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第一次ソロモン海戦


三川軍一中将第八艦隊司令官

三川軍一中将第八艦隊司令官



経   歴
三川軍一(みかわぐんいち)
1888(明治21)年生
1981(昭和56)年没
広島県出身
日本海軍軍人
海軍中将
1910(明治43)年7月 海軍兵学校(38期)
1916(大正5)年 海軍大尉
1918(大正7)年3月 フランスに派遣される
1922(大正11)年12月 海軍少佐
1924(大正13)年11月 海軍大学(甲種22期)卒
1928(昭和3)年12月 再度フランスに派遣
1929(昭和4)年3月 国際連盟海軍代表随員
1930(昭和5)年1月29日 フランス大使館付武官
1930(昭和5)年12月1日 帰朝命令
1930(昭和5)年12月 海軍大佐
1931(昭和6)年3月29日 軍令部出仕
1931(昭和6)年8月15日 「早鞆」特務艦長
1931(昭和6)年12月1日 海軍兵学校教頭
1934(昭和9)年2月20日 巡洋艦「青葉」艦長
1934(昭和9)年11月15日 巡洋艦「鳥海」艦長
1935(昭和10)年11月15日 戦艦「霧島」艦長
1936(昭和11)年12月1日 海軍少将 第二艦隊参謀長
1937(昭和12)年11月15日 軍令部第二部長
1939(昭和14)年11月15日 第七戦隊司令官
1940(昭和15)年11月1日 第五戦隊司令官
1940(昭和15)年11月15日 海軍中将
1941(昭和16)年9月6日 第三戦隊司令官
1941(昭和16)年12月8日 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)
1942(昭和17)年4月5日〜9日 セイロン沖海戦
1942(昭和17)年6月5日〜7日 ミッドウェー海戦
1942(昭和17)年7月14日 第八艦隊司令長官
1942(昭和17)年8月 第1次ソロモン海戦
1942(昭和17)年11月12日〜15日 第3次ソロモン海戦
 13日 夜間砲撃作戦を指揮
1943(昭和18)年4月 内地に帰還
1943(昭和18)年4月20日 航海学校校長
1943(昭和18)年9月3日 第二南遺艦隊司令長官
1944(昭和19)年6月 南西方面艦隊司令長官兼
          第13航空艦隊司令長官
1944(昭和19)年8月 兼第三南遺艦隊司令長官
1944(昭和19)年11月 内地に帰還
1944(昭和19)年11月1日 軍令部出仕
1944(昭和19)年12月 「S事件調査委員会」委員長
 空母「信濃」沈没について調査
1945(昭和20)年5月15日 待命
 5月21日 予備役編入




敵来攻の報に接した第八艦隊はいち早く出撃を決意。殴り込み作戦に出た。





新編第八艦隊の初陣


 昭和一七年(一九四二)八月七日早朝、ガダルカナル島と同時に米軍上陸部隊 の襲撃を受けたツラギ方面所在部隊は、〇四一二から〇六一〇まで、ほぼ二 時間にわたって緊急電報を発信した。最初の電文はツラギ通信基地の「敵猛 爆中」であり、最後のそれは、横浜航空隊司令宮崎重敏大佐からの「敵兵力 大、最後ノ一兵迄守ル、武運長久ヲ祈ル」であった。

 右の飛電をキャッチし た現地海軍部隊・第八艦隊(司令長官三川軍一中将
)の反応は早かった。当時 ラバウルにあった第八艦隊は、東部ニューギニア・ポートモレスビー攻略作 戦をめぐって変化してきた南太平洋方面の新しい局面に策応して、同年七月 中旬に新設されたばかりの部隊であった。ラバウルを基地とする海軍航空隊 (第二十五航空戦隊=司令官山田定義少将)も、ツラギからの緊急電を受けて ただちに出撃以後可能なかぎり五五〇浬(1019キロ)の長距離を飛んで さガダルカナルを指した。

 第八艦隊司令長宣三川中将は、七日〇五三、ラバ ウル泊地に投錨(とうびょう)していた麾下の艦艇に対して、手旗信号をも って出撃準備を下令した。ちなみに八艦隊司令部は、将旗を陸上に掲げてい た。戦局の急変に直面した三川長官は、聯合艦隊の指示を待っことなく、い ち早く重大な決断をした。それは、麾下の重巡群をつらねてガ島泊地に殺到 し、揚陸作業中であろう敵輸送船団を砲撃これを粉砕するという作戦であっ た。

 この大胆きわまりない殴り込み作戦を立案したのは、首席参謀神重徳
( かみしげのり)大佐であった。「第一次ソロモン海戦」と呼称される戦闘が 生起する瞬間が、これで決したわけだが、あわただしい時間をぬって、参加 各指揮官が陸上の司令部に集まり、打ち合わせが持たれた。各艦艇はこれま で合同訓練を行なったことがなく、スクリューの回転整合(かいてんせいご) の測定もされていなかった。

 各艦艇が横に広がった隊形で航行するためには、 各艦のスクリューの回転数を測定して一致させることが必要になってくる。こ の作業を行なうためには、艦隊航行を実施してみなければならないのだが、こ れを回転整合の測定といった。以上のような事情のために、複雑な艦隊形は避 けて、全艦を単縦陣・・・一本棒につなげて、しかも一航過(いちこうか)を 行なう。そして、夜の明けるまでには敵空母の攻撃圏外に避退している。・・ ・以上の点を徹底させるよう、司令部は各指揮官に指示した。

 先のツラギの電 報のなかには、敵空母出現の情報も入っていたのである。八月七日午後、ラバ ウルを出撃した第八艦隊の全容は、旗艦鳥海をはじめ第六戦隊(司令官五藤存知 少将)の重巡青葉、加古、古鷹、衣笠、第十八戦隊(司令官松山光治少将)の軽巡 天龍、夕張、駆逐艦夕凪であった。十八戦隊の軽巡龍田と駆逐艦卯月は集合時 間に間に合わず、この突入作戦に参加しなかった。 三川軍一中将は子の第一次ソロモン海戦で、旗艦鳥海を中心とした水雷戦隊でミッドウェー の鬱憤(うっぷん)晴らすようにを大いに暴れまわったのでした。



トラック島

マリアナ諸島南方に位置する日本の本拠地トラック島、日本軍のオアシスであった。



必勝ヲ期シ、突入セントス


 旗艦鳥海を先頭に立てて、予定どおりの針路をとり、七日夜ブカ島の北方海域を 通過した。翌八日明け方の位置は、ブーゲンヴイル島の北東約六〇浬(一一一キ ロ)であった。出撃後も基地航空部隊から報告がもたらされ、敵情は少しずつ判 明してきた。敵空母の動静のほか、当面の八艦隊の関心事は、敵の護衛艦隊がま だガ島泊地近辺にいすわっているかどうかであった。それはまだ確認されてなく て、この時点までにわかっていたことは、敵輸送船の数はほぼ三〇隻で、上陸用 舟艇の動きが活発であるという程度であった。

 八日〇四〇〇、鳥海と第十八戦隊 の各艦から、計四機の水偵が索敵のためガ島泊地およびその東方海域をめざして 飛び立った。約四時間ののち、各水偵から「輸送船のほかに艦艇あり」との報告 が送られてきたのであった。ここに至って第八艦隊は、それまでの想像の域をこ え、現実の問題として敵艦隊の存はを把握(はあく)するのである。一一時ごろ 水偵の収容を終えた第八艦隊司令部は、先の基地航空部隊からの通報とあわせて 敵の情勢を検討分析(ぶんせき)した末、「おおむね 戦艦一、巡洋艦四、駆逐艦九、輸送船一五」と判断した。

 先の水偵 のいずれもが敵空母を見なかったのである。司令部が何よりも知り たがっていたのは、敵機動部隊の動静であったのだが、八日午後九 時前後において、少なくともガ島の二五〇浬(463キロ)圏内に 敵空母はいないと断定するに至ったのであった。そして八日午後か らガ島泊地めざして進入しても、日没までに艦載機の攻撃を受ける 公算は少ないという結論に達した。

 ここに至って三川第八艦隊長官 は、あらためてガ島泊地突入の決意を固めた。三川長官は〇九一〇 、南東方面部隊指揮官・第十一航空艦隊長官塚原二四三中将および 山本連合艦隊長官ならびに永野修身軍令部総長あてに、自隊の索敵 機の報告内容と、「飛行機収容次第ブーゲンビル海峡ヲ南下、イザ ベラ島、ニュージョージヤ島間ヲ高速ニテ突破二〇三〇頃ガダルカナ ル泊地ニ殺到、奇襲ヲ加ヘタル後急速避退セントス」という決意を打 電した。未明に水偵を発進させてから、ブーゲンヴィル島の南方海上 を行きつ戻りつして、機宜(きぎ)行動を行なっていた第八艦隊が南 下を始めたのは午前一一時ごろだった。

 速力二〇ノットで二二一二〇 ごろブーゲンヴィル水道を通過すると、六ノット(11キロ)増速してチョイセル 島とヴェララヴェラ島間に進入した。やがて、待望の日没時がきた。 午前八時ごろ、敵の哨戒機に発見され、その後ほぼ一時間にわたって 触接されていたため、誰の胸にも不安はあったが、いま何事もなく一 日が暮れようとしていた。夜に入れば、空襲の心配がなくなる。内地 時間で一六四二(現地時間一七四〇ごろ)、旗艦鳥海のマストに三川長 官訓示の、「帝国海軍ノ伝統タル夜戦ニ於テ必勝ヲ期シ突入セントス。 各自冷静沈着克(よ)クソノ全力を尽スベシ」という信号が掲げられた。



昭和一七年八月七日の米軍来攻状況図

昭和一七年八月七日の米軍来攻状況図



避退した米機動部隊


 日本軍側が心配していた米機動部隊は、このころどこにどうしていただ ろうか。八月七日と八日の両日にわたる日本軍基地航空部隊の空襲は、 ガ島泊地に碇泊していた連合軍艦船に、それほどの損害を与えてはいな かった。しかし、連続的に実施された空襲により、物資資材の揚陸作業 がしばしば中断して、予定の進捗(しんちょく)状況よりはるかに遅れ て問題化しつつある。輸送船のなかには、八日夕刻までに積荷の二五パ ーセント程度しか揚陸作業を消化していない船があった。

 このため船団 が泊地にとどまる日数を、予定より二日間はのばさなければならない事 態を迎えていた。また、揚陸作業の遅延といった現実の問題とは別に、 日本の航空部隊が現地の連合軍に対して、心理的に与えた影響も見逃せ ない。空からの襲撃を知った米機動部隊は、ためらうことなく、すぐさ ま日本軍攻撃機の航続距離圏外に身を置き、さらには上級司令部の回答 を待たずに避退(ひたい)していったのである。

 七日未明以来、水陸両 用部隊の支援にあたってきた米機動部隊は、八日一六時ごろにはサヴォ 島から一二〇浬(二二二キロ)ほど離れたサンクリストバル島北西端の 沖合にあった。そして同時刻、機動部隊指揮官フランク・フレッチャー 中将は、南太平洋部隊総指揮官ロバート・ゴームリー中将に対して、「 ……この方面の日本軍雷撃機の性能と技術は、きわめて優秀であるにつ き、空母部隊の即時引き揚げを具申する」という意味の電報を打っている 。

 先の珊瑚海海戦でレキシントンを沈め、さらにミッドウェー海戦で空母 ヨークタウンを失ったフレッチャー中将として は、これ以上空母の損害を出すわけにはいかないというせっぱ詰まった感情に 駆られたかもしれない。結局フレッチャー中将は、引き揚げの意見具申をした 地点から、ゴームリー中将の返事と指示を待つことなく、南下を開始していた 。頼みの機動部隊に去られた水陸両用部隊指揮官リッチモンド・ターナー少将 は、ガ島上陸部隊指揮官アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将と警戒部隊指 揮官クラッチレー英海軍少将を招致(しょうち)して、前後策を協議した。

 そ の結果、一応緊急の物資のみを夜明けまでに陸に揚げ、九日早朝はやばやと輸 送船を泊地から離脱させるということで意見が一致した。警戒部隊指揮官クラ ッチレー少将は、船団を護衛する各艦艇の配備を次のように決めていた。まず 、サヴォ島とガダルカナル島間の南方水路約七浬(九キロ)に、濠重巡オース トラリア、同キャンベラ、重巡シカゴ、米駆逐艦パターソン、同バークレーの五 艦がいた。

 ただし、以上のうちで旗艦オーストラリアのみは、一八三〇ごろより 警戒配備から抜け出して、ルンガ岬付近にあった。これは、前述のように、オー ストラリア坐乗のクラッチレー少将が陸上にいたターナー少将に呼ばれたためで あった。次にサヴォ島とフロリダ島間の北方水路ほぼ三浬には、米重巡ヴィン センス、同クインシー、同アストリア、米駆逐艦へルム、同ウィルソンの各艦が 配備されていた。

 ツラギ東方のフロリダ島とガ島の間の東方水路には、米軽巡サ ンジュアン、濠軽巡ホヴァート、米駆逐艦モンセン、同ブキャナン等があった。 それに、米駆逐艦ブルーとラルフ・タルボットの二艦が、前衛警戒として、サヴ ォ島の北西洋上に押し出されていた。



ガダルカナル泊地の連合軍配備図

ガダルカナル泊地の連合軍配備図



第八艦隊の編制(昭和一七年七月一四日新編)
艦船部隊 特設艦船部隊
第一八戦隊 天龍・龍田
第七潜水戦隊 迅鯨
第一三潜水隊 (伊号第一二一、第一二二、第一三三(潜水艦)第二一潜水隊(呂号第三三、第三四潜水艦)
第七根拠地隊 第二三駆潜隊・第三二駆潜隊 第八五通信隊・第八五潜水艦基地隊
第八根拠地隊 第二〇・第二一掃海艦第二一・第三一駆潜艇 第五砲艦隊・第五六駆潜隊・第八通信隊・第八一・第八二・第八四警備隊・第八潜水艦基地隊
付   属 津軽第三〇駆逐隊(睦月、弥生、望月、卯月) 第一二設営隊呉鎮守府・第三特別陸戦隊・聖川丸・第二航空隊・第一〇、第一一、 第一三、第一四、第一五設営隊、佐世保鎮守府第五特別陸戦隊




第一次ソロモン海戦概況図

第一次ソロモン海戦概況図



第八艦隊突入す


 三川長官訓示の信号を発した第八艦隊は、東京時間の二一二〇それまでの分散隊形 から突入の態勢になった。単縦陣で味方識別の吹き流しをはためかせつつ、依然 として鳥海を先頭に立て青葉、加古、衣笠、古鷹、天龍、夕張、夕凪の順となり 、各艦ほぼ二一〇〇メートルの距離を保った。日没時、海上は凪(な)いでいた が、夜に入ると風が出てきて、次第にうねりが高まってきた。断続的ではあるが 、スコールも降った。しかし、視界は大体において良好といえた。二二時を過ぎ たとき、サヴォ島が視認できた。

 そのころ、いつかくツラギ方面の空の一郭(いっ かく)が赤く染まっているのを多くの者が見ている。昼間、わが基地航空部隊の攻 撃を受けた敵の輸送船一隻が、まだ燃えているのであった。第八艦隊は各艦、総員 戦闘配置についたまま、針路一四〇度、速力二六ノット(48キロ)でサヴォ島の南方水道に進 入しようとした。二二四三のことであった。右舷二〇度方向、距離約九〇〇〇メー トルに艦影を発見した。気づかれたらいつでも応戦できる態勢をとりながら、左に 二〇度変針した。駆逐艦らしき敵は、こちらに気づいた様子もなく、やがて艦影は 見えなくなった。

 それから約七分後、同じ右舷一四四度に、さらに一隻の駆逐艦を 認めた。各艦が緊張のうちに見守るなかで、この敵艦はくるりと反転した。魚雷を 発射するためかと誰もが思ったというが、いつまでたっても雷跡らしきものは見え ず、艦影は次第に遠くなっていった。これは、前者がブルーで、後者はラルフ・タ ルボットであった。両艦は旧式であったが、捜索用レーダーを装備しており、距離 約一〇浬の探知性能を備えていたが、このときは陸地が近かったせいか能力が落ち ていたらしい。

 視認距離内で緩慢(かんまん)に反転、遠ざかって行った敵駆逐艦 二隻の行動を見守っていた八艦隊幕僚たちの胸には、わざとわがほうの存在に気づ かぬふりをして、敵地深く誘っていくトリックではないかといわう疑念も湧いた。 だが、どっちにしても、こちらから砲門を開いて存在を知らせる必要もないと、隠 忍自重(いにんじちょう)し、増速してサヴォ島の南岸寄りに、南方水道指してさ らに進入していった。

 二三二六、三川長官は各艦独自に艦長が戦闘指揮をとれとい う命令を出し、続いて二三三〇「全軍突撃」を下令した。隊形は変わらず単縦陣で、 旗艦鳥海と殿艦(しんがりかん)夕凪までの距離は、ほぼ八○○○メートルであっ た。空には、まだ月が出ていなかった。ちなみに、現地の月の出は、東京時間で午 前零時すぎであった。




米海軍はソロモン方面の戦闘に魚雷艇を配備して大いに活躍させた。J・F・ケネディー中尉も指揮を取った。

米海軍はソロモン方面の戦闘に魚雷艇を配備して大いに
活躍させた。J・F・ケネディー中尉も指揮を執った。






第一次ソロモン海戦の連合軍側夜戦配備
部隊(指揮官) 北方部隊(ヴィンセンス館長) 東方部隊(スコット少将) 南方部隊(クラッチレー少将)
任務 北方水路警戒 東方水路警戒 南方水路警戒
艦名(艦種)
ヴィンセンス(米重巡) サンジュアン(米軽巡) オーストラリア(濠重巡)
クインシー(米重巡) ホォヴァート(濠軽巡) キャンベラ(濠重巡))
アストリア(米重巡 モンセン(米駆逐艦) シカゴ(米重巡)
ヘルム(米駆逐艦) ブキャナン(米駆逐艦) バターソン(米駆逐艦)
ウィルソン(米駆逐艦) ///// バークレー(米駆逐艦)




左一一七度方向に敵艦影


 「全軍突撃」が出された直後、鳥海が左一一七度方向に艦影を発見した。鳥海はこ れを敵巡洋艦と判断した。ただちに雷撃命令が発せられ、烏海は二三三八、照準距 離四五〇〇メートルで魚雷四本を発射したが、これは一本も命中しなかった。この 魚雷発射後、今度は右一二〇度から一一七度の方向に数隻の艦影を認めた。いま やめざす敵輸送船団に遭(あ)う以前に敵艦隊と遭遇したことは間違いなかった。

 第八艦隊司令部は 躊躇(ちゅちょ)なく、先行させていた哨戒機に吊光弾(ちょうこうだん)の投下を 命じた。月のなまばゆい夜空に、眩(まばゆい)いような光が炸裂した。光は落下す るにつれて、末広がりに大きくなり、徐々に洋上を照らし出した。その照明のなかに 、陸地を背景にした艦影が、くっきりと浮かび上がった。

 以下の戦闘経過は、彼我各 艦ごとに書いていきいますが、本当のところこの海戦の詳細は、出合いがしら同然の 衝突であったことと、暗夜に高速で走りながらの混戦であったために、はっきりした ことはわからないとされています。生存者の証言もまちまちであるし、残っている各 艦戦隊の「戦闘詳報」を見てもても、一致しない点が多くある。したがって、以下の 説明には、このようであったろうという後世(こうせい)の推量が働いている。

 語を 戻しますが、旗艦鳥海は、前述した発見艦影を「オーストラリア型」巡洋艦と判断照 準距離二七〇〇メートルから魚雷四本を発射した。火柱が上がるのが見え、衝撃音が 伝わってきた。命中である。このころから敵は星弾(せいだん)(照明弾)を撃ってき た。第六戦隊旗艦青葉は、前述のように先頭の鳥海に続いていた。連合軍は吊光弾を 頭から浴びて、初めて日本艦隊の来襲だと気づいたらしく、次の瞬間灯火がいっせい に消え、各艦はあわてふためいたように諸方(しょほう)に動き出していた。

 青葉は 二三四〇ごろ、左一〇度と右五度の遠距離にあわただしく反転する敵駆逐艦各一隻を 認めた。吊光弾の照明に浮かび上がったこれらの敵に対し、青葉は二三四四から僚艦 加古、衣笠とともに砲雷撃を浴びせ始めた。結果、四本の魚雷が命中した、と判断さ れた。第六戦隊の殿艦古鷹は、二三四四、左舷の洋上に、こちら向きに突進してきた 駆逐艦一隻に対して魚雷攻撃を加えた。

 命中と判断して、さらに前続艦衣笠に続いて 前進するうち、火焔(かえん)を背負った巡洋艦が前方に突っ込んでくるのを見た。 やむなく古鷹は、左に転舵して、大破した敵との衝突を避けようとした。このとき、 前を行く衣笠を見失ってしまった。針路が変わってしまった古鷹は、手傷を負って姿 を現した敵巡洋艦に向けて魚雷を発射し、さらに砲撃を加えながら、単艦北上すると いうかたちになった。



       
第一次ソロモン海戦参加艦の主要装備(聯合軍)
艦名 竣工年 基準荘排水量(トン) 主砲 高角砲 魚雷発射管
シカゴ1931 9,550 8インチ×9門 5インチ×8門 なし
ヴィンセント 1936
クインシー 1935
アストリア 1933
ブルー 19381,500 5インチ×4門 なし 20インチ×6門
ラルフ・タルボット 1938
ヘルム 1938
ウィルソン 1939
パターソン 1937
バークレー 1938
キャンベラ 1927 9,870 8インチ×8門 4インチ×8門 21インチ×8門

*8インチ砲は20センチ砲、5インチ砲は12センチ砲に相当する。1インチ=2,54センチ






六分間の戦闘


 第十八戦隊旗艦天龍は、前出の「全軍突撃」の命令を受けて、六戦隊殿艦(しんがり)古鷹に統く うち、二三四二、三五度方向、約三〇〇〇メートルの洋上に反転する駆逐艦らしき敵 を発見した。そして約五分後、前に書いた味方哨戒機の吊光弾に照らし出された右前 方ほぼ六〇〇〇メートルの海上に、巡洋艦らしい艦影五隻を認めた。さらに二三四七 に、八〇度方向、三〇〇〇メートルのところに駆逐艦一隻を見た。この駆逐艦は照明 弾を撃ち上げて、天龍に向かい砲戦を挑んできた。天龍はこれに対し、星弾砲撃をも って応戦した。

 しかし天龍は、この敵と徹底的に戦闘しなかった。激しい砲弾発射の 震動のために羅針儀が故障し、単艦になった場合、針路に自信が持てなかったからだ という。そこで天龍は、前を行く古鷹を見失うまいとして懸命に続行したため、敵を ふり切るかたちとなった。目標にしたその古鷹が、炎上した敵との衝突を避けて、隊 列からはずれたことはすでに書いたとうりです。第十八戦隊の二番艦夕張は、前述の 鳥海が真っ先に発見して魚雷攻撃をしかけた敵巡洋艦と、約一五〇〇メートルの近距 離で遭遇し、その距離から魚雷を発射した。

 一本が命中、火災が起きるのが見えた。 さらに三分後、反転して遠ざかろうとしている駆逐艦を発見し、無照射砲撃を加え、 これを「撃沈」と信じた。この砲戦で方位盤が故障し、一時小さな騒ぎとなった。こ のころ、夕張は隊列から少しはずれていた。先に回頭(かいとう)があった際、先を 行く天龍の針路からやや左にはずれて進んだ模様で、その後もそのままの航路で走り ながら交戦状態に入っていた。第十八戦隊の殿艦夕凪は、夕張について高速突進中、 思いがけない夕張の変針に遭った。

 狼狽(ろうばい)して いると、悪いことは重なるもので、電源が不意に故障し、一時羅針儀の照明灯が 消えてしまった。前続艦夕張との衝突を防ぐ意味で、いったん針路を変えようと 転舵している間に、夕張の姿を見失ってしまった。夕凪は前途に予測される混乱 を恐れた。何しろ、暗夜に閉ざされた敵陣に七隻の僚艦が高速で突入しているの である。前続艦を見失ったいま、それらの僚艦がどのような隊形で進んでいるの か、つかみがたかったのである。 夕凪は、同士討ちまで考慮して、当初決められ ていたサヴォ島を廻らずに反転することを決意した。

 その後西に向かって進むう ち、二三五〇、軽巡らしき敵に遭遇し、翌九日○〇一〇ごろには左舷に駆逐艦一 隻を発見、それぞれと交戦して相手を大破した、と報告している。あとにこの夕 凪は、サヴォ島の北側を北上して、同島を廻り込んで第二次の戦闘を終えてきた 僚艦と合同した。にわか編成の第八艦隊が、南方水路の警戒にあたっていた敵艦 隊と交戦したいわば第一次戦闘は、第八艦隊からすればおよそ以上のような経過 をたどって行なわれたとみられる。

 こうやって列記していくと、長い時間が過ぎ たようであるが、最初に鳥海が魚雷を放ってからわずか六分間という短時間のう ちに大勢は決していた。戦果のほうは、聯合軍側の記録と合わない部分もあるが、 ここまでの戦闘で日本側が一発の命中弾も被(こうむ)っていないのは事実である。



      
第一次ソロモン海戦参加艦の主要装備(日本軍)
艦名 竣工年 基準総排水量(トン) 主砲 高角砲 魚雷発射管
鳥海 1932 11,300 20センチ×10門 12センチ×4門 61センチ×8門
青葉1927 9,000 20センチ×6門 12インチ×4門 61センチ×8門
加古 1926
衣笠 1927
古鷹 1926
天龍 19173,230 14センチ×4門 8インチ×1門 53センチ×6門
夕張 1923 2,890 14センチ×6門 8インチ×1門 61センチ×4門
夕凪 1924 1,270 12センチ×4門 なし 53センチ×6門







殴り込み作戦の光と影


 こうして、一連の連合軍艦艇(南方水路にあった濠重巡キャンベラ、同シカゴ、駆 逐艦バークレー、同パターソン)と交戦してサヴォ島沖を北東に進んだ第八艦隊は、 ひき続き北方水路の警戒にあたっていた米重巡ヴィンセンス、同クインシー、同ア ストリア、米駆逐艦へルム、同ウィルソンと遭遇する。この敵の存在も、第八艦隊 は予測していなかった。彼我七〇〇〇メートルから三〇〇〇メートルの近距離をへ だてて、たちまち乱戦となった。烏海、青葉、加古、衣笠の巡洋艦部隊は、進入後 はじめて探照灯を使用して相手を捕捉しようとし、主砲だけでなく高角砲および二 五ミリ機銃まで動員して猛射した。

 第六戦隊のうち、古鷹のみが前続艦を見失って 隊列を離れたことは前に書いた。その古鷹の後方から第十八戦隊の天龍、夕張と続 いた。夕凪はすでに脱落して反転していったことも前に書いた。以上のように別行 動をとった鳥海隊と古鷹隊が、新たに出現した敵をはさみ撃ちするようなかたちに なった。距離が近いために、重巡の主砲はほとんど水平弾道を形成し、砲弾が貫通 した孔(あな)から内部の火炎が見える類のものだったらしい。心ならずも、烏海 以下の重巡隊と分離してサヴォ島に近く、敵の左側に廻り込んだ古鷹と天龍、夕張 の十八戦隊の射程も、烏海らとほぼ同程度の近距離であった。

 鳥海の探照灯照射に よって、敵艦は黒ぐろとシルエットになって浮かび上がり、初めて敵をはさむよう な態勢でいることを知ったのだが、長距離で八〇○○メートル台、一番近い敵はわ ずか二五〇〇メートルという砲戦であった。ほぼ二〇分間にわたるこの第二次の戦 闘で、烏海は作戦室その他に命中弾を受けたが、すべて不発でさしたる被害はなか った。また、青葉が魚雷発射管に機銃弾を受けて小火災を起こしたが、大事に至ら ず、第八艦隊はふたたび勝ちをおさめた。全戦闘を通じて得た第八艦隊の戦果を、 連合軍側の記録とつき合わせて検討すれば、米濠重巡四隻を撃沈、重巡一、駆逐艦 二を大中破していた。

 九日〇〇二三、三川長官はまだ硝煙(しょうえん)も生なま しい現場で「全軍引き揚げ」を令すると、探照灯をつけて鳥海の位置を各艦に知ら せた。そして〇一二〇分離していた古鷹および第十八戦隊との合同を終えると、往 路を反航し始めた。こうして、出撃前の予定どおり一航過で帰投することになったわ けだが、本来の目標であった敵輸送船団は見逃すこととなった。「第一次ソロモン海 戦」と日本軍側が呼称(こしょう)するこの海戦は、初めから終わりまで、わがほう にとり僥倖(ぎょうこう)の連続であったといってよい。

 飛行機の掩護のない、いわ ゆる丸はだかの巡洋艦群が、単縦陣で敵地に乗り込むといった作戦が未曾有(みぞう) のものであれば、その戦果も開戦壁頭の機動部隊が実施したハワイ奇襲を別格とすれ ば、太平洋戦争を通じて類のないものであった。しかし、欲の深さは人間の常である。 より以上の戦果を求める声が当時からあった。もう一度サヴォ島を廻ってガダルカナ ル泊地に突入し、荷役のためそこにいた敵輸送船群を木端(こっぱ)みじんにして欲 しかったという意見である。また旗艦鳥海艦長の早川幹夫大佐が、艦橋において三川 長官に対し、再度突入を進言したという事実もある。この問題の是非は、太平洋戦争 を通じる他のいくつかの戦闘とともに戦後にまで持ち越された。

 このような意見が戦後まで続いているようであるが、あくまでも結果論であり、言うは 易しであると思われるのである。三川軍一司令官には司令官なりの考えがあっての事で あったのでは無いかと私には思えてならない。 実戦経験の無い人間には分からない事情があったのでは無いかと思われる。早川幹夫鳥 海艦長の再攻撃の意見具申もわからぬでは無いが、艦隊全体を把握しなければならない 立場にある人間には大きな責任が背負わされているのである。そこまで見据えて居なけ ればならないのだ。

 一艦長のように、その艦の責任だけ負えばいいと言うわけにわ行か ないのである。ハワイ真珠湾に於いての南雲忠一中将の行動も結果論で判断されて、愚 将凡将と言われたが、全軍を把握せねばならない立場の人間にとっては、多少のこのよ うな批判は仕方ないのではと思うのである。終了後のタラレバの批判は必ず出るもので あると私は考えるのですが、賛否両論あるわけですので仕方の無いことだと思うのである。 ことわざの通り言うわ易しです。





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(更新/2006/10/07)  秋の晴れた爽やかな日  Homepage Owner  kanno





主要参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ第5巻)
(ソロモン海戦)
亀井宏・著・ ドキュメント・ソロモン海戦


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