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gunkanki


珊瑚海海戦


大破して応急修理3日目でミッドウェー作戦に参戦した空母・ヨークタウン。

大破して応急修理3日目でミッドウェー作戦に参戦した空母・ヨークタウン。


モレスビー作戦を察知した米海軍は、いち早く珊瑚海方面に空母二隻を派遣。翔鶴、瑞鶴を基幹とする日本海軍機動部隊との間に、海戦史上はじめての空母戦闘が生起した。





読まれていた暗号


 連合軍側は、大戦中に日本軍を困惑させた例の暗号解読という手段によって、日本軍のMO作戦の概要を察知していたでした。しかし、攻略の 日時までは特定できないでいたので、五月三日夜のツラギ上陸は不意を突かれたたかたちになった。日本 軍がMO作戦に空母三隻を参加させているという秘密情報を得ていた米軍は、急遽珊瑚海に空母をさし向け ようとした。しかし、その数は十分とはいえなかった。サラトガは、一月に受けた魚雷による損傷の修理 のために、米西海岸シアトル近くの工廠(ドック)にはいっていた。エンタープライ ズと東京空襲を敢行したホーネットは、まだ真珠湾に帰還していなかった。たとえ現在位置から全速力で珊瑚海に向かったと しても、間に合いそうになかった。結局、参加が可能な空母は、南太平洋を行動中であったJ・フレッチャ ー少将の坐上するヨークタウンと、W・フィッチ少将の指揮するレキシントンの二空母を旗艦とする部隊で あった。

 加えて、米重巡シカゴがニューカレドニアのヌーメアから、G・クレース英海軍少将が率いるオーストラリ アとホヴァートの二隻の巡洋艦がオーストラリアから珊瑚海に駆けつけることになった。米の二空母部隊は 、五月一日珊瑚海南東洋上でランデブーした。この時点では日本側の動静を全く知らなかったが、二日後、ツ ラギ奇襲の報に接した。おりから燃料補給中であったレキシントンをその場に残すと、フレッチャー少将は 単独ヨークタウン部隊を率いて北上、四日ツラギ方面にたいして一連の空襲を行ない、数隻の日本艦艇を撃 破したのであった。その後南方に反転すると、六日レキシントン部隊とふたたび合同した。

 ヨークタウンとレキシントンが再度集結した六日午前、日本軍空母部隊は、ツラギ西方約一八〇浬(330キロ)附近にあり 、MO攻略部隊はソロモン諸島西方海域をジョマード水道に向け南下中であった。この日の未明、ツラギを発進 した飛行艇が、午前八時ごろ敵空母部隊を発見し、正午近くまで接触を続けてその動静を報告したのである。










それぞれの哨戒戦


 翌七日早朝のMO攻略部隊の位置は、ルイジアート諸島北方で、その南東方約四〇〇浬に機動部隊がいて敵空 母部隊の発見を急いでいた。機動部隊は未明に索敵機一二機を発進させたが、そのうちの一機から午前五時 二二分待望の『的空母部隊発見』の報告が届いた。ただちに瑞鶴、翔鶴二隻の空母甲板から、戦爆連合計七 八機が飛び立った。その直後に、あろうことか、先の索敵機から『敵空母は、油槽艦と重巡一の誤認』とい う訂正が入り、艦橋は一変に落胆のフチに沈んだ。この誤報の痛手は大きく、あとあとまで響くことになった 。一方、現場に到着して目標が空母などではなく、重巡ならぬ駆逐艦一隻であることを知った艦攻隊は、し ばらく近くを偵察したが当然なにも発見することはできなかった。やむなく、油槽艦(ネオショー)駆逐艦 (シムス)を撃沈することにした。あわれをとどめたのは駆逐艦シムスで、午前九時二六分から同四〇分間 の間に、延べ約六〇機もの雷爆撃を受けて乗員もろとも海底に没した。

 そのころ、別当重巡古鷹の索敵機から『敵空母発見』の新たな報告が入ったが、機動部隊では、これを正確な 敵情報と認めた。この報告にもとづき、南洋部隊指揮官井上中将は、先ず全力でこの敵空母と対決する必要を 認め令下の起動、護衛両部隊および基地航空部隊に総攻撃を命じた。同時にラバウルを出航して以来南下を続 けていた輸送船団に一時北西海面に避退(ひたい)するよう命じた。改装空母祥鳳は、空母部隊と一緒にいず に単独でこの船団の上空を直衛の任にあたっていたのであるが、午前九時七分ごろから敵機が群がり襲ってき たのである。これはヨークタウンとレキシントン両空母から発進した延べ九二機におよぶ攻撃隊であったのだ が、結局祥鳳は爆弾一三発、魚雷七本を受けて、九時三五分に沈没したのであった。







珊瑚海海戦の日米空母比較



                   
/ 艦名 基準排水量 搭載機数 搭載機数の内訳
翔鶴 26.575トン 54機 零戦×17、99艦爆×21、97艦攻×16
瑞鶴26.575トン63機 零戦×20、99艦爆×22、97艦攻×21
祥鳳 11.200トン20機 零戦×14、97艦攻×6
レキシントン 36.000トン70機 F4F×22、SBD×36、TBD×12
ヨークタウン 19.800トン71機 F4F×20、SBD×38、TBD×13









F4F=戦闘機、SBD艦爆、TBD=雷撃機(艦攻相当)






日米互角の痛み分け


 機動部隊、第五航空戦隊司令官原 忠一少将は、再度の攻撃隊発進を、敵空母との距離が四〇〇浬を越えたこと を知っていったん断念するが、その後敵が反転したという情報を得て、夜間飛行になることを覚悟して遠距離 策敵攻撃を敢行した。索敵と攻撃を兼ねた決死行であった。攻撃隊は瑞鶴、の艦爆六、艦攻六、計二七機で午 前二時一五分、敵空母がいると推定される方角に向かい発進した。米側資料によれば、米空母部隊のいたあた りは、日没とスコール悪条件が重なって、視界はすこぶる不良であった。日本機ははたしかにヨークタウン部 隊の附近まで到達したが、空母を発見攻撃するまでには至らなかった。上空にたどりつくまでにレーダーに捕 捉され、上空直衛の米戦闘機の迎撃に逢い、熾烈な空戦のすえ九機が撃墜され、一機が砲撃によって落とされ た。米戦闘機の喪失はわずか二機であった。(モリソン著『米海軍作戦史』)

 瑞鶴、翔鶴攻撃隊の収容は、七 日午後六時から七時のあいだに行われたが、井上南洋部隊指揮官は午後六時四〇分、一時出していた水上艦艇 による夜戦命令の撤回とモレスビー攻略の二日延期、機動部隊の明八日黎明攻撃(れいめいこうげき)を下令 した。七日夜、日米両軍は互いそれと確認せずに、一〇〇浬以内に接近していたが、夜のあいだにいったん南 北に分かれた。翌八日、日の出前、日米双方まるで申し合わせたように、ほとんど同時刻に索敵機を発進させ ていた。世界の戦史史上発の空母対空母の戦闘機とにふさわしいく、兵力ほか与えられた彼我双方の条件がほ ぼ同じで、ガップリ四ツに組んだかたちとなった。

 その後の戦闘経過もほぼ互角に推移したといってよい。 しかし、大破した米空母ヨークタウンは突貫工事のすえ、ドック入り後、わずか三日でミッドウェー海戦には 姿をみせることになる。国力の差が現れたのもまた事実である。 何という工業力の差か、驚くばかりである。わずか三日間で補修を終えたヨークタウンは、戦線復帰してミッドウェー海戦 で活躍しているのだ。この戦いが太平洋戦争の分岐点になったとも言っても過言ではない作戦に返り咲いて、 見事な復帰を果たしている。いかに日米との工業力の差があったかがうかがえる。そして史上初の空母対空母の戦いは痛み分けとなったが、これまでの日本軍の快進撃もこの珊瑚海海戦で終わりを告げるのであった。



(更新/2004/12/27) 師走の寒き日に記す。  Homepage Owner kanno






参考文献
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ
ミッドウェー海戦『第四巻』珊瑚海海戦)


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