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インド洋撃滅作戦・T

南雲機動部隊の出撃




旗艦空母赤城から飛び立つ九九式艦爆

旗艦空母赤城から飛び立つ九九式艦爆


第一航空艦隊

南雲艦隊は、ハワイ真珠湾奇襲成功の余勢を駆い、 反す刀でインド洋へと艦隊を向けたのであった。今や第一航空艦隊に休みはなかった。



無敵の南雲機動部隊は太平洋を駆け巡り、次の照準を インド洋に定めた。





淵田総隊長の憤懣


 真珠湾奇襲攻撃後、南雲忠一長官(なぐもちゅいち)の第一航空艦隊は、 第三次攻撃を要求する航空幕僚や搭乗員たちの主張を抑えて、慌ただしく 戦場を離脱する。幸い真珠湾で撃ち漏らした米空母からの反撃もなく、そ れは南雲の杞憂(きゆう)にすぎなかったのだが、その代わりに一二月一 一日から一三日にかけて、台風に近い荒天(こうてん)が艦隊を歓迎した。

 航海中の一二月一六日、山本五十六聯合艦隊司令長官の命を受けて、南雲 は蒼龍、(そうりゅ)飛龍(ひりゅう)の二空母と巡洋艦筑摩、利根、駆 逐艦うらか谷風(たにかぜ)、浦風(うらかぜ)を艦隊から切り離し、太 平洋戦争の緒戦で、唯一のつまずきであるウェーク島攻略部隊の支援に増 派した。一二月二二、二三日の両日、残った艦隊の主力空母から搭載した 飛行機がそれぞれの陸上基地へ飛び立った。

 旗艦の赤城以下、瑞 鶴(ずいかく)、翔鶴(しょうかく)ら諸艦の帰還である。問題はこの後 であった。例えば、真珠湾攻撃隊の指揮官で、第一航空艦隊の飛行総隊長で もある淵田美津雄(ふちだみつお)中佐は、身辺の浮ついた戦勝祝賀ムード の中で、全飛行隊員の憤懣(ふんまん)を代表する形になっていた。真珠湾 攻撃を不十分な形で打ち切ったことに対するやり場のない思いである。一二 月二五日、天皇に拝謁(はいえつ)するために上京したおり、その翌朝には 彼の怒りは紛れもないものになってしまった。

 一連のなりゆきで軍令部第一 部長の福留繁(ふくどめしげる)少将と突っ込んで話し合う機会があり、そ して淵田の言葉を借りれば、「よりによって我が海軍の作戦中枢が、これほ どの方向音痴(ほうこうおんち)だとは思わなかった」ということになる。 事実、山口多聞(やまぐちたもん)少将(第二航空戦隊司令官)、源田実(げ んだみのる)中佐(第一航空艦隊航空参謀)らとも連帯する実戦層に共通する 戦略観として、たとえそれが開戦前の図上演習で決定されていたとしても、 いまさら中南部太平洋に戦線を求めさたるなど、どうにも正気の沙汰ではな い。

 彼らはまだハワイをにらんでいた。いま一度ハワイを叩き、米大平洋艦 隊を壊滅(かいめつ)させ、陸兵を送って完全に占領することこそ本義であ り、中南部作戦など枝葉にすぎないというのである。後日この議論に、「そ れをやっていればガダルカナルも珊瑚海海戦もなかった」という補足がなさ れた。ともあれ、淵田は福留少将と会談した日のことを微細(びさい)にわ たって覚えていた。それほど、福留の言は衝撃的なものだった。「本筋はあ くまでも真珠湾であり、太平洋艦隊である。

 これさえ潰(つぶし)してお けば、濠州も英蘭もその他の英領植民地にしろ、特に英蘭両国は欧州でヒト ラーとの戦線を抱えており、それらはすべて根幹を絶てば必然的に消滅する問題である。 故(ゆえ)に、海軍首脳部が南方に戦線を拡散するのは痛恨の一失になるだろ う」という淵田に答えて、福留は自分の土俵を出ようとはしなかった。



戦艦長門

昭和一七年二月一二日まで、旗艦であった戦艦長門の勇姿



一航艦解体の衝撃



 彼はたしかに有能な高級参謀で、水上艦隊については万全の知識を持っていた が、航空兵力の運用についてはほとんど知らなかった。そして淵田に呼吸が止 まるようなショックを与えたのは、福留が第一航空艦隊の解体を考えているこ とだった。彼の構想では、瑞鶴、翔鶴、の第五航空戦隊は別の指揮系統に組み 込まれて東方作戦に従事し、残りの四隻は一作戦単位として南西方面の作戦を 担当する。より重要なは変更は、一航艦生(は)え抜きのパイロットが霞ケ浦 に配転され、搭乗員つまりパイロットの卵たちの指導にあたるという。

 何もか も淵田には到底承服できない。これほど第一航空艦隊の真価が明確にされたい ま、六隻の空母は絶対に分割されるべきではなく、搭乗員の編成にも手を加える べきではない。霞ヶ浦の教官が必要なら、要員はいくらでもほかに求められる はずだ。なにも虎の子の艦上機パイロットをあてることはない。彼らの技量は 高等にすぎて、初心者の教育にはそぐわない。この国家の大事に際して、なぜ 航空戦のベテランを現場から割(さ)こうというのか。

 さらに淵田は、彼自身 の爆弾を福留に投げつけた。「海軍の絶対的な破壊力を確立するために、あと 二隻の空母を増補し、八隻の空母による一大機動部隊が形成され、文字どおり 海軍の骨幹となり、あくまで東方を指向して米太平洋艦隊を圧殺しなければ、 真珠湾攻撃の意味は無に帰す」と詰め寄った。だが、福留第一部長はしゃべる だけ淵田にしゃべらせておいて、最後にぴしりと相手の口に蓋(ふた)をした。 「真珠湾における作戦はすでに終了したものである。従って、いまや東方には 何の脅威も存在しない。よって四隻の空母は南方攻略の主要作戦に参加しなけ ればならない」この言葉に淵田は愕然とした。
                           
機動部隊の搭載機定数
航空戦隊名 母艦艦上戦闘機 艦上爆撃機 艦上攻撃機 小計
第一航空戦隊 赤城一八+三 一八+三 二七+三 六三+九
第二航空戦隊 蒼龍一八+三 一八+三 一八+三 五四+九
飛龍 一八+三一八+三 一八+三 五四+九
第五航空戦隊 翔鶴 一八+三二七+三 二七+三 七二+九
瑞鶴 一八+三二七+三 二七+三 七二+九
合計 九〇+一五一〇八+一五 一一七+一五 三一五+四五
                           
空襲部隊の兵装基準
区分 弾種記事
第一兵装
艦攻 八〇番五号(信管丙)八〇〇`爆弾(爆発遅動秒時〇.〇二)
艦爆 九九式二五番(信管丙)二五〇`通常爆弾(爆発遅動秒時〇.〇二)
第二兵装
艦攻 八〇番通(信管丙)八〇〇`通常爆弾(爆発遅動秒時〇.〇二)
艦爆 九九式二五番通(信管丙)二五〇`通常爆弾(爆発遅動秒時〇.〇二)
第三兵装
艦攻 八〇番陸(信管丙)八〇〇`通常爆弾(爆発遅動秒時〇.〇二)
艦爆 二五番陸(信管乙)二五〇`陸用爆弾(爆発遅動秒時〇.〇一)



日本の破滅が始まった


 淵田はこの日の日記に「本日、昭和一六年一二月二七日をもって日本の破滅が 始まった」と書いている。いかに海軍指導部が太平洋戦争のあるべき姿を理解 していなかったかという、端的な例だと彼は指摘する。「我われの真珠湾攻撃 も、ただ日本の敗戦を六カ月引き延ばすだけのものになりかねない」この議論 は単なる思いつきではない。彼はすでに上司の草鹿龍之介少将(第一航空艦隊参 謀長)にも同様の具申(ぐしん)をしていた。六隻の空母龍驤(りゅじょ)、鳳 翔(ほうしょう)の第四航空戦隊を加えた無敵艦隊の創設と、さらなるハワイ作 戦を強く進言したものである。

 だが、お偉方(えらがた)がハワイ作戦を承認す るには、まず南方作戦を完結することが絶対の条件になっていた。まだまだ海軍 では官僚令ふうの経験主義が支配的だった。南雲長官や草鹿参謀長の真珠湾攻撃 の際の第二撃の拒否も、これらの風潮の一例にすぎない。淵田はこの後の短い休 暇の間も、山本五十六聯合艦隊司令長官が、きっとそんな愚挙(ぐきょう)を思 いとどまらせてくれると信じていた。しかしその山本が、すでに解体に同意した ことを知って、彼は呆然(ぼうせん)と我を失ったのである。淵田の山本に対する尊敬はこれで 終わったのであった。

 もちろん、航空戦力論者とて単なる戦争屋ではない。日本が比島、マレー、 仏印に版図(はんと)を拡大することに全く不同意だったわけではない。 日本はたしかにその地域の資源を必要としていたし、またそうするだけ の力があるなら、やって悪い理由はどこにもない。ただ彼らの視点から 言うなら、日本の戦略家がもっともむずかしい道を選んだ、ということ だった。戦略的にいえば、下策である。

 昭和一七年(一九四二)に入って すぐ、聯合艦隊の作戦構想から淵田たち飛行機乗りの念願する東進策が 外されたことがはっきりした。それでもまだ彼らは、聯合艦隊がこの誤 りから何かを学び、自ら軌道を修正するに違いないと思っていた。淵田 の哲学をいま少し続ける。「聯合艦隊は可及的すみやかに、かつ完全に アメリカ太平洋艦隊を抹殺(まっさつ)しオアフ島を占領する。

 それに より、アメリカは中部太平洋から撤退を余儀(よぎ)なくされるだろう 。必然的に中国の抗日勢力の生命線は無力となり、ついには日本に降服 せざるを得ないだろう。また、アメリカの補給や軍事援助を絶たれれば まず濠州が無力と化し、仏、蘭もヒトラーとの戦争に手いっぱいで、ア ジアに点在する領土を保有することは不可能である。

 英国もまた、ヨー ロッパに全力投入の時期であり、太平洋地域の広汎(こうはん)な植民 地を支えることは絶望的ですらある。つまり日本は、兵員や装備を慌て て西南アジアに送り込む必要は何もない。どだい南方資源などは、アメ リカ太平洋艦隊が消滅すればひとりでに落ちる熟柿(じゅくし)同然に、 わがほうの手中に落ちるに違いない」



インド洋作戦たけなわの頃の赤城艦上の淵田美津夫中佐機

インド洋作戦たけなわの頃の赤城艦上の淵田美津夫中佐機「九七艦攻」



「日本の敵は山本長官だ」


 だが大本営の陸海軍部は、全く逆の方向で次期の戦闘を企図していた。 これでは真珠湾の勝利や、英国の国家的象徴とも言うべき戦艦プリンス ・オブ・ウェールズとレパルスを沈めたことの意味を理解していないこ とになる。真珠湾で稼(かせ)いだ貴重な時間を、次期作戦の発起(ほ っき)まで無為(むい)に聯合艦隊を瀬戸内海にとどめた山本は、もは や飛行機乗りには信ずるに足りぬ存在になっていた。彼ら飛行機乗りに とって、瀬戸内海などただの遊園地にすぎない。

 いつとはなしに彼らは、 この巨大な浪費に「柱島艦隊(はしらじま)」の戯称(ぎしょう)を奉 呈(ほうてい)した。たしかにこのうえない時間の浪費である。そして そのことは、極限的な訓練を重ねてきた飛行機乗りたちを、次第に投げ やりな気分にしていった。「これでは真珠湾でやられたアメリカ艦隊と 同じじゃないか」それとも山本は、米艦隊が再興(さいこう)するまで 瀬戸内海にとどまり、待っているというのだろうか。

 このときの山本は、 英本土を前にしたヒトラーと同じ誤を犯したとしか彼らには思えなかっ たのである。次第に飛行機乗りたちは、いったい誰と日本は戦っているのか、と いうことを口にするようになったのだ。「日本の敵は?」「我らが長官の山本 だよ」あまつさえ山本が戦艦長門から大和に旗艦を移したことも、彼らの 反感を助長した。

 それは大和が全海軍の夢の軍艦だったからでもある。先 のプリンス・オブ・ウェールズをはるかにしの凌(しの)ぐこの巨大戦艦 は、日本の建艦技術や兵装の点でも望み得(う)る限りのものを揃えた傑 作だったが、この畏(おそ)れ多い巨艦は他の主要な艦艇とともに瀬戸内 海の柱島湾に重々しく錨(いかり)を下ろして、動く気配もなかった。言 ってみれば大和は、前線将兵が持っているフラストレーションのシンボル みたいなものだったのである。

 より詳細にその艦の内容を知っている者は、 "大和ホテル"と茶化して呼んだ。満州鉄道が沿線主要都市に配置して自営し た豪華ホテル「大和ホテル」の悪口である。各員の居住区はワックスでぴか ぴかに磨き上げられ、調度や設備も気おくれするほど荘重(そうちょう) なものだった。恐らく乗組員以外、これまでもこれからも、与えられること もない環境だろう。一方、軍事力の点で言えば、この巨艦は図上演習ではす さまじい威力を発揮するのだが、せっかくの戦力も、山本の旗艦として柱島 に浮かぶホテル以外のものではなかった。

 別の言いかたをすれば、聯合艦隊 スタッフのための超近代的なオフィスである。ともあれ山本が非現実的な艦 を瀬戸内海に浮かべ、スタッフを集つめて時間を潰(つぶ)している間に、 せっかく真珠湾でもぎ取ったアドバンテージもどこかへ消えていこうとして いたのであった。昭和一七年一月、南雲の痩(や)せ細った第一航空艦隊が広島湾から 出航を命じられたとき、淵田がこの大戦に抱いていた聖なる使命感は完全に 消滅していたのである。
                                               
コロンボ空襲攻撃隊の編成(総指揮官・淵田美津夫中佐)
// 区分指揮官 兵力 任務
コロンボ攻撃
第一群 第一攻撃隊淵田中佐直属 赤城艦攻一八機 陸上設備および、船舶爆撃
第二群 第三攻撃隊安部平次郎大尉 蒼龍艦攻一八機
第四攻撃隊 楠美 正少佐 飛龍艦攻一八機
第三群 第一五攻撃隊坂本 明大尉 瑞鶴艦爆隊一九機 在泊艦船および、陸上飛行場銃、爆
第一六攻撃隊 高橋赫一少佐翔鶴艦爆一九機
第九群 第一制空隊 板谷 茂少佐赤城零戦一九機 第一、第二集団直接掩護、敵機撃滅地上銃撃
第三制空隊 菅波政治大尉蒼龍零戦九機
第四制空隊 熊野澄夫大尉飛龍零戦九機
第一〇群 第六制空隊牧野正敏大尉 瑞鶴零戦九機 第一集団直接掩護、敵機撃滅
地上銃撃
艦船攻撃
/// 第一一攻撃隊安部善次大尉 赤城艦爆一七機 敵艦船撃滅
第一三群 江草隆繁少佐蒼龍艦爆一八機
第一四群 小林道雄大尉飛龍艦爆一八機
* 艦船は「零式艦上戦闘機」、艦攻は「九七式艦上攻撃機」、艦爆は「九九式艦上爆撃機」






新生一航艦の出撃


 新しい第一航空艦隊(以下「1AF」)の編成の中心は、赤城、加賀、翔鶴、 瑞鶴だった。「鶴」型二隻は、キングコングと呼ばれていた原忠一少将の 第五航空戦隊で、これはウェーク島に割かれた蒼龍、飛龍の交替艦である 。南雲艦隊(1AF)の任務は、日本が占領地域を拡大しつつある比島、蘭領 インド、ニューギニアその他、太平洋の敵基地を強襲することだった。一 月二二日、1AFは九〇機の戦爆連合編隊でラバウルを襲った。

 ラバウルは ニューブリテン島の北端に位置し、情報ではオーストラリア軍の前進航空 基地ということだったが、実状はむしろ名ばかりの軍事施設で、出撃した 搭乗員たちは、牛刀(ぎゅとう)を振り回して鶏の姿を求める気分になっ たという。指揮官の淵田は、敵というに価する相手の出現を願ったが、とうとう 地上の攻撃目標も敵機も、二つながら発見することはできなかった。彼は 、艦爆などが重い荷物を背負ったまま母艦に帰投するのが無理になったと き、爆弾をジャングルに投棄するように命じた。

 淵田は不機嫌(ふきげん )だった。投棄した爆弾や、無駄足(むだあし)に使った燃料は補給でき ても、空費された時間は永久に取り戻せない。淵田は赤城に着艦すると南 雲長官のもとへ直行して、「こんなつまらん作戦に、九〇機もの飛行機を 使うのは全くナンセンスです」という意味のことを直言した。馬鹿げたこ とだが航空参謀の源田までが、まるでキツネに鼻をつままれたような話だ 、という始末である。ともあれ、空母四隻を投入ていした作戦がこの体( てい)たらくだったことだけはたしかだった。

 敵は戦費、時間の出血と情 報の敗北を日本に与えたと宣伝するだろう。淵田の報告を受けて南雲は、 ただちにこの作戦の中止に同意した。南雲は翌日、山本長官あてにからラ バウルで空の紙袋を叩いたことを報告した。これに対する山本の返事はひ どく的(まと)はずれなものだった。艦隊を西方数百浬にあるパラオまで 退けよ、というのである。淵田はいよいよ不機嫌になった。

 作戦を誤った うえに、すごすご引き下がるのでは、恥の上塗りではないか。しかも指定 されたパラオからハワイまでは、三〇〇〇浬の距離でしかない。山本はな ぜ、「ハワイをもう一 度つけ」と言わないのか。真珠湾攻撃から六週間が経過していた。アメリカ 太平洋艦隊が蘇生(そせい)するのに、このうえない時間になることだろう 。これは山本が桂島で空費した時間でもある。



ポートダーウィンの飛行場めがけて爆弾がつるべ落としに落下する。

ポートダーウィンの飛行場めがけて爆弾がつるべ落としに落下する。



ダーウィンをめざして…


 1AFのラバウル攻略作戦の後、山口多聞少将の第二航空戦隊が蘭印のアンバン を強襲し、セレベス島のケンダリーを占領して飛行場を設置した。一方、1AF の次の大規模な作戦は、近藤信竹(こんどうのぶたけ)中将の第二艦隊と協 同して、北オーストラリアをめざすものだった。目標はダーウィンである。 聯合艦隊はダーウィン湾に、アメリカを主力とする連合国の艦船が集結して いるという情報を得ていた。さらに、同湾には支援部隊が続々と到着しつつ あるというのである。

 これを一挙に掃討してオーストラリアの戦意を喪失( そうしつ)させるというのが、山本の幕僚たちの策案だった。淵田はこの作 戦にもほとんど関心を示さなかった。まず第一に無意味であり、いずれにし ろ海軍にとって重要な作戦になるものではないと思っていた。 しかし山本と南雲にとって、陸軍の南西アジア進攻に協力することが信義上 の第一義だったのだ。この地域を押さえることが、戦略上、最善の占位を得 るという判断によるものだった。

 聯合艦隊のもたらしたダーウィンについて の情報は、まことに結構なものだった。空からの攻撃に対しては定石(じょ うせき)どおり防空網が敷かれており、たしかに多くの連合国艦船が普通で はない組み合わせていで碇泊(ていはく)していた。現地時間の二月一九日 現在、二隻の輸送船と貨物船、それに病院船などが港に入っていた。ほかに アメリカ駆逐艦が一隻と飛行艇、輸送船、そしていろいろな国籍の船が雑然 と錨を下ろしている。

 いうまでもなく淵田にとって、これらは1AFの敵と呼 べるほどのものではなかった。誇大な情報は誇大な戦果を招きやすい。淵田 に率いられた一八○機の攻撃隊は、幸運にも敵の妨害を受けることなくダー ウィン上空に侵入した。紺碧(こんぺき)の晴天は、素晴らしい眺望(ちょ うぼう)を眼下に用意していた。そして日本機は雑多な一二隻の艦船に、重 量級の爆撃を加えて壊滅させた。ダーウィンの市街地も同時に大きなダメー ジを被った。



日本海軍機に空襲を受ける(濠)ポートダーウィン西南のブルーム港

日本海軍機に空襲を受ける(濠)ポートダーウィン西南のブルーム港



「敵兵力ノ大半ヲ爆破セリ」


 この攻撃で彼らの誰も、五、六機以上の敵機を、見たものはいない。しかし、 連合軍の発表によると約一〇機の米軍機が迎撃し、地上の駐機と合わせて一 八機が撃墜破されたというのである。淵田はここでもキツネにつままれた気 分をなめた。見えない敵機を撃墜できるはずがない。この出撃から帰ったと き、南雲が第二次の攻撃を用意しているのに気づいた。淵田は驚き、そして 呆(あき)れた。南雲はきっと、真珠湾攻撃のときの教訓から反省したのだ ろうと、淵田は思った。

 しかしダーウィンは第二次攻撃など全く必要ないこ とだった。そこで淵田は報告にことよせて、現実的にダーウィンには敵はい なくて、再度攻撃する価値のないことを進言した。一つには、部下の隊員た ちに危険な幻想を抱かせることを恐れたのである。彼らはこれまで対戦した 敵をあざ笑い、敵の貧弱な攻撃を肴(さかな)に、軽口(かるぐち)を飛ば しあうようになっていた。自信と増慢(ぞうまん)は危険と背中合わせであ る。

 本物の敵は雲かなたの彼方で、機を窺(うかがう)っているのは明白だ った。翌二〇日、大本営は次 のように発表した。「帝国海軍航空部隊は二月十九日濠洲本土北岸敵最 大の海空軍基地ポート・ダーウィンに対し大挙大攻撃を敢行し所在敵航 空兵力 並(ならび)に在港敵艦艇船舶を覆滅(ふくめつ)更に港重要 施設の大半を爆破せり戦果左の如(ごと)し


一、撃墜破所在敵機全部(二十六噸(トン)

二、撃沈艦艇船舶六千噸(トン)級特設巡洋艦一、駆逐艦二、駆潜艇一、 油槽船九、駆逐艦一大破三、爆破又は炎上せる陸上施設東西両飛行場格 納庫全部(三棟)、兵舎(二棟)、海軍司令部、官庁街、桟橋(さんばし) 本攻撃に於て我方(わがほう)二機を失へり」(原註・同港在泊中の病 院船には攻撃を加えず)



連戦連勝の南雲長官



 少なくとも昭和一七年に入っても、南雲という提督はこのうえなく幸せ な軍人だった。連戦連勝の殊勲を支える両肩を柔道家のようそに構え、 (そ)り身になってデッキを歩いた。帽子のかぶり方も、いかにも自信 に満ちた角度で、モロに彼の心の内を表していた。山本の頭痛の種の、 マーフィの申し子だったころの彼はもういなかった。 ところで、南雲と淵田の関係は一種奇妙で風変わりなものだった。単に 上下関係で見れば、彼らは非常にうまくいっていたといえよう。

 事実、 南雲は淵田には息子のように接し、淵田もこの提督に深い親しみを抱い ていた。それが職務上のプロフェッショナルな分野になると、いやおう なく対立することが多くなる。淵田の見るところ、南雲は機動部隊の指 揮官としては全く場違いの人種だった。この提督が、旗艦の艦橋で幕僚 と双眼鏡ごしに見る戦争と、淵田たちが投入される戦場の実相は、その 認識において画然(がくぜん)と時代を隔(へだ)てていた。

 現在 の立体戦の時代では、つまるところ南雲は源田学級の新入生にすぎなか った。しかも日本海軍最強の艦隊の、運命を背負った生徒である。その 源田にしろ、実際に戦闘を指揮し、部下の死に立ち会い、敵を射止め、 ただ勝利を求める淵田とは、すでに立場を異にしていた。淵田はかつて 、御守殿女中(ごしゅでんじょちゅう)のような取り巻き連中から贈ら れた、実のない勝利など忘れるように直言したが、南雲はほとんど意に 介する様子もなかったという。

 ダーウィン奇襲作戦にともない、南雲は機動部隊をセレベス島ケンダリ ーのスターリング湾に戻した。これはジャワに展開する陸軍の動きと連 動したものだった。三月二日、淵田は一八〇機を率いてジャワ島のチラ チャップを強襲した。チラチャップは中部ジャワ南西岸に唯一の港で、 日本軍のジャワ作戦に際して連合軍最後の防衛基地となった港湾都市で ある。三万人前後の人口があった。当時のチラチャップは各方面で日本 軍に圧迫された連合軍のたまり場として、ダンケルク的な様畑を呈して いたと思える。

 この日の戦闘についてどの戦史にも特段の記述もなく、 淵田自身、「大き左ダメージを与えた」と述べているだけだが、余談に ついて少し触れるなら、淵田の乗った指揮官機が燃料タンクに被弾して ボルネオのジャングルに不時着し、搭乗員の一人を失ったが、五日間の 放浪のすえ奇跡的に生還している。



インド洋作戦の発動



 戦場のカレンダーはまだ日本軍が握っていた。繰り上げることも引き 延ばすことも、ともに日本の手の中にあった。ジャワ海域の行動の後、1AF 備せられ又一部ベンガル湾に行動算大(さんだい)なりと 判断す濠洲方面には英蘭濠米兵力の一部残存しあるものの如きも詳細不明なり」 は補給ともう一度第五航空戦隊と合流するために、スターリング湾に帰投し た。このとき、赤城の僚艦加賀が暗礁に触れて艦底と艦首を損傷し、その修 理に内地に回航している。

 次なる南雲の主要な任務は、残った五隻の空母 で、近く開始する陸軍のビルマ進攻を支援することだった。この任務は二 つの課題を持っていた。一つは英国のビルマに対する補給を遮断(しゃだ ん)することと、いま一つは英国の艦隊を捜しだしインド洋で殲 滅(せんめつ)することだった。このインド洋作戦は当初、機動部隊は三 月二一日にスターリング湾を発し、セイロン島の攻撃は四月一日と予定さ れていた。

 しかし、敵機動部隊の来襲に備えて内地に控置(こうち)され ていた第五航空戦隊の南雲機動部隊への復帰が、三月四日の敵機動部隊の 南鳥島空襲や、三月一〇日にもやはり敵の機動部隊がウェーク島北方に出 現したことなどから遅れ、三月二六日スターリング湾出撃、四月四日セイ ロン島攻撃、と変更された。第五航空戦隊は作戦発起(さくせんほっき) の二日前にスターリング湾に入港、ようやくセイロン島攻撃郡隊の編合を 完結した。

 南雲の率いる機動部隊は昭和一七年三月二六日、あたかも真珠 湾のペテラン・パイロットが再び集合する形で、セイロン島に向けて出航し た。健在の五隻の空母と、戦艦榛名(はるな)、金剛(こん ごう)、それに真珠湾にも参加した霧島(きりしま)、比叡(ひえい)、重 巡利根(とね)、筑摩、軽巡阿武隈(あぶくま)、そして九隻の駆逐艦が支 援部隊として参加していた。



インド洋へ出撃前の第二航空戦隊司令部の面々前列左から二人目、司令官山口多門少将

インド洋へ出撃前の第二航空戦隊司令部の面々前列左から二人目、司令官山口多門少将



英海軍、インド洋に健在


 一方、英国海軍はいまだにインド洋方面に強大な戦力を保持していた。連合 国側は、日本艦隊のセイロン島攻撃が四月一日ごろに行なわれる情報を得て いた。英艦隊はこれに基づいて行動を開始した。大本営海軍部の機密電報は 次のように伝えている(昭和一七年三月一六日)。


 

「一、航空兵力

(一)現在数(三月一〇日)セイロンを含む印度方面二三ビルマ 八〇(うち戦闘機二〇ないし三〇パーセント)

(二)増援兵力(四月初頭完了の見込み)北阿、中近東から増派中一五〇英本土よ り増派中一〇〇同準備中のもの八〇二、艦艇の動静(三月上旬現在)

(一)インド洋所在艦艇は、コロンボ、ボンベイ、モンバサ、ダーバン等を基地として行動 しつつある。主なものは、戦艦リヴェンジ、ロイヤ・サヴァリン、ラミリーズ (いずれも英艦)空母ハーミズ、インドミタブル(同)重巡コンウォール(英)、 ロンドン(英)、スーザン(英)、キャンベラ(濠)

(二)近く増派が予想される兵力戦艦二隻、空母二隻英戦艦キングジョージ五世 およびウォースパイトは二月下旬以後、インド洋および濠洲水域に回航した、 という情報がある(以下略)」次はこれにより、南雲が三月一九日に下令した作 戦命令の前段、「敵情分析」である。「諸情報を綜合(そうごう)するに印度 洋方面には戦艦三隻、空母二隻、甲巡四隻及乙巡約十一隻を基幹とする英艦行 動し又印度方面(セイロンを含む)には総計約五〇〇機の航空うち兵力存するも のの如し以上の中(うち)相当の兵力をセイロン島方面に配備せられ又一部 ベンガル湾に行動算大(さんだい)なりと 判断す濠洲方面には英蘭濠米兵力の一部残存しあるものの如きも詳細不明なり」








セイロン島攻略



 南雲の機動部隊にとって、これは久びさの本格作戦である。久しく 無聊(ぶりょう)をかこっていた体(てい)の彼らは、子供のように勇み立って いたという。敵が強大であればあるほど、日本軍の陣営には感傷的でヒロイ ックな空気が、どこの軍隊よりもよく似あった。その敵は海軍国の本流を自 任するあまり、真珠湾の米太平洋艦隊やマレー沖のプリンス・オブ・ウェー ルズが沈められても、いまだに航空決戦などというものは、日本海軍の戦略 思想に宿った熱病にすぎないと軽視しているふしがあった。

 一方、日本の海 軍にも、例によって奇襲で英艦隊を捕捉することを望みながら、海賊の子孫 の船乗りを軽視したためにその機会を捉えることができなかった、というい きさつがある。彼らはエリザベス一世の晩年に、彼女の側に仕えていた大 外交官、抜け目なく老獪(ろうかい)だった。頑固でガチ ガチの保守で、それでいて申し分のないユーモリストだった。

 だからこそ、 絶対君主である女王陛下が、果たしてどれだけ自分たちの苦労を理解してい るのだろうか、と思うことはあっても、英海軍はいまなお海の女王であり、 すべての海戦を支配し、王者の気概(きがい)概と貧婪(どんらん)な胃袋 を持ち、そしてそれが大英帝国の誇りと野望である、とする気骨(きこつ) に支えられていた。それらの伝統を侮(あなど)った日本海軍は、それまで 奇襲の機を失ってきたのだが、南雲という軍人はまだツキに見放されずにい た。

 四月四日一八五五、比叡は北方に敵飛行艇一機を発見、味方部隊への警 報をかねてただちに射撃を開始した。この時宜(じぎ)を得た措置により、 各母艦から待機中の零戦が一斉に発進(各艦三機、飛龍のみ六機、計一八機 し、同一九二〇、この敵機を不時着させたが、その間、同機が平文で次のよ うに打電しつつあるのを傍受した。「戦艦二隻、空母一隻針路三〇五度……」 敵機は同一九二二火災を起こして着水し、乗員は捕獲された。しかし、敵機 は機動部隊に二七分の接触時間を持っている。

 この間に、日本機動部隊の情 報を刻々と打電し、これをコロンボ、ボンベイ、アデンの無線局が中継放送 したことはこの後の傍受で確認された。一九四五、零戦は全機帰艦したが、 敵がすでに警報を受信した以上、相当の反撃が予期されたが、コロンボ攻撃 は決行されることになった。一方で、南雲は一機の偵察機のために、網を打 つ前に大魚に逃げられ、地上の飛行機を防御に飛び立たせた、とする史書も ある。コロンボ攻撃隊の編制はほとんど真珠湾のときと変わりなかった。



 


インド洋作戦・U⇒

 

(更新/2007/04/16)  雷鳴止み静まる部屋にて記す  Homepage Owner  kanno





主要参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ第2巻)
(大捷マレー沖海戦) ドキュメント・インド洋作戦・勇進インド洋作戦
・甲斐克彦・著
PHP・刊 山口多聞―空母「飛竜」に殉じた果断の提督  星 亮一 (著)


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