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日章旗



陸軍特別攻撃隊第四十五振武隊快心隊 隊長


藤井 一中尉・遺影

藤井 一 命 陸軍中尉遺影

藤井 一中尉(後に二階級特進 少佐)



藤井 一 命 陸軍中尉遺書

藤井中尉が妻、福子さんと子供たちに宛てた書簡と遺影


 書  簡

冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露

と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の

意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲

しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに

消え去った命がいとほしい。父も近くお前たち

の後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度

は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。

それまで泣かずに待っていてください。

千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。

ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派

な手柄を立ててお土産にして参ります。

では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それま

で待ってて頂戴。


陸軍特攻第四十五振武隊:二式複戦一〇機:知覧発
藤井 一 命 陸軍中尉(戦死後・少佐)享年二九歳
































第四十五振武隊



出撃直前の第四十五振武隊快心隊 隊長藤井一中尉は前列中心の人

















熊谷陸軍飛行学校 生徒隊第二中隊長
藤井一中尉の決 断!




  藤井中尉は本来、特攻隊員になる必要がなく、またなれない立場にあったのでした。ただ本人の強い愛 国心と指導者としての責任感から、わざわざ特攻を志願したのでした。 藤井は茨城県の農家に、七人兄弟の長男として生まれた。親としては家業を継いでほしかった。 しかし、本人の強い希望で陸軍に志願したのであった。機関銃隊の歩兵として入隊したのだが、特別に有能だ った藤井中尉は抜擢され、陸軍航空士官学校に入校。そして卒業するや、熊谷陸軍飛行学校の中隊長と して赴任したのであった。

  中隊長の藤井中尉はパイロットではなかったので、生徒に教えたのは精神訓話であった。 藤井がパイロットを志願しなかったのは、歩兵科機関銃隊だった頃、中国戦線で迫撃砲の破片を 左手に負い、操縦桿が握れない手になっていたという事情があった。 当時の精神訓話といえば、軍人精神を叩き込むことも大きな狙いであり、軍人勅諭にそっての、 これまた厳しい鍛錬であったという。忠誠心が強く熱血漢の藤井中尉は、心根は優しくても教育はけっして 甘くなかったという。

  藤井の口癖は「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」 これは「特攻攻撃」が開始される前から、藤井が口癖のようにいつも生徒に言っていた言葉であった。が、 まもなく「特攻」がはじまって、結果としてそれは、大切な可愛い教え子を自分の手で 死地へ送り込むことになったのでした。藤井中尉は苦しんだ。自責の念にも駆られた。 「俺もかならず後から行く」といって生徒を行かせておきながら、自分はただ座して教育するだけ、 その繰り返しに耐えられなくなった。このままでは自分は教え子との約束を果たすことはできない。 他の教官たちがなんの疑問も矛盾も抱かずにやっていることだったが、自分に厳しい藤井には、 そういう自分が許せなかったのでした。

  自分の教えを守って、つぎつぎと将来あるはずの純粋な教え子たちが、毎日、敵艦に突っ込んで 行く。あいつも、あいつも・・・俺はいつまでこんなことをしているのか。 藤井はついに「特攻」を志願した。しかし、受け入れられなかった。学校を仕切っている重要な ポストの中隊長に、任務を離れられては困るからだ。自分の立場での責任を果たせ、という 軍の理屈は当然だったが、藤井にも解っているのだが義憤に駆られた藤井には、どうしても生徒だけ を死なせることが納得できなかった。生徒と教師の間の誓い、 命をかけた誓い、男の誓いを、藤井はどうしても破るわけにはいかなかったのである。

  断わられても、断わられても、藤井は「特攻」を志願した。 藤井一中尉の妻・福子(当時二十四歳)は、 夫が「特攻」を志願していることを知った妻・福子は仰天した。妻として、二人の子を持つ母と して、それは絶対に納得できるものではなかった。それが天命ならいざ知らず、本来のあたえられた 責務を放棄してまで、なぜ?なぜわざわざ特攻を志願して死のうとするのか。 福子はどうしても理解できない。毎日、夫を説得した。藤井は当時、深谷市の自宅から、やはり近く に下宿していた部下の嶋田准尉といっしょに自転車 で飛行学校に通っていた。

  軍隊では下士官は外に出られないが、曹長になると営外居住が許され、 少尉になると週番以外は全員が外に居をかまえて通っていた。藤井は荒物問屋を営む中島家の離れを 借りて、妻福子と三歳になる一子、まだ生後四ヵ月にしかならない千恵子の四人で暮らし、そこから 熊谷飛行学校に通っていたのである。 だから、福子は夫の特攻志願を知ってから、毎晩、勤務から帰って来る夫に、特攻志願を思い止 まるよう説得したのだ。説得し、哀願した。言い争いも二度や三度ではなかったという。 福子の実家は高崎市の商家で、三女として生まれた彼女はピアノや歌をたしなむお嬢さんだった が、戦争がはじまって野戦看護婦として勤務していた。藤井と知り合ったのは、藤井が中国で負傷し たときであったという。戦場での出会いであり、福 子は軍人としての藤井中尉と交際し、恋愛結婚したのである。だから藤井が「軍に忠、親に孝」を モットーとする愛国心に満ちた熱血漢であることは充分に承知していた。誇りにもしていた。しか し、結婚して二人の娘をもうけて、飛行学校の中隊長にまでなって、順当に暮らしているのに、ど うしてわざわざ本来の任務を離れて、特攻を志願するというのか。

  福子にも夫の考えが解らないわけではなかったが、教え子との約束だから、学生たちが可哀相だから、 申し訳ないから、気がすまないから、という気持ちは解っている。しかし、それは指導者全員が背 負っている宿命的感情だ。司令官だって、一参謀だって、同じはずだ。それなのにどうして夫だけが、 ちょっと夫の考え方を変えれば、視線を変えられれば、と福子は思う。しかし、夫の視線は妻子の方 ではなく、頑固に遠くばかり見ていた。 学生たちと交わした約束のために、妻と可愛い二人の子供を見捨てて、どうして死にに行くの軍人 なのだから、戦場に行けば戦死することは覚悟している。しかし、特攻の許可が出ない立場の人間が、 わざわざ何度も特攻志願をするというのは、死ぬために行こうとしているとしか思えな いのである。

  特攻として死ぬ覚悟をしている夫と、夜をともに過ごしながら、福子は誠心誠意、根限り夫の心 を掴もうとした。妻としてあらん限りの愛と知恵と、二人の子供も盾にして命をかけて戦った。 しかし、夫の決意は変わらなかった。「愛」は「忠」に勝てなかったのだ。これは妻として女と して、耐え難い屈辱であり、敗北だった。 完全に敗北を認めたとき、福子が選んだ道は死であった。二人の子供を道連れにしての無理心中 である。 それを決行したのは夫・藤井中尉が週番司令として一週間、隊に宿泊勤務し、家を留守にしてい たときであった。 日が暮れるのを待って、福子は机の上に夫宛の遺書を置き、 二人の子供に晴れ着を着せ、自分も身仕度をして永の門出をしたのであった。

  昭和十九年十二月十五日の早朝、藤井の家の近くを流れる荒川に、二人の子供を紐で結びつけた 母子三人の痛ましい溺死体が浮かんだ。 近所の住民の証言から藤井中尉の妻と子供であることが判明し、すぐに熊谷飛行学校に連絡され た。知らせを受けた藤井中尉は、鳴田准尉といっしょに警察の車で現場に駆けつけた。 あまりにも大きな不幸だったので、隣りに座っている鳴田は慰めの言葉も出なかった。 「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけはかんべんしてくれ、解ってくれ」 呻(うめ)くような声で藤井が言った。 師走の荒川べりは、凍てついた風が容赦なく吹きつけ、歯が噛み合わないほどに寒かった。流れ の中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、福子の最後の願いを物語るように、三人いっしょに 紐で結ばれたまま蟻人形のように並んでいた。

  藤井中尉は涙を隠すように、三人の前にうずくまって、やさしく擦るように白い肌についていた 砂を手で払った。背が高くがっしりした体格で、柔道も剣道も射撃も堪能で、いつも豪快な藤井の背中が、呻くよ うに泣いていた。やはり嶋田は茫然と立ちつくすだけで、声も出なかった。藤井の深い悲しみだけ が、じかに伝わってきて息苦しいほどだった。 嶋田の妻が事件のことを知って、藤井の家に駆けつけたとき、藤井家はいつもと違って、人を寄 せつけないものものしい空気が漂っていた。すでに日が落ちて暗くなっていたが、窓という窓には 軍隊用の毛布が張りめぐらされ、軍の幹部の人たちが何人も詰めかけていて、緊張したただならぬ 気配がたちこめている。福子と一子と千恵子の三人は、ただ眠っているように枕を並べてふとんの 中にいた。   遺書は二枚の便箋に書かれていたが、その内容は、「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、 存分の活躍ができないことでしょう。お先に行って待ってます」というものであった。傍から見れば 軍人の妻らしい気丈な立派な遺書であった。

  葬式は軍の幹部と、家族と隣り組だけで、教え子たちの姿はなかった。参列することは禁じられ ていたのだった。   涙を誘うこの悲惨な事件には、各社の新聞記者も飛びついたが、その記事はいっさい新聞にもラ ジオにも出なかった。軍と政府の通告によって正式に報道することを差し止められたからである。 藤井一中尉は葬式が終わった夜、母に連れられて死んでいった一子に宛てて、一通の手紙を書い た。けっして読まれることのない、死んだ娘への手紙であった。あてもないのに 天国の娘に手紙を書いたのは、そうしないではいられな いほど、そのときの藤井は心のよりどころを失っていた ろう。もしかしたら、自分自身への手紙であったかもし れない。



五式戦闘機「キ-100-U」三菱四式ハ−112

藤井中尉が娘にしたためた手紙




    もうだれの目にも、もはや藤井には死しかないと理解できた。軍としても、大事件を起こした藤井を 中隊長として、そのまま学校に置くわけにも行かなかったのか、今度はすぐに受理された。 前代未聞の「異例」のことだった。 事件から一週間もたっていない十二月二十日、藤井は特攻隊長としての訓練を受けるため、熊谷 飛行学校から鉾田(ほこた)飛行場(茨城県)への転属命令を受けた。 藤井一中隊長は熊谷飛行学校で、少年飛行兵十七期生を教えたが、生徒にはとても人気があった。 軍人魂の塊のような人で、教えは厳しかったが人間的で情があったので、全員があこがれ尊敬し 信頼していた。

  藤井が熊谷を去るときは、中隊長室に教え子を一人一人呼び、家族のことや思い出話などを聞い た。そして、これからの日本を頼むぞ、といって励ましてお別れをした。 いよいよ出発するときには、教え子たちが自習室に集まってお別れ会をやった。 最後に生徒や幹部たちで貯金した金で買った軍刀を贈った。藤井はとても喜んで、その軍刀を抜 いて高々と振りかざし、「これで奴らを一人残らず叩き切ってやる!」と激を飛ばした。 藤井は妻子の不幸な事件のことは、生徒たちに一言も話したことはなかった。新聞にもでなかっ たし、葬式にも参列させてもらえなかったが、生徒たちはどこからともない噂で聞いて、全員が裏 話までかなり詳しく知っていた。だから別れを惜しんで流す生徒たちの涙も、藤井の秘めた心痛を 思い遣った、ひとしお深く辛い涙であった。

  家族を失った藤井一は、身辺整理をして三度目の特攻 志願を提出した。二度も断わられていたが、今度はなに がなんでも絶対に受理してもらわなければならなかった。 藤井は小指を切って、その血で必死の嘆願書を書いた。 昭和二十年二月八日、藤井の念願は具体的に形となった。第六航空軍第三飛行集団付の特別攻撃 隊隊長として、二式双発襲撃機十機で編成されたのである。そして五月二十七日、第四五振武隊 (快心隊)と名づけられて、知覧飛行場に進出した。 藤井一中尉は特攻出撃も終わりに近い五月二十八日早朝、午前三時起床という慌ただしいスケジュールで第九次総攻撃に加わり、 部下を率いて沖縄へ出撃し、 還らぬ人となった。

  藤井はパイロットではないので、小川彰少尉が操縦する機に通信員として搭乗、 二百五十キロの爆弾を二発懸吊して出撃を果たした。やっと学生たちと交わした約束と、娘一子に 書いた手紙の約束を果たすことができたのである。 妻子三人が荒川で命を絶ったのは師走の十五日、五ヵ月が過ぎ去っていた。 富屋食堂を訪れたであろう藤井中尉について、トメさんは年長の物静かな人がいた という以外にとくに印象がなかった。 戦後、藤井中尉にまつわる話を聞いたトメさんは涙が止まらなかった という。  





・出典:國神社
・遊就館
・〒102-8246
・東京都千代田区九段北3−1−1
・TEL/03-3261-8326

(更新/2007/04/14) 桜舞い散る宵に記す Homepage Owner kanno



参考文献
草思社・刊「ホタル帰る」赤羽礼子 石井宏・著 
PHP研究所・刊・特攻隊員の命の声が聞こえる
(戦争、人生、そして我が祖国)神坂次郎・著
モラロジー研究所・刊
国を愛するということ―散華した特攻隊員の遺した「託し」
工藤雪枝・著
光人社・刊 特攻の町知覧 佐藤早苗・著
 

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