昭和一七年(一九四二)四月五日、その年のイースター・
サンデーの朝九時、日の出前の空に支援部隊から三機の水上偵察機が射ち出され
、彼らは機動部隊西方の索敵(さくてき)に向かった。ほぼ同時刻に、機動部隊
では第一次コロンボ攻撃隊と上空直衛機が発艦を始めていた。この種の書式に従
って、以後の時刻は四桁数字で表記する。そして〇九四五、攻撃隊の飛龍機一
機から「敵飛行機見ユ飛行艇一機出発点ヨリノ方位三四六度四三浬、針路一八〇
度〇九三八」の入電があった。
この飛行艇は熟練したパイロットと向こう見ずな
ナビゲーターのものだった。彼らは密雲を利して巧妙に機動部隊に接触を続けた
が、発見から一時間八分後の一〇四六、上空直衛の飛龍零戦隊によって除去され
た。撃墜である。攻撃隊(艦攻五四機、艦爆三八機は、三六機の零戦に護衛され
てコロンボ上空に進入、一〇四五、総指揮官淵田美津雄中佐は全軍の突撃を指令
した。空中の戦闘はすでに始まっていた。哨戒機の通報で待機していた敵戦闘機
群が、攻撃隊の編隊に空戦を挑んできた。
制空隊の先任指揮官板谷茂少佐は、海
兵五七期トップの秀才で、日本のファイターとしては変わり種だったが、淵田の
戦記によると、「板谷の零戦隊は向かってきた英軍機の全機を撃墜した」とある。
ともあれ、ほぼ三〇分の戦闘で、スピットファイア戦闘機一九機ハリケーン戦闘機
二一機日本艦隊攻撃用の魚雷を装備したソードフィッシュ艦上攻撃機一〇機デファ
イアント戦闘機一機を撃墜した。零戦の損害は自爆の一機だけだった。
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