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gunkanki


マレー沖海戦前夜
曲:精鋭なる我が海軍

マレー沖海戦・T




英巡洋艦レパルスの三八,一センチ前部主砲群

英巡洋艦レパルスの三八,一センチ前部主砲群



 日本軍を駆逐せんと東洋に送り込んだ英国が誇る戦艦であったが、日本軍の爆撃機の攻撃に奇しくもマレー沖の藻屑と化す。 英首相チヤーチルが自信を持って送り出した精鋭艦であったが、日本軍の前にあっけなく喪失し、チヤーチルを呆然とさせた。


昭和一六年一一月、極東に英海軍の新鋭戦艦が出現。旦本海軍に衝撃を与えた。





二重スパイと極東の台風


 『三輪車』のコードネームで呼ばれていたイギリスの二重スパイ、ダスコ・ ポポフは一九四一年(昭和一六)に入ると、急に忙しくなった。すでに火中に ある欧州の動向に加えて、極東に新しい台風が発生したからである。ただし 彼の場合には、イギリスの命で積極的に動くことよりも、当時はドイツの指 令で動いていたから、その過程で得た情報を、イギリスや他の同盟国に伝え るだけのことだった。

 それでも夏ごろになると、彼は、日本海軍のハワイ作 戦について十分すぎるほどの、確度の高い情報を手にしていた。このときイ ギリスにいたポポフは、ドイツの指令でアメリカに渡る途中、リスボンで新 しい命令書を受け取った。彼の本務は米国内にドイツのスパイ網を構築する ことだったが、新しい指令書には、米国での仕事が一段落したらホノルルに 飛び、オアフ島の弾薬庫、飛行場港湾施設、湾内水深、碇泊地点などの細密 な調査を指示されていた。

 彼はリスボンの英情報機関に連絡した上でニュー ヨークに飛び、FBIのエドガー・フーバーに会ったが、フーバーはあたまから 彼を相手にしなかった。『三輪車』というコードネームからして"セックス ・ゲーム"じみていて、つまり、彼の情報は疑わしいというのである。一方、 ロンドンにとってリスボンからもたらされたこの情報は、ある意味で歓迎すべ きものだった。日本海軍の標的がはっきりハワイを示している以上、少なくと も台風の中心は、英国最大の関心事であるマレー半島をそれる可能性が生じた ことになる。

 日本海軍の主力が米国を正面の敵に選んだことで、イギリスの極 東毎軍の戦略は、予期される敵の兵員輸送船を沈め上陸を阻止することに軽 減されることになる。確かにこの判断はずさんなものではなかった。当時、 日本の海軍はハワイを主戦場に選び、陸軍がマレー占領に主眼を置いていた ことは確かである。現に、参謀本部は昭和一六年(一九四一)三月に九州で所 定の参謀要員による参謀旅行演習を実施し、主として上陸作戦訓練と、同月 下句から四月上旬にかけて、大本営の統裁(とうさい)下に南方作 戦を想定した大規模な陸海軍合同の演習が行なわれた。

 揚子江 (ようすこう)河口の舟山列島から出発した上陸作戦軍が、航空部隊の護衛 で敵海空軍の攻撃を排除しつつ、東シナ海を航行し、北九州に上陸して 佐世保要塞を攻略するというのである。これは明らかに、マレー上陸作戦 とそれに引き続くシンガポール攻略を想定したもので、実兵を用いた点で画期 的なものだった。



日本海軍の無敵を誇った零戦。米英は過小評価していた。

開戦緒戦に無敵を誇った零戦を米英は過小評価していた。「十二空所属零戦」



英国のふところ事情


 一方、英国のマレー半島防衛構想は、前述のように海軍力によるものだった。 つまり、大規模な陸戦が起こり得ないようにする海上防御戦略である。この 計画を実態あらしむるために、英国海軍省は一九四〇年に新しい計画を立案 した。それによると、日本を敵とする南シナ海の制海権確保のため戦艦ネル ソン、ロドネー、レパルス、リベンジ、リゾルーション、ラミリースの六隻、 空母アークロイヤル、フユーリアス、インドミタブルの三隻をシンガポール に派遣することになっていた。さらに、これにともなう制空権の確保に空軍 機二三六機を常置し、陸軍四個師団、戦車二個連隊に拡充すべく定められて いた。

 このプランは一九四一年中には実現するはずだったが、欧州で起こっ た大戦のために、新鋭艦は対ドイツ戦備に、二級戦艦は地中海に動員されて、 六月までは完全に机上の空論にとどまった。皮肉にも英国にこの計画の緊急 な実施を遣ったのは、ほかならぬ日本軍の仏印進駐だった。少なくとも英国 では、アメリカのように『日本軍の来襲』を笑い話にすることはなかったと いえる。だが、日本の空軍力を過小に評価していた点では、アメリカとあい こだった。

 当初、英国空軍当局は日本軍の動員能力を七二二機と算定しなが ら、三三六機でこと足れりとしたこともそうだが、九月から一一月にかけて シンガポールに補給されたのは、わずかに二級品が三八機にすぎなかった。 もっともこれにはよんどころないふところ事情があった。英本土に飛来する ドイツ機への対応に加えて、ソ連への武器援助として六〇〇機の新鋭機を提 供している。さらに反面では、本土上空でドイツ空軍を撃破した誇りが、日 本の空軍力を軽く見ることになったのかもしれない。(いや、軽く見すぎたのです) 後に、開戦にあたってプルフォード空軍中将は、「全国民の関心がそうであるように、 ブリュースター・バッファロー戦闘機が時代遅れであることはいな否めない。だが問 題はない。

 わが国での旧式は、極東では最新のニューモデルなのだ。自信がある」 と断言した。ドイツ機との空戦を勝ち抜いた英パイロットたちは「ロールス・ロ イスとダットサンの戦い」と、冗談まじりにいったものだ。だが、彼らのバッフ ァローが鈍足で航続距離が短く、機動性に欠けることは、彼ら自身が一番よく知 っていたはずである。これほど東洋の東の外れ日本と言う国は国際的にも、工業的にも、まだまだ 認識されておらず、飛行機など作れるはずも無いと思われていた程であったようである。

 米軍などに至っては、零戦のことを自国の行方不明になった飛行機を日本が見つけて、 それをコピーしたんだろうと言うほどであったようです。一部では、車もまともに作れない日本に どうしてこのような物が作れるかと本気でそう思っていたようである。笑い話ではすまない 緒戦の敗退に、連合軍側は砂を噛む思いであったことでしょう。



無敵の英東洋艦隊が誕生


 一九四一年一一月二日、英国海軍は新しく東洋艦隊の編成を発表した。これ は日本海軍に大きな衝撃を与えた。その主力艦二隻が、新鋭戦艦「プリンス ・オブ・ウェールズ」と高速巡洋戦艦「レパルス」だと判明したからである 。特に、プリンス・オブ・ウエールズは"不沈戦艦"や"超弩級戦艦"などの 冠詞をいただく脅威的存在だと思えた。ましてや英国海軍は明治六年(一八 七三)七月、アーチボルト・C・ダグラス少佐をはじめとする教師団を招いて 以来、日本海軍の宗家(そうけ)だった。しかし、聯合艦隊司令長官の山本五 十六大将にその感慨はない。

 彼は強大艦の配備に対抗して、日本の南方部隊も 戦艦をもって補強すべしという軍令部や聯合艦隊の意見に「米英を相手にする 将棋で、そんふなぜいたくなことはできない。歩(ふ)で王を喰うことを考え ねばならない」としてこれを退けた。彼は自分の航空雷撃戦力に、絶対の自信 をもっていたのだ。 昭和一六年一一月二日、南方部隊は英艦隊のシンガポール進出を必至と して、鹿屋航空隊のマレー部隊編入を措置し、即時仏印の基地への移動 を命じている。ここで山本長官の一方の敵となる英東洋艦隊についてふ れておく。

 前述のような情勢の緊張によって誕生したこの艦隊は、従来 は一万トンの重巡ケントを旗艦とする巡洋艦部隊がその任に当たってい た。この僻地(へきち)の拠点に、チャーチル首相が海軍の反対を押し 切ってまで、その秘蔵っ子のプリンス・オブ・ウェールズをはじめ、レ パルス、さらには新鋭空母インドミタブルに七四機の搭載機を加えて東 洋に配したのは、彼の断固たる決意と自信の表明とみるべきだろう。た だし、空母インドミタブルはジャマイカで訓練中に座礁して戦列を離れ、 一二月初頭の東洋回航には加われない。

 艦隊の新司令長官トム・スペン サー・フィリップス中将の悲運はここから始まった。英国海軍きっての 逸材(いつざい)といわれた声望高い彼を、軍令部次長の要職から引き 抜いて司令長官に任命したあたり、なんとなく後の大和出撃の際の伊藤 整一中将に似ている。その大和はまだ完成していなかった。 一〇月に東洋艦隊は本国を出航、一一月一五日ケープタウンに入港。一 八日インド洋に向けて出航し、一二月二日シンガポールに到着した。先 に発表された同艦隊の創設は、これと期日を合わせたものだろう。そし て一一月二九日、以後の歴史を根底から覆すことになる国家の意思が決 定された。



英国が東洋に送り込んだ大艦プリンス・オブ・ウェールズ

英国が東洋に送り込んだ最新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズ



米英蘭に対し開戦す


 この日、日本政府は、重臣会議の終了後に政府・大本営連絡会議で次の とおり決定した。対米英蘭開戦の件「十一月五日決定の『帝国国策遂行 要領』に基づく対米英交渉は遂に成立するに至らず帝国は米英蘭に対し 開戦す」後に英国軍需生産大臣オリバー・リットルトンは、ロンドンの 米国商業全議所での懇談全で次のようなことを述べて物議をかもした。 しかしそれは、昭和一六年一一月二九日、すなわちこの日、なんらの異 議もなく開戦を決意した日本政府と大本営の言わんとするところを、い みじくも代弁するものだった。

 「米国が戦争に追い込まれたというのは 歴史上の改ざんで、真実は、米国が日本を次のように限界まで追い込ん だのである。すなわち日本人は、米国人にパールハーバーを攻撃せざる を得なくなるほど強圧されたのである」同日トム・フィリップス提督は 艦隊と別れて空路シンガポールに先行し、英極東軍総司令官ブック・ポ ッパム大将と今後の作戦を打ち合わせ、さらに米極東軍司令官ダグラス・ マッカーサー中将と作戦協定のためマニラに飛んだ。二一月二日、ジャワ 島のバンドンでは、オランダ陸軍情報部のべルクール大佐が、バンコクの 日本領事館あての電報を傍受し、解読した。

 領事館電報はハワイ、フィリ ピン、マレー、タイヘ攻撃を行なうことを伝え、各国への一斉攻撃は天気 予報の形で知らせる、というものだった。これが後に、米太平洋艦隊司令 長官キンメル大将を裁く軍事法廷で『幻覚』だったとして葬られた"ウイ ンド・メッセージ"である。蘭印オランダ軍司令官ハインター・ポールテ ン中将は、自ら電報の写しを持って、司令部の隣のビルにある米陸軍エリ オット・ソープ将軍の事務室へ行った。

 秘書を遠ざけドアに鍵をかけてか ら、彼は電報を将軍に見せた。 「これは重大です。閣下のお許しがあればバタビアの領事館に行き、ワシ ントンに送りたいと思います」ソープも驚いた。結局それをバタビアに運 んだのは、ソープ自身だった。総領事は一笑に付したが、そばにいた海軍 情報部の中佐は即座にそれを海軍暗号に組み、ワシントンに発信した。



セバワン飛行場に無残な残骸をさらすバッファロー戦闘機

セバワン飛行場に無残な残骸をさらすバッファロー戦闘機



断裂の硲に入るべき日


 一二月二日夜、連合艦隊司令部は各作戦部隊指揮官に『新高山登レ 二一 〇八』を下令した。小澤治三郎中将の指揮するマレー部隊は、このとき水 上部隊の大部分は海南(かいなん)島の三亜に、基地航空兵力は仏印南部に、 集結または展開を終わっていた。前日出撃した第四潜水戦隊を皮切りに、 主力は四日、マレー攻略部隊山下奉文(やましたともゆき)中将の第二十 五軍が乗る船団の護衛に三亜を出撃した。

 航空部隊も同様である。二月五 日、マニラに着いたフィリップス中将は、六日自軍の哨戒機がカモー岬沖 で日本の大船団を発見したという報告を受け、七日夜シンガポールに帰投 した。五日にシンガポールを出て、ポートダーウィンヘ向かっているレパ ルス以下を呼び帰した。二一月四日〇六三〇、山下二十五軍麾下の第五師団主力と第十八師団先 遣隊を乗せた船団は、三亜を出て征途(せいと)についた。

 事 前に伝えられた情報のとおり、敵性国の商船に三回出会ったが、先行 哨戒の駆逐艦が強引にそれらを西方に誘導して、船団の隠蔽(いんぺ い)に努めた。このとき、山下の軍司令部は定石(じょうせき)上の 定位置より前に出ていた。いや、出すぎていた。山下の性格からして、 やはり力んでいたのかもしれない。

 彼らは一種の本能に近い感応(か んのう)で、自分たちが歴史の裂け目に入っていくことをけどってい たのだろう。これを護衛する小澤の艦隊も、フイリップス提督の艦隊 に比べれば劣勢は否めない。それでも彼らは、断裂の硲(はざ ま)に飛び込むべきはこの日をおいてなかったのである。参謀本部は 一一月下旬から中央気象台の藤原咲平(ふじわらさきへい)博士に依 頼して、マレー東北岸の気象測候を続け、一二月から現地調査をした 結果、一二月六日は晴れ、七日は曇りで風やや強く、八日は曇り小雨、 下り坂となる旨が報告されていた。

 つまり、制空権はともあれ、フイ リップス艦隊とわたりあって船団の安全を期すなどの時間はなく、 『日ノ出ハ山形』に賭ける以外になかったのである。当然のように、 在外武官からの来電も頻繁(ひんぱん)になる。その中でべルリン駐 在の坂西一良陸軍中将からの電報は、歴史の側面をのぞかせていた。



「英戦艦等、極東ニアリ」


 参謀総長宛ドイツ大使館付武官発【一二月五日一九三〇着信】「極東の 風雲急にして御心労を拝察し感謝の至りに堪(た)えず 断の一字能( よく)此の難局を打開し得べし偏(ひとえ)に御健闘を祈り上ぐ尚将来 ドイツ軍部と折衝の都合もあり帝国の態度に関し左の件承知致し度(た く)、南方作戦一段落を告げたる後反転ソ連を攻撃しドイツ等と呼応せ らるるの企図あるものと信ず二、右反転の時期は状況に依ることなるべ きも明春ドイツ軍の赤軍追撃戦に呼応せらるるや」 あるいはこの電報は、日本軍のビルマ進攻はドイツの懇望を一部受け入 れる形でなされたとする説を裏書きするものかもしれない。


参謀次長宛

辰巳英国大使館付武官発

(一二月四日一六三〇着信)

「一、英戦艦プリンス・オブ・ウエールズ及ウォアースピット並びに巡
洋艦二、三隻、駆逐艦若干のインド洋もしくわ極東方面にあるおおむこ
と概(おおむね)ね確実にして今回声望高き軍令部次長フィリップ中将
を大将の資格に於いて英東洋艦隊司令長ほか官に任命しその外航空母艦、
巡洋艦、駆逐艦等の若干を東地中海方面より増強し濠洲(ごうしゅう)
その他米極東艦隊と共に極東の危機に備へんとするは十分注意を要す

二、最近極東方面に於ける英軍の移動により判断し英国は五、六千トン
屯級の商船少なくも四、五十隻をインド洋方面に使用しあるものと相察
せらるる而(しか)して米濠間定期航路に於ける中東並びにソ、支等に
対する軍需品輸送は主として米船}」之れに任じあるものの如し

三、海峡植民地緊急状態を宣し蘭印内に空軍の動員令せらる」


参謀次長宛

岡集団(南方総軍)総参謀長発二二月六旦二四〇着信】

「一、海軍側の通報によれば本六日一五時頃輸送船団に敵大型機接触
偵察せしを以て海軍は之れが撃墜を命じたるも其の成果不明

二、軍は対空処置を厳にす」




マレー沖海戦・U⇒

 

(更新/2007/04/21)  桜葉萌える暖かき春の日に記す  Homepage Owner  kanno





主要参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ第2巻)
(大捷マレー沖海戦)

ドキュメント・マレー沖海戦・マレー沖海戦前夜
レパルス型戦艦見ユ・甲斐克彦・著


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