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gunkanki


ガダルカナル攻防戦

ガ島飛行場奪還ならず。
挫折した増援輸送・持久戦入り




輸送船団

ガダルカナル島へ向かう輸送船団





最後の望みを託し、企図された陸海協同作戦。その計画が崩れたとき…。






陸海協同作戦を企図




 一木支隊
および川口支隊、さらには第二師団と師団単位の兵力を投入しながら、 ガダルカナル島飛行場奪回(だつかい)はならなかった。大本営および第十七 軍は、いまや第三十八師団をもってする第三回目の総攻撃に、おそらくは最後 の望みをたく託すしかなかったのである。こうして企図されたのが、高速輸送船一一隻 を動員して、一挙に多量の人員、火器、弾薬、糧秣を運ぶという陸海の協同作 戦であった。兵員もさりながら、十七軍がとくに重視したのは、当然のことで あろうが堅陣地(けんじんち)を攻略する際に欠かすことのできない重火器の 輸送であった。

 糧秣の場含は、せめてガ島上の人員を一カ月は養う量が欲しい とした。この輸送作戦が決行される以前、第三十八師団第二百二十八連隊(連隊長土井定七大佐)が先行 するかたちでガ島に渡っていた。十数隻の駆逐艦に分乗して、一一月五日正午すぎショー トランドを出発、五日深夜タサファロンガおよびエスペランス岬に分かれて上陸した。さ らに、第三十八師団長佐野忠義中将は、募僚と麾下の第二百二十九連隊第一大隊をつれて 、一一月六日ラバウルから輸送船に乗り、八日ショートランドに入港していた。

 当日、「 第三十八師団戦闘司令所要員は急遽ガ島に先行すべし」とのガ島上からの軍命 令を受領したのであった。佐野師団長は幕僚をともなって輸送船から駆逐艦に移乗し、一〇日午前九 時(〇九〇〇)ショートランド発、同日二二三〇ごろタサファロンガ着。そのまま夜道を歩 きとおして、一一日午前五時ごろ、「九〇三高地」と名づけられた高地の北西麓(ほくせ いろく)にあった十七軍戦闘司令所に到着している。

 第三十八師団第二百二十九連隊を基 幹とする人員と重火器および弾薬等を搭載した一一隻からなる輸送船団は、予定どおり一 二日〇三三〇増援部隊(第二水雷戦隊司令官田中頼三(たなからいぞう)少将=早潮(は やしお)、親潮(おやしお)、陽炎(かげろう)、海風(うみかぜ)、江風(かわかぜ) 、涼風(すずかぜ)、高波、巻波、長波、天霧(あまぎり)、望月(もちずき))に護衛 されてショートランドを出発した。鈴谷(すずや)、摩耶(まや)、天龍(てんりゅう) 、夕雲(ゆうぐも)、巻雲(まきぐも)、風雲(かざぐも)からなる支援隊(第七戦隊司 令官西村祥治少将)は、鳥海(ちょうかい)、衣笠(きぬがさ)、五十鈴(いすず)、朝 潮(あさしお)の外南洋部隊主隊(第八艦隊司令長三川軍一中将)とともに、先発した輸送 船の船脚(ふなあし)にあわせて、一三日〇六三〇ショートランドを出撃する予定でいた 。

 ところが、飛行場制圧射撃のためガ島に向かっていた比叡、霧島らの挺身攻撃隊が、一 二日夜サヴォ島沖で米艦隊と遭遇、第三次ソロモン海戦を展開したため所期の計画を変更した。

























                                           
輸送船団の編成
/// 船舶名 総トン数 乗船部隊名および搭載軍需品
第一分隊 長良丸 7,148歩兵第229連隊本部、同第1大隊
歩兵第230連隊第2大隊
工兵第38連隊
輜重兵第38連隊
第38師団衛生隊
第2師団の一部(衛生隊、野戦病院3個)
広川丸 6,872
佐渡丸 7,180
かんべら丸 6,477
那吉丸 7,145
第二分隊 山月丸 6,438独立工兵第19連隊
独立無線第53、第80小隊
第3野戦輸送司令部
独立自動車第212中隊
第17防疫総水部
糧秣・在ガ島兵力30,000人20日分、その他弾薬
山浦丸 6,936
鬼怒川丸 7,180
信濃川丸 7,504
ぶりすべん丸 5,425
ありぞな丸 9,683
*揚陸地点:第1分隊=タサファロンガ、第2分隊=エスペランス岬




不十分だった飛行場制圧


 第三次ソロモン海戦の結果、期待していた二戦艦によるガ島飛行場砲撃がダメに なったことを知った山本五十六聯合艦隊司令長官は、輸送船のガ島泊地進入を一四日に延期すること に決し、一三日〇一四四、その旨を各部に下令した。山本長官の命令を受けた外 南洋部隊指揮官=第八艦隊長官三川中将は、ただちに南下を続けていた増援部隊 =第二水雷戦隊と輸送船団に反転を命じた。そして、みずからは鳥海に将旗を掲 げて、麾下艦艇および支援隊に対し、予定時刻より二時間くり上げた〇四三〇に ショートランドを出発、北方航路を経てガ島泊地に進入し、支援隊の重巡鈴谷、 摩耶の二〇センチ砲をもってガ島飛行場を射撃するむね通知したのである。

 全軍は支障な く、予定航路を進むことができた。敵艦隊が比叡ら挺身攻撃隊と死闘を演じた末 に引き揚げていった間隙(かんげき)を衝(つ)くかたちとなった。支援隊の鈴 谷、摩耶、天熊、夕雲、巻雲、風雲、朝潮らは、一〇一〇、サヴォ島の北西方で 主隊と分離し、射撃予定海面に向かった。主隊の鳥海、衣笠、五十鈴の三隻は、 ルッセル島付近にあって警戒に任じた。天候は当初曇で、ときおり小雨が降った りしたが、次第に回復し、支援隊が隊列をととのえて射撃針路に入るころには視 界良好となっていた。

 二三三〇あらかじめ発進させていた水上偵察機二機が、飛 行場上空で照明弾を投下するのを機に、火ぶたは切られた。まず、ガ島を右舷に 見て射撃、二三四六反転して斉射し、一四日○○〇一終了した。米側資料によれ ば、轟下爆撃機一、戦闘機一七が破壊され、戦闘機二二がある程度の損傷を受け たとある。任務を果たした支援隊は、一四日〇五五〇、ニュージョージア島南方 洋上で鳥海ら主隊と合同し、ショートランドを指した。このまま何事もなく帰還 できると思ったのもつかの間、敵機の襲撃に遭(あ)った。

 十数機の編隊が、 〇六三〇から〇九〇〇までの間、二度に渡って襲ってきた(空母エンタープライズから発 進した艦載機だった)。敵機は、柄(がら)の大きい重巡を狙ってきた。任務を終 えた直後の心の隙を衝かれた恰好で損害が出、重巡衣笠はここで沈んだ。最初の命 中弾は艦橋の前部を直撃し、艦長澤正雄(さわまさお)大佐以下、副長、通信長、 航海士、機銃員のほとんどが戦死か重傷を負った。ほかに鳥海、五十鈴、摩耶が被害 を受けたが、いずれも沈むまでには至らなかった。以上のように外南洋部隊と支援 隊が被害を出したのと同じ時期、ガ島を指して南下しつつあった輸送船団も敵機の 襲撃を受けていた。



輸送船団に大被害


 増援部隊の早潮以下一一隻の駆逐艦に護衛された輸送船団は、既述のように外南洋部 隊指揮官三川軍一中将の命令により、いったんショートランドに帰着した。しかし一三日 深夜、重巡による飛行場射撃を決行することになったため、再度出撃命令が出された 。日没後ショートランドを出発した護衛駆逐艦と船団は、一四日午前零時すぎ、鈴谷 と摩耶の敵飛行場制圧射撃が成功裡(せいこうり)に終わったことを知らされ、勇ん で所定の中央航路を南下していった。しかるに、夜が明けるや、叩いたはずのガ島飛 行場の方角から敵機が飛んできたのである。

 ニュージョージア島の東方海域を通過し ていたときのことであった。空襲は早朝から日没までにわたった。公刊戦史は、機数延べ約 一〇〇機、ほぼ一時間おき八波におよんだ、と書いている。沈められたのは、かんべら丸、長良丸(ながらまる)、ぶりす べん丸、信濃丸(しなのまる)、ありぞな丸五隻である。佐渡丸(さどまる)も大破、一 時航行不能となって落伍(らくご)していた。これほどの損害が出たのは、夜明けととも に、ガ島からする敵機の飛行圏内に入ってしまったからであった。ラバウルの基施航空部 隊も、急を知って零戦を飛ばしたが、航続距離の点で不利だったり、敵機と入れ違いにな ったりで思うようにいかず、損害を喰い止めることができなかった。

 鈴谷、麻耶によるガ 島飛行場砲撃は不成功というのではなかったが、残念ながら砲が二〇センチロ径だったせ いもあったであろう、撃ち漏らした機数のほうが多かったことは事案であった。しかしな がら一〇〇にものぼる使用可能機が、ガ島上の米軍にあったわけではむろんないのである。飛行場 に舞い戻っては燃料弾薬を補給して、反復攻撃を加えた結果であったのだ。日本軍は情報をつ かんでいなかったが、当時空母エンタープライズが北上してきていて、搭載機の一部をガ 島に増派し、残る全機を直接現場にふり向けたのである。

 また、エスピリツサントから飛 び立った一五機にの更るボーイングB17も、輸送船団攻撃に参加した。日本軍側とすれば、護衛の駆逐 艦としてもどうすることもできなかった。発煙燃料を焚(た)きつつそこら中を走りまわ り、敵機が去った隙をみては、海上に投げ出された入員を救助するのがせいいっぱいであ ったという。煙幕がたなびき、投下爆弾の水柱が林立する海面で、遠力のかぎられた輸送船が、 次つぎと炎上するという無惨(むざん)な光景が現出したであった。これほどの数の足の速い駆逐艦群に護られて はいたものの、速力の遅い輸送船では結局は駆逐艦の方が足並みをそろえなければならず、そして空からの 航空攻撃にみまわれては、ただただ見ているほかなかったいうのが本音であったのではなかろうかと思えてならい。



駆逐艦・衣笠

開戦後1年を経ずして、第6戦隊の重巡群は相次いでソロモソ海に 消えた。写真は加古の機銃座から、僚艦の古鷹(手前)と衣笠を望む。 ありし日の第6戦隊の姿である。



「水雷戦隊案撃セヨ」


 増援部隊指揮官=第二水雷戦隊司令官田中頼三少将は一四時すぎ、味方哨戒機よりの敵水 上部隊北上中という情報に接した。このまま進めば輸送船の全滅は必至と考えた田中少将 は、反転を決意する。回頭を案施した直後に、またも敵機一七機が来撃、那古丸(なこま る)が被爆した。しかし、トラック島の聯合艦隊司令部は、いま引き返してはせっかくの努 力が水泡(すいほう)に帰すると判断し、「船団ハガ島ニ進撃セヨ」と電命した。聯合艦 隊としては、今後このような陸軍に協力した大規模なガ島に対する輸送作戦を実施できる かどうか自信が持てなかった。

 田中少将はやむなく、難をのがれた広川丸(ひろかわまる )山浦丸(やまうらまる)、山月丸の四隻を護衛してふたたびガ島を指した。しかし、こ のとき田中少将坐乗の黒潮にしたがっていた駆逐艦は、わずか三隻にすぎなかった。輸送 船は被爆するとすぐ燃えあがり、整然とした退艦は望むべくもなかった。甲板に搭載した 陸軍の弾火薬等が誘爆するというアクシデントがあったりして、てんでに海中にとび込む 陸兵が多かった。それら海面におびただし漂(ただよ)っている人員を見捨てて先に進む わけにはいかず、大部分の艦は被爆現場に残って、救助に専念しなければならなかった。 天霧、望月の二隻は、大破した佐渡丸に同航して、ショートランドをめざすこととになる。

 田中司令宮は、この当時飛行場砲撃を主眼として愛宕、高雄の第四戦隊と、戦艦霧島が後 方から南下中であることを知っていた。田中少将はいったん反転、この味方有力艦群の後 方から目的地に進入することを考えた。聯合艦隊も今度は田中少将の希望を容(い)れ田 中少将は一七時ごろから愛宕の第二艦隊司令部と直接連絡をとることができた。海中に投げ出された人員の救助 にあたっていた増援部隊の各駆逐艦は、先行した旗艦朝雲以下四隻と船団に、一七時ごろか ら追及を始めていたが、各艦とも五〇〇ないし一〇〇〇名内外と収容した人員でふくれあが っていた。増援部隊が、前進部隊主隊の愛宕、高雄および霧島等を視認したのは二一時ごろ のことで、以後は視界限度の後方を南下することになった。

 その後前進部隊は、第三次ソロ モン海戦の第二ラウンドに登場して、ウィリアム・リー少将指揮する米艦隊と砲雷戦を演じ るのだが、二二時増援部隊は南方洋上に彼我艦隊を視認した。田中少将は独断で親潮と陽炎 の二隻に攻撃を命じるとともに、輸送船を反転避退させた。その後二三二五になって近藤中 将から「水雷戦隊突撃セヨ」との命令を受けたが、当時船団は猛烈なスコールに降り籠(こ)め られていて、身動きがならなかった。

 視界が開けたときには、砲声がやんでいた。本隊から 分かれて敵方に突出した親潮と陽炎は、愛宕の後方を通過して突進し、二二三九親潮が魚雷 を発射したが、その効果は不明であった。陽炎は、敵味方識別の作業が遅滞(ちたい)して 発射の機会を失い、再度襲撃のチャンスを狙ってさらに南方に進出中、二三四〇ごろになっ て、ガ島の南方洋上に向けて高速で避退する敵戦艦一隻(ワシントン)を捉えて、おりから敵 を求めて出現した第十戦隊旗艦の長良とともに追跡したが、ついに見失った。



駆逐艦・天霧、左と朝霧

駆逐艦の重要な任務に煙幕展張がある。写真は煙突から黒煙を出し、 展張する天霧(先頭)と朝霧の珍しくも勇壮なシーンである。



折れた輸送の背骨


 その間増援部隊は、二二四三近藤信竹中将からの「船団をガ島泊地に座礁させよ」とい意味 の指示電を受領した。これは田中司令官の意向にそったもので、田中少将は先に「敵情にか んがみ、船団はタサファロンガ泊地に到着次第海岸に擱坐(かくざ)させるを可とするべき 」旨を、近藤中将と外南洋部隊指揮官」=第八艦隊長宣三川軍一中将あてに緊急上申(じょ うしん)していた。近藤中将の指示電はそれに対する回答であった。聯合艦隊も田中少将の 案を黙認したが、三川軍一八艦隊長官だけは承認せず、万難を排して擱坐は中止するよう通知し てきた。しかし田中少将は、三川中将の電報を現状に合わない意見として捨て去り、擱坐による揚 陸方針の決定を各部に通知したのであった。

 広川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山月丸の輸送船四隻からなる 船団は、五日〇一三五、タサファロンガ泊地に進入して、午前二時予定どおり海岸に乗り上 げ、擱坐後ただちに揚陸作業は開始された。第二水雷戦隊は、輸送船の擱坐を見とどけると 、全力で北方に避退していった。予期していたとおり、夜明けと同時に飛行場の方角に爆音 が聞こえ始め、敵機は海岸とジャングルの接点を、低く一直線に飛翔(ひしょう)してきた 。船腹を岩礁につけて動けなくなっている輸送船に向かい、やりたい放題に近い銃爆撃を加 えて去り、去っては燃料や弾薬を補填(ほてん)して戻ってきた。

 〇六四〇ごろ、まず二隻 が同時に火を噴いた。八時ごろになると、沖合に艦艇二隻が現れて砲撃を加えてきた。その 前後には、輸送船は四隻すべてが燃え始めていた。黒煙が高く空に立ちのぼった。全く一方 的な砲爆撃のなかで、輸送船の船員と船舶部隊の必死の揚陸作業が続けられた。このとき上 陸した陸軍兵力は、第二百三十九連隊本部、同第一大隊の一部、第二百三十連隊第二大隊主 力、工兵第三十八連隊主力、輜重兵第三十八連隊主力等の一部、以上約二〇〇〇名にすぎな かった。人員はまだしも自分で動けるが、物資はそうはいかない。

 せっかくここまできてか ら焼却してしまった揚陸物資の詳細は明らかでないが、約一五〇〇梱包(こんぽう)程度の 米と野菜、山砲の弾薬二六〇箱が、かろうじてジャングル内まで運び込まれたのではないか とされる。三万人にのぼる人間を養うのに、一五〇〇梱包の米は何ほどのこともない。四日 分そこそこであろう。いうまでもなく、この大規模な輸送船団による輸送作戦の目的は、 第三十八師団の全兵力とそれに見合う武器弾薬をガ島に輸送するということにあったのだが、しか し、実際にガ島の土を踏んだ第三十八師団の後続兵力は、驚くかな五〇〇名にも満たなか ったのである。

 したがって、この不本意な結果は、単に船舶が喪失したとか、軍事物資の大部分が海 中に沈んでしまったり燃えてしまったとかいうことにとどまらないで、輸送作戦 全般の背骨が折れてしまったのであり、十七軍の作戦計画を根底からぐらつき崩(くず) すものであったのだ。それ以後、ガ島に対する兵員と武器弾薬などの輸送はいっさい行なわれなか ったから、これでガ島における本格的な地上作戦は事実上終わりを告げたといっていいの である。それだからこそ、この輸送作戦の結果は、十七軍司令部および大本営隆軍部に、 先に行なわれた第二師団の総攻撃の失敗以上の衝撃を与え、第八方面軍の新設、さらには 撤収作戦へと発展していくきっかけとなったのである。
               
第38師団の防御布陣(昭和7年11月中旬以降)
地点名 配備部隊
見晴台 マタニカウ川上流 第38歩兵団司令部
見晴台南側 衛生隊の一部(約3分の1)
見晴台東南側 第3大隊本部
見晴台 第10・第1工中隊、第3機関銃中隊、歩兵碗主力
オーステン山方面 第2大隊本部・第5・第6・第7・第8中隊、第2機関銃中隊




一転して持久戦思想に


 一一月一五日、ガ島上の百武十七軍司令官は、大本営陸軍部から、なかんずく「全般ノ攻勢 作戦準備就中(なかんずく)航空作戦準備進捗(しんちょく)ノ間二於テハ、ソロモン群 島及ニューギニア方面共ニ海軍ト共同シテ現地付近ノ要地ヲ確保シ爾後ノ作戦ヲ準備ス」と いう命令を受領した。あいかわらずわかったようなわからないような空疎(くうそう)な作 文であるが、これは百武中将以下軍首脳部が、多大の期待を抱いてその結果を待っていた船 団輸送が失敗に帰したとわかった当日のことなのである。大本営陸軍部では、田中新一中将 と服部卓四郎大佐がそれをれ第一部長、作戦課長としてがんばっており、民需船舶徴用(ち ょうよう)の件で、政府および陸軍省と激しく対立しようとしていた。

 一一月一七日、百武 中将は今後の作戦に関する軍命令を発した。これまでの飛行場奪回を呼号(こごう)する命令から、一転して全体が持久戦思想 にいろどられているのが目立つ。発令の日付からみても、この軍命令には、三十八師団主力 と軍需物資の書輸送が失敗に帰(き)したことを知った軍司令部の感情が反映しているとみ なければならない。公刊戦史に、一〇月二〇日ごろ軍が把握していた兵力として、上陸総人 員約二万七〇〇〇名、現在人員約一万九七〇〇名、戦闘に耐うえ得(う)る者約一万名とあ るが、これ、はいわば帳面づらからみればそうなるというだけのことで、現実はもっと低下 していたのである。

 戦闘に耐え得る者という基準をどこらへんに置くかという問題もあるが、すでに このころ発生していたジャングルのあちこちをさまよう遊兵の存在も計算に入れる必要があ ろう。軍命令というものも、それらの点で常に抽象的である。たとえば、なかで「第三十八 師団は…」と同師団に対する命令が示されているが、一口に師団といっても、その実質は一 個連隊にすぎず、あとから上陸し得た二百二十九連隊の人員数が実に五〇〇名に満たなかっ た。第二師団に対しては、「早く西海岸のコカンボナとタサファロンガ間に集まれ」と呼び かけているが、同師団の疲弊(ひへい)ぶりは、軍の想像をはるかに越えていた。ことに師 団司令部の恣意的(しいてき)とも思える作戦方針によって、総攻撃後すぐに東海岸コリ岬 方面に派遣された東海林(しょうじ)支隊の消耗ぶりはひどく、ある生存者の証言によると、 西海岸にもどってきたとき、「戦闘に耐え得る者」などは、いても八○名くらいであったとい うことである。

 一二月一八日、当時九〇三高地付近にあった第三十八師団長佐野中将は、一七 日の軍命令にもとづいて、部署命令を発した。二師団に比べれば、ずっとあとから上陸したの だから三十八師団はさぞかし元気だったろうと思いたいところだが、現実はさにあらず、一二 月末ごるになると二師団の疲労ぶ りと大差なくなっていた。高速船団による輸送の失敗と、一一月中旬以後の月齢(げつ れい)の関係による駆逐艦輸送中止によって、上陸後まもなく減食を余儀なくされ、急 激に体力をなくしていったのだった。これからが飢餓の島、餓島(ガ島)の始まりの序章であった。
                        
第38師団の防御布陣(昭和17年11月中旬以降)
地点名 配備部隊
勇川河谷 903高地 第38師団司令部、同師団通信主力
990高地 工兵第38連隊主力
勇台西南側河谷 第229連隊主力、輜重兵第38連隊主力、第230連隊患者隊、衛生主力
勇川下 流第2師団司令部、砲兵第2連隊主力
沖川河谷 沖川上流 第228連隊本部、同第9中隊、通信隊主力
沖川谷下流 独立速射砲第2大隊、第2師団第4連隊
宮崎台、砲兵台 迫撃砲第3大隊主力
小川 小川河谷第1拠点 第1機関銃中隊1個小隊、第3中隊(左)、祭4中隊(右)
小川上流第2拠点 第1機関銃中隊1個小隊、第1中隊(右)、第12中隊(左)
小川下流第3拠点 第2師団第16連隊主力、独立速射砲第4大隊主力、追撃砲1個中隊




崩壊した軍計画


 三十八師団の上陸時から一線に至るまでを、各大隊ごとに見てみると、次のようになる。一口に三十八 師団といっても、すでに何度も述べるのですが、後続するはずであった第二百二十九連隊は 、船団輸送の挫折によって同乗していた第二百三十連隊第二大隊をあわせて約一個大隊 が上陸したにすぎなかったのです。一一月一一日に上陸したその一個大隊は、勇台西南側河谷 に位置した。先に上陵した第二師団長丸山中将の指揮下に入り、第二回総攻撃に参加し た第二百三十連隊第一および第三大隊は消耗はなはだしくすでに 戦力として存在するのをやめていたのでした。

 したがって、部隊として当時完全な形態と余力を 残していたのは、駆逐艦によって先行上陸していた第二百二十八連隊だけで、だからこ れは師団というより実質は的には旅団の戦力であろう。第二百二十八連隊本部は、扇形に布陣 した全陣地のカナメの部分である沖川上流に位置した。一一月八日、タサファロンガに 上陸した第一大隊(早川菊夫(はやかわきくお)少佐)は、勇川上流地点に進出し、大隊 本部は「砲兵台」南側の沖川河谷に陣地を構えたのであった。

 第一線の各中隊は、大隊命令によっ てさらに敵方に進出した。銃火をまじえて敵を押し返しながら、「堺台」と日本軍が名 づけていた高地の西側に進出し、右翼から第一拠点、中拠点、第二拠点と扇を開いた形に布 陣して構えた。どの拠点も地質が硬く、壕(ごう)を構築するにあたって苦心した。すぐに岩 盤(がんばん)にいきあたり、思うように掘ることができなかったのである。すでに減食が始ま っていたため、急速に体力が落ちてきてなおのこと作業は進まなかった。たいていが、タ コツボ程度の壕に入って、近距離で敵と対峙(たいじ)することとなった。

 一一月五日 、タサファロンガに上陸した第二大隊(稲垣武義(いながきたけよし)少佐)は、おりか らのどしゃ降りのなかを泥まみれになって東進し、いったん勇川河谷付近にとどまった が、八日軍命令によって第三十八師団長伊東武夫(いとうたけお)少将の指揮下に入り 、オーステン山に向かうことになった。マタニカウ川上流を渡河し、一五日、丸山高地 (または、二七高地)近くの草原に至った。ここで、軍の指示にもとづく師団長命令によ り、第百二十四連隊長岡明之助(おかあきのすけ)大佐の指揮下に入り、丸山高地の東 北東の一郭(いっかく)に陣地を構築することなった。

 右より第八、第七、第六と各中 隊を扇状に配備して、各中隊の間隙を第二機関銃中隊で埋めて火点を点綴(てんてい) 、正面前方の敵と対峙した。第三大隊(西山遼(にしやまりょう)少佐)は一一月五日、 エスペランス岬に上陸していた。豪雨を集めて早い大小さまざまの河川を渡渉(としょ う)し、泥濘(でいねい)の酷く荒れた海岸線を東進し勇川の河口付近から丸山道を遡(さかのぼ) って、一週間後にやっと「百武口」西南側のジャングルに達したのであった。以後、二〇日「見 晴台」に進出した。

 第二師団が一敗地にまみれた直後の十七軍の方針は、三 十八師団の上陸を待って、攻勢に転じることであった。その軍の計画は、陸軍秘蔵の高 速輸送船団が壊滅させられた時点で崩壊したのであった。軍としては、かろうじて無傷で上陸した 二百二十八連隊を中心に置き、以上のような海岸地区から見晴台を経てオーステン山に 至る扇形の線に、拠点式陣地を構成して、長い持久戦の態勢に入らざるを得なかったのである。 昭和十八年二月初旬に陸軍は撤退するのだが、そこまでがガダルカナル島の本当の飢えとの戦いとなるのであった。 陸軍のその撤退後も、ラバウルからの航空攻撃は敢行されソロモンの海と空を真っ赤な血で染めた悲惨な戦いが繰り返されたのであった。



 

(更新/2006/10/03)    Homepage Owner  kanno





主要参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ第6巻)(死闘ガダルカナル)
ドキュメント・ガ島攻防戦・3回目の攻撃ならず・亀井宏・著
光人社・刊/亀井宏・著 『ガダルカナル戦記』 全三巻
人物往来社・刊別冊歴史読本・日本軍用機総覧/陸海軍航空戦記


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