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インド洋作戦・U

敵航空母艦ハーミズ撃沈!




英空母ハミーズ

日本軍爆撃隊の手でインド洋に没した英母艦ハーミズ。



英艦隊を捕捉撃滅するべく、機動部隊はインド南方海面へ追出した。





コロンボ上空に敵機なし


 昭和一七年(一九四二)四月五日、その年のイースター・ サンデーの朝九時、日の出前の空に支援部隊から三機の水上偵察機が射ち出され 、彼らは機動部隊西方の索敵(さくてき)に向かった。ほぼ同時刻に、機動部隊 では第一次コロンボ攻撃隊と上空直衛機が発艦を始めていた。この種の書式に従 って、以後の時刻は四桁数字で表記する。そして〇九四五、攻撃隊の飛龍機一 機から「敵飛行機見ユ飛行艇一機出発点ヨリノ方位三四六度四三浬、針路一八〇 度〇九三八」の入電があった。

 この飛行艇は熟練したパイロットと向こう見ずな ナビゲーターのものだった。彼らは密雲を利して巧妙に機動部隊に接触を続けた が、発見から一時間八分後の一〇四六、上空直衛の飛龍零戦隊によって除去され た。撃墜である。攻撃隊(艦攻五四機、艦爆三八機は、三六機の零戦に護衛され てコロンボ上空に進入、一〇四五、総指揮官淵田美津雄中佐は全軍の突撃を指令 した。空中の戦闘はすでに始まっていた。哨戒機の通報で待機していた敵戦闘機 群が、攻撃隊の編隊に空戦を挑んできた。

 制空隊の先任指揮官板谷茂少佐は、海 兵五七期トップの秀才で、日本のファイターとしては変わり種だったが、淵田の 戦記によると、「板谷の零戦隊は向かってきた英軍機の全機を撃墜した」とある。 ともあれ、ほぼ三〇分の戦闘で、スピットファイア戦闘機一九機ハリケーン戦闘機 二一機日本艦隊攻撃用の魚雷を装備したソードフィッシュ艦上攻撃機一〇機デファ イアント戦闘機一機を撃墜した。零戦の損害は自爆の一機だけだった。
                                                                               
トリンコマリー攻撃隊の編制(総指揮官・淵田美津雄中佐)
区分指揮官 兵力 任務(攻撃目標)
第一集団 第1群第1攻撃隊 淵田中佐直率赤城艦攻18機 海軍工廠付近
第2群 第3攻撃隊 楠美正少佐 飛龍艦攻18機 長官官舎、南方兵舎、高角砲台
第4攻撃隊 阿部平次郎大尉 蒼龍艦攻18機 海軍工廠付近
第3群 第5攻撃隊市原辰雄大尉 翔鶴艦攻19機陸上飛行場および水上基地付近
第6攻撃隊 嶋崎重和少佐 瑞鶴艦攻18機フラッグスタッフ岬砲台、兵舎など
第三集団 第1制空隊 板谷茂少佐赤城零戦6機 第1集団直接掩護
第3制空隊 藤田怡与蔵中尉蒼龍零戦6機 制空、水上飛行場攻撃
第5制空隊 重松康弘中尉飛龍零戦6機
第4制空隊 兼子正大尉翔鶴零戦6機 制空、陸上飛行場攻撃
第6制空隊 牧野正敏大尉瑞鶴零戦6機
第二集団 第11攻撃隊 阿部善次大尉赤城艦爆17機 トリンコマリー攻撃の場合
1、水上艦艇
2・陸上目標またはオイルタンク群
第13攻撃隊 江草隆繁少佐蒼龍艦爆18機
第14攻撃隊 小林道雄大尉飛龍艦爆18機
第15攻撃隊 坂本明大尉瑞鶴艦爆14機
第16攻撃隊 重松康弘中尉飛龍零戦6機
第16攻撃隊 高橋赫一少佐翔鶴艦爆18機
第3制空隊 杉山一飛曹蒼龍零戦3機//////
第4制空隊 松山次男飛曹長飛龍零戦3機
*第2集団は艦船攻撃隊






































主たる戦果のない勝利


 発艦時には「晴れ」とされていた天候も、コロンボの上空はきわめてよくなかった。 艦爆隊はこの空戦の間に、爆弾に入った。淵田の部下たちはなにがしかの英国艦船を 期待していた・が、主目標である英艦隊の姿はなく、港内は民間船でごった返してい るだけで、わずかにできの悪い仮装巡洋艦と旧式の駆逐艦を攻撃してうさを晴らす以 外になかった。これも空中の待ち伏せも、日本軍が撃ち落とした哨戒機の通報なかに よるものだろう。半ばそれを承知で決行した襲撃である。爆撃隊は目標を飛行場油槽 船、商船等に拡(ひろ)げていった。

 悪天候の下では、それだけでも困難なことだっ たが、爆撃を終了した直後、爆撃機にとって天敵である敵戦闘機十数機の急襲を受け た。戦闘機の敏捷性(びんしょうせい)からすれば、爆撃機はただ浮いているだけの 目標にすぎない。ようやく自前の射撃戦で、六機のハリケーンを落としたが、淵田の 攻撃隊にも瑞鶴艦爆五、翔鶴艦爆一機の自爆を生じた。淵田のいう「主たる戦果のな い勝利」を数字にすると次のように なる。

 正式に報告されたのは、大型商船四隻炎上、油槽船一隻爆破、小型貨物船一隻炎上、 格納庫一棟炎上、二棟爆破、修理工場一棟爆破、とされていた。爆撃機隊が去った戦場に 艦攻隊が現れ、一〇:五六から一一:一三の間に、港湾内船舶、桟橋、海軍官衙(かんが)、 兵舎を襲撃、大型商船数隻と小型商船一隻を撃沈破、桟橋、鉄道の爆破を報じた。一一:二 八、総指揮官機は旗艦・赤城に、「第二次攻撃ヲ準備サレタシ、港内ニ油槽船二〇隻アリ 、地上砲火アリ、敵機数機高度一〇〇〇密雲アリ一一:一八」と報告すると同時に、港外に 退避した英艦隊の捜索を急ぐことを提言した。

 南雲は即座に同意し、ただちに利根の水上 偵察機が射出された。南雲は忙しい。第二次攻撃隊準備の要請を受けて、雷装して待機し ていた艦攻隊は急遽、爆装に転換する必要が生じた。南雲の次の用件は、帰途についた攻 撃隊のために、帰投線を設けることだった。第五航空戦隊司令官宮原陽一(みやはらよう いち)少将は南雲の命を受けて、艦攻六機を派遣して部隊の北方五〇浬に間隔一〇キロで 、東西に帰投線を構成するよう措置した。



「敵巡洋艦ラシキモノ見ユ」


 先に利根を発した偵察機は一三:〇〇、北緯三度一分、東経七七 度五八分に英巡洋艦らしきものを発見した。「敵巡洋艦ラシキモノニ隻見ユ出発点ヨリノ方 位二六八度一五〇ノット浬針路一六〇度速力二〇節(ノット)」依然として南雲は多忙だっ た。利根、筑摩の水偵と零戦各一機を接触のために発艦させ、第二次攻撃隊の爆装を雷装に 転換しなければならない。二三:二三に攻撃を予令、一三:三〇発進可能な時機を知らせる よう、麾下の戦隊に求めた。これに対する宮原少将の返答は「出発準備完成ハ一六〇〇ノ予 定」というものだった。南雲はそれまで待てない。

 体の中で何かが爆発しそうになっている。 自分の名にかけても、勝利の上に添える花が必要だったのである。それに応えるように、二三:五〇 阿武 隈の偵察機から緊急電が入った。「駆逐艦二隻基地ヨリノ方位二五〇度二〇〇浬」「兵装転換 で駒落(こまお)としのように動き回る兵員で、赤城の甲板はまさに戦場だった。極限を超え た速さで時間が飛んでいく。淵田の直率(ちょくそつ)する一八機も転換作業のさなかにあっ た。彼は南雲のいら立ちを理解しながらも、この作戦自体に冷淡だった。ついに艦橋は見切り 発車を決意した。「一五:〇〇発進敵巡洋艦ヲ攻撃セヨ進撃針路二三五度敵針二〇〇度速力二四 節右ニ間ニ合ハザルモノハ後ヨリ行ケ」大兵を擁(よう)しながら、なおかつ桶狭間(おけは ざま)の心境である。南雲の気持ちは信長(のぶなが)の心境になっていたのである。

 同時刻、阿武隈機の続報があっ た。「ソノ他敵ヲ見ズ」艦橋に混乱が生じた。先に利根機が発見した巡洋艦は駆逐艦の誤りで はないか、という迷いである。阿武隈艦長は念のため、さらに付近の捜索を命じた。だが、南 雲はその報告を待つ間も惜しく、阿武隈機の前電によって一四:二七「先ノ巡洋艦ハ駆逐艦ノ誤 リ第三編制艦爆隊ノミ発進セヨ」と変更した。二〇分後に南雲のはたもと旗本(はたもと)の 赤城艦爆一七機が飛び立った(一四:四九)。一四:五九飛龍艦爆一八機一五:〇三蒼龍艦爆一八機が、 次々に発進した。



飛龍艦爆隊

ドーセットシャー(手前)の左舷 に至近弾が水柱を上げ英重巡2 隻が必死の回避運動をとっている。


英重巡二隻を「轟沈」


 この飛龍機が飛び立つ直前に、利根の水偵から報告が入った。「敵巡洋艦二隻見ユ出発点ヨリノ 方位二三五度一五八浬針路二〇〇度速力二六節一四:四五」これはほぼ利根機の第一報と一致する 。利根艦長は慎重になっていた。「敵ノ艦種確メ駆逐艦ニ非(あら) ズヤ」と念を押した。すぐに返電があった。「敵巡洋艦ハケント型ナリ敵巡洋艦附近 ニ敵ヲ認メズ視界二〇浬一五四五」次の電文には南雲司令部の周章(しゅうしょう) ぶりがうかがえる。

 とにかく暮改(ぼかい)に暮改を重ねて、ようやく朝令の一部 が回復したのであった。「敵巡洋艦ハケント型ナリ第五航空戦隊ハ艦攻及艦爆約半数ヲ以テ之 ヲ攻撃セヨ一六一〇」同時に、南雲は利根機に攻撃隊を誘導するよう命じた。宮原 少将はこれに応えて一六:二五、次の命令を下した。「攻撃隊ハ一七:〇〇発艦攻撃目 標ケント型巡洋艦進撃針路二〇〇度進出距離一五〇浬」だが、彼の攻撃隊が発艦する 前にすべては終わっていた。先発した蒼龍艦爆隊指揮官江草隆繁少佐機から一五:五四 「敵見ユ」の第一報が入り、続いて一六:二九に「突撃セヨ」の号令が傍受された。ド ラマは短く、そして鮮烈に終わったのであった。

 太陽を背に、巧(たく)みに接近した江草の爆 撃隊は一六:三八から一六:五五の約二〇分間に、二隻の英重巡にほとんど全弾に近い驚 異的な命中弾を送り込んだ。一六:五八、目標は海底に消えた。江草は真珠湾で淵田の チームリーダーの一人である。英国の首相チャーチルはこの魔術のような恐怖を、こ う語る。「日本の海軍航空機の成功と威力は、真に恐るべきものだった。シャム湾で はわが第一級戦艦二隻が魚雷を積載した飛行機によって、数分間で沈められた。そし て、いままた二隻の貴重な巡洋艦が、急降下爆撃という全く異なる手法で沈められた 。ドイツとイタリアの空軍と戦った地中海では全期間を通じて、かかることはただの 一度も起こっていない」述べて落胆したという。
               
二五〇`爆弾の威力
目  標 直撃弾効  果 記  事
ドセットシャー 31発13分で沈没 攻撃機数53
(25番通×37発、同陸×16発)
コンウォールール15発 18分で沈没
ハーミズ 37発 数分で沈没
駆逐艦 13発 沈没 攻撃機数85
(25番通×79発)
(25番陸×6発)
哨戒艇(300トン級) 1発 沈没
大型商船(7.000トン級) 6発 沈没
大型商船(2.000トン級) 5発 沈没
小型商船(1.500トン級) 5発 沈没

二十五番通は「二五〇`通常爆弾」、二十五番陸は「二五〇`陸用爆弾」を示す。


艦隊派の司令官たち


 結局、宮原戦隊の攻撃隊は目標の消滅によって前令を解除され、さらに第一待機中に利 根機の「敵影ナシ」の報で任務を解かれ、一七:四五、江草隊の全機帰艦をもって同日の 攻撃を終えた。南海洋の夜は遅い。一九:〇九、友軍艦艇から敵機発見信号があったが、 上空直衛機はこれを発見できず、一九:二九、飛龍の零戦六機が発艦してソードフィッシ ュ二機を捕捉、一機を撃墜したが、一機は太陽光線の中に遁走(とんそう)した。こう してこの日最後の戦闘は止んだ。

 チャーチルのいうとおり、水上艦隊という戦力が、空 からの攻撃に対して全く生存するチャンスを持っていないということであり、てのひら それは攻撃者にとっては掌を返すように、きわめて簡単なことだった。この後、ちょっ とした寸劇があった。淵田が総合した戦果を報告したとき、南雲は相好(そうごう)を 崩してよろこんだが、他の艦隊派閥の司令官たちは、この完敗のスコアーに憮然(ぶぜ ん)たる面持(おもも)ちで、天井をにらんでいた。彼らは南雲の飛行機乗りたちが、 自分たちの信奉(しんぽう)する「大艦巨砲」を簡単に葬る大きな戦力を持つことを好 んではいなかったのだ。

 このとき、第一航空艦隊は二隻の重巡洋艦を瞬時のうちに沈めた。 これは真珠湾のときと違って、瞬時に沈めたということに意味があった。後に海軍はこ れを「轟沈(ごうちん)」というようになる。いずれにしろ、これまで大艦の絶対優位 を擁護(ようご)してきた者にとって、それが全くの空論(くうろん)であることを鼻 先に突きつけられたようなものだった。船乗りには悲しいことだが、海における力関係 は全く変わった と言わざるを得なかったのだ。

 新しい時代の扉が開いたのだ、と淵田は思った。彼と思想を異 にする、このインド洋作戦を終えたとき、真珠湾は彼にとって悲しい思い出になるこ とだろう。すでにこの日のコロンボ攻撃で、真珠湾以来の戦友藤田大尉、氏木飛曹長以下一〇名のかけがえのないベテランの飛行機乗りを失っていたのである。



飛龍艦爆隊

インド洋機動作戦の立役者は、この九九式艦上爆撃機であった。高橋、江草両少佐が率いる艦爆隊は、八八% と言う驚異的な命中率を示した。


命中率八八パーセント


 江草艦爆隊の投弾数五二、命中弾四六、命中率八八パーセント強は航空戦史上空前の記 録だった。攻撃を終了した後大機動部隊の指揮官はやはり用心深かった。彼は夕刻、敵 複葉艦上機らしき二機の触接(しょくせつ)を受け、付近に敵空母の存在を懸念して、 いったん艦隊を南東方に退避させた。南雲は石橋を叩く。四月五日の英重巡の動きから 、同方面海域に敵空母のある公算が大として、南雲艦隊は特に厳重な警戒下に、セイロ ン島の四五〇浬圏の外を迂回してトリンコマリーに針路を取った。死してなお南雲を悩 ませたくだんの英重巡は、後に英側発表でドーセットシャーとコンウォールと確認され た。白日の下では幻影もしぼんでいった。

 わずかに六日、飛龍の索敵機が赤城の三五〇度 七〇浬に敵飛行艇を発見しただけで、翌七日も敵を認めることはなかった。しかし、戦機 は分秒を刻(きざ)んで南雲の機動部隊を手繰(たぐり)りよせている。八日一八:二〇阿 武隈は二六〇度方向一九浬に敵の触接飛行艇を発見し、射撃を加えたが、一八:三五目標は 視界の外に去り、攻撃に飛び立った戦闘機も、おりからのスコールにはばまれて これの逸走(いっそう)を許した。

 反応は食虫母のようにあらわれたのだった。二〇:〇〇高雄(た かお)通信隊からの通信情報に、艦隊司令部に緊張の沈黙が生じた。敵の通信が「戦艦三 隻航空母艦一隻発見九〇度二六〇浬針路三五〇度一九〇〇」と報じていることを知らされ たのだ。もはや機動部隊の動きは敵に察知されたことを計算のうえで、予定されたトリン コマリーの攻撃に向けて走航を続けた。



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空母飛龍攻撃隊行動図

「図は昭和一七年四月五日、空母飛龍の第一四攻撃隊(指揮官小林道雄大尉)が英重巡二隻を攻撃したときの行動を示している。一五:〇〇、敵は北緯三度一分、東経七七度五分の地点を西南西(針路二四〇度)に向けて速力二四ノットで航行中 であった。ほぼ同時刻の飛龍の艦位は北緯三度四六分、東経七九度一七分、双方の呈灘は約一〇〇浬である。攻撃隊は針路 二三七度で接敵し、一六:三八から一六:四三にかけて爆撃した後、五〇浬まで逝近接しつつある飛龍へ帰投した。」



帰らざる勇士二〇名


 トリンコマリー攻撃隊の構成は、五日のときとほとんど変更はなかったが、チームリーダー に若干の変化があった。特に、新たに参加した瑞鶴の嶋崎重和少佐は真珠湾のあと淵田とと もに、天皇に拝謁を許された戦闘向きの指揮官だった。四月九日〇六四五、利根から零式水 上偵察機一機が、トリンコマリーの天候偵察に発進した。あるいはこの偵察機からの通報だ ったのか、淵田に率いられた第一次攻撃隊は、〇九:〇〇の発進前の〇七:二五にはすでにほと んどの敵艦艇が港外に退避していたことを知っていた。

 ともあれ、このときも彼は艦攻九一 機零戦四一機の先頭に立っていた。淵田の目にする現実と、司令部の把握する戦勢とは、必 ずしも重ならない。「このとき一一機のホーカー・ハリケーンが勇敢にも空戦を挑(いど) んできたが、九機はすぐに撃墜された」と淵田はいう。ここでもコロンボと同じ要領で攻撃 は進行し、急降下爆撃隊が地上に整列した機体に攻撃を集中している間に、水平爆撃隊が地 上施設の上空に影法師のように貼りついた。それらの建造物は一度地上でサージャント・ジ ャンプをしてから、次々と四散して空中に飛び散った。攻撃が終わったとき、淵田の視界で は、なぜか一隻の商船が泡を吹いて沈んでいく所だった。

 淵田は残りの仕上げを江草の蒼龍隊に任せて帰ることにし、その決定を赤城に知らせるととも に、自分の部隊をまとめて母艦に向かった。だがすべての友軍機が、彼とともに帰艦したわけ ではなく、約二〇機が消えていた。飛龍のチームリーダー熊野澄夫(くまのすみお)大尉もその 中にいた。

 だが彼にとって最大の痛恨事(つうこんじ)は、階級の上下にかかわり なく、一七年一月二〇日のラバウル攻撃からダーウィン、コロンボ、そしてこの日 のトリンコマリーで、真珠湾の勇士二〇名がそれぞれの運命を迎えたことだった。 いずれもマエステロ的な技量を持った得がたい戦力であり、指揮官だった。この戦 争の本義を外れた副次的な作戦に支払うには、あまりに高価な代償であった。



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英空母ハーミズ攻撃図

「昭和一七年四月九日午後改空母飛龍の第十四攻撃隊がセイロン島東方洋上で英空母ハーミズを攻撃した際の行動図である。セイロン島東岸に沿って速力二〇ノットで北上するハーミズ型空母に対し、飛龍の攻撃隊は北東約 一四五浬から発艦各空母から発進した艦船攻撃隊の九九式艦爆は計八五磯で、 零戦6機が同行した。これらの攻撃隊は一三:三〇ハーミズ型空母を発見し、一三:五〇から急降下爆撃を加えて約五分間で撃沈した。図中、一四:二〇から一四:四七にかけて航跡が交叉しているのは帰投中に遭遇したブレニム爆撃機との 交戦を示す。このとき、日本側はブレニム四機のうち二機を撃墜した。」



「敵空母ハーミズ見ユ」


 赤城への帰途、淵田機の電信員は友軍偵察機の無電を傍受した。三隻の駆逐艦を従え て、南に走航中の空母を発見したというのである。榛名の三号機だった。「敵空母ハ ーミズ駆逐艦二隻見ユ我出発点ヨリノ方位二五〇度一五五浬一〇:五五」この報に、機 動部隊司令部は一一:〇〇「艦爆隊及所定艦戦出発準備ヲナセ空母攻撃」と下令した。 ようやく会敵(かいてき)の機会を得た司令部の興奮と、初めて空母同士の戦闘に臨 む指揮官の不安を、短い電文は言外(げんがい)に語っていた。

 しかし淵田の攻撃隊 には、新たに空母を攻撃するだけの燃料も爆弾も残っていなかった。とにかく彼らは 赤城へ急いだ。この攻撃隊が着艦するまでに、司令部は駆逐艦の一隻がヴァンパイア であることを確認していた。この新しい目標は日本軍にとって、トリンコマリー軍港 よりも重要な目標である。一一:二〇、榛名二号機は引き続き「敵巡洋艦一駆逐艦二」 の発見を報じた。いつものことだが、赤城の飛行甲板では整備員たちの戦争が始まっ ていた。給油と兵装の転換が、労力と気力を傾注して行なわれた。

 この作業中に、九 機の英爆撃機プレニムが上空に飛来して赤城と利根の付近に爆弾を落としたが、両艦 に被害はなく、侵入者は直掩(ちょくえん)の零戦と対空砲火で五機を落とされ、残 りも大小の傷を負って退散した。問題は、この敵爆撃機が最初の爆弾を投下するまで 上空の直衛戦闘機のいずれも、また艦隊の見張りも、爆撃による水柱が上がるまでそ の侵入者に気づかず、赤城では一発も発砲できないありさまだったことだ。それでな くても空母の装甲は他に比べて薄い。この敵機による不意討ちは、機動部隊にとって 大きな課題を残したのである。



インド洋に凱歌が上がる


 一一:四三、第二集団艦船攻撃隊の艦爆八五機、零戦六機がきびすを接して飛び出していっ た。淵田にもあまり時間がなかった。彼は自分の攻撃隊を発進させる一方で、先発した 高橋赫一少佐の部隊を支援するために、板谷の戦闘機隊を指揮していた。敵空母の搭載 戦闘機との空戦に備えてである。だが、高橋は淵田の援助を全く必要としなかった。彼 の攻撃隊はほとんど敵戦闘の口をける ことなく、ハーミズを爆撃することに成功した。つまり淵田が戦場に到着した ときには、ハーミズはすでに沈みかけていた。

 二三:三五から二三:五〇の間のこ とである。二三:五五、空母ハーミズは沈んだ。引き続き攻撃隊は付近の掃討に 移り、駆逐艦、哨戒艇各一、商船二隻の成果を加えたが、このとき淵田は、赤 城艦爆隊のリーダーの一人である山田昌平大尉が、盛んに手ぶりで何かを話し かけているのに気づいた。淵田が機をそばに寄せると、山田は機の前方を指さ し、さらにその指を下方に向けて笑っていた。

 彼の指さすほうを見やると、眼 下では英駆逐艦ヴァンパイアが断末魔(だんまつま)のあがきのようによろめ いていた。帰投中の一四:三五、敵ブレニム四機と遭遇し、一四:四七までに二機を 落とした。これは赤城、利根を空襲した九機の残党で、さらに一五:一五から一五 :四〇にわたり敵戦闘機九機と交戦し、七機を撃墜したあと、帰艦した。



沈みゆく時代と神話…


 戦勝気分に沸(わ)く赤城の艦内で蒸溜酒(ウイスキー)のコップを手にして、突然ノスタルデ ィックで感傷的な感情が淵田の胸を浸(ひた)した。彼は自分が手塩にかけたマ ッチョたちが、いとも簡早に英空母と駆逐艦を沈める光景を見て、心にこもごも 去来するものがあった。まず、こんな末節の目的のために、自分たちの力を使い すぎているのではないか、という思いである。そもそも第一航空艦隊なるものの 生(お)い立ちは、太平洋を戦場とすべく誕生したはずである。ならば当然、我 われの第一の敵と戦うべきだろう。

 戦場での彼は、自分の電信員が正式な報告を受けている間、部下たちの仕事ぶり を眺(なが)めていたという。大日本帝国海軍とは何と強大なのであろう。彼は霰 (あられ)のように落ちる爆弾に包まれて沈んでいくハーミズを見ていた。いま や空を制するときがきたのだ。そしてそれは世界をも制するに違いない。これまで 海の王者であった艦船には、もはや空軍に対抗しうる力はない。

 それらが絶望的な 抵抗のあと無力に沈んでいくというのは、実に悲しいことだ。これは英海軍と大英 帝国の最期だ、と彼は思っていた。目の前で、いま一つの時代が終わろうとしてい ることを、彼はしみじみと感じていたのだ。時代とともに、海洋王国の神話も海に沈んだのである。日本で 最初の戦艦は英国で建造された。更には大いに海軍技術も学んだ、そして最初の指導者は英国からきた人たちだった 。

 海軍兵学校の生徒館の赤煉瓦(あかれんが)などは、英国の窯(かま)で焼かれたものだった 。たしかに、英国人はアジアでは人気がない。だからといって、彼らが熟練した海 の男たちであり、勇敢な戦士であることを否定することにはならない。淵田美津雄にとっ て眼下のインド洋は、永年の支配者を失った悲しみに沈んでいるように見えた。 三〇〇年余りインドで栄華を極めた大英帝国のアジアでの崩壊の始まりだったのである。

 そして戦後インドは大英帝国の長年に及ぶ支配から独立して行くこととなった。 日本軍に是非はあろうが、アジア独立に貢献したことは事実であると私は思う。 そしてこの勝利に酔いしれていた日本海軍も、南雲中将も淵田美津雄中佐もこの後、二ヵ月後(一七年六月五日〜七日) にミッドウェー海戦で赤城を始めの機動部隊の空母四隻を失うなどは努々(ゆめゆめ)思ってはいなかったのではないでしょうか。   






インド洋作戦・V⇒

 



(更新/2007/04/16)  暖かい春の宵遠くに雷鳴聞きながら記す  Homepage Owner  kanno





主要参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ第2巻)
大捷マレー沖海戦) ドキュメント
インド洋作戦・勇進インド洋作戦・甲斐克彦・著


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