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第三次ソロモン海戦

比叡、霧島ソロモン海に沈む




戦艦比叡

戦艦比叡

佐伯湾の落日に、重厚な艦型を浮かびあがらせた戦艦比叡 このときから約1年後、第3次ソロモン海戦で比叡は最期を遂げる。





ヘンダーソン飛行場砲撃の前進部隊ば米戦艦部隊と交戦する




挺身攻撃隊の出撃


 昭和一七年(一九四二)一一月一〇日午前九時(〇九〇〇)、五隻の駆逐艦で編成された 輸送隊が、ショートランドを出発した。駆遂艦五隻には、第三十八師団司令部職員( 佐野串義中将以下幕僚四名)、糧秣、弾薬などのほか、海軍・第十一戦隊の観測隊が 分乗していた。観測隊は、近く実施を予定された船団輸送に先がけた艦砲射撃の弾着 を観測する任務をおびていた。先に実施された戦艦金剛、榛名の成果が忘れられない 山本聯合艦隊長官
の強引な計画によるものであった。

 その結果が、第三次ソ ロモン海戦の凄惨(せいさん)な戦闘となって現れる。ガダルカナル島上の第十七軍 司令官百武春吉中将は、三十八師団主力の輸送に関し、現在あるかぎりの輸送船を一 挙に使うことに決した。ただし、輸送船の使用は今回かぎりとし、あとは可能なかぎ り駆逐艦輸送を続けるという聯合艦隊側の主張をのんだ。そして聯合艦隊もまた、危 険を承知で再度戦艦による艦砲射撃を決行することに踏み切ったのである。

 ガ島飛行 場砲撃の重責をになった挺身(ていしん)攻撃隊を含む前進部隊がトラック泊地を出 撃したのは、一一月九日一六一〇のことである。一二日○三三〇ガ島〜ルッセル島間 の予定地点に達した挺身攻撃隊〜第十一戦隊司令官安部弘毅(あべひろあき)中将直 率の二戦艦比叡、霧島、と第十戦隊司令官木村進少将の率いる軽巡長良(ながら)、 駆逐艦天津風(あまつかぜ)、雪風(ゆきかぜ)、照月(てるつき)、暁(あかつき )、雷、電(いなずま)等は、第二艦隊司令長官近藤信竹中将直率の前進部隊本隊と 分離して、一路ガ島に向かって南下した。

 一一日、ショードランドを発して、この挺 身攻撃隊に合同すべく東航していた五隻の駆逐艦からなる第四水雷戦隊(司令官高間 完(たかまひろし少将)は一二日一三三○、目的を達することができた。以後、挺身 攻撃隊(以下、「攻撃隊」と書く)の前程八キロに、右側に夕立(ゆうだち)、春雨 (はるさめ)、左側に朝雲、村雨、五月雨の順序で並列に進んだ。この回攻撃隊は、 B17爆撃機一機に二度にわたって発見、触接(せっしょく)された。一四時をまわる ころから、天候が悪くなった。不連続線が停滞(ていたい)しているらしく、雨と晴 れ間が交替した。

 今度の飛行場射撃も、前回の金剛、榛名の場合と同様、夜間の砲撃 である。砲撃予定海面に進入後は、ガ島上にあらかじめ友軍が用意した数か所の灯火 を視認して、海図上に引かれた予定のコースに乗り、あとは発令所の射撃盤が頼りの 自変距離間接射撃法にたくすしか方法はない。雨が強く降ってガ島の輪郭(りんかく )を知らせる灯火が見えないとなれば、砲撃実施はあきらめるしかない。 いよいよインデスペンサブル海峡北口に進入した一七時、阿部中将は射撃実施を決意して、 今後の予定コースと時間を麾下艦艇に通報した。

 しかしその後天候は悪化し、二〇時ごろか ら激しい雨となった。主隊の前方八キロの洋上を二列になって進行中であった第四水雷戦隊 の駆逐艦五隻は、先の阿部中将の命令にあった最初の変針予定地点に達したので、速力を落 として一八○度に針路を変えた。そのあとから変針予定点に到達さえぎした主隊は、激しい 雨に遮られて、距離測定の目標となるサヴォ島を視認することができなかった。遼巡する阿 部中将のもとに、ガ島飛行場の上空に哨戒機を飛ばして照明弾を投下し、砲弾範囲の中心を 知らせる任務を負って、イサベル島北西部のレカタに基地を置いていたR方面航空部隊から、 「天候回復ノ見込ミナシ、今夜ノ飛行観測至難ト認ム」という電報が入った。阿部中将はつ いに、一時反転を決意する。

 この阿部中将の一時反転が、その後の戦闘での混乱を呼んだこ とは事実である。もしも中将が悪天候を厭(いと)わず、麾下艦艇を前進させていれば、三 〇分から四〇分の時間的損失をこうむることがなく、比叡、霧島の主砲はガ島飛行場に狙い をつけて、十分とはいえないまでも火を吐いていたに違いない。しかし、このときの阿部中 将の決断はやむを得なかったともいえるので、要するに攻撃隊は不運だったとしかいいよう がないのである。



戦艦比叡・霧島

ソロモン海を行く金剛型戦艦2隻 ガ島攻防をめぐるソロモンの戦 いは日本海軍の戦艦にとって、最初にして最後の働き場となった。



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第三次ソロモン海戦第一図

図は11月12日2330時の日米両軍の態勢を示す。日本側は夕立、 春雨を前衛に、長良、比叡、霧島が続く。周囲の護衛駆逐艦 は、左手が雪風、天津風、照月、右手に暁、雷、電の順。そ の後方は、麻雲、村雨、五月雨である。米側の戦闘隊形は、 先頭に駆逐艦カッシング、ラフェイ、ステレット、オバノン、 中央に軽巡アトランタ、重巡サンフランシスコ、ポートランド 、軽巡ヘレナ、ジュノー、後方に駆逐艦4隻が単縦陣で続いていた。



混乱の始まり


 攻撃隊の混乱は、阿部司令官がガ島砲撃中止を決意し、一斉回頭(「斉動(せいどう)Z」とも いう)を下令したときから始まった。ツイていないときというのはこういうものであろうか。 二一五〇麾下全艦艇に一斉反転命令を発したが、先行していた四水戦にうまく伝わらなかっ たのである。しかも、全く伝わらなかったというのではなかった。「四水戦ハ反転セヨ」と いう命令は届いたものの、二二〇五という反転実施の時刻が伝わらなかったのである。発動 時刻がいつまでたっても届かないのに不安を覚えた高間四水戦司令官は、二二〇〇ちょうど に、独断で反転をする。こうして、主隊がまだ南西に艦首を向け走っているのに、四水戦だ けが反転して北東に向かうという事態が生じた。

 しかも、現実に起こった隊形の乱れは、時 間だけで律しきれないものがある。闇夜の洋上で、隊形はかなり混乱していた。そして、そ の後も不測の事態は続く。比叡、霧島の主隊が、発動予定時刻の二二〇五反転したものの一 〇分とたたぬうちに、問題のも、雨が上がったのである。濛気(もうき)も薄れていき、比 叡は右四五度にサヴォ島を視認するに至る。レカタ基地のR方面部隊からは砲撃支援の哨戒機 発進を知らせ、ガ島に上陸待機中の観測班からも、「ガ島方面ノ天候ハ良好」と報告してき た。これらの通報に力を得た攻撃隊指揮官=第十一戦隊司令官阿部弘毅中将は、砲撃再興を 決意、二二〇五、今度は事前の打ち合わせなしに再度一斉回頭を下令した。

 ふたたびガ島の 方角に艦首を向けた各艦の位置であるが、本来なら主隊の先鋒(せんぽう)である軽巡長良 よりさらに八キロ先を走っていなければならない朝雲、村雨、五月雨の三隻の駆逐艦が、主 隊殿艦(しんかりかん)の霧島よりも大きく後落(こうらく)してしまっていた。そしてさ らに重要なのは、この事実に誰も気づいていなかったことである。四水戦の後落は、目と鼻 の先に接近しつつあった米艦隊に対する警戒心を阿部中将から奪い去り、麾下艦艇を机上の 計画どおりに動かせることになった。

 二二四六、阿部中将は、後落している四水戦に対して、 その事実を知らないまま、「ワレ今ヨリ進入ス、先行セヨ」と命じて、当初の予定より四 ○分ほど遅れた砲撃を実施しようとした。四水戦所属の駆逐艦のなかで、かろうじて任務 どおり主隊のやや先を走っていた夕立と春雨は、二三一五、ユスペランスおよびタサファ ロンガに友軍が点じた砲撃位置決定用の灯火を確認して、砲撃コースに入るべく一四〇度 に変針したのが二三二五である。これより一分前、攻撃隊は米艦隊のレーダーに捉えられ ていた。当時、阿部司令官は、米軍艦艇に関する情報を、全く入手していなかったわけで はない。航行途中をB17に触接されている事実もあり、阿部中将が敵艦の出現を全然予期し ていなかったとするのは、どうみても現実性に欠ける。

 ただ、そのとき阿部中将の心理を 大きく左右していたのは、自分が乗っている比叡の前程(ぜんてい)約一〇キロを走ってい るはずの四水戦の存在だったのであろう。先をいく四水戦から「敵艦見ユ」との報告がない かぎり、ガ島に三式弾の雨を降らさなければならない。その後に米艦隊との戦闘が起きても 、そのときはそのときのことだと思っていたのではないか。何としても、ガ島の敵飛行場制 圧が中将に課せられた主任務なのである。














































                               
第3次ソロモン海戦参加各艦(戦艦を除く)の兵装(1)
艦名 竣工年 基準排水量(トン) 砲煩兵装 魚雷発射管
長良1922 5.170 14センチ単装砲×7,8センチ単装高角砲×261センチ連装×4
暁、雷、電 1932 1.68012.7センチ連装砲×3,12.7ミリ単装機銃×2 61センチ3連装×3
春雨、夕立、春雨、五月雨 1937 1,68512.7センチ連装砲×12.7単装砲×1 61センチ・連装砲×2
朝雲 1938 2.00012.7センチ連装砲×3、25ミリ連装機銃×2 61センチ4連装×2
雪風、天津風 1940 2.00012.7センチ連装砲×3、25ミリ連装機銃×2 61センチ4連装×2
照月 1942 2.70110センチ連装高角砲×4、25ミリ連装機銃×2 61センチ4連装×1
*艦種は長良(軽巡)を除き、すべて駆逐艦
                                           
第3次ソロモン海戦参加各艦(戦艦を除く)の兵装(2)
区分 艦名 竣工年 基準排水量(トン) 砲煩兵装 魚雷発射管
重巡ポートランド 1933 9.80020.3センチ連装砲×3、12.7センチ単装高角砲×8 ///
サンフランシスコ 1934 9.95020.3センチ連装砲×3、12.7センチ単装高角砲×8 ///
軽巡 ヘレナ 1939 10.00015.2センチ3連装砲×5、12.7センチ連装砲×4 ///
アトランタ、ジュノー  1941〜42 6.00012.7センチ連装砲×8、40ミリ機銃×10 53.3センチ4連装×2
駆逐艦 カッシング 1936 1.465 12.7センチ単装砲×5  53.3センチ4連装×3
ステレット 1939 1.50012.7センチ単装砲×4 53.3センチ4連装×3
ラフェイ、バートン 1942 1.62012.7センチ単装砲×4 53.3センチ4連装×2
モンセン、アーロンワード 1939 1941〜4212.7センチ単装砲×4〜5 53センチ4連装×1〜2
フレッチャー、オバノン 1942 2.05012.7センチ単装砲×5、40ミリ連装機銃×2〜5 53.3センチ4連装×2
















ゼロ距離射撃の応酬


 ここで米側の兵力を挿入しておくと、重巡一、軽巡二、駆逐艦一〇であり、戦艦 はなかった。米軍側は、日本軍艦隊の動静を確実につかんでおり、ダニエル・キャラガン少 将とノーマン・スコット少将の率いる二つの水上部隊が、ほぼ長く単縦陣となって、阿部攻 撃隊のガ島泊地進入を待ちかまえていた。攻撃隊のなかで、最初に米艦隊を視認したのは、 駆逐艦夕立であった。夕立が敵発見を報じた一分後に、比叡が約九〇〇〇メートルの前方に 巡洋艦らしい艦影四を認め、そのむね金軍に通報した。比叡は霧島とともに、それぞれ八門 の主砲と揚弾機(ようだんき)に、人間を殺傷したり地上にある飛行機や建物は焼却できて も、艦船用には無効な三式弾を詰め込んでいた。

 揚弾機を空(から)にして艦船用の徹甲弾 を詰めるためには、ムダとわかっていてもせ三斉射(せいしゃ)は放たたなければならない 。比叡、霧島を十戦隊の長良、雪風、天津風、照月、暁、雷(いかずち)、電が傘状(かさ じょう)につつみながらの隊形で、戦闘状態に入った。阿部司令官は比叡に探照灯の照射を 認可して、あとに間題を残した。二二五一、比叡が探照灯をつけると、距離六〇〇〇メート ルの洋上に、重巡らしき艦影が浮かび上がった。弾種変更のいとまのないまま、この敵に対 し装填(そうてん)していた三式弾を斉射した。比叡の射撃は初弾から命中したが、その花火のような斉射によってみ ずからの存在を敵に教える結果となり、おびただしい各種砲弾が飛んできた。

 阿部中将が気 づくと、敵艦隊は驚くほどの至近距離にあった。そのうえ麾下艦艇の位置は、阿部中将が予 測していた隊形とはひどく違っていて、先行しているはずのゆくえ四水戦に至っては行方( ゆくえ)もわからず、まるでキツネにつままれたような思いである。比叡は徐々に左に転舵 していった。敵艦との距離は最大で約五〇〇〇メートル、近距離では駆逐艦一隻と実に一〇 〇〇メートルですれ違ったときがあった。戦艦と知ってか、依然としてあちこちから砲弾が 集中する。しかもいまだかつてない近距離での乱戦であるために、砲弾も常織的に抛物線( ほうぶつせん)を描いて落下するとはかぎらない。

 敵味方のほとんどがゼロ距離射撃である 。砲の仰角(ぎょうかく)が小さいために、敵弾はほぼ水平に飛び、比叡の最上甲板から艦 橋くらいまでの間に多く集中した。まず前檣楼(ぜんしょうろう)に火災なが起き、上甲板 以上が薙(な)ぎはらわれた。くり返すが、比叡が念願の対艦船用徹甲弾を発射するために は、まず砲身と揚弾機に詰め込まれている三式弾を空にしなければならない。そのためには 三斉射しなければならなかったが、その最後の斉射に移ろうとしたとき、敵弾一発が主砲関 係の電路に命中した。前後して副砲指揮所も破壊されて、比叡は一時戦闘能力を失った。そ の後、通信信号ともに不能となり、直接操舵(そうだ)に移ろうとした矢先、重巡の二〇セ ンチ砲弾が、防御甲板(こうはん)で覆われていない脆弱(ぜいじゃく)な艦尾の部分に右 舷横合から貫通し、直径二・五メートルほどの孔が水線付近にあいた。

 波は艦首付近で盛り あがり、いったん中部付近で低くなって艦尾付近でふたたびふくれあがる。その波の立つ部 分に孔があいたため、海水はたちまち舵機室(だきしつ)と舵柄室(だへいしつ)に満ち、直 接操舵、人力操舵ともに不可能となった。また、艦橋にあった第十一戦隊司令部は、人的損害 も受けていた。阿部司令官は頭部に負傷し、首席参謀錐木正金中佐は戦死、何ごともなかった のは通信参謀一人であった。




駆逐艦・夕張

「駆逐艦夕立ノ活躍ハ見事ナリ」聯合艦隊参謀長字垣纏少将は 日記にこう書きしるし、吉川潔中佐の健闘をたたえた。



半身不随の戦艦比叡


 旗艦比叡が戦闘能力をもぎとられた巨体を敵中にさらしていたそ誰の間に、彼我(ひが)入り 乱れての戦闘はひとりでに推移し、約一〇分後にヤマ場を迎え、三五分経過したころにはおお むね終わってしまう。第三次ソロモン海戦の第一次戦というのは、要するに阿部攻撃隊の艦艇 一四隻と米艦艇一四隻とが、直径五ないし六キロの洋上に入り乱れ、その円がガ島飛行場の沖 合からサヴォ島付近に至る約三キロの海上を三十数分で颶風(ぐふう)のように移動していっ たと思えばよい。時間の経過にともない、その戦場の輸の内外に、日米両軍の被害艦がはじ次 つぎに取り残され、または弾(はじき)き出されていく。

 比叡に続行していた霧島は、無照射 で射撃を開始したが、まもなく十戦隊とともに戦場から離脱せよという阿部司令官の命令を受 けた。駆逐艦朝雲上にいた四水戦司令官高間少将は、比叡の探照灯照射と同時に戦闘開始を麾 下艦艇に令した。その四水戦所属の夕立の働きは、日米両軍を通じてもとくにゆ童だち*目につ く。夕立(ゆうだち)の活躍は、艦長吉川潔中佐の剛毅(ごうき)の性格と、過ぐる八月末以 来実に十数回にのぼるショートランド〜ガ島間の輸送に任じて、この海域に慣れていた点に負 うところが大きいといわれる。

 夕立は単艦で米艦隊の北暴から突っかかることになり、米軍の狼狽(ろうばい)の原因を作った 。二三五五、比叡の照射砲撃に策応した高間少将の「魚雷戦用意」の命を受けるや、距離一五〇 〇メートルから魚雷八本を発射して、「敵巡洋艦二隻轟沈」を報じた。さらに米軍の隊列中を同 航の態勢でぬうようにしながら、至近距離の砲戦を行ない、重巡一隻に火災を起こさせた。その 後、○〇三〇まで敵巡洋艦、駆逐艦に対して、距離一五〇〇ないし三〇〇〇メートルで砲戦を挑 み、敵に損害を与えたがみずからも損傷を受け、○〇二六、サヴォ島の一五六度九浬の地点で航 行不能に陥った。

 のち、僚艦五月雨が現場に急行、乗組員を収容したあと、処分のための砲雷撃 を加えた。四水戦のその他の駆逐艦も、こぞって乱戦にまき込まれ、それぞれの戦いぶりを示し た。その後の比叡であるが、射揮所を破壊されていたため、各砲塔個別の射撃しかできなかった が、戦闘能力を残し、機関部に損傷はなかった。間題は、既述(きじゅつ)したように、舵が操 作できなくなることであった。やがて比叡の周囲三キロ圏内に駆逐艦四隻が集まってきて、めぐ りながら警戒にあたっていた。



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「総員退去」下令さる


 黎明時(れいめいじ)、阿部中将は、遠くに去っていた僚艦霧島を呼び戻そうとした。前進部隊 主隊(第二艦隊司令長官近藤信竹中将)を経た連合艦隊の命により、比叡を曳(ひ)かせようとし たのである。夜明けとともに、ガ島上から敵機が飛び立ってのきて、午前中)だけでも延べ七〇 機あまりが襲ってきた。その間、舵機室に満ちた海水を排除する作業がおろそかになった。船体 の一部に海水が浸入してきて、それが直接の致命傷になるなど、むしろ稀(まれ)な例であった 。浸水した箇所を囲い、まるごと持ち帰ればよい。損傷箇所が、艦のなかで機関とともにもっと も重要な舵を操作する空間であったところに、比叡の不幸があった。艦長の西田正雄大佐以下、 乗組員の士気は衰えてはいなかった。

 開戦後、航空機に対する認識が日増しに深くなってはいた ものの、戦艦に寄せられた畏敬(いけい)の念と信頼はなお強かった。とくに比叡は、金剛、榛 名そして霧島とともに、空母や巡洋艦、駆逐艦と伍(ご)して近代戦を遂行する能力を持つ数少 ない高遠戦艦の一隻であるとされていた。これをむざむざと沈めるのは、艦長として堪(た)え がたかったに違いない。そのころすでに、付近を警戒中であった駆逐艦雪風に移乗していた阿部 司令官は、一〇三五、比叡に対し「空襲ノ合間ヲ見テ停止セヨ、人員ヲ収容ス」と命じ、その後 も何度か処分命令を発した。

 あいつぐ空襲に絶望したのであろうが、西田艦長はうなずかなかっ た。正午すぎになって、敵雷撃機八ないし一〇機が来襲し、魚雷一本が比叡の一番砲塔の右舷に 命中した。魚雷はバルジを破り、海水が内部に浸入した。このため、艦の浮力が失われて吃水が 深くなり、前回の命中魚雷であいた右舷後部の破孔(はこう)が、常時水線下に沈むことになっ た。以後、とめどなく舵機室へ流れ込もうとする海水を遮断するには、これまでの防水マットで は用をなさなくなった。この段階になっても、西田艦長はまだ比叡救出の希望を捨てていなかっ た。一方、指揮をとらんとして雪風に移乗していて、比叡の実情がつかめない阿部中将は、これ はいよいよダメだと観念したらしい。

 その後も阿部司令官と西田艦長との間にやりとりがあって 、ついに西田大佐は「総員退去」を下令する。一八年三月三〇日の予備役編入、即日召集という 西田正雄大佐の人事は、機関がまだ動いているのに比叡を自沈させた責任を間うたものだといか れる。西田大佐のこの処置には、阿部中将の数次にわたる処分督促(とくそく)が影響している ことはたしかであろう。ちなみに、以上の第三次ソロモン海戦のいわば第一ラウンドにおける米 艦艦喪失は、軽巡二、駆逐艦四と甚大(じんだい)だった。




































         
日米4戦艦の兵装等比較
艦名 比叡 霧島 ワシントン サウスダコタ
兵装 35.6センチ連装砲×4
15.2センチ単装砲×14
12.7センチ連装高角砲×4
25ミリ連装機銃×10
35.6センチ連装砲×4
15.2センチ単装砲×16
12.7センチ連装高角砲×4
25ミリ連装機銃×10
40.6センチ3連装砲×3
12.7センチ連装砲×10
28ミリ4連装機銃×4
40.6センチ3連装砲×3
12.7センチ連装砲×8
28ミリ連装機銃×7
装甲 水線203ミリ
甲板70ミリ
司令塔203ミリ
水線203ミリ
甲板70ミリ
司令塔203ミリ
水線305ミリ
甲板140ミリ
司令塔381ミリ
水線310ミリ
甲板146ミリ
司令塔381ミリ
                                         
日米4戦艦の要目比較
艦名 比叡 霧島 ワシントン サウスダコタ
基準排水量(トン) 32.156 29.330 35.000 35,000
全長(メートル)) 219.5221.9 222.3207.4
出力(馬力) 136.000136.000 121,OO0130,OOO
速力(ノット) 29.730 2827
航続力(浬) 9.8009.800 15.O0015.000
竣工 1914.8.41915.4.19 1941.5.151942.5.15
日米4戦艦の要目比較

近藤中将、突入を決心


 一二日払暁(ふっぎょう)、ガ島砲撃におもむく比叡ら挺身攻撃隊を分離して、オント ンジャワの東方海面を遊弋(ゆうよく)していた前進部隊主隊のほうヘ目を向ける。前 進部隊指揮官=近藤信竹中将は、攻撃隊が飛行場射撃の直前になって、予期していなか った敵部隊と遭遇したことを知り、一三日の未明になって、山本長官から「輸送船団ノ ガ島進入日ヲ一四日二延期ス」という命令を受けた。近藤中将は攻撃隊に対し、一時引 き揚げを命じた。しかし、その後まもなく比叡が自力航行不能であることを知り、霧島 をはじめ、朝雲、春雨、電等が救助のため現場に引き返すことを許した。

 二二日〇九五 五、聯合艦隊からの「外南洋(そとなんよう)部隊および霧島をふくむ前進部隊の兵力 をもって、ルンガ方面の残敵掃討(そうとう)およびガ島飛行場射撃を実施すべし」と の命に接し、近藤中将は比叡救助を断念し、霧島らを途中から呼び戻すことになる。太 平洋戦争全般を通じて、近藤信竹中将の潔(いさぎよ)い行動については定評がある。 近藤中将はここにおいても、みずから坐乗の重巡愛宕(あたご)をガ島砲撃隊の一番艦 に立てて、敵地深く突入する狭心を固めた。一四日〇八三〇に、近藤中将が発した兵力 部署は次のようであった。

 射撃隊(前進部隊指揮官=第二艦隊司令長官近藤信竹中将直 率)第四戦隊・愛宕、高雄(たかお)、第十一戦隊・霧島---ガ島飛行場砲撃。第十戦隊 ・長良、第二駆逐隊・五月雨。第六駆逐隊・電(第十戦隊司令官木村進少将)---第四戦隊 の直衛。直衛(第四水雷戦隊司令官高完完少将)第九駆逐隊・朝雲、第十一駆逐隊・白雲 、初雪、雷。第六十一駆逐隊・照月---霧島の後方警戒。掃討隊(第三水雷戦隊司令官橋本 信太郎少将)第三水雷戦隊・川内(せんだい)、第九逐隊・浦波(うらなみ)、敷波(し きなみ)、綾波(あやなみ)前路掃討。ガ島攻撃隊に属さない前進部隊の各戦隊窮三戦隊 ・金剛、榛名、第二航空戦隊・隼鷹(じゅんよう)、飛鷹(ひよう)、第八戦隊・利根) は、第三戦隊司令官栗田健男(くりたたけお)少将指揮のもとにガ島の北東海面を機宜( きぎ)行動し、攻撃隊の進出ならびに引き揚げ時の擁護(ようご)に任ずるとともに、機 会があれば敵水上部隊と交戦する、とされた。以上の近藤部隊は、一四日一五三〇、洋上 の集合地点から南下を開始した。近藤部隊は、米艦隊の出現を十分予期していた。

 一四日 ○八三〇ごろ、愛宕の索敵機一号が発進したが敵を見ず、のちイサベル島のレカタに掃投 した。○八三四、ガ島攻撃隊は第三戦隊(金剛、榛名)、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹〉、第 八戦隊(利根)等を分離し、掃討隊(橋本隊)を前程七キロに配して、速力二〇ノットで南下 を始めた。このころ、別働隊の外南洋部隊主隊(三川艦隊)および支援隊(西村艦隊)が敵機 の攻撃を受けたことたどを知り、ついで別のコースを辿(たど)っていた輸送船団が空襲 されているという報告が入った。



サウスダコタ

米海軍の新鋭戦艦サウスダコタ。南太平洋毎戦で初陣を飾り、 第3次ソロモン海戦ではみずからも損害を受けたが霧島を 撃沈する戦果をあげた。



敵戦艦二隻が出現


 敵の出現は、予想以上に早かった。一四三九、旗艦愛宕が突如敵潜による雷撃を受けるが 躱(かわ)す。霧島の直衛任務をおびて、霧島の前方を進んでいた駆逐艦朝雲も、一五三 五、敵潜の雷撃を受け、雷跡 三本のうち一本が艦底を通過したが、爆発は免れた。その後は、何事もなく夜に入った。二〇〇 〇から二〇二五にかけて、先を行く掃討隊(橋本隊)の駆逐艦が二度、敵の艦影を見る。陸軍に対 する義理と面目(めんもく)から、輸送船団を何としてでもガ島泊地に突入させたい山本長官の 意向を察している近藤中将は、万難(ばんなん)を排して飛行場砲撃を達成しなければと固い決 心をしていた。

 その輸送船団が、自分たちの隊の後方をガ島に向かって進撃中であることがわか っている以上は、直衛艦が一隻もなくなり、愛宕、高雄、霧島の三艦だけになっても、敵飛行場 に対する射程内に達しなければならなかった。当面の敵は、これを追跡中の掃討隊にまかせて、 射撃隊は予定どおりのコースを進んで所期の目的を果たそうとした。そして二一〇六、サヴォ島 の南方水道に進入するために針路を一八○度に変針したとき、掃討隊の川内から、「敵は面舵( おもかじ)に変針して、サヴォ島とエスペランス岬間を北上しようとしている」という意味の知 らせが届いた。このまま直進すれば、敵と正面から衝突することになる。

 あくまで飛行場砲撃を 完遂(かんすい)しようとする近藤中将は、愛宕、高雄、霧島の三艦だけサヴォ島の北側から、 つまり川内等のあとを追うようにして、敵を前後から挟撃(きょうげき)しようとし、取舵(と りかじ)に変針した。と同時に、「先(ま)ズ敵ヲ撃滅ス」と全軍に下令し、掃討隊と直衛艦艇 をもって敵を前後から挟撃しようと企図した。当時の天候は曇厚い雲からときおりスコールが降 り、視界は一定せず、その後砲戦開始のときは約一〇キロであった。米側の資料をみると、米艦 隊のほうが相手に気づくのが遅かったようだ。

 日本側部隊の再度の接近を正しく読んだ南太平洋 部隊指揮官ウィリアム・ハルゼー中将かそしら、その阻止を命じられたウィリアム・リー少将指 揮の戦艦ワシントンとサウスダコタを基幹とする水上部隊がガ島南方で待機していた。二〇五〇 、ワシントンのレーダーが北西九〇浬の距離に目標を探知し、二一一三待っていた日本艦隊を視 認した。続いてサウスダコタもこれを認めた。星弾の照明下に、戦艦の主砲が火を吹いたのは、 二一一七のことである。

一方、米艦隊を追ってサヴォ島の東側洋上を走っていた掃討隊の川内 、浦波、敷波三隻は、突如星弾を利した砲撃を受けた。掃討隊は、彼我戦力の懸隔(けんかく) を考え、一時北方に避退し、サヴォ島で砲雷戦の機会をうかがおうとして、煙幕(えんまく)を 展張しつつ反転した。このときの米艦の砲撃はサウスダコタのもので、四〇センチ主砲である。 水柱で戦艦と判別できるはずであったが、掃討隊はすぐには気づかなかったらしい。
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第三次ソロモン海戦第三図




「敵二隻ハ戦艦ナリ」


 掃討隊中、単艦サヴォ島の西側から南下して、同島をまわり込んだ綾波は、二一二〇不意に艦首を こちらに向けて進んでくる巡洋艦二、駆逐艦四の敵艦隊を視認し、勇敢にも反航態勢で砲雷戦を挑 んだ。二一三○魚雷を発射「敵重巡一、駆逐艦一隻撃沈」を報じたが、みずからも集中砲火を浴び て航行不能に陥った。射撃隊の長良、五月雨、雷、白雲、初雪は、第十戦隊司令官木村進少将の指 揮のもとに、サヴォ島の西を通って戦場である同島の南方に商かい、二一三○右二五度約四〇〇〇 メートルの海上に敵を発見して、砲戦を開始した。各艦砲門を開きつつ突撃態勢に移り、魚雷を発 射するために左に転舵した。

 その後、次に発射する魚雷を 装填するために、サヴォ島にそって北酉に避退した。いっぽう愛宕、高雄、霧島か らなる射撃隊は、飛行場砲撃を貫徹(かんてつ)せんとして、朝雲、照月の二隻を 後衛(こうえい)に配しサヴォ島の北側に向かった。しかし、そのままのコースで 、いますぐ目的のルンガ岬沖に進入することは、敵味方混交(こんこう)のおそれ があってためらわれた。しぜん複雑な行動をとっているうちに、輸送船団を護衛し てガ島に急ぐ第二水雷戦隊(田中隊)を視認したりした。

 その間、愛宕上の近藤中将 は、麾下艦艇から再三にわたり「敵二隻ハ戦艦ナリ」の報告を受けたが、なかなか それを信じなかった。ところが、二一五九、愛宕の右一〇度に突如艦影が浮かび上 がった。愛宕はためらわずに照射砲撃を開始したが、探照灯の光芒(こうぼう)で 捉えた敵艦は、丈(たけ)高い檣楼と上甲板をそなえ、大型新式戦艦であることを 認めざるを得なかった。愛宕は、敵をほぼ正横(せいおう)に見る直前の二三〇五、 魚雷を発射した。深度を調整するひまがなく、三メートルは戦艦を目標とするには浅 すぎたが、方位角や目測距離等は申し分がなかった。彼我四〇センチ級主砲から射出 された砲弾が夜、空を交錯(こうさく)した。ちなみにこれは、太平洋戦争を通じて 、戦艦同士が直接撃ち合った最初の出来事であった。




霧島、ソロモン海に沈む


 日本軍の砲撃は初弾から命中した。先頭に立っていた米艦一隻 は、愛宕、高雄、そして霧島三艦の集中射撃を浴びて主砲機関が壊 れたらしく、主砲は沈黙したまま、わずかに中部副砲で応戦して きたが、次第に戦闘力を失い、かつ傾斜していくように思われた。 その後方に位置していた残る一隻の戦艦は、日本軍の砲火が僚艦 に集中している隙に、主砲と副砲を駆使して霧島を主目標にして猛 烈に撃ってきた。愛宕から見ると、霧島は砲弾が立てる水柱にし ばしばその姿を没した。愛宕の付近にも数斉射の近弾、続いて流れ ダマが落下した。時間は長くなかったが、熾烈な砲戦といってよか った。この戦闘中、米軍は探照灯を使用せず照明弾を頼りに対抗し てきたが、連続して上空に懸吊(けんちょう)されたその照明は、日本軍艦艇をあ まねく照らし出した。

 その後も敵戦艦と反航態勢で交 戦していた射撃隊は、いったん照射を中止して増速した。そして、 敵との離隔(りんかく)を防ぐために同航態勢をとろうとし、二三〇六取舵に変 更した。このとき霧島は、すでにしたたかに撃たれて火災を起こし ており、愛宕、高雄の運動についてこられなくなっていた。 その後も戦闘は続いた。輸送船団を護衡していた第二水雷戦隊も 駆けつけてきて、主として駆逐艦の活躍の場となったが、日本軍の 水雷戦隊は夜戦の強さを見せつけたといっていいであろう。 霧島が航行不能に陥ったことを知った近藤中将は、二三三四、ガ 島砲撃とりやめを各部に通告した。霧島の沈没は一五日〇一二五。舵機室に海水が充満して作業 隊が入れず、舵故障が直せなかった点など、僚艦比叡とよく似た経 過をたどって沈没に至ったことがわかる。その後も敵戦艦と反航態勢で交戦していた射撃隊は、いったん照射を中止し て増遠した。そして、敵との離隔(りかく)を防ぐために同航態勢をとろうとし、二 三〇六取舵に変更した。このとき霧島は、すでにしたたかに撃たれて火災を起こして おり、愛宕、高雄の運動についてこられなくなっていた。

 その後も戦闘は続いた。輸 送船団を護衛していた第二水雷戦隊も駆けつけてきて、主として駆逐艦の活躍の場と なったが、日本軍の水雷戦隊は夜戦の強さを見せつけたといってよかろう。霧島が航 行不能に陥ったことを知った近藤中将は、二三三四、ガ島砲撃とりやめを各部に通告 した。霧島の沈没は一五日〇二一五。舵機室に海水が充満して作業隊が入れず、舵故 障が直せなかった点など、僚艦比叡とよく似た経過をたどって沈没に至ったことがわ かる。その後の米側資料をみると、リー部隊の護衛駆逐艦四隻は、時間を同じくして 全滅し、戦艦サウスダコタを一方的に撃ちまくられて、後半戦はワシントン一隻だけ でがんばっていたことがわかる。結局、近藤信竹中将はガ島飛行場をあきらめたのだ から、ワシントンに坐乗していたウィリアム・リー少将の面目は立ったといえる。



 

(更新/2006/09/27) 秋の香り漂う日   Homepage Owner  kanno





参考文献 
学習研究社(歴史群像・太平洋戦史シリーズ第6巻)(死闘ガダルカナル)
ドキュメント・ガ島攻防戦・第三次ソロモン海戦・亀井宏・著


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