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日の丸



大日本帝国の終焉


二〇年八月一四日深夜、ついに終戦の詔書が発布された。



鈴木貫太郎内閣

戦争終結に向けて出来た臨時内閣であった。




戦争終結に向けて



  昭和二〇年(一九四五)二月一九日、米軍は硫黄島に進攻してきた。約一ヶ月の後の三月一七日、大本営は、 硫黄島守備隊隊長栗林忠道中将の訣別電報を受信する。米軍はその後も急追の手をゆるめず、四月一日には 沖縄本島に上陸を開始した。その二日後、いき詰まった小磯内閣は総辞職する。
その後継首班を決める重臣会議が四月五日に開かれ、若槻礼次郎、平沼騏一郎、近衛文麿、広田弘毅、岡田 敬介、東条英機、木戸幸一、原嘉道死去のあとを受けて枢密院議長に就任した鈴木貫太郎が出席した。
この重臣会議に至る以前、木戸、近衛、岡田、平沼、若槻の五重臣間に、内々に時期首班の取り決めがなさ れていたのである。今度こそ早期和平を講ずる内閣でならなかればならぬとし、新首相として鈴木貫太郎を 選ぶという暗黙の了解が、本人と東条、広田を除く彼ら五名の間になされていた。鈴木が選ばれたのは、以 前に侍従長を経験していて昭和天皇の信頼があること、いくらかでも軍部に対し発言権を持つ海軍大将であ るなどの理由からであった。

  重臣会議の席上で自分の名前を出され、鈴木は驚いている。すでに七八歳。耳の不自由な彼には首相になる などの野心はない。さっそく固辞するむね申したてた。結局次期内閣の首班は、五重臣が内定していたとお り鈴木に決定したが、鈴木本人の指名辞退の意思はなお強かった。彼に正式に大命が降下するまでに、くだ んの五重臣、とくに木戸内大臣から、それとなく戦局転換ー戦争終結の必要性が暗に示されたともいわれる。 各大臣は、次のとおりであった。
外務大臣、東郷茂徳・内務大臣・安部源基・陸軍大臣、阿南惟幾・海軍大 臣、米内光政・大蔵大臣、広瀬豊作・軍需大臣、豊田貞次郎・農相大臣、石黒忠篤・運輸通信大臣、小日出 直登・文部大臣、太田耕造・司法大臣、松坂広政・厚生大臣、岡田忠彦・国務大臣、左近司政三、同・安井 藤治、同・桜井兵五郎、国務大臣兼情報局総裁・下村宏、内閣書記官長・迫水久常。以上の顔ぶれを見ても 、大部分の国民はその政策を依然として戦争遂行だろうと解釈し、新聞もそのように報道した。右の鈴木新 内閣が組閣を終えたころ、九州南西方九〇浬の洋上において、かつて帝国海軍の象徴と見られた 巨大戦艦大 和も沈もうとしていた。


名誉ある講和の模索


  四月三〇日、ヒトラー自決、五月二日ベルリン陥落。八日新総裁デーニッツ、連合軍に無条件降伏を聞いて、 東郷茂徳外相はそれ以上前から抱いていた和平工作を急ぐ必要を感じた。戦争をやめたければ、相手国つま りは米英および重慶に直接申し出ればそれでよい。しかし、それでは無条件降伏は逃れられない。つまり、東 郷ですら、この時点では無条件降伏は避け、いくらかでも名誉ある講和をと、甘い考えを抱いていたのである 。しかし、連合軍側はもう寸でのところまできているものを、よほど起死回生の勝利でもしない限り名誉ある 講和など夢のまた夢であった。それに、原子爆弾という切り札を持ったいま、聞き入れる耳はもたなかったで あろう。

  また、ことここに至っても、なお鼻息あらい陸軍を考慮に入れるならば、第三者の仲介なしの和平交渉は不可 能とおもってのことだったかもしれない。中立国やローマ法王庁を通す手段も検討されたが、日本に利する有 条件講和に関してまったく見込みのない事がわかってきた。ローマ法王庁はその昔、スペインとポルトガルが 各地を支配下にし、植民地化していって争いを始めたときにローマ法王は、支配地を法王が両国に西と東にわ けて支配するようにと、キリスト教の名の下に言い渡したそうである。本来なら両国を諌めるべき聖職者が、 そのような利権の絡むことまで口を出すとはキリスト教に名を借りた人種差別であり、迫害や略奪を認めている 事になる。このような白人主導のローマ法王庁が、日本に有利に働くとは思えない。結局、和平工作の有効な 路線は、ソ連(現ロシア)に仲介を頼むほかないと考えられた。五月中旬、右の対ソ政策につき討議するため、 鈴木首相、東郷外相、阿南陸相、米内海相、梅津美治郎参謀総長、及川古志郎軍令部総長の六名に限定さ れて、最高戦争指導会議が秘密裡に開かれた。

  協議の結果、ソ連の好意的中立と対日参戦防止を加味し、その仲介によって有条件講和による戦争終結を図ると いう基本路線を決議した。その対ソ連交渉の第一段階として、東郷外相は、非公式の予備会談を中日ソ連大使ジ ャコブ・マリクとの間に持つことを考え、その任に元首相、および駐ソ連大使の経験者である広田弘毅を委嘱し た。もとより、以上の日本政府の思惑は楽観的に過ぎた。すでに一九四三年に(昭和一八年)一一月の『テヘラ ン会談』において、スターリンはルーズヴェルト、チャーチルに対して対日戦を約束していた。広田が神奈川県 箱根の強羅(ごうら)においてマリックと会見しえたのは、二〇年六月三日だった。広田の『日本政府は、日ソ 両国の交友関係を強化し、中立条約の延長を欲している。』という第一段階の提案に対し、マリクは検討したい のでしばらく時間をもらいたいと答えたにとどまった。そのごのマリクは、まさにノレンに腕押し、ぬかに釘の 態度に終始したて、広田を疲労困憊させた。しかし、右のように戦争終結を手さぐりでしながら、政府と統帥部 による最高戦争指導会議は、六月九日『今後採るべき戦争指導の基本大綱』を決定し、戦争遂行を呼号する。


ヤルタ会談

ヤルタ会談の三巨頭、左チャーチル、ルーズヴェルト、スターリン




ソ連カードへの期待




  戦争指導層が空疎(くうそ)な字句で本土決戦を叫んでいるころ、四月一日の敵上陸以来八〇日間にわたる沖縄 島の戦況は、いよいよ最後の段階を迎えていた。牛島軍司令官より、六月一九日各方面に訣別電報が打たれた。 大本営は六月二五日、沖縄作戦の終焉を公表したが、本作戦の酸鼻(さんび)は、いうまでもなく沖縄の県民を 地上戦闘に巻き込んだことである。これは大いに反省するべき出来事である。非戦闘員まで軍の支配下に 置いた事は許されるべきではない。沖縄という県は本土より祖先の時代から本土の犠牲となってきた土地柄であ る。この沖縄上陸での非戦闘員の犠牲に対し、わだかまりは表向きはないであろうが、いまだ尾を引いている。 軍部は本土決戦などとわめいて、結局は沖縄だけが地上戦に巻き込まれたのだから、軍部にふり回された人々に ただお気の毒ではすまないであろう。

  第三二軍司令部のある沖縄本島の南端、摩文仁(まぶに)の洞窟が米軍の手に落ちた日の六月二二日、東京では 宮内省第二庁舎の御座所において、最高戦争指導会議の構成員六名が、木戸内府の作成した時局収拾案について 、天皇から直接下問を受けた。木戸の案というのは、ソ連に特使をを送って戦争終結への道を開くというもので あった。そのソ連に送る特使につき、鈴木首相は東郷外相と協議の上、近衛文麿を適任者と決めた。鈴木の言上 (ごんじょう)もあり、天皇から近衛に直接沙汰があった。東郷は駐ソ連大使佐藤尚武に訓令し、近衛派遣使節 をモスクワに派遣したき日本政府の内意をモロトフ外相に伝え、その受け入れにつき同意を得るように訓令した。

  しかし、モトロフは多忙を理由に佐藤に会いたがらず、やむなく佐藤は、外務次官ロゾフスキーに面会して日本 政府の趣旨を伝えた。このような一種の膠着(こうちゃく)状態を打破したのは、やはり原爆であっただろう。 トルーマン米大統領が原爆実験成功の知らせを聞いたのは、いわゆる『ポツダム会談』に臨むため、ベルリン郊 外のポツダムに赴いたときのことであった。トルーマン、チャーチル、スターリンの連合国の三巨頭が相会した。 ポツダム会談の表向きの議題は、ヨーロッパの戦後処理であった。当初日本に関する相談は、つけ足りの域を出 なかった。その『宣言』・・・降伏を促すための対日最後通告は、米国の要請によって副次的に出されたという のがより真実に近いだろう。


崩れたバランス


  ポツダムに赴いたトルーマンが負っていた役柄は、スターリンから、でき得るならばその期限を切ったソ連対日 参戦の確約をとりつけることと、ドイツ降伏後、ヨーロッパに対する露骨な野望をはやくもみせ始めたスターリ ンと、それを快しとしないチャーチルのあいだに立って、仲介の役を演じるということもあった。そして、その 三者三様の思惑のバランスは、原爆の出現によって一気に崩れ去る。トル−マン米大統領は、ポツダムに着いた 翌日、ひそかに本国から原爆実験成功の知らせを聞いたのである。これでトルーマンは最大の切り札をもつこと となる。日本を早期に降伏させるためにソ連の助けを借りるという彼の所期の目的は、大きく揺らぐことになる。 ソ連に借りを作ることなく、米国単独の力で日本の息の根を止めることができれば、それに越したことはないの だ。

  さらに原爆実験成功の報は、トルーマンの心を騒がせただけにとどまらなかった。スターリンは一刻も早く対日 戦に参戦して戦争終結後の権利を確保しなければと焦った。すなわち、一九八九年十二月の米ソ大統領のマルタ会談まで続く『冷戦』の始まりであった。
米、英、支(中)三国の対日最後通告とも言うべき『ポツダム宣言』は、以上のようなあわただしい議場の雰囲 気のなかで、米国のスケジュールにしたがって呈出されたものであった。ベルリン時間の七月二六日二一時三〇分 、トルーマン大統領は戦時情報局に命じ、ただちにこの内容を、あらゆる手段をつくして日本国民に周知させよと 指令した。ポツダムにおける米、英、支三国宣言(ポツダム宣言)を読んで、まず反応したのは外務省であった。

  この『宣言』が終戦の緒口(いとぐち)となることを正しく読んだものの、まず天皇制について具体的に触れら れてないが、廃止する等というような明確な字句が見当たらないことに、外務省は光明を見出した。領土問題であ るが台湾、朝鮮は当然捨ててかからなければならないと覚悟していた。戦争責任者の、処罰、は、これも致し方な いことであろう。外務省の『ポツダム宣言』に対する反応は、以上のようであったが、政府と軍はそれが持つ重大 な意味をすぐに読み取ることができなかった。閣僚の中でいち早くその重大性を認識したのは東郷外相であったが、 その彼でさえこの段階まできてもなお、ソ連の仲介をあてにしていた。


ポツダム宣言

ポツダムに集まった三ヶ国の首脳 左から
(英)アトリー、(米)トルーマン、(ソ連)スターリン




三国共同宣言(ポツダム宣言)の全文

千九百四十五年七月二六日米、英、支三国宣言

(千九百四十五年七月二六日『ポツダム』において)


一、
吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及
グレート・ブリテン国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ
代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結
スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ

二、
合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ
自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ
最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ
終止スルニ至ルマデ同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ
一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

三、
蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル、ドイツ国ノ無益且無意
義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ
明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル
ナチスニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全、
ドイツ国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタ
ル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セ
ラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル
壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ
意味スベシ

四、
無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル
軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続キ統御セラルベキカ
又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガケッテイスベキ時期ハ
到来セリ

五、
吾等ノ条件ハ左ノ如シ 吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ
右ニ代ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ

六、
吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐サラルルニ至ル迄ハ平和、
安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ
日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシ
メタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ




































七、
右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕
セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ
諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領
セラルベシ

八、
カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州
北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

九、
日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ
平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ

十、
吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡
セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ
虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル
処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル
民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、
宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

十一、
日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能日本国
ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ
産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為
再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為
原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルベシ日本国ハ
将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ

十二、
前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ
平和的 傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ
占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ

十三、
吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右
行動ニ於ケル 同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ
同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅
アルノミトス

『外務省訳』






































ソ連軍国境を越える

旧、樺太(サハリン)真岡(現ホルムスク)に進駐するソ連軍。




八月九日、ソ連が参戦



  七月二七日の最高戦争指導会議で、東郷は特使に予定されている近衛文麿の訪ソを持って、ソ連の明確なる 返事を知ってから日本の態度を決すべきで、それまでは『宣言』に対する回答を延長すべきであるとした。 これに対し、会議では異論を唱える向きがあり、とくに軍令部総長豊田副武大将などは、いずれ『宣言』は 世上に知れるであろうから、このさい本宣言を不都合であるとする必要があるなどと発言した。 しかし、最終的には、おおむね東郷外相の意見が支持され、鈴木首相の『黙殺』談話が発表される。二七日 の定例記者会見において、鈴木は、『あの共同声明はカイロ宣言の焼き直しであると考えている。政府として はなんら重大な価値ありとは考えない』といわば窮したあげくの説明を行った。そのいわば失言が、対外放 送網を通じて全世界につたわった。鈴木の伝言中、『黙殺』のみが大きくクローズアップされ、同盟通信から 、イグノア(無視)と訳されて放送され、さらにそれが連合側にリジェクト(拒否する)と受け取られ、巨 大な報復が帰ってくることになる。原爆投下がそれであった。米国は、『ポツダム宣言』原爆使用の最後通告 という、大義名分にしていたのである。首相発言に驚愕(きょうがく)し立腹しながらも、東郷外相は頭上に 原爆を落とされるまで、実りなりき、ソ連との交渉に躍起(やっき)となっていた。駐ソ大使佐藤尚武に対し 督促電報を連打している。その佐藤大使は現地にあって、外交官として冷徹な目で現実を認識していた。

  二人のあいだにかわされた外交電報のうち、七月三〇日斉藤大使の東郷外相に対する変電中に、『ソ連がいま さら何を好んで日本の肩を持つ必要があろうか。この点あなたのご観察と当方の実際は、はなはだしく食い違 っていると考える』という一節がある。佐藤大使のいうところは、正論であろう。そして佐藤が八月五日東京 着で、『一日の早く日本の平和提唱の決意(宣言受諾)を通達すれば、さらに条件は緩和される可能性がある。 だが、いかに緩和されても、ドイツの例にみるように戦争責任者の処罰はまぬがれぬ。戦争責任者が真に憂国 の士ならば、従容(しょうよう)として犠牲となるのもやむを得まい』と打電してきた翌日、広島に原爆が投 下される。続いて佐藤は、八月八日一八時クレムリンに呼ばれて、モトロフ外相から『ソ連政府は、八月九日 を期して日本と戦争状態に入ることを宣言する』との通告を渡される。この現地時間は、日本時間にして九日 午前零時であり、ソ連軍が満州になだれ込んだ時間でもあった。そして、同日九日午前一一時二分二発目の原 爆が長崎に落ちた。先に広島に投下された新型爆弾が原子爆弾であることを知り、続いてソ連参戦の報を受け て政府は、ここに『ポツダム宣言』受諾の決意を固めた。




深夜の御前会議を奏請


  八月九日、宮中においてポツダム宣言受諾に関する最高戦争指導者会議が開催された。会議の冒頭、鈴木首相 がまず発言し、この上は『ポツダム宣言』を受諾せざるを得ないと思うむね述べて、各人の意見開陳(かいち ん)を求めた。阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長ら軍部三名は、国体の護持(ごじ)(皇室の安全保 障)はむろんのこと、『宣言』中にある戦争犯罪人の処罰、武装解除の方法、占領軍の進駐など四項目につき 、条件を出すべきとした。これに対し東郷外相は、国体の護持は別として、その他の条件を出すことは、交渉 の決裂をまねく危険が大であり、戦争終結の機会を永久に失うことになりかねないとして強く反対した。
こうして、全員が一応ポツダム宣言受諾に基本的に賛成しつつも、その一部条件について紛糾を重ね手いた折 もおり、九日午前一一時二分、二度目の原爆が長崎に投下された。引き続き午後から開かれた閣議では、それ まで明瞭な態度を示さなかった米内海相が、初めて発言して本土決戦の無益をいい、この際の戦争終結を強く 主張し、依然一勝あげてからの講和をとく阿南陸相と対立した。延七時間にわたる論議はいっこうに結論をみ る気配がなかったが、最後に鈴木首相が、国体の条件はすべて呑むべきであるとする東郷の意見に対する賛否 によって決をとった。

  阿南、松坂司法相、安井国務相らが反対、米内、石黒農相、豊田軍需相、小日出運輸相、太田文 相、左近司国務省らが賛成組であった。閣議は二二時をすぎてもなお決しなかった。鈴木がこれからすぐに参 内上奏(さんだいじょうそう)する旨をの述べ、再度の休憩に入った。鈴木は東郷とともに、二三時拝謁(は いえつ)し、東郷外相が、閣議のなりゆきを言上した。ついで鈴木首相が、最高戦争指導者会議を午前会議と して開催したことを奏上した。こうしてポツダム宣言をめぐる第一回の異例ともいうべき午前会議が、同日二 三時五〇分すぎから、宮中防空壕の一室において開かれた。出席者は、既述の六名の最高戦争指導会議講成員 のほか、枢相平沼騏一郎、内閣書記官長迫水久常、陸軍省軍務局長吉積正雄、海軍省軍務局長保科善四郎、お よび内閣総合計画局長池田純久であった。


聖断くだる



  会議の冒頭、東郷外相が議事提案理由を説明して、大略『原子爆弾の出現と、これに関するとみられるソ連の 対日参戦とは、事態は一挙に悪化させて、交渉による講和はその方途(ほうと)をうしなった。
この上は皇室の護持安泰のみを有条件に、この機を逃さず、終戦にもっていくべきである』と述べた。ついで 鈴木首相の指名を受けた米内外相が、外相の意見に、まったく同感である旨、言明した。そのあと、阿南、梅 津、豊田、の三名が、受諾するにしても既述の四条件はゆずれないといって反論し、『最後の一撃を米英に与え より有利の条件を作り出す機会を放棄するべきではない。死中に活を求めるべきであり、本土決戦にはある程 度の勝算がある』とのべた。鈴木首相の希望で、特別に枢相平沼騏一郎は、『この聖断によって決するべきで ある』と新しい意見を開陳した。依然論議はとまらず、時刻は午前二時をすぎた。ここにおいて鈴木首相は、 『かくなる上は、はなはだ畏れ多いことながら、聖慮をもって本会議の決定としたい』と述べた。

  その首相の口上に対し、天皇は外相案(東郷)に同意であるむね述べ、『ポツダム宣言』をそのまま受諾する 断を下した。聖断による日本のポツダム宣言受諾意志の通告に関する外交的処置は、次の段階として外務省の 手にゆだねられた。外務相は、日本の宣言受諾意図を海外とくに連合軍将兵に早く知らせる必要があるとし、 同盟通信および日本放送協会首脳の同意を得て、一〇日夜、ひそかに海外に向け放送せしめた。この海外向け 放送は、通信後二時間たらずで、まず米国の反響を得、数時間後には全世界に波及したことが認められた。 八月一二日午前零時四五分ごろ、外務省、同盟通信および陸海軍の海外放送受信所は、米国の回答を傍受した 。その中で、『天皇および日本国政府の国家統治をの権限は、降伏条項の実施のためその必要と認める措置を とる連合運最高指令官の制限のもとに置かれるものとす』およびその他の個所が、政府および軍首脳のあいだ にふたたび波紋を投げる。

  当初は外務省ですら、連合軍側の回答を、明確なる意思表示を避けて、解釈および推測を受け取る側に任せた。 点が多いとみた。しかし、結局はすべての条件を呑むしかすべはない。外務省ですらそのような次第であった から、陸海軍両統帥部の反応態度はいうまでもなく強硬であった。即時受諾反対を決め、梅津参謀総長および 豊田軍司令部総長は、一二日午前、国体護持の見地から受諾不能のむね列立上奏した。阿南陸相も同日午前、 鈴木首相に妥協反対を申し入れ、さらに平沼枢相も鈴木を訪ねて同様の主張をした。





長崎原爆投下

八月九日長崎に原爆投下と、同日ソ連不可侵条約を破り宣戦布告。



最後の御前会議




  一一日一五時から閣議が開かれたが、席上東郷外相は、連合軍側回答は満足するべきものではないが、と前置き してから、受諾はやむを得ないことを述べた。東郷の提案に対して、阿南が『これでは国体問題が不安である』 といい、あわせて武装解除と爾後占領についても、つけ加えて際照会すべきであると、以前からの主張を曲げ ず、安部内相、松坂司法相、らがこれに追随した。そして、最後には肝心の鈴木首相までが動揺を示し、際照 会に賛意したの発言をするに至った。この首相である鈴木の発言で苦渋に立った東郷は、連合軍側よりの日本 政府に対する正式回答の到着を待って、あらためて論議することを提案し、ひとまず閣議を散会にみちびいた。 そして東郷は散会後、木戸内府を訪ね首相に対する説得をいらいしている。東郷のいう連合軍正式回答は、一 二日夕刻に到着した。その内容は、先の放送とまったく同一であった。

  連合軍回答審議のための最高戦争指導会議は、一三日午前九時から首相官邸地下壕において開かれた。阿南陸 相および梅津、豊田両統帥部長は依然と同じ主張をくり返し、最照会を要請した。これに対し東郷は、これま た以前と同じ言葉を述べて反対した。午後より会議が開かれたが、午前と同じく結論はでなかった。 一方、連合国側の回答をめぐり陸軍および海軍統帥部は、これを不満として政府と最高戦争指導会議のメンバー に働きかけようとする動きが出てきた。以上陸海軍統帥部内の不穏な空気は、ポツダム宣言受諾派の要人を刺激 して、終戦決定のための異例の御前会議を奏請(そうせい)そしめることとなった。鈴木首相はいまや即時停戦 の決意を固め、そのための御前会議を開く方法につき苦慮していた。

  両統帥部長が御前会議開催を遅らせようとしていたため、もはや天皇直接の召集という非常手段に訴えるほか目 的を達する方途がないと決意し、思いあぐねて木戸のもとを訪ねたのであった。木戸は鈴木の提案に、即座に同 意した。二人は、一六年一二月一日の開戦決定の御前会議を召集し問題を一挙に解決しようと考え、拝謁(はい えつ)し、天皇の同意を得ることができた。このようにして、ちょうど予定されていた閣議に出席するために総 理官邸に参集していた全閣僚にそのことが伝えられた。その他の陸海両統帥部部長および陸海軍両軍務局長、平 沼枢相、池田総合計計画局長、迫水内閣書記長らは、不意の呼集に平服のままあわただしく参内した。


御前会議

最後の御前会議で御聖断を仰ぐ




終戦の詔書を発布




  この最後となった御前会議は、同日一〇時五〇分から宮中の防空壕内においてはじまった。会議の冒頭、鈴木首相 が前日の最高戦争指導会議および閣議の始終を言上し、『閣議においては、約八割が提案に賛同したが全員の一致 をみるに至らず、ここに重ねて叡慮をわずらわし奉るの罪軽からざることながら、この席上にてあらためて反対意 見者から親しく聴取のうえ何分の聖断を仰ぎたい』と奏上した。
鈴木の言上が終わると、梅津参謀総長、豊田 軍令部総長、阿南陸相、の三名があいついで立ち、国体護持の見地から連合国側回答に対する再照会を奏請し、も し連合軍側が要求を受け容れないときは継戦し、死中に活を求めるほかない、と言上した。 三名の反対意見のあと、天皇の発言があった。その言葉の内容は、ほぼ終戦の『詔書』に盛られた。天皇の言葉が 終わると、鈴木首相は聖断をわずらわせた罪を謝し、ここに戦争終結は確定したのである。

  終戦の詔書起案のための閣議は、早速当日一三時から始まった。閣僚一同が、なお一言あると予想していた阿南陸 相は詔書の審議中、字句の訂正を一個所強固に申し入れただけで、その後は陸軍省内部の一部将の再度の照会懇願 にも二度と動じる色を見せなかった。詔書の素案は、先にも触れたように、すでに一〇日の御前会議における天皇 の発言内容を基礎として、迫水書記官長の手許ににおけるお言葉を増補する必要上、一案が一六時ごろ閣議に配布 された。前途の阿南陸相の字句訂正申し入れは、当初『戦勢日ニナリ』とあった個所を『戦局必スシモ好転セズ』 に直して欲しいということであった。討議は夜にはいってからも続けられ、二二時少し前に、案の決定をみた。 鈴木首相がただちに参内して、御名(ぎょめい)御璽(ぎょじ)を請い、閣僚全員の副署ののち、二二時、詔書は 発布された。全文は以下に記す。↓
八月一四日の夕刻から、東京中央放送局(NHKの前身)の電波は、明一五日正午に重大な放送があるので、国民 はもれなく聞くようくりかえした。しかし、国民の大部分は、その放送の示す意味を事前に判断することができな かった。大部分の国民は、ソ連の参戦という最悪の事態を迎えて、不安にかられつつも、軍部の称号する本土決戦 に備えていたといっていい。

  一五日正午、終戦の詔書を朗読する天皇の声は予定どうり電波に乗って、全国に流れた。この日、日本列島はおお むね快晴、昨日までとは違う夏の暑い日であった。


皇居前

皇居前にひれ伏す多くの人々。



詔 書

 
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ
以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ對シ其ノ共同宣言
ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝国臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ
皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二
国ニ宣戦セル所以モ亦實ニ帝国ノ自存ト東亞ノ安定ト
ヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キ
ハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦己ニ四歳ヲ閲シ朕
カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ
奉公各々最善ニ盡セルニ拘ラス戦局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈
ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘ
カラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族
ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却
スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇
祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同
宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝国ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對
シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死
シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セ
ハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタ
ル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ
今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民
ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪
ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開
カムト欲ス朕ハ茲ニ国體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民
之赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激
スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ
爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ
戒ム宜シク舉国一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ
任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力を將來ノ建設ニ傾ケ道義
ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ
進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ
意ヲ體セヨ

 

御名御璽

昭和二十年八月十四日

各国務大臣副署



































降伏署名・重光葵外相

1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印する、重光葵外相



降伏署名

1945年9月2日ミズリー号艦上の降伏調印式で調印する、梅津美治郎参謀総長





 

 

降伏調印文書


(千九百四十五年九月二日東京湾上ニ於テ署名)・原文


 
  • 下名ハ茲ニ合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国ノ政府ノ首班ガ千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」  ニ於テ発シ後ニ「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ガ参加シタル宣言ノ条項ヲ日本国天皇、日本国政府及日本帝国大  本営ノ命ニ依リ且之ニ代リ受諾ス右四国ハ以下之ヲ連合国ト称ス

     
  • 下名ハ茲ニ日本帝国大本営並ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ  連合国ニ対スル無条件降伏ヲ布告ス

     
  • 下名ハ茲ニ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国臣民ニ対シ敵対行為ヲ直ニ終止スルコト、一切ノ  船舶、航空機並ニ軍用及非軍用財産ヲ保存シ之ガ毀損ヲ防止スルコト及連合国最高司令官又ハ其ノ指示ニ基キ日本  国政府ノ諸機関ノ課スベキ一切ノ要求ニ応ズルコトヲ命ズ

     
  • 下名ハ茲ニ日本帝国大本営ガ何レノ位置ニ在ルヲ問ハズ一切ノ日本国軍隊及日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ノ指  揮官ニ対シ自身及其ノ支配下ニ在ル一切ノ軍隊ガ無条件ニ降伏スベキ旨ノ命令ヲ直ニ発スルコトヲ命ズ

     
  • 下名ハ茲ニ一切ノ官庁、陸軍及海軍ノ職員ニ対シ連合国最高司令官ガ本降伏実施ノ為適当ナリト認メテ自ラ発シ又ハ  其ノ委任ニ基キ発セシムル一切ノ布告、命令及指示ヲ遵守シ且之ヲ施行スルコトヲ命ジ並ニ右職員ガ連合国最高司令  官ニ依リ又ハ其ノ委任ニ基キ特ニ任務ヲ解カレザル限リ各自ノ地位ニ留リ且引続キ各自ノ非戦闘的任務ヲ行フコトヲ命ズ

     
  • 下名ハ茲ニ「ポツダム」宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト並ニ右宣言ヲ実施スル為連合国最高司令官又ハ其ノ他特定  ノ連合国代表者ガ要求スルコトアルベキ一切ノ命令ヲ発シ且斯ル一切ノ措置ヲ執ルコトヲ天皇、日本国政府及其ノ後継者ノ為ニ約ス

     
  • 下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ連合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放ス  ルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ

     
  • 天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ本降伏条項ヲ実施スル為適当ト認ムル措置ヲ執ル連合国最高司令官ノ制限ノ下ニ  置カルルモノトス


     
  • 千九百四十五年九月二日「アイ、タイム」午前九時四分日本国東京湾上ニ於テ署名ス

        大日本帝国天皇陛下及日本国政府ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ

                              重光葵

        日本帝国大本営ノ命ニ依リ且其ノ名ニ於テ

                              梅津美治郎

     
  • 千九百四十五年九月二日「アイ、タイム」午前九時八分日本国東京湾上ニ於テ合衆国、中華民国、連合王国及  「ソヴィエト」社会主義共和国連邦ノ為ニ並ニ日本国ト戦争状態ニ在ル他ノ連合諸国家ノ利益ノ為ニ受諾ス



        連合国最高司令官                  ダグラス・マックアーサー

        合衆国代表者                     シー・ダブリュー・ニミッツ

        中華民国代表者                    徐永昌

        連合王国代表者                    ブルース・フレーザー

        「ソヴィエト」社会主義共和国連邦代表者     カー・デレヴヤンコ

        「オーストラリア」連邦代表者             ティー・エー・ブレーミー

        「カナダ」代表者                     エル・ムーア・コスグレーヴ

        「フランス」国代表者                  ル・クレール

        「オランダ」国代表者                  セイ・エイ・ヘルフリッチ

        「ニュー・ジーランド」代表者              エル・エム・イシット












    降伏調印文書・(ひらがな文)


  • 下名は茲に合衆国、中華民国及「グレート、ブリテン」国の政府の首班が1945年7月26日「ポツダム」 に於て発し後に「ソヴィエト」社会主義共和国連邦が参加したる宣言の条項を日本国天皇、日本国政府及日本帝 国大本営の命に依り且之に代り受諾す 右4国は以下之を連合国と称す

  • 下名は茲に日本帝国大本営並に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍 隊の連合国に対する無条件降伏を布告す

  • 下名は茲に何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国臣民に対し敵対行為を直に終止すること、一 切の船舶、航空機並に軍用及非軍用財産を保存し之が毀損を防止すること及連合国最高司令官又は其の指示に基 き日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず

  • 下名は茲に日本帝国大本営が何れの位置に在るを問はず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊 の指揮官に対し自身及其の支配下に在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直に発することを命ず

  • 下名は茲に一切の官庁、陸軍及海軍の職員に対し連合国最高司令官が本降伏実施の為適当なりと認めて自ら発 し又は其の委任に基き発せしむる一切の布告、命令及指示を遵守し且之を施行することを命じ並に右職員が連合 国最高司令官に依り又は其の委任に基き特に任務を解かれざる限り各自の地位に留り且引続き各自の非戦闘的任 務を行ふことを命ず

  • 下名は茲に「ポツダム」宣言の条項を誠実に履行すること並に右宣言を実施する為連合国最高司令官又は其の 他特定の連合国代表者が要求することあるべき一切の命令を発し且斯る一切の措置を執ることを天皇、日本国政 府及其の後継者の為に約す

  • 下名は茲に日本帝国政府及日本帝国大本営に対し現に日本国の支配下に在る一切の連合国俘虜及被抑留者を直 に解放すること並に其の保護、手当、給養及指示せられたる場所への即時輸送の為の措置を執ることを命ず

  • 天皇及日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認むる措置を執る連合国最高司令官の制 限の下に置かるるものとす


  • 1945年9月2日「アイ、タイム」午前9時4分日本国東京湾上に於て署名す

        大日本帝国天皇陛下及日本国政府の命に依り且其の名に於て

                              重光葵

        日本帝国大本営の命に依り且其の名に於て

                              梅津美治郎


  • 1945年9月2日「アイ、タイム」午前9時8分日本国東京湾上に於て合衆国、中華民国、連合王国及 「ソヴィエト」社会主義共和国連邦の為に並に日本国と戦争状態に在る他の連合諸国家の利益の為に受諾す



        連合国最高司令官                  ダグラス・マックアーサー

        合衆国代表者                     シー・ダブリュー・ニミッツ

        中華民国代表者                    徐永昌

        連合王国代表者                    ブルース・フレーザー

        「ソヴィエト」社会主義共和国連邦代表者     カー・デレヴヤンコ

        「オーストラリア」連邦代表者             ティー・エー・ブレーミー

        「カナダ」代表者                     エル・ムーア・コスグレーヴ

        「フランス」国代表者                  ル・クレール

        「オランダ」国代表者                  セイ・エイ・ヘルフリッチ

        「ニュー・ジーランド」代表者              エル・エム・イシット



                                                                                                            (1945年9月2日東京湾上に於て署名)




     





  •  沖縄作戦に加わった米戦艦ミズーリ号で二日午前行われた降伏文書の調印式 には、日本代表の重光葵外相、梅津美治郎参謀総長、連合国側代表のダグラス・ マッカーサー最高司令官らが出席した。調印によって日本は ポツダム宣言を正 式に受諾し、連合国による占領統治が始まった。調印式後、連合国軍最高司令官総 司令部GHQは日本の武装解除、戦闘停止、外地における日本の降伏相手国を定めた 「一般命令第一号」を日本側に手交した。天皇は同日、敵対行為の停止と武装解除、 降伏文書の履行を国民に命じる詔書を出した。降伏文書はポツダム宣言の履行、敵対 行為の終止、捕虜や被抑留者の速やかな解放などを日本に求めるとともに、「天皇お よび日本国政府の国家統治の権限は、本降伏条項を実施するため適当と認むる措置を執 る連合国最高司令官の制限の下に置かるるものとす」と規定した。

     GHQ「占領軍」は天皇と日本政府を指令・勧告する間接統治方式によって日本を占領統治。 日本の主権が及ぶ範囲は本州、四国、九州、北海道に限定される。沖縄、奄美は日本 本土から切り離され、米軍の直接統治下に置かれる。
    式典でマッカーサー司令官は「流血と残虐の過去から、よりよい世界、信頼と 理解の上に立つ世界、人間の尊厳と人間の最も渇望している自由、寛容、正義の 完成を目指す世界が生まれてくることを希望している」と演説し、降伏条項の 実行に向けた決意を表明したのであった。





    連合軍艦艇

    富士を望む相模湾に終結した連合軍の艦艇







    (更新/2004/11/20)  初冬の肌寒き日に記す。 Homepage Owner kanno



    主要参考文献 
    学習研究社・刊(歴史群像・太平洋戦史シリーズ・第10巻・連合艦隊の最期)その他
    講談社・刊・江藤 淳 ・著  占領史録〈上〉―降伏文書調印経緯・停戦と外交権停止

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