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曲・硫黄島防備の歌


日の丸


硫黄島守備隊玉砕

永へニ御別レ申上グ


二〇年三月一六日深夜、硫黄島の栗林兵団長は訣別電を発した。

栗林忠道中将

小笠原兵団長・栗林忠道中将

経 歴
1890(明治23)年7月7日生・長野県出身
1914(大正3)年 陸軍士官学校(26期)卒
1918(大正7)年7月 騎兵学校乙種卒業
1923(大正12)年8月 大尉に昇進
1923(大正12)年11月 陸軍大学校(35期)卒
(卒業成績2番) 恩賜のサーベルを受ける
1927(昭和2)年 武官補佐官 ワシントンに駐在
1931(昭和6)年8月 カナダ公使館付武官
1944(昭和19)年5月27日 第百九師団長
小笠原集団長(改組後小笠原兵団長)
6月8日 硫黄島に着任
1945(昭和20)年2月19日 アメリカ軍、
硫黄島に上陸(硫黄島の戦い)
3月26日 硫黄島で戦死戦死後、大将に昇進
1945(昭和20)年3月26日没





戦略的要衝・硫黄島




 硫黄島は、東京〜サイパンの中ほどに位置し、それぞれ約五五〇浬の距離をへだてた小笠原諸島の中核 をなす島である。

 しかし、東西八キロ南北四キロ、その名の通り全島の随所に硫黄ガスを噴出し地熱高く、そのうえ水も 乏しいという孤島である。人間が住むには最悪の条件のしまであるが、当時の戦略的見地からすれば、 比較的平坦で島の中央部および南部に飛行場の適地があったため、米軍側から見れば、日本本土に向か う戦爆連合の中継基地として、あるいはマリアナから長距離爆撃機B-29等の不時着地として絶好の地で であった。換言すれば、この島が米軍側の手に落ちることは、東京をはじめ東部の都市および工業生産 地帯が頻繁(ひんぱん)に米軍の空襲にさらされることを意味した。

 硫黄島を守備する小笠原兵団の前身である第百九師団は、マリアナ沖海戦(『あ』号作戦)前の昭和 一九年(一九四四)五月二二日にさかのぼる。父島要塞守備隊、要塞歩兵隊等を基幹として編成された 。第百九師団長に親補された栗林忠道中将(戦死後大将に進級)は、陸士二六期、騎兵進出で陸軍省勤 務や騎兵部隊の指揮官を歴任し、開戦当時は第二三軍参謀長として香港攻略に参加した経験も持ってい た。誌藻(しそう)豊かで『愛馬進軍歌』の作詞者であることも、定かではないが一部によく知られている。

 栗林中将は、副官藤田正善(まさよし)中尉をともなって、六月八日硫黄島に到着した。参謀長の大須 賀應(おおすがことお)少将以下幕僚は、中将の後を追うかたちで同島に着任した。一部には、小笠原 諸島全般の指揮をとるのであれば、通信、補給に便利な父島に司令部を置くべきだと声もあがったが、 中将は最前線に位置する同島に渡ることを選んだ。 最初から骨を埋める気があったのだろう。結局栗林中将は、その後二〇年三月二六日、玉砕に至るまで、 ついに一歩も硫黄島を出ることはなかった。



硫黄島MAP

サイパン・硫黄島・東京間の距離





空襲の始まり




 栗林中将が着任した当時、硫黄島にあった防備部隊は、のちの混成第二師団に改編準備中であった『伊 支隊』と呼ばれる陸軍部隊(支隊長・厚地兼彦(あつじかねひこ)大佐以下四八八三名)と海軍警備隊 (指揮官森国造少将以下二一八五名)および父島海軍航空隊の一部であった。これらの部隊は、一九年 三月下旬父島から硫黄島に進出、陸軍は主として陣地の構築、海軍は飛行場の整備に従事していた。 六月一五日、『あ』号作戦は発動された。米機動部隊との決戦を持って、アメリカ方面の各基地に展開 するため、松永貞一中将率いる第二七航空隊および横須賀海軍航空派遣(通称、八幡部隊)が同島に進出 した。

 栗林中将は着任後、あとから追及した第百九師団の兵員を加えて、陣地を構築を推進した。『あ』号作戦 発動後は、飛行場の整備や空と海に対する警戒などに人員が割かれなければならなくなったが、それでも 陣地構築を休むことはなかった。無論、『あ』号作戦の余波はまぬがれず、とくに先の八幡部隊が進出し てきてからは、敵襲の可能性は増大した。

 その第一波は、一九年六月二四日に来襲した。艦載機約六〇が、午前七時すぎ硫黄島上空に達し、八幡 部隊の戦闘機五九が邀撃(ようげき)のため飛び上がった。結果、相当数の米軍機を撃墜したものの、 相打ちのかたちで八幡部隊も二四機を失った。また、同日一四時ごろから、戦爆連合の編隊が米空母を 求めて発進したが、発見する事ができず、機位を見失ったりして戦闘機一〇、艦爆七もの未帰還機を出し た。こうして、わずか一日で八幡部隊は兵力の大部を喪失した。

 難攻不落を伝えらてながら、六月一五日来、いとも簡単に米軍の上陸を許したサイパン島が陥落数直前 の七月三日から四日にかけて、米機動部隊はふたたび小笠原方面を空襲、硫黄島に艦砲射撃をあびせた 。すなわち、七月三日一四時五二分から約四〇機の艦載機が来襲した。 八幡部隊の戦闘機八四で邀撃し、撃墜一七機の戦果をあげたが、日本側も未帰還、地上炎上など約三〇機 賀失われた。翌四日はさらに圧倒的な勢力をもって、一四時すぎから二時間足らずのあいだに、延三五〇 機が群がって襲ってきた。約四〇機を撃墜したが、日本側も二〇機が還らず、艦砲射撃で地上の航空関係 宿舎は全焼し、この二日間で八幡部隊は早くも壊滅状態になったとされる。

 艦砲射撃は、巡洋艦および駆逐艦八隻が沖合いに現れ、艦爆機の襲撃時間に合わせ、一四時から一六時ご ろまでのあいだに約五〇〇〇発から六〇〇〇発の砲弾を撃ち込んだ。 この艦砲射撃のすさまじさにより、それまでに栗林中将の胸中に芽生えていた水際撃退作戦に対する疑問 が、ますます確定的なものとなった。中将の敵陸上に対する防御思想は、水際を偽陣地とし、主陣地はあ くまで後方に整備するという考えに急速に固まっていく。


縦深配備の防御構想


 海岸線において従来、硫黄島の飛行場を温存するという立場から、海岸線に撃退拠点を構築するという考え であった。しかし、現実問題として、艦砲射撃の威力を見せつけられた上、飛行機もほとんど壊滅状態とな ったいま、そのような海軍の要請にばかり気を遣ってはいられなかった。 大本営陸軍部においても、実情は同様で、とくに難攻不落を信じていたサイパン島の水際防御作戦が、ほと んどなすところなく敗れたことを重くみた。そして、栗林中将と同じく、水際配備による対上陸防御方針を 根本的にあらためなければならないとした。それと、サイパンの場合、時間的制約その他さまざまな理由か ら、その築城陣地の構築がひどくて手薄なものであったことがわかる。

 こうした大本営の考えもあり、栗林中将は、硫黄島防備計画を根本的に変更した。そのめざすところは、地 形、地質をあらためて、検討し、全島を要塞化するということにあったといってよい。縦に深く一〇〇〇に わたる主要陣地を構成し、摺鉢山(すりばちやま)を有力な拠点として、米軍の上陸をいったん許したのち、出 撃して敵を海正面に圧迫するという、いわゆる縦深配備の防御構想で、全島の作戦準備を推進した。 一方『あ』号作戦が失敗しマリアナ諸島が陥落すると、小笠原、硫黄島方面は連合軍の進攻に対する最前線 要域となり、本土防衛の外郭(がいかく)地帯として重要な戦略的地位を占めることになった。そこで大本 営陸軍部は、第百九師団を基幹とする小笠原兵団の戦闘序列を、別掲のように下令した。

 その後、硫黄島に対する米機の空襲は、しだいに激しくなった。八月末から九月三日かにかけての連続三日 の空襲をきっかけのようにして、その後ほとんど連日、夜間数機、昼間はたいてい二〇機内外が飛来した。 もともと濃いジャングル地帯もなく、それほど広くもない同島からは、いつしか草木が見えなくなった。お びただしく投下される爆弾で、土地はくまなく掘り返され、見渡すかぎり荒涼(こうりょう)とした光景が 出現した。一〇日に入ると、空襲は更に激化したが、一〇月一八日、大本営は『捷』一号作戦を発動、米攻 略部隊は一〇月二〇日大挙してレイテに上陸を開始し、ここに陸海空あげての決戦がレイテを中心に展開され るに至った。



島を視察する栗林忠道中将

島を視察する栗林忠道中将








かならず硫黄島にくる




 硫黄島の将兵にとって、サイパンが陥落したあとは、敵がいつくるかわからないという焦燥感にかられたが、 レイテ決戦が始まってホッとひと息ついたというのが実情であった。当時大本営は、米側の進攻コースにつき 次の四通りを考えていた。A、フィリピン〜沖縄〜九州南部〜東京・B、フィリピン〜上海〜朝鮮南部〜東京 C、フィリピン〜九州〜東京・D、フィリピン〜小笠原〜東京。 大本営では、右のコースのうち、AとBの可能性がもっとも大きいと考えられていた。大本営の判断を要約、 換言すると次のようになるであろう。

 その主要方面として東シナ海周辺海域が考えられ、なかでも台湾、沖縄地区が目標となる可能性が高い。そし て、一〇月下旬ごろの見込みとして、米軍はフィリピンから沖縄を経て本土に向かうことがあっても、硫黄島 は模索するのではないかと一部で判断されたが、栗林兵団長はかならず硫黄島に来攻すると確信していたとい う。 レイテ周辺において、一〇月二四日から二五日にかけて、空と海の兵力が一体となった乾坤一擲(けんこんい ってき)の作戦が実施されたのだが、すでに航空兵力は底をついて、戦勢を回復することはできなかった。

 そ の後も大本営は、地上兵力をレイテ正面に増援しようとしたが万策つき、一一月に入るころには地上の第一四 方面軍もレイテ決戦の望みを失いつつあった。 その間、硫黄島上の小笠原兵団は、絶え間ない米機の空襲に悩まされながら、依然として陣地構築の作業に全 力をうち込んでいだ。一〇月末までには、鉄材等の不足に悩まされながら、所定のとおり第一期(七月中旬〜 七月末)および第二期(八月上旬〜一〇月末)の工事を消化した。その成果は次のようなものであった。


米軍・硫黄島攻略部隊

 [上陸部隊]

第五水陸両用軍団(H・スミス中将)

第三海兵師団(G・アースキン少将)
第四海兵師団(C・ケイツ少将)
第五海兵師団(K・ロッキー少将)

七万五一四四名

[支援部隊]

第五八機動部隊(M・ミッチャー中将)

空母一七、戦艦八、重巡四
軽巡一二、駆逐艦七七

第五二機動部隊(W・ブランディー小将)

護衛空母一一

第五四機動部隊(B・ロジャース小将)

戦艦七、重巡四、駆逐艦一五
























日本軍硫黄島守備隊

  [陸軍]


 
小笠原兵団(栗林忠道中将)

第百九師団(栗林忠道中将)

混成第二旅団(千田貞季少将)

歩兵百四十五連隊

独立混成第十二連隊第三大隊 戦車第二十六連隊

独立機関銃第一、第二大隊

独立速射砲第八〜第十二大隊

中迫撃砲第三大隊

独立白砲二十大隊

その他
計 約五万五五〇〇名

[海軍]

第二十七航空戦隊司令部(市丸利之助少将)

その他
計・約七五〇〇名






























 まず、水際のトーチカ陣地。海軍と協力して、水際から一〇〇ないし一五〇メートル後方の線に高さ一・六メ ートル、厚さ一メートルの掩蓋(えあがい)を、延数個大隊の人員を約三ヵ月使用して構築に努めた。これら らの掩蓋一三五個施工して完成したのが、二四個、あとは概成(がいせい)に終わった。 次に一般野戦地。重機関銃座は掩蓋だけ鉄筋コンクリートまたは赤土を使用し、厚さは天蓋(てんがい)が約 〇.七〜一・五メートル、壁は一メートルのものを完成した。軽機関銃の火点は軽掩蓋、小銃手は立射散兵壕 (さんぺいごう)のほか、対戦車肉弾攻撃の拠点として各所にタコツボを構築した。

 対戦車壕は赤土の堆積 (たいせき)、三角断面の壕などを縦深に構築したが、鉄条網および水際障害物は資材不足のためにほとんど 手がつけられず、わずかに海岸にガソリン用ドラム缶を設置した。 六月マリアナ沖開戦、七月フィリピン方面空襲、一〇月台湾沖航空戦およびレイテ沖海戦と、熾烈(しれつ) な戦闘が続き、連合艦隊は艦艇と航空兵力をすりつぶし、一九年末にはその戦力のあらかたを喪失してしまった 。こうして、不沈母艦たる硫黄島はますます孤立し、その孤立のなかで、敵上陸の気配を感じつづけていた。 その孤独を癒すすべは、さしあたって陣地を堅個にするしかなさそうである。



1945年昭和20年2月19日硫黄島に上陸せんとする米海兵隊、左上部に摺鉢山が見える

硫黄島からの手紙・公式サイト

硫黄島に上陸せんとする米海兵隊。



地下に潜る守備隊陣地




 一二月に入ってからの硫黄島に対する空襲は、戦争開始三年目にあたる一二月八日九時から一四日にわたる約 一週間、戦爆連合のべ一九二機が来襲し、米側記録にによれば約八〇〇トンに達する爆弾を投下した。 さらに一四日には、一四時ごろから一五時にかけて巡洋艦三隻および駆逐艦六隻が姿を現わし、約七〇〇〇発 におよぶ艦砲を島上に撃ち込んだ。一九年七月以降その年の暮れまで、硫黄島に来襲した米機の累計は延べ一六 六九機に達し、そのうち一二月は九〇六機と飛躍的に増大した。その後の米機の模様は省略するが、その来襲が はほとんど連日たえることがなかった。

 その後フィリピン方面においては、一一月三〇日、米軍輸送船団約八〇隻がスリガオ海峡を通過し、一二月一五日 払暁(ふつぎょう)、ミンドロ島に上陸を開始した。大本営は一二月二五日、全般情勢とくに、米軍のミンドロ島 基地確保にともなう新情勢とその西太平洋方面における兵力の余裕にかんがみ、米軍の次期進攻に関し『一月下旬 、硫黄島および父島上陸の算大なり』と、あとから考えてもほぼ正確な見通しを報じた。

 硫黄島上の栗林兵団においても、空襲の激化と状況の切迫に対し、兵団内部の人事をも変更して万全を期した。一 二月一六日、仙台陸軍幼年学校長千田貞季(せんだただすえ)少将が、大須賀少将にかわって混成旅団に補され 、大須賀少将は同日第百九師団付となった。また一二月三〇日、同兵団堀誠一参謀長が、混成第二旅団司令部に 転出し、前第九三師団参謀高石正大佐が第百九師団参謀長に補された。その間も、陣地の構築作業は休むことなく 続けられた。一応地上の陣地を概成した司令部では、今後は各部隊宿営地の地下約一〇メートル付近を貫通する 洞窟(どうくつ)式の坑道の構築を計画し、一二月二三日以降約三ヵ月の予定で始められた。

 その結果、米軍が実際に上陸する二〇年一月までに、坑道は、居住区で一二.九キロ、交通路三.二キロ陣地一キロ 貯蔵庫一キロ、総延長距離で一八キロの各陣営を連結する地下交通路は、二月上旬までに計画の五分の二をそれぞ れ完成した。また硫黄島のシンボルとも言える摺鉢山地区の地下には、延べ約六キロのトンネルが、それこそハチの 巣のように堀り穿(うが)たれていた。

 ただ同山の地下は、セメント不足のために思いどおりお作業が出来ず、土嚢 (どのう)積みによる陣地しか構築することができなかった。 しかし、坑道作業は、言語に絶する重労働であった。同島特有の地熱のために、土中の温度は常に摂氏四九度に達し 、同じ人間が五分から七分間作業を続けるのがやっとだった。五名一組で掘るのであったが、二四時間で一メートル 堀進むのが精一杯であった。また食糧、飲み水なども不足がちであったから、パラチフス、下痢、栄養失調患者が多 発して、作業は思うように捗らなかった。





硫黄島坑道

硫黄島の地下坑道




硫黄島戦略図面

硫黄島戦略図面





全島が分断




 こうした苦難の日々を送りながら、兵団は米軍上陸の日を向かえる。二月一四日、黎明(れいめい)時、硫黄島 から発進の艦偵彩雲(さいうん)は、輸送船一七隻からなる大船団が、サイパン島の西方八〇浬の地点を北西に 航行中であるのを発見した。この方に接した硫黄島上の小笠原兵団は、ただちに戦闘準備下令した。 一六日、米機動部隊は延一〇〇〇機にのぼる艦載機をもって東京をおそった。一方、本土空襲と平行して、護衛空 母一二隻を基幹とする機動部隊が同日早朝、硫黄島海域進出、同島を包囲するようにして艦砲射撃を開始した。十八 日には水際陣地および飛行場破壊のため、大規模の艦砲射撃を加えた。米軍は一九日午前六時より、戦艦七隻、重 巡四、軽巡一、駆逐艦一〇隻、砲艦九隻の艦砲射撃と、空母六隻の甲板から発進する艦載機の掩護を受けつつ、上陸 用舟艇無慮(むりょ)五〇〇隻で上陸を開始した。

 午前一〇時ごろには、上陸兵力は約一万、戦車一〇〇以上に達した。日本軍守備隊は、この米軍の猛爆撃を冒し、水 際陣地の部隊と砲兵火力をもって、果敢に応援した。しかし、絶対優勢なる米側の火力に圧倒され、水際陣地は次第に 沈黙させられていた。この日一日の砲爆撃にによって、海岸付近のコンクリート製トーチカ陣地のすべてが破壊され てしまった。米軍は上陸後にも約六〇隻の艦艇で砲撃を続行するとともに、空母六隻から反復して発進する一日のべ 一六〇〇機にものぼる艦載機の銃撃が、日本軍の頭上に降りそそいだ。

 二〇日には早くも日本側地名の千鳥飛行場を失い、全島を分断された。二一日には、米軍はさらに大型輸送船三〇隻 による後続兵団の揚陸を開始した。二三日夕刻、米軍第一戦は南波止場から元山飛行場南側、千鳥部落に至る線に達 し、その進出深度は二キロにおよび、橋頭堡(きょとうほ)を概成した。 しかし、米軍は硫黄島占領を一週間から一〇日とみていたが、海岸に達したときには一メートル、二メートルの攻防 戦をくりひろげることとなり、さすがの米海兵隊も前進するのには多大な被害を負うこととなり、精神に異常をきたす 者も数多くいたというが、それほど見えない敵に苦労をしたよである。


星条旗なびく硫黄島

星条旗なびく硫黄島

星条旗はなびいたがまだ小笠原兵団はその志気衰えず。




ひるがえる星条旗




 二月二三日から三月三日にわたっり、中央地区主陣地帯において、彼我(ひが)のツバ迫(ぜ)り合いに似た必死の攻防 が続いた。二六日ごろには、主陣地帯を侵され大阪山方面の陣を失い、元山、屏風山(びょうぶやま)において双方決 死の争奪戦が反復された。これより先、同島の東南端にある重要拠点摺鉢山を死守していた厚地兼彦大佐の指揮する守備 隊は、一九日の猛烈な艦砲射撃により全火砲を破壊されて厚地大佐以下多数が死傷し、摺鉢山の山容は一変していた。 二一日までに艦砲射撃は継続され、さらに飛行機と戦車の猛攻を受け、二三日にいたるまでこの高地をめぐる戦闘が続い が、日本軍はついに力つきた。同日一〇時二〇分ごろ、摺鉢山山頂に星条旗がひるがえった。硫黄島全島が見渡せる地形を 占領されたことは、精神的かつ戦術的に、元山方面の戦闘に大きな影響をおよぼすことになった。

 しかし、米軍側から見ると、これから先がまた大変だったのである。文字どおり、寸土を争う激戦が連日くり広げられた。 栗林兵団長は、硫黄島を東西南北と摺鉢山の五つの地区に分け、北地区にその主力を配置していたからである。 なかでも、もっとも頑強に抵抗したのは、南地区であった。この地区は、千田貞季少将の率いる独立混成第二旅団(海軍陸 戦隊を含む)が、玉名山を主陣地として守備していた。

 これに対するに、歩兵約四個大隊に支援された第四海兵師団の歩兵 約三個大隊と戦車一個大隊が立ち向かった。二五日から始まった屏風山から南部落にかけての戦線で、米第四海兵師団は、 三月三日までに全体の三〇パーセント、六五九〇名の戦死者を出した。しかし、千田旅団も死傷者が続出し、次第に圧迫さ れた。三月七日には、元山台地南東端まで南北から押され、米軍の一部はついに混成第二旅団の司令部に侵入するまでに至 った。玉名山にあった千代田旅団長は、栗林兵団長から玉砕攻撃は思いとどまるように指示されていたが、この逼迫(ひっ ぱく)した戦況に照らして、共同戦線を張っていた海軍陸戦隊司令井上左馬二(いのうえさまじ)大佐とともに残存兵力 八〇〇名で最後の総攻撃を敢行することを決意した。

 日章旗の鉢巻に地下足袋(じかたび)、巻脚絆(まききゃはん)というみなりの千田少将は、命令を下達したあと、集まった 部隊長クラスの者とコップ一杯の水で乾杯し、『皆さん、長いことご苦労かけました。靖国神社で会いましょう』と、低く 重々しい口調で言った。これぞ武士人の最期とでも言うべき最期だと思う。靖国神社での再会を誓い、死での門出についたの であった。動けない負傷者に対し、自決を強要することは避け、一同手分けしてその枕元に手榴弾一個ずつを置いた。どうし てこのようなことがわかるかというと、この島においても俘虜(ふりょ)が出たからである。








鎮魂 硫黄島 〜硫黄島で散った勇士たちの霊に捧ぐ〜








最期のとき迫る


 以上のように、米第四海兵師団が苦戦している間ににも、第三および第五師団は、次第に栗林兵団長が直属する北拠点部隊は 、三月一〇日以来航空および歩兵に支持された一個師団の米軍に直接包囲されていた。その前線においては、五〇〜二〇〇 メートルの近距離で対じして、激戦をくり返していた。三月一三日、ついに天山地区が奪取され、同地区の残存守備隊は同夜 斬り込みに移り、ほとんど全滅した。天山地区が落ちたことによって、北拠点左地区(北部落東側)の防御が手薄となった。

 一四日空一五日にかけて、米軍は拠点の左側背(そくはい)に迂回浸透(うかいしんとう)して、そこに露出していた海軍・ 第二七航空戦隊司令部のある洞窟の東方一〇〇メートルまで迫った。米軍は戦車による火炎放射やナパーム弾等を集中した。 また洞窟の上に馬乗りになって、空気孔から爆破攻撃を加えるなどの坑道攻撃法をとり始めたため、日本軍の損害は増大した。

北拠点右地区を守備していた第一四五連隊長池田増雄大佐は三月五日ごろの戦闘で重傷を負い、指揮所を北部落北西方の位置 する洞窟に移動していたが、一四日夕ついに軍旗が焼かれた。 軍旗を焼くということは、総攻撃を敢行して玉砕する事であるのだから、最期のときをむかえ軍旗を焼く決心をしたのであろ うが、すでに大本営からは見捨てられていた島を護って、軍人とはここまでの覚悟ができるものなのか、経験者でなければ 分かろうはずもない。

 先の第二七航空戦隊司令官市丸利之助少将(戦死後、中将)以下海軍司令部は、栗林兵団司令部洞窟に合流し、北拠点方面を の戦況はいよいよ最期のときを迎えようとしていた。この時点で栗林兵団長が掌握(しょあく)していた残存兵力は、約九〇 〇名(うち海軍約二〇〇名)であった。尚、市丸利之助少将は玉砕前にルーズヴェルト大統領宛に手紙を書き残した。それを米軍が占領後に見つけ、今はアメリカ公文書館に保管されているという。


米軍は一九四五年三月一四日硫黄島占領を正式声明した。

米軍は一九四五年三月一四日硫黄島占領を正式声明した。








B29元山飛行場へ着陸。



米国が硫黄島の占領を宣言した3月14日、元山飛行場に初めてB-29爆撃機が着陸した。以後終戦までに不時着したB-29は延べ2,251機におよんだ。



栗林兵団長の訣別電




 三月一六日深夜、栗林兵団長は次の訣別(けつべつ)電報を、大本営・参謀総長あてに打電した。


『今ヤ弾丸尽キ水涸レ全員反撃シ最期ノ敢闘ヲ行ハントスルニあたリ、

熟々つらつら皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モまた悔イヌ。特ニ本島ヲ奪還

セザル限リ皇土こうど永遠ニ安カラザルヲ思ヒ至りたと

魂魄こんぱくトナルトモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来けんどちょうらい

さきがけタランコトヲ期ス。ここニ最期ノ関頭ニ立チ重ネテ衷情

ヲ披歴スルト共ニ只管ひたすら皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ

とこしヘニ御別レ申上グ・・・』












































摺鉢山山頂の星条旗

完全制圧された証拠の摺鉢山山頂の星条旗





米兵士の墓標。


硫黄島攻略作戦の米側戦死者は約6,000名。3月21日、第5海兵師団の部隊葬が挙行(きょこう)された。摺鉢山を望む基地に並んだ白い十字架の墓標。




聖域硫黄島を護って散っていった英霊。


 ここにアメリカが五日で終わると豪語していた戦を三十六日間護りぬいた日本人たちがいた。 祖国のため最後の一兵なろうともこの島に敵を止める事が責務である、生きて再び祖国の地を踏める事なきものと覚悟せよ。 余はいつも諸氏の先頭にありと訓示し、散って行った名将と兵たちがいた。

 その後、栗林兵団長以下兵団司令部およ び市丸少将以下の海軍司令部は、前途の第一四五連隊本部(来代工兵隊)の洞窟にむかった。  三月一七日夜、元山および千鳥飛行場方面に向け総攻撃を敢行することに決し、階級章、重要書類は、私物品等が焼却され、 洞窟内にいた全員に少量の酒と恩賜(おんし)の煙草二本ずつが配られた。栗林中将は、軍刀の柄(つか)を握りしめて、『 断じて戦うところ死中おのずから活あるを信じ、私のあとに続いてください』と短く訓示を述べた。 もうこのような状況下では、米国その他の国々の兵士なら降伏して捕虜となったのであろうが、日本軍の兵士にはそれは許さ れなかった。勝敗は別にして、命をすてる自殺行為に終始した。その場におよんでは、ほとんどの人が同じ行動をとるであろう。

 しかし、米軍の重囲のために総攻撃は三月二五日夜半まで延期された。栗林兵団長にしたがう者は、司令部付大須賀應少将 、海軍部隊最高指揮官市丸利之助少将、第一四五連隊長池田増雄大佐兵団参謀長高石正大佐、兵団参謀中根兼次中佐ら陸海軍 約四〇〇名であった。肩から胸にタスキをかけた栗林兵団長は、先頭に立って前進するうちに、大腿部に負傷した。しばらくは 司令部付の曹長(指名不詳)に背負われて前進したのち、高石参謀長、中根参謀長とともに拳銃で自決したと伝えられる。 米軍資料によれば、この三月二六日未明からの栗林兵団最期の総攻撃は、いわゆる万歳突撃ではなくて、火器も備えたある 程度組織立たものだったという。戦闘は三時間にもおよび、米軍側にも死傷者が出た。

 こうして、太平洋戦争を通じても最大の激戦のひとつとなった硫黄島戦は終熄(しゅそく)したが、当然米軍も多量の出血を 強いられた。上陸軍と艦艇乗員をあわせて約六〇〇〇名が戦死、負傷者一万八〇〇〇名にのぼった。 米軍では事前に、占領するまでの期間を五日と計算していたらしいが、(『ニミッツの太平洋海戦史』)、約一ヵ月かかった わけである。その戦闘で消費された艦艇等の砲爆弾の使用量は、先例を見ない大量のなものであったが、栗林兵団の将兵が執 念で掘り続けた地下防御施設に対しては効果が薄かったということである。この後、喉元をつかれた日本本土はB-29爆撃機 が、陸軍戦闘機P-51を伴い大挙してやってくることになる。







(更新/2004/11/30)  師走2日前の寒い宵に記す。 Homepage Owner kanno

(更新/2007/05/30)  画像追加


栗林忠道中将御遺影・出典:靖国神社・遊就館所蔵






参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ・連合艦隊の最期・『第10巻』その他)
毎日新聞社・発刊 大日本帝国の戦争・2・太平洋戦争1937〜1945

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