昭和年14(1938)、日本海軍はスイス・エリコン社より輸入して採用した。翌15年にはライセンスを
取得して国内生産の準備が整い、新たに「九九式 二〇mm 機関砲」の名称が与えられた。九九式
二〇mm 機関砲には短銃身の一号と長銃身の二号が有った、給弾は 60 発入りドラム弾倉であったが、
のちに金属ベルト給弾式に改良され125×125となる。
九九式一号は発射初速が遅いうえ弾道が垂れやすいかった。当初保守的なパイロットから
「無用の長物」「百害あって一利なし」と評されるほど嫌われた。だがその破壊力には目を見張るものがあり、
特に重防御の米軍機に対する効果は絶大であった。
とは言ってもそれはベテランパイロットだけに言える事で、
若い未熟なパイロットには只無駄弾を撃つだけで、60発×2の120発の弾はアットいう間に使い果たして
しまったという。大戦後半からは更に破壊力を増した長銃身TYPEの二号銃が二二型(甲)より使用されるようになった。
(零戦五二型・甲)から二号四型ベルト給弾式125発×2=250発となり装弾数が増える。零戦をはじめ
日本海軍戦闘機のほとんどに装備され活躍した。
九九式二号は銃身が長くなり、重い弾頭を高初速で発射する事が出来るようになり、
一号型よりは使い良くはなったようではあるが、やはりそれは
ベテランパイロットだけに言える事であったようである。
零戦に搭載された20mm機銃、特に一号系は初速が遅いため『(FF)が600m/s』
弾道が垂れてしまうため、機体装着時に垂れを計算してセットしていたと言うほどの小便弾だようである。
坂井氏曰携行弾数も少なく『零戦二一型が装備していた一号銃は方翼60発×2=120発で、
未熟なパイロットが使用するとわずか数撃すると
使い果たしてしまったそうで、あとはただ弾の無い使い物にもならないお荷物を翼に抱えて戦わねばならなかった。
坂井中尉や西澤中尉などベテランは特にこの二人は、使用弾数が少なかったと言われているので、
無用長物にはなら無かったであろうが、
未熟なパイロットには重い重量物を抱えて戦って不利な状態に陥っていたと言っても過言ではあるまい。
坂井、西澤らベテランは、敵に気づかれないように、時には10mに何々とする距離まで詰め寄って数発で落したと
言われていますし、現実に坂井氏も著作。『大空のサムライ』で一発で落とすことを試みて失敗し、二発目で落として
ガッカリするほどの腕前を当時のエース級の搭乗員たちは持ち合わせていたといた事を匂わせるような発言をしている。
たしかに、時には一発で落とした事もあったようである。坂井氏の著作、『大空のサムライ』でそのように述べています。
しかし、一般に20mm機銃は凄いと信じられているようであるが、それはベテランが使用してのことであり、
又当たればの事であったと言う。未熟な若手のパイロットが使用すると、ネコに小判で用を成さなかったようである。
何しろ、初速は遅いは、弾は重くGが掛かると垂れるはで、坂井氏曰、『ションベン弾』だと述べるのである。
戰闘機搭乗員が理想として求めたものは、直線弾道であり、弾速が遅くダレる弾など格闘戦になったら
まず当たるものでは無いと坂井氏は言う。吹流し射撃試験ですらまともに当たらず、命中弾を
得たためしが無かったと坂井氏を以ってこの有様なのである。
そもそも全く弾道も初速も違うこの二つ、7.7mm機銃と20mm機銃を一機の飛行機へ搭載して
使用とした事自体が間違いであったのだ。瞬間を争う戰闘機では、一つの遅れが命取りなのであるのにも関わらず、
ただ見た目だけの威力だけで海軍上層部の大艦巨砲主義に凝り固まった海軍中枢部の愚かなデスクワーク
しか知ら無い人間たちが決めてしまったのである。
この連中は、現場からの言う事も設計者の言う事も聞かずに独走したのであった。何と愚かな事をしたのであろうか、
当時採用になったばかりの頃、中国大陸では最も実戦経験の豊富な海軍第12航空隊では、初速列少の
携帯段数の少ない20mm機銃は単座戰闘機にあっては、百害あって一利なしと意見具申をしたが、
海軍上層部は現場に疎く結局海軍上層部はそれを黙殺してしまった。
設計者もさぞかし作り難かった事でしょう。上げくに20mm機銃の弾丸は高価で太平洋戦争開戦まで
どこの戦闘部隊も実写訓練をしなかったと言うお粗末さであったと言う。とても信じる事は出来ませんが
、これが事実であったようです。
この20mm機銃神話は、戦争も知らない人間の実戦経験の無い人々が戦後作り上げた偶像だとも語っている。
その点に於いて7.7mm機銃『九七式胴体内固定銃』は、発射初速900発/分 〜1,000発/分で
金属ベルト給弾式の通常680×2=1.360発ほどの携行弾数があり、銃口初速 747m/sほどあり
弾の垂れも少なかったので、使いやすかったのでないかと思われる。
坂井氏などベテランは挙って7.7mm機銃を破壊力の無い分、一ヶ所へ集中して撃ち込んで落とした
方が多かったと語っている。20mm機銃は零戦開発頭発から、あまり評判は良くなかったようであった。
零戦の兵装に選定にあたって横須賀海軍航空隊で200m射座固定試験をしたところ
7.7mm機銃では鉄板が凹んだ程度であったのに対し、20mm機銃は一発で吹っ飛んだため『これは凄い』
と言う事となり海軍は採用を決定したのであった。
たしかに20mm機銃は1発当たれば撃つい出来る事も事実あったようである。太平洋戦争劈頭の開戦時には、
20mm機関砲を搭載していたのは零戦だけであった。アメリカ軍機が装備していた
コルト・ブローニングM2重機関銃(AN-M3)と比べると、銃自体の本体重量は20mm一号機銃よりやや重く
アメリカ軍戦闘機は片翼に2挺合計4挺が標準装備であった。零戦は片翼1挺ずつの計2挺で、戦闘機は出来れば出来るほど
自重を軽くしたいのであるからして、5〜10kgの重さでも操縦性が変化し性能に大きく左右したため
この自重差は大きな利点であったであろう。しかしそれも米軍側が零戦に対向しえるグラマンF6Fヘルキャット
がデビューするまでであった。このわずかな重量差は零戦の倍にも及ぶエンジン出力でカバーしてしまったのである。
しかし、99式20mm機銃の方が若干大きかったが、99式20mm機銃にはコルト・ブローニングM2重機関銃(AN-M3)にはない
炸裂弾であったので破壊力は目を見張るものがあった。その結果、零戦は運動性能に優れ、また20mm機関砲
の破壊力で無敵であったと言われているが事実は少し違っている。
坂井三郎氏が言うようにションベン弾で機首に搭載した、97式7.7mm機銃とは初速も弾道もまるで別物であり、
可なり戦線の搭乗員からは初期には不評であったようである。
7.7mm機銃は発射後500m地点で296cm弾垂するが、20mm機銃は同じ地点で490cm弾垂したと言われている。
同じ機体に積んでいる銃器の弾道が違っていたのではさぞ使い難いことであろう。また、99式20mm機銃自体の
信頼性もあまり高くなかったらしい。99式20mm機銃は圧縮空気作動式と言う方式をとっていたが、
これは当時の日本でも結構高度な技術で開発段階でもなかなか苦しんだ。強引に量産化したためにその
遠隔装置の故障が相次いだと言われている。
ちなみに7.7mm機銃は胴体内についており、銃本体後部が
操縦席の左右にあったので自らコッキングが行なえたため多少のジャムならなんとか自分で修正が出来たが、
主翼内でのジャムはどうしようもなかった。
99式20mm機銃は通常弾は榴弾だった。10gの炸薬が入っていっており、発射してある程度飛んだら自爆する仕組み
になっていたのだが、銃身内部で自爆する筒内破烈してしまう通常弾も多かったようで、紫電改では三四三空の
菅野直大尉がこの事故で主翼を飛ばされ帰らぬ人となったと言われている。
その後、は自爆しないように設計されて作られたもののそれでも自爆事故が絶えなかったようである。
九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃及び両者の改良型であり、初速は一号銃
(FF)が600m/s、二号銃(FFL)が750m/s、携行弾数は60発ドラム給弾「一一型〜三二型搭載」・
後に100発大型ドラム弾倉「二一型〜五二型搭載」・125発ベルト給弾「五二甲型以降搭載」と弾数は
増えていくのであったが、その分重量も自ずと増える事となった。
初速について云えば、胴体内に搭載された7.7mm機銃が740m/sであることを考えれば、一号銃でも
極端に遅い訳ではないが、弾垂れは如何ともし難かったのである。二号銃では僅かではあるが、
7.7mm機銃より初速は速くなっているのである。
しかし、一号銃の初速では、貫通力が弱くB-17の防弾板を貫くには至近距離まで近寄らねばならず、
海軍側はそれを考慮に入れて、初速の速い二号銃の採用に踏み切ったのである。
しかし、今尚コルト・ブローニングM2 「12.7mm機関銃」は使用されていると云う事は、名器である事の
証拠であることは疑いの予知は無いであろう。
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