彼我の正規空母はア メリカがホーネット一隻を残すのみとなった のに対して、日本は瑞鶴(ずいかく)、翔鶴(しょうかく)の二隻を残 し、この時点にかぎっていえば日本側が優位 に立った。


潜水艦伊一九のワスプ襲撃図

潜水艦伊十九のワスプ襲撃図。




伊二十九潜、ドイツヘ

 中佐に進級後、昭和一八年一〇月一〇日付 で木梨は伊二十九潜艦長に発令され、訪独作 戦に参加した。シンガポールからインド洋、 大西洋を越え、ドイツ占領下のフランス・ビ スケー湾のロリアン港まで一万五〇〇〇浬。(約27.780キロ) 往路八七日間におよぶ深海を行く大航海であ る。戦闘場面とは形こそ違っていても、苛烈 (かれつ)をきわめた環境下での航行であった。 昭和一八年に入り、ガ島撤退後の戦局は日 本にますます厳しくなってきていた。事情は ドイツも同じで日独は協同、連絡体制を強化 する必要に遣られてきた。日本は新兵器、と くにレーダーの技術を求め、ドイツは南方資 源を欲しがったのである。

 前年の一七年四月、イタリアの長距離機が 来日したが、このイタリア機はソ連上空を侵 犯してきたために、ソ連と中立条約を結んで いた日本としては、ひややかな応対しかでき なかった。結局、日独の交通連絡は潜水艦に 頼るしかないとの結論に達する。潜水艦長と して武勲に輝く木梨中佐が訪独の潜水艦長に 選ばれたのは自然のなりゆきであった。 伊二十九潜は排水量二一九八トン、長さ一 〇〇メートル以上。当時の潜水艦のなかで最 大の規模であり、「巡洋潜水艦」と呼ばれて いた。木梨は伊二十九潜を指揮して一一月五 日に広島県・呉を出発、一一月一四日シンガ ポールに到着。

 ここでドイツが求めている生 ゴム、タングステン各八○トン、スズ五〇ト ン、亜鉛二トン、キニーネ三トンなどの南方 物資と金二トンを積んだ。乗員一〇五人と便 乗者一六人、総員一二一人である。 便乗者のなかに駐独武官を交代する小島秀 雄少将と、木梨と海軍兵学校で同期の無着仙 明、(むちゃくせんめい)小島正己、(こじままさみ) 扇一登 (おうぎかずと)の三人がいた。扇はドイツ 駐在大使館付武官補佐官になる予定で一 一月一八日に羽田発、空路シンガポールにき て伊二十九潜に便乗した。ドイツ到着後はス ウェーデンに入り、終戦工作に活躍する。

 伊二十九潜は二百一六日午後、シンガポ ール出航後一路南下し、スマトラ島とジャワ 島の間のスンダ海峡を通過、インド洋に出 た。扇は長い航海中、毎日欠かさず日記をつ けていた。この日記をもとに航跡を図に入れ てみたところ、伊二十九潜はインド洋では南 方へ、大西洋では西方へと、努めて敵襲を避 けて航海していることがわかる。大西洋では ブラジル寄りに航路をとっている。木梨の慎 重な性格を示すものだろう。 二一月三〇日、スマトラ島とマダガスカル 島の中間のインド洋でドイツ海軍の油槽船ボ ゴダ号と邂逅(かいこう)し、重油二一〇トンと 生鮮食料品の補給を受けた。伊二十九潜は明け て一九年一月四日にもマダガスカル島沖でボゴダ 号から二回目の補給を受けている。

 全航程の半分に近いアフリカ南部、喜望峰 沖に近づく。そこまでは水上航走が主で、一 度だけイギリスの商船に遭遇して潜った。乗 員は商船を攻撃したがったが、木梨は抑え た。隠密裡にドイツに着くのが使命だから、 血気の勇は戒(いましめ)めねばならなかった。 その間、毎日一回、急速潜航訓練を実施し て緊急時にそなえた。扇の記憶では、敵の空 襲にあって深度一〇〇メートルまで急速潜航 したことがある。船体が圧壊(あつかい)する寸前の深さであった。

 食事は缶詰だけで何とかしのげたが、問題 は水と空気と太陽だった。真水は朝、各人に 大きなコップ一杯ぶんだけ配られる。これが 一日分。飲料水は別にあるものの、これでは 口をゆすいだり目を洗ったりするだけでなく なる。扇はシンガポールで乗艦するときアル コールを一びん持ち込んで、ベッドで体をふ いた。他の人たちはどうしていたか知らないが、 悪臭が鼻をつき、とにかく不潔だった。もっと苦労 したのがトイレ対策である。排泄物を手押しポンプ で外に出すのだが、水圧に抗して非常な力を要し、 汗だくとなる。潜水艦生活の辛いところだった。


ロリアン軍港で帰国準備に追われる伊二九号ロリアン出港直前の撮影。

フランス・ロリアン軍港で日本への帰国準備に追われる伊二九号、ロリアン出港直前の撮影。




吠える四〇度線を越えて

 一月九日、いよいよ喜望峰沖である。船乗 りが"ロアリング・フォーティー"(咆哮(ほうこう) する四〇度線)と恐れている南緯四〇度の暴風 圏に突入した。喜望峰には英軍の基地があっ て哨戒機を飛ばしており、その哨戒距離が四 ○○浬といわれているので、伊二十九潜は迂 回(うかい)し、それより南方の沖合六〇〇浬(約1.111キロ) を通らなければならなかった。 すさまじい風と波で艦橋の窓ガラスが壊れ、 哨戒長が負傷した。アンテナも吹き飛ん だ。そのため潜航が主となった。深度四五メ ートルほどになると、やっと静かになる。 が、空気を入れ替えたり、航走力確保のため バッテリーを充電したりというときには浮上 する。

 向かい風のときに普通の巡航速力で進むと 抵抗が強くなるので、速力を落とし、波がく るのを斜めに受ける方向へ頭をかわして進 む。前にあまり進まないかわりに、揺れがい くらか少なくなる。とはいっても、二〇〇〇 トンあまりの大型潜水艦が木の葉のように翻 弄(ほんろう)された。 魔の海域で一一日間耐えたのち、ようやく 南大西洋に抜け、北上する。敵の目が空と海 から光る危険海域である。 アフリカ北部西方の北大西洋に入った二月 一四日、かねて打ち合わせてあったドイツ潜 水艦と邂逅する。新しいレーダーを携(たずさ) えたドイツ海軍のエニッケ中尉と下士官二人が乗り 込んできた。これから先、敵の警戒は一段と 厳重になる。

 ポルトガル西方のアゾレス諸島付近にさし かかると、潜水艦の気配を感じただけで、敵 水上艦艇は猛烈に爆雷を投下してきた。 アゾレス諸島を過ぎた二月一八日ごろから 爆雷攻撃はさらに激しさを増し、昼も夜も潜 航となる。空気は濁り、その不快感は耐え難 かった。まず、頭が痛くなり、次に心臓の鼓 動が早くなって呼吸が乱れる。一日一八時間 潜りっ放しという苦しい日が続く。判断力は 鈍(にぶ)り、全身から精気が抜けていく。 二三時間連続潜航という日もあった。 エニッケ中尉は日本人のがまん強さに音を あげる。彼の要望で、ドイツの下士官がレー ダーで見張っている間に浮上して空気を入れ 替えひと息つくことにした。

 レーダーに敵 を感じたらすぐ潜る、浮上したと思ったら潜 る、その連続であった。 浮上する前には木梨艦長が海上わずか一〇 センチか一五センチの高さに潜望鏡を出して 周囲を見渡すのだが、その潜望鏡すらが敵の レーダーに探知された。レーダーの精度が高 まっていて、敵の飛行機や水上艦艇がすぐに 襲ってくるのであった。 航程の最終海面、フランスとスペインに囲 まれたビスケー湾が迫ってきた。夜間浮上し て英機に探照灯で照射されたことがある。急 遼潜航し、奇跡的に助かった。しけて白波が 立っていたために、敵機は航跡を発見できな かったらしい。


伊二九潜水艦の訪独港路図

伊二九潜水艦の訪独港路図




「不朽」の伊号第二十九潜水艦

 無数の危険を突破して三月一〇日、ビスケ ー湾の奥深くに入る。翌一一日の明け方、イ ギリスの攻撃機数機が来襲し、ドイツ機隊と 空戦を始めた。この航海で初めて伊二十九潜 の二〇ミリ機銃が火を噴き、英機を撃退し た。エニッケ中尉は、日本海軍の射撃技術は 素晴らしいと、手を叩いて喜んだ。 ロリアン港に遊づくと、機雷除去のためド イツ掃海艇が先に立ち、伊二十九潜の進路を 掃海してくれて無事に入港。ブンカーと呼ば れる潜水艦の防護施設へと引かれていった。 そこに入って、木梨艦長以下全員は、ようや く安堵(あんど)する。潜航時間は六六〇時間に達して いた。全員体にこびりついた垢(あか)を落とし、 のび放題のひげを剃って、身も心も軽くした。

 四月一六日、伊二十九潜は十数人の便乗者 を乗せ、V1,V2ロケット、ジェットエン ジン、局地戦闘機、潜水艦用聴音機などドイ ツ新兵器の設計図類とそのモデルを積んで帰 途につく。これらの技術資料をもとに、のち の局地戦闘機秋水、特殊攻撃機橘花、(きっか)特攻機 桜花(おうか)などが生まれたという。 敵が厳戒中のビスケー湾、荒天下(こうてんか)の 南緯四〇度線などが待ち構える地獄の海路を、伊二 十九潜は引き返すのである。

 帰路八九日間におよぶ忍苦(にんく)の長旅を終えて、 木梨艦長以下全員は昭和一九年七月一四日、 シンガポールに帰港した。便乗者と新兵器の 設計図類をおろし、大任の大部分を完了する。 往復半年間の深海行であった。 七月二二日、便乗者約一〇人を乗せて伊二 十九潜は内地に向けシンガポールを出航。半 年のうちに戦局は一変していた。フィリピン 以北から日本近海に至るまでの海域の要所 に、アメリカは潜水艦を配備し、迎撃態勢を 固めていた。

 七月二六日一七時ころ、フイリピン北部のル ソン島北方バリンタン海峡を浮上航行中、米 潜の魚雷を受けたのである。台湾まであとひと息の地 点であった。艦名をもじって「不朽(ふきゅう)(二九)」 と呼ばれていた伊二十九潜は、木梨艦長ら一一〇余人 とともに海中に散った。助かったのは恩田耕輔 (おんだこうすけ)上等兵曹ただ一人である。 だが、乗員たちの超人的な健闘は、木梨艦 長の功績とともに、潜水艦戦史に輝く金字塔 を打ち立てたのであった。


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        (更新/2005/09/14) 秋らしくなりし日に記す。  Homepage Owner kanno



参考文献 
学習研究社(学習研究社・歴史群像・太平洋戦史シリーズ)
(第5巻・ソロモン海戦・うえはらみつはる・著)

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