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gunkanki


インド洋作戦・V

機動部隊、セイロン島を攻撃





セイロン島を攻撃する空母赤城戦爆連合発進



空母赤城の甲板上に戦爆連合編隊 の爆音が轟きわたる。手前は制空 任務の零戦で、艦爆隊がこれに続 く。南雲部隊の向かうところ、敵 はことごとくなりをひそめた。




南雲部隊は、セイロン島を急襲、インド洋方面の英兵力を一掃した。





無駄な浪費とき


 内気で赤面症(せきめんしょう)の少年だったころから海を愛した彼が、いま 海軍の指揮官として、眼下にする光景はなんとも皮肉なものだった。常に彼ら が学んできた英国海軍の、最後の一章を書き加えることになるなど、淵田には 思ってもみないことだった。そしてインド洋作戦は終わった。

 海軍南方部隊指 揮官の第二艦隊司令長官近藤信竹(こんどうのぶたけ)中将と機動部隊指揮官 南雲長官は、舳艫千里(じくろせんり)、艦隊の舳先(へさき)を日本に向け た。それは無論、補修と補給のためだったが、淵田は、南雲部隊が時間を無駄 にしていた海域から立ち去ることを無条件で歓迎した。四月一〇日、南雲はト リンコマリー攻撃の戦果と損害を次のように報告した。



神技の技量に反省なし


 

 

 (機動部隊戦闘概報第九号)「一、八日一八○〇ツリンコマリノ一〇五度四五〇浬ニ 於(おい)テ触接セル敵飛行艇ヲ発見追撃セシモスコーノ為之ヲ逸(いっ)セリ二 、九日一〇三〇艦攻全力艦戦三七機ツリンコマリ攻撃レアンダー型軽巡一隻大破(多 分沈没)、商船大二小一撃沈海軍工廠及同桟橋附近施設、高角砲台、長官官舎、兵 舎三棟、油槽群一爆破炎上概(おおむ)ネ壊滅(かいめつ)陸上飛行場大型格納庫 二棟爆破炎上、火薬庫大爆発ヲ誘起シ飛行場施設潰滅ス空戦ニ依リハリケン三八、 プレネムニ、スーパーマリンウオラス一撃墜(内三機最後不確認)地上機中型一、小 型三銃撃炎上被害飛龍艦攻自爆一、機上戦死二、重傷一、艦戦自爆瑞鶴二、翔鶴一 三、錫蘭(セイロン)島東方海面捜索中ノ水偵ハ九日一〇五五ツリンコマリノ一四 七度七〇浬ヲ南下中ノ敵航空母艦ハーメス及駆逐艦ヲ発見触接艦爆全力、艦戦九ハ 一四〇〇之ヲ攻撃二隻共撃沈 余剰兵カヲ以(もつ)テ附近行動中ノ大型商船三ヲ 撃沈ス水偵ハ別ニ小型商船一隻撃破帰投中艦爆隊ハスピットファイヤー九機ト交戦 其ノ七機(内二機不確認)ヲ撃墜セリ被害蒼龍艦爆四機スピットファイヤートノ空戦 ニ依リ自爆四、九日一〇一六触接中ノ敵飛行艇一機撃墜二三五〇敵プレネム型九機 来襲空戦ニ依リ其ノ七機ヲ撃墜(五機ハ上空直衛機二機ハ帰投中ノハーメス攻撃隊 ニ依ル)赤城、利根爆撃ヲ受ケシモ被害ナシ五、所見敵ハ錫蘭島防禦(ぼうぎょ)ノ 為相当ノ兵力ヲ集中シツツアリ対策デ講ズル要アリト認ム」

 





 以下二様の図表が示され ており、いずれも爆撃の命中精度を表すもので、ハーミズには八二パーセント、駆逐 艦で八一パーセント、大型商船九二パーセントという神技(かみわざ)に近い命中弾 を得ている。平時の訓練でさえ、水平爆撃でプロ野球の四番打者、急降下爆撃では五 〇パーセントのアベレージを上げれば優秀とされていた時代である。ともあれインド 洋作戦は南雲の機動部隊に、いくつかの教訓を残した。その最大の課題は、爆装と雷 装の転換作業時の、危険で無防備な時間の発生と、もう一つは敵の奇襲攻撃を許した 監視態勢の問題である。もしあのときの英爆撃隊に日本軍の練度があれば、ミッドウ ェーはこのとき起こったことだろう。所詮(しょせん)、自軍の長所のみを論(あげ) つらう戦訓ほど馬鹿げたものはない。
           
空母ハーミズ攻撃の命中率
攻撃機数 投下数命中数 命中率
赤城二機 二発二発 一〇〇%
飛龍一一機一一発 九発 八三%
瑞鶴一四機 一四発 一三発 九三%
翔鶴一八機 一八発 一三発 七二%
合計四五機 四五発 三七発 八二%

           
その他の目標に対する命中率
攻撃機数 目標攻撃機数 投下数 命中率 平均
駆逐艦 赤城一二機一二発 一二発 一〇〇% 八一%
飛龍四機四発 一発 二五%
哨戒艇 蒼龍六機 六発 一発 一七% 一七%
大型商船 赤城三機 三発 三発 一〇〇% 九二%
蒼龍六機 六発 五発 八三%
飛龍三機 三発 三発 一〇〇%
小型商船 蒼龍六機 六発 五発 八三% 八三%




「崩壊の連鎖」が始まる


 第一航空艦隊のインド洋での作戦は終わったが、太平洋戦争はまだ始まったばかりだっ た。本籍軍港に向かう旗艦・赤城の甲板では、若い搭乗員たちが歌を歌いな がら散歩していた。「飛行機乗りには娘はやれぬ、今日の花嫁明日は後家、だんち ょね」そんな文句に聞こえる。これまで淵田が聞いたことのないものだった。新し く配属された搭乗員が持ち込んだのだろう。

 たしかに、第一航空艦隊がインド洋で 不本意な任務に就いている間に、取り返しのつかぬ貴重な時間と、早急に補充の望 めぬ熟練した搭乗員を失っていた。つい数か月まで名人芸的練度を誇ったパイロッ トは、櫛の歯を欠くように姿を消し、次第に見なれぬ若い搭乗員の姿を見かけるよ うになっていた。東方進攻に取りつかれた淵田に言わせれば、それらはすべて第一 航空艦隊が南方作戦の支援に駆り出された結果だということになる。それも航空戦 力を、単に便利、重宝(ちょうほう)なものとしか認識できぬ提督の下にである。

 海軍の上層部を占める艦隊族は、飛行兵科を所詮は主流とみなしてはおらず、この 差別感は揺るがない。どんなに航空隊が戦果を上げようとも、それはそれだけにす ぎない。さんごかいこの欠落思想が珊瑚海海戦の安直な作戦になり、瑞鶴翔鶴の二 空母が貧乏(びんぽう)くじを引くことになる。この二艦はこのときの損傷で、結局 ミッドウェー作戦に参加できなかった。これらのことは、たとえ南雲がインド洋で 勝利したことに疑問の余地がないとしても、後に続いて起こる崩壊の連鎖に、深く 関わっていることを示唆していた。



   
雷爆装転換の所要時間
区      分 所要時間
雷装→爆装(二五〇キロ爆弾) 二時問三〇分
雷装→爆装(八〇〇キロ通常爆弾)一時間三〇分
雷装→爆装(八〇〇キロ陸用爆弾) 二時問三〇分
爆装(二五〇キロ爆弾)→雷装 二時間
爆装(八〇〇キロ通常爆弾)→雷装 二時間
爆装(八〇〇キロ陸用爆弾)→雷装 一時間三〇分

*表は空母飛龍の調査による(97式艦攻18機)、 *爆弾、魚雷とも格納庫に出し、搭載準備を してある場合



「五航戦を分離せよ」


 帰国の途次、第一航空艦隊はシンガポールに立ち寄った。ほんの数か月前まで、この 港湾都市は英国が誇る難攻不落の前線基地で、東洋の”ジブラルタル”と呼ばれよい ていた。当時は、一般にこの要塞(ようさい)都市は熟柿のように簡単に落ちたよう に伝えられていたが、事実は多分に違う。多くの一般市民を抱えた英軍と、身軽な日 本軍とのせめぎ合いが、きわどい経緯をたどった末の決着だった。仮泊(かはく)中 の一日、淵田は所在の南遣艦隊長官の小澤治三郎中将を表敬訪問した。

 このとき小澤 の手持ちの航空兵力は、軽空母一隻(龍驤)(りゅうじょう)からなる第四航空戦隊だ けだった。そのせいか小澤は一航艦の圧倒的な偉容(いよう)を見て、深く感じ入っ た様子だった。淵田は彼に言った。「ご心配は無用です。第四航空戦隊はもう、イン ド洋を取るのに十分な力を持っています」えがた小澤は、得難いポイントゲッターと しての航空戦力を認めており、古くからの知己(ちき)でもあったので、淵田は持論 の東進論を訴えた。要は可及的速やかに東進して、敵の中の敵----"本当の敵"を攻撃 すべきである、というのである。しかし小澤は否定するかわりに、あいまいに笑った。

 彼もまた多くの高級将校と同様、南進作戦で思考の全部を占領されているようだった。 そしてまたも、連合艦隊の場当たり的な命令がシンガポールに飛んできた。真珠湾の帰 路と同じように、第一航空艦隊塵下の第五航空戦隊を切り放せというのだった。これに よって五航戦(瑞鶴、翔鶴)はニューギニアのポートモレスビーの攻撃に(MO作戦)向か うことになるのだが、この作戦の延長線上に珊湖海海戦が待ち受けていたことは歴史の 示すとおりである。南雲はせめてもの親心を見せた。一航艦でいちばん練度の不十分な 五航戦に、一航戦、二航戦からできるだけ多くの飛行機を送っている。南雲艦隊は再び 帰国の途についた。



飛龍艦爆隊

「出撃前の搭乗員整列は一種の儀礼である。赤城甲板上で、整列した飛行服姿の搭乗員たちが訓示を受けている。」



ソマヴィルの「紙上艦隊」


 ここで時間は少しさかのぼる。東インド洋の日英戦争を前に、英国の海軍部内に冷えびえ した意見の対立があった。一九四二年(昭和一七)三月八日、チャーチル首相は海軍大臣 パウンド大将から、セイロンが脅威にさらされ、マレー連邦と同様の事態が起こる可能性 がある旨の報告を受けた。パウンド提督の見解によれば、もしセイロン島を失うことになれ ば、中東と極東での全戦略態勢がくつがえ覆(くつがえ)ることになるという。

 英国政府は海相(かいしょう)の言を重く見て、東洋艦隊司令長官の更迭(こうてつ) と艦非隊の補強を決定した。ジェイムズ・ソマヴィル海軍大将の任命と、戦艦ラミリー ズ、ロイヤル・サヴァリンと可能な限りの艦艇をコロンボに増派し、セイロン島の防衛 を強化するように措置したのである。これについて新任のソマヴィル司令長官は穏やか に、だが確信に満ちた口調(くちょう)で反論した。

 「あなたの決定は安直にすぎます 。R級戦艦二隻に戦闘機の上空直衛をつけるだけでは、プリンス・オブ・ウェールズとレ パルスの轍(てつ)を踏むの愚(ぐ)を犯すようなものです」ソマヴィル大将は任地に 向かう途上で、海軍大臣に次のような書簡を送った。『セイ日ン島は明らかに喪失の危 機に曝(さら)されています。もし日本軍が全艦隊で同島の攻略を企図するなら、わが ほうにはほとんど打つ手がありません。

 これに反し、敵が攻撃兵力の出し惜しみをする ようなら、東洋艦隊を温存するのが最良の策であると確信するものです」三月二六日彼 はコロンボに到着し、前司令長官レイトン提督の指揮権を引き継いだ。彼の艦隊は、大 型空母二隻(インドミタブル、フォーミダブル)、小型空母一隻(ハーミズ)、戦艦五隻(ウ ォースパイト、リゾリューション、ラミリーズ、ロイヤル・サヴァリン、リヴェンジ)、 重巡二隻(蘭巡ヒースカークを含め五隻)、駆逐艦一六隻、潜水艦七隻という優勢なもの だったが、これはあくまでも紙上の艦隊であり、その実態は三空母に搭載される攻撃機 は五七機戦闘機は三六機にすぎなかった。加えて、陸上基地の配備機も明らかに力不 足は否(いな)めない状態だった。

 飛行距離の長い偵察機は数機にすぎず、基地攻撃機に ついてはなきに等しいものだった。さらに彼の艦隊は、後進地帯の東洋においてすら旧式 であり、訓練もおざなりなものだった。必然的に、彼の守るべき主要拠点のコロンボ、ト リンコマリー、アッズの防衛はきわめて事態にそぐわぬ手薄(てうす)なものだった。更 迭された前東洋艦隊司令長官レイトン提督は、軍人としての資質では申し分ない指揮官と 見られていたが、マレーと東インドの敗戦から脱出してきた恵まれぬ立場だった。

 だが果 断で剛毅(ごうき)な提督に、現在の不遇を嘆(なげ)いている時間はない。一月下旬バ タビアからセイロンに落ちのびた彼は、新たにセイロン島司令官に任命された。仮りに、 彼が自分に付与された在島三軍と総督以下の文官を指揮下に置く権限をフルに活用しても、 セイロン島の危機を排除することは不可能だと思えた。それはたちまち現実になった。



英空母ハーミズ

「健在なりしころの英空母ハーミズの姿である。このハーミズは日本海軍 が撃沈した空母の第一号となり、九九式艦爆の集中攻撃を受けてあっけなく沈んだ。」



「艦隊を温存せよ」


 三月中句、日本軍の南方部隊指揮官近藤信竹中将は、インドに対する二つの攻撃を命令し た。一つは、南雲中将の指揮する空母五、戦艦四、巡洋艦二、駆逐艦八からなる機動部隊 によるセイロン島攻撃いま一つは、マレー部隊指揮官小澤中将の軽空母一、巡洋艦六、駆 逐艦八からなる艦隊のベンガル湾北部の掃討作戦である。ソマヴィル提督が着任したとあ るじき、この情報が主(あるじ)のいないデスクで待っていた。経験ゆたかな海軍の将官 として、新旧の司令長官は現状ではともにコロンボおよびトリンコマリーを、艦隊の泊地 として使用するのは危険であることを知っていた。

 そこでセイロン島の南西六〇〇浬にあ るモルジブ諸島の南端の秘密基地アッズ環礁が使われることになった。この島は水上艦艇 の奇襲には比較的に安全だったが、対潜および対空防御は全く手がつけられていなかった 。だが幸運なことに、日本軍はアッズ基地のことを知らなかった。英軍の得たすべての情 報は、日本軍のコロンボやトリンコマリーに対する攻撃を四月一日とすることで一致し ていた。

 その日、日本軍は南東からやってくるだろう、とソマヴィルは思っていた。 この判断をもとに、その日の早暁(そうぎょう)出現するであろう日本軍を、空母機の 夜間雷撃でヒットすべく、三月三一日セイロン島の南方に集結した。一方で、彼の注意は まぬが日本空母機の攻撃を免(まぬが)れることにも注がれていた。彼に対するロンドン からの命令は「艦隊を温存せよ」だったからである。



インド洋海戦の始まり


 作戦計画に従って、空軍第二〇五飛行隊のカタリナ双発飛行艇六機が、セイロン島南方 四二〇浬までの索敵に飛び立った。遺憾(いかん)ながらそれが手持ちの全可動機だっ た。三月三一日に入った情報は依然として、間もなく敵の攻撃が行なわれるであろうこ とを伝えていた。四月一日、巡洋艦ドーセットシャーがコロンボでの修理を中止して、 艦隊に合流した。しかし、敵は出現しない。一日と二日、艦隊は夜間は東方を、昼間は 西方に哨戒行動を反復したが、敵情はさらに不明だった。

 二日夜更(よふ)けになって、ソマヴィ ル長官はセイロン島攻撃の情報が誤報であったか、または計画が延期されたかのいずれ かだろう、と判断した。このとき艦隊の一部に、燃料と清水を必要とする艦があった。 ともかくソマヴィルは補給のためにアッズ島に帰投し、再びドーセットシャーを修理に 派遣するとともに、コンウォールを八日到着予定のオーストラリア兵輸送船団の護衛に 送り出した。

 次いで、軽空母ハーミズと駆逐艦一隻をトリンコマリーに派遣してマダガ スカル島攻略の準備にあたらせた。やがて日英両軍の時計が、同じ時を刻むようになる 。四月四日午後、ソマヴィル艦隊はアッズ基地に入港した。索敵機からの緊急電が入っ たのは、その直後だった。「優勢ナル日本機動部隊ヲセイロン島南墓二六〇浬二発見」 インド洋海戦の始まりだった。このとき、ソマヴィルの高速部隊インドミタブル、フォ ーミダブル、ウォースパイト、コンウォール、エメラルド、エンタープライズは燃料補給 中であり、R級戦艦を含む他の低速部隊は、翌日にならねば出動準備が整わない有様だった。



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マレー部隊の行動図

「昭和一七年三月一七日、マレー部隊指揮官小沢台次三郎中将 は機動部隊のセイロン島方面奇襲攻撃に策応して、ベンガル 湾北部機動作戦を計画した。その主要任務は、ベンガルを行 動して敵交通線を破壊するとともに、敵艦艇の捕捉撃滅を図 ることである。このときマレー部隊は、主隊北方隊南方隊に 分かれて行動し、これに補給隊と警戒蹴_揃した。各隊の兵 力は、主隊が鳥海と由良を中心に、第二〇駆逐隊の二隻、北 方隊は第七戦隊第一小隊の重巡二隻(熊野、鈴谷)と第二〇駆 逐隊の駆逐艦1、同じく南方隊は、第7戦隊第2小隊(重巡三隈、 最上)と第20駆逐隊の駆逐艦1であった。図中、日時は日付/時 刻の順に表示。」




日曜日の朝の勝利


 これらの偶然は結果として、口ンドンの温存主義に適(かな)うことになる。ともあれ、 ソマヴィル提督は自分が最善だと信ずる判断を選んだ。できるだけ早く高速部隊を先発さ せ、後から出撃する低速部隊によって日本軍の退路を押さえ、夜間雷撃を決意した。他方、 セイロン島のレイトン提督はソマヴィル艦隊の援助を期待せず、自力で防衛態勢を固めると ともに、港内の艦船に退避するよう指示した。

 その主なるものは、コロンボに在泊していた 重巡コンウォール、ドーセットシャー、およびトリンコマリーの空母ハーミズである。日本 軍による実際の攻撃は四月五日、真珠湾と同じ日曜日の朝八時、艦上爆撃機九一、戦闘機三 六をもって開始された。コロンボ所在のハリケーン戦闘機二個飛行隊、および海軍のファル マー戦闘機二個航空隊の計四二機が迎撃戦を展開し、多数の日本軍機を撃墜した。だが、英 側もまた一九機を失った。

 また、レイトン提督が大きな期待を寄せていた海軍の雷撃機ソー ドフィッシュ六機がトリンコマリーから飛来したが、それはちょうど空中戦のさなか に到着し、全機が撃墜された。幸いにも港内施設や在泊船舶の被害は比較的に軽微( けいび)だった。一方、重巡ドーセットシャーとコンウォールはソマヴィル艦隊と合 流するために四月四日午後遅くコロンボを出航した。

 だが両艦の航海は短かった。翌 朝早くも日本軍の索敵網に捕捉され、同日の午後遅くに五〇機以上の爆撃機が両艦の 上空にあらわれ、数分で沈められたからである。これはまたしても、日本空母機の恐 ろしい威力を実証したものだった。両艦の生存者一一一二名は翌六日午後遅く、ソマ ヴィルの派遣した艦艇に救助されたが、四二四名の将兵が海没した。

 先のプリンス・ オブ・ウェールズ、ならびにレパルスのときもそうだったが、日本軍機は騎士道を重 んじ、漂流している兵員に銃撃を加えることはしなかった。ソマヴィル艦隊はセイロ ン島とアッズ島の中間距離まで進出したが、ついに敵情を得ることなく決戦を断念し 、八日一一〇〇アッズ島に帰遠した。同様に、南雲の艦隊もソマヴィル艦隊の発見に つとめたが、熟練した索敵機をもってしても捕捉することができなかった。南雲艦隊 の索敵機がセイロン島の南東に集中したのに反し、ソマヴィル艦隊はずっと西方を行 動していたのである。



英戦艦リゾリューション

「英国軍艦旗ホワイト・エンサインをマストに揚げ、英戦艦リゾリューションが出撃する、と言えば聞こえはよいが その実体は「紙上艦隊」にすぎなかったという。」



トリンコマリーを空襲


 南雲艦隊は引き続き、トリンコマリー軍港を襲撃する任務を帯びていた。八日午後、英 軍索敵機はセイロン島の東四〇〇浬に南雲の大部隊を発見した。その警報により、トリ ンコマリーでは同夜在泊艦船を港外に避退(ひたい)させる措置をとり、空母ハーミズ 、駆逐艦ヴァンパイア、その他の艦艇や商船数隻は南方に退いた。九日早朝、トリンコ マリーに南雲の艦上機群が来襲した。その兵力はコロンボ攻撃のときとほとんど変わら なかったが、一方、迎撃する英軍戦闘機は二二機にすぎなかった。

 この空襲により、陸 上の施設は大きな打撃を被(こうむ)った。英軍も保有する可動全機のブレニム双発爆 撃機をもって南雲部隊を攻撃したが、その数は九機にとどまり、命中弾を得ることなく 、五機が撃墜された。前夜、トリンコマリーから避退した艦船は九日〇九〇〇に敵攻撃 の終了を聞いて、トリンコマリーに帰港するため反転した。それは基地から約六五浬の 地点だったが、目ぼしい得点を捜していた日本索敵機に発見された。

 二時間半後、日本 機の編隊はゆっくりあらわれ、そして手ぎわよく彼らの仕事をすませた。"袖珍空母ハー ミズ"は一〇分間に四〇発の爆弾を浴びて沈没し、駆逐艦ヴァンパイアとコルヴェットの ホーリー、輸送船二隻も前後して撃沈された。ここでもまた日本軍機の人道的な配慮で、 六〇〇名を超す生存者が付近の病院船に救助されている。



淡白な作戦に救われる


 一方、ベンガル湾北部は日本海軍小澤南遣艦隊の舞台だった。彼の任務は、表立った南雲 部隊の戦果に比して地味なものだったが、限られた機動兵力を巧みに駆使して、四月五日 から九日の間に、二三隻一一万二三一二トンの商船を撃沈した。日本の潜水艦部隊もイン ドの西岸沖に兵を伏せて、四月上旬に五隻三万二四〇四トンの商船を沈めた。・こうして 日本軍の攻撃がすんだとき、もはやインド洋の制空、制海権は完全に日本軍の手に移って いたのである。

 四月七日、英国海軍省はソマヴィル提督に対して訓電した。「かかる状態 では、R級戦艦は戦力(債権)と言わんよりは、むしろお荷物(債務)である。よって貴下に対 して、これらの戦艦をアフリカに引きあげさせることにつき、自由な決定権を付与(ふよ )する」八日、ソマヴィル大将はこれに同意する旨を回答し、R級戦艦らの低速艦艇をまと めて東部アフリカのキリンジニに引きあげさせ、近海の船団航路の警戒にあたらせることに した。一方インド洋に踏みとどまった高速部隊は、戦術を変換して日本軍の軽快艦艇に備え ることにしたが、セイロン島より遠く離れて位置した。英軍にとって幸いだったのは、日本 軍にインド洋における本格的な大規模攻略戦の構想はなく、この作戦が一過性のものだった ことである。

 英国から見た日本軍は真珠湾と同様に、インド洋で手にしたアドバンテージを 、とことん追求することも拡大することもなく、その主力 を東方に移し、二ヵ月後にミッドウェーの決戦で南雲艦隊は壊滅し、日本は唯一の 決戦用ワンセット・チームを喪失するのである。以上はロスキルの『太平洋・イン ド洋の戦況』の抄訳(しょうやく)によるが、南雲艦隊を東方に釣り出したのは、 英国の懇望(こんぼう)を承けた米軍のドゥーリットル本土空襲作戦だったという説もある。



空母ハーミズ

「"ポケット空母"ハーミズの最期。左舷に大きく傾斜し、すでに艦首部を潮が洗っている。 断末魔の姿と対象的に、インド洋はおだやかである。」



勝者のゆとリと、増長……


 南雲の第一航空艦隊がインド洋を離れようとしていたころ、旗艦・赤城では敵側のも のと思われる奇妙な通信を傍受(ぼうじゅ)した。「五人の官女を伴ったスルタンが 、出口のない迷路に迷い込んだ」というのである。これが艦橋に屈けられたとき、参 謀長の草鹿龍之介少将は一笑(いっしょう)に付したが、南雲長官はそうではなかっ た。"五人の官女"とは五隻の空母を指すもので、由来空母は女性の隠語である。

 従っ てそれを率いるスルタンは南雲自身にほかならず、それがまんまと敵の術中にはまっ た、というのに違いない。彼は平静を装(よそお)いながら、内心はすっかり硬直し ていた。戦闘部隊指揮官のそんな心配をよそに、大本営の空気は、美食の後で歯を楊 子(ようじ)でせっているような按配(あんばい)だったのである。コロンボ攻撃の翌六日 午後に発表されたインド洋作戦の第一報は、勝者のゆとりと増長とのきわどい文言( もんごん)が並んでいた。

 しかしこのころにはまだ、誇張はあっても後のような虚報 (きょうほう)はない。「帝国海軍は四月五日印度洋上英国最大の軍事拠点コロンボ 、その他を攻撃し同方面所在艦艇、船舶、航空兵力並(ならび)に重要軍事施設に大 損害を与えつつあり」で始まるこの発表は、まだ戦闘詳報が届いていないのか、これま でのような数字を上げた具体的な戦果には触れず、戦況の解説と勝利の誇示(こじ)か らなる長文のステートメントになった。これは当時、日本の軍部が傾倒(けいとう)し ていたドイツの「大戦況発表」(総統大本営発表)に倣(なら)ったのかもしれない。

 ま ずインド内にコロンボ、トリンコマリー二つの軍港を持つセイロン島の軍事的重要性を述 べ、シンガポールを失った後の英国が生き残りを賭けた、南アフリカ・インド・オースト ラリアを結ぶトライアングルの一角として唯一の戦略拠点であり、この防衛に英国 は、先にマレー沖で戦死したトム・フィリップスの後任レイトン中将をインド防衛 軍司令官に任命。住民の怨嵯(えんさ)を無視して、全島の武装に狂奔(きょうほ ん)していたコロンボにわが海軍航空部隊が攻撃を強行したことは、英国にさらな る後退を迫るものであるとする前段を受けて、後段では、ビルマからカルカッタを 経てセイロン島に及ぶ広い海域はすでに日本海軍の制圧下にあることを強調し、そ の戦略的意義を称揚(しょうよう)したものだったいう。



大本営発表

音吐朗々、赫々たる戦果を発表する平出大佐。



「大本営・平出大佐の名調子」


 平出大佐の名調子とは皆さんご存知かと思いますが、例のあの大本営発表という戦果発表の アナウンスのことである。この言葉の洪水に似た発表に比べ、トリンコマリー攻撃の翌一〇日の大本営発表は、 いい調子の音楽、いや浪曲を聞くような旋律があった。まず、現地部隊の報告を軍 令部のデスクで修文した字句と数字が戦果として示され、損害を悼(いた)み、簡 潔だが言外に多くの言葉を持っていた。その数字の詳細は前述のとおりだから、重 複(ちょうふく)を避ける。翌一一日、平出英夫大佐は大本営海軍部報道課長の肩 書て、全国民と海外に向けてインド洋作戦の総括を長い演説で行なった。マイクを 通った彼の声は甲高(かんだか)く聞き取りやすく、話のツボを心得て、軍国時代 の生んだ一種の寵児(ちょうじ)だった。

 古い形容だが、「音吐朗々(おんとろう ろう)」よく響く声で、海軍のスポークスマンとして常勝の未来図を語り続けてい た。「雄渾無双(ゆうこんむそう)」と彼は言う。たしかに海軍の描く画は壮大だっ た。いきなりインド洋からアメリカ西海岸まで東西一万浬、アリューシャンと赤道を 越え、オーストラリアに伸びる南北線の海域を「大東亜海」と初めて呼んだ。恐らく これが、日本軍が占領地につけた和名の最初ではなかったかと思う。

 例えばシンガポ ールが「昭南市」、グアム島が「大宮島」と、短いあいだ日本名で呼ばれたように。 ともあれ、平出放送はこの大海域の制海・制空の権を手にしたいま、南方の資源の開 発を妨げるものはなく、さらに今次(こんじ)の作戦で敗退した英、蘭、濠に自力で 反撃に立つ力もなく、なかんずく東洋における英国の没落は必至である、というもの だった。

 「インドは、イギリス皇帝の王冠の中で最大の金剛石(こんごうせき)とい われているとおり、イギリス本国はインドの豊富な物資に依存すること甚大(じんだ い)なのであるが、このインドを三百余年にわたって確保できたのは、実にインド洋 の制海権を握っていたからである」ベンガル湾の制海権を失えば、やがてその空白は インド洋全域に及び、「然(しか)してインド洋を失うことは英帝国の崩壊を意 味するものである」日本の打ち上げた大義名分は、この列強から亜細亜を開放することであったのは言うまでもなかった。



現場の声「だからどうした」


 「だからどうした」これは空母赤城のガンルームである。アルミのコップでテーブルを 叩く搭乗員もいた。いま、マイクの前で彼らのスポークスマンが描くパノラマが雄大 であればあるほど、その全得点を叩き出した彼らは空(むな)しい気分になる。ことに 真珠湾帰りの隊員にはもっと切実な感応(かんのう)があった。身近にいた者が、ポツ ポツと欠けていく。自分に明日があることを誰も保証できる者はいない。

 彼らは酒を飲 み、星を仰ぎ、実は死をみつめている。そして彼らのリーダーたちには、大本営がなぜ 自分たちを意味もない消耗戦に投入して、肝心の敵アメリカに、真珠湾の深手から立ち 直る時間を与えているのか分からなかった。愚鈍(ぐどん)、無能、音痴、ぼんくら、 つまるところ最高指導部の怠慢(たいまん)は犯罪に等しいという空気が、第一航空艦 隊に熱対流を起こしていたことは否定できない。太平洋戦争のグランド・デザインにつ いての差異は、危険な様相を次第に露(あらわ)にした。ミッドウェー出撃を前に、ベテ ランの兵士層を被(おお)ったデカダンスである。

 平出報道課長は大英帝国の没落を予言 し、一方で、淵田美津雄総飛行隊長は艦載飛行機隊の凋落(ちょうらく)を予感していた 。個人技に負うところの多い航空戦では、日本流のやりかたでは一定の練度に達するまで に長い時間が必要だった。しかもほとんど縦深のない本土では、心ゆくまで訓練に打ちこ める場所の選定にも難がある。日本の膨張政策は、紙の上の兵站(へいたん)を起点にし たものであることを、指摘する者はいない。戦時下の日本で、それは許されなかったから である。



 

 

 
大本営海軍部発表


昭和一七年四月一三日午後三時五〇分、大本営海軍部報道部は一連のインド洋 作戦の戦況と戦果を次のように発表した。以下は発表の原文どおりだが、句読点を足し、固有名 詞は本文に合わせてある。四月十三日午後三時五十分発表四月五日以来、印度洋に作戦中の帝国 海軍部隊の戦況並に綜合戦果左の如し。

(一)コロンボ方面---四月五日航空部隊を以てコロンボ を急襲し、スピトファイア、ハリケーン、ソードフイッシユ、デファイアント等敵五十五機を撃 墜、港内船舶十六隻を撃破すると共に飛行機格納庫三棟、修理工場一棟、その他軍事施設数ケ所 を大破又は炎上せしめたり。尚、附近洋上に於て敵大型飛行艇PBY二機及アルバコア一機を撃墜せり。

(二)コロンボ方面洋上---四月五日セイロン島南方百数十浬の洋上に於て高速退避中の英甲巡ロン ドン型一隻及コンウォール型一隻を発見、機を逸せず航空部隊を以て之を攻撃し、忽ち両艦を撃沈せり。

(三)ベンガル湾方面---四月五日コロンボ方面の攻撃に呼応し、ベンガル湾に進攻せる部隊は同方面 航行中の英国船二十一隻約十四万噸を撃沈、七隻約四万噸を大破せり。

(四)印度東岸方面丁---四月五日印度東岸の英国重要軍事拠点ビザガパタム、コカナダ等を奇襲し所 在の艦船、諸軍事施設に大損害を与えたリ。

(五)トリンコマリー方面---四月九日航空部隊を以てトリンコマリーを強襲し、ハリケーン、プレニ ム、スーパーマリン(ウォーラス)等約四十一機を撃墜、四機を地上炎上し、更に英巡リアンダー型一 隻を大破、敵船大型二隻、小型一隻を撃沈、海軍工廠、大型飛行機格納庫二棟、火薬庫、兵舎、油 槽群等敵重要軍事施設等を破壊し、特にその飛行施設を覆滅せり。

(六〉トリンコマリー洋上方面---四月九日トリンコマリー東南洋上を南下中の敵航空母艦ハーミズ 並に駆逐艦一隻を発見、航空部隊を以て直ちにこれを攻撃撃沈、又航空部隊の一部は、付近航行中 の敵船四隻を撃沈せり。尚、同方面作戦中、敵スピットファイア、ブレニム等十五機を撃墜せり。

(七)其他---小作戦中、帝国潜水艦は敵船七隻を撃沈、一隻を大破せリ。右諸作戦中、コロンポ及ト リンコマリー方面に於て我が方十七機を失える他、艦艇には微塵の損傷なし。 (原註)先に発表せしトリンコマリー方面の戦果中、英甲巡バーミンガム型一隻及エメラルド型一隻の 撃沈は、その後の詳報により誤りなること判明せるにつき削除す。

 





「果てしなく飲もう」


 平出の演説はまだ続いていた。「米英にあっては日本の戦力はシンガポール、ジャバの攻 略を以て限度とし、インド洋作戦のごときは到底不可能と国民に盛ん、宣伝 していた。然るに、しゃくしゃくたる余力を持つわが海軍はジャバ海方面の殲滅戦(せんめつ) にもいささかの労も見せず、アンダマン島の攻略成るや、突如としてセイロン島を始めベンガル 湾一帯に電撃作戦を展開し、同方面にある一切(いっさい)の艦船の撃滅を期すると共にツリン コマリ、コロンボ等の英海軍の軍事拠点を痛撃し、敵を戦慄’せんりつ)せしめている」帰途に ある赤城の主計長はウイスキーの手荒い消費量に辞易(へきえき)していた。

 彼のグラフによれ ば、作戦当日をはさんでその前後に消費量は増え、やがて次第に沈静にもどるのだが、今回のイ ンド洋では上がったきり下がらない。 「なんせウチの飛行機隊は指揮官先頭だからな」とにかく淵田は若い連中にまじって、よく飲んだようである。 マッチョたちの合言葉は「果てしなく飲もう」だった。果てしなく生きたかったのだろう。彼らの スポークスマンはまだ喋っている。なぜ「何故(なぜ)に米英艦隊は弱いのであろうか。

 それは驕 慢(きょうまん)の心が彼らを支配していたと申すほかはない。米英海軍が驕慢に流れ、他を軽侮 (けいぶ)して海軍兵術の研究を怠っている間に帝国海軍は血の出るような兵術研究と新軍備を建 設したのである。英米海軍が輸型陣だとか、ネルソン式肉薄戦法などという兵術の形骸(けいがい )を後生(ごしょう)大事にして訓練と精神の錬磨を欠いている間に、近代兵術は一変したのであ る」突然、兵卒上がりの特務士官が、テーブルの上に立ち上がって叫んだ。

 「コックリさん、コッ クリさん。この艦にはまだ鼠(ネズミ)がおりますか。はい、おりますですか。なら、まだ沈まん ですな」淵田に言わせれば、それがどんなにたわいのない愚にもつかぬことでも、彼らは敏感に反 応して笑ったという。従軍報道班員のムービーカメラマンが、淵田の耳もとでささやいたことがある。 「切ないですね」淵田は伸ばし始めた髭(ひげ)に手を当てて、何も答えなかったという。



赤城艦上、酒宴は果てず


 平出節(ひらいでぶし)はいよいよ佳境(かきょう)に入っていた。「インド洋作戦はまだまだ序の 口であって、イギリス勢力の伏在(ふくざ)する限りインド洋の何処(どこ)までも追撃し、徹底的 にイギリス海軍を撃滅せねば止まぬ。また、もしイギリス海軍がインド洋の制海権を死守せんとして大 挙反撃してくるとすれば、わがほうの思う壺である。

 しかも、わが海軍にあってはいまなお主力艦、航 空母艦、巡洋艦は全然無傷のままであることは元よりのこと、その他の艦艇、航空部隊にあってもその 損害はきわめて軽少である。かかる驚異的な大戦果は偏(ひとえ)に御稜威の賜(たまもの)であると 共に、わが精神力、術力、科学力の隔絶せる優秀性を物語るものであって、第一線将兵の勇戦奮闘と第 二線たる国民諸君の協力に深甚(しんじん)なる感謝を捧(ささ)げねばならぬ」赤城の酒宴はとうぶ ん果てることはなかったと言う。開戦初頭の勝利に酔いしれていたのであろう!東郷元帥の勝って兜(かぶと)の緒(お)を締めよの戒(いまし)めは どこへ行ったやらの状況であったようである。



 

(更新/2007/04/16)  春の暖かき雨降りし日に記す   Homepage Owner  kanno





主要参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ第2巻)
(大捷マレー沖海戦) ドキュメント・インド洋作戦・勇進インド洋作戦
・甲斐克彦・著


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