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人類破滅の脅威

広島・長崎・原爆投下の悲劇・U





原子爆弾による災害とは何か



 原子爆弾広島と長崎に用いられた原子爆弾は、一九四一年(昭和一六年)一二月以来 アメリカが開発に着手し、三年七カ月の時日をついやして、一九四五年七月、その 製造と実験とに成功したものである。この原子爆弾開発作業こそが上記でものべている 「マンハッタン計画」とよばるものであった。広島に投下された原子爆弾は、ウラ ン二三五を用い、長さ三メートル、直径○・七メートル、重さ四トンであった。外 観が細長く、リトルボーイとよばれた。

 長崎に投じられたのは、プルトニウム二三 九を用いた爆弾で、長さ三・五メートル、直径一・五メートル、重さ四・五トンで、 広島型に比べ丸みを帯びており、ファットマンと名づけられた。いずれも、ウラン またはプルトニウムの原子核に中性子を衝突させて爆発的な核分裂連鎖反応をおこ させ、それによって巨大なエ ネルギーを放出させるものである。発生するエネルギーは、高性能の通常爆薬TNT に換算して、リトルボーイが約一万二五〇〇トン、ファットマンが約二万二〇〇〇 トンであったと推定される。

 二万トンのTNTから放出されるエネルギーは、一キロ グラムのウラン二三五が完全に核分裂したとき解放されるエネルギーにほぼ匹敵 するという途方もない物であったようです。一九四五年当時、世界最大の爆撃機 とされていたB-29ですら、五トンの通常爆弾しか搭載できなかった。二万トンの TNT爆弾は、それゆえB-29四〇〇〇機以上の搭載量に当たる。それほど大きな破壊 力が、一個の原子爆弾の形で、一瞬に、一点に集中して投じられたのである。

 TNT 爆弾の場合は、エネルギーはすべて爆風と熱線になる。それに対して原子爆弾にお いては、熱線と衝撃波およびこれにともなう爆風に用いられるのはエネルギーの 八五パーセントで、のこりの一五パーセントは放射線の形で放出される。この点 が、通常のTNT爆弾と原子爆弾との本質的な違いである。




広島型ウラン二三五原子爆弾リトルボーイ

広島に投下された原子爆弾(リトルボーイ)の外観(模型)(提供:WWP)




長崎型プルトリュム二三九原子爆弾ファットマン

長崎に投下された原子爆弾(ファットマン)の外観(模型)(提供:WWP)





広島・長崎に投下された原子爆弾の実物大模型

広島・長崎に投下された原子爆弾の実物大模型

 左が広島に投下されたウラニウム原爆 (ニックネーム:リトルボーイ=かわいい少年)、右が長崎に投下されたプルトニウム原爆 (ファットマン=太っちょ男)。アメリカ・ニューメキシコ州アルバクァーキーの原子博物館で。(撮影:豊崎博光)
                                                      
広島・長崎の原爆の諸元・比較
投下都市 広    島 長    崎
原子爆弾名 リトルボーイ フアットマン
投下航空機B-29 エノラ・ゲイ ボックス・カー
炸裂日時 8月6日午前8時11分 8月9日午前11時02分
形式・核物質 ウラニウム235 プルトニウム239
起 爆 砲撃型 爆縮型
通常火薬TNT相当換算 13キロトン 21キロトン
全 長 3メートル 3.2メートル
直 径 71センチ1.5メートル
重 量 4トン4.5トン






















火   球



 原子爆弾が爆発すると、爆発点では瞬間に摂氏数百万度の高温を生ずる。数百万 度の高温によって、原子爆弾を構成するすべての物質は電離状態になり、そこから ○・〇一ないし一〇ナノメートル(一ナノメートルは一〇億分の一メートル)の短い 波長の電磁波が放出され、それは周囲の空気に吸収されてその温度を上昇させ、火 球が形成される。広島.長崎型の原子爆弾では、爆発後一万分の一秒後には半径約 一五メートル、温度約三〇万度の火球が形づくられたのである。

 この時、火球の中 はどこでもほぼ同じ温度であるが、やがて中央の高温部分と、その外側のやや温度 の低い部分の二層が生ずる。しばらくの間火球は急速に膨張をつづけるが、衝撃波 はそれよりさらに速く進行し、衝撃波の進行にともなって火球外部の空気が熱せら れ、発光する。空気の温度が次第に下降し、発光が衰えると、この層を透して内部 の高温火球が見えるようになる。爆発後およそ○・〇一五秒のことである。

 このあ と中心の火球は徐々に大きさを増し、爆発の一秒後に最大に達する。この間、火球 表面の温度はいったん一八○○度まで下がった後ふたたび上昇し、爆発後○・二秒 で約七七〇〇度に達したのち、次第に下降する。約一〇秒後に火球の光輝は消える。 以上が、原爆投下時、広島・長崎で人びとが目撃した、爆発時火球の本態であったのです。



長崎原爆投下直後

長崎原爆投下直後

 長崎駅前を爆心地の方から非難してくる人たち 長崎で唯一の被爆当日の写真 
撮影者不明・写真提供:平和博物館を創る会




強烈な熱線



 原子爆弾の爆発により放出されるエネルギーは、熱線、衝撃波と爆風、および放射 線の形をとる。このうち、熱線のエネルギーは、空中爆発のさいには全エネルギーの 約三五バーセントを占め、広島・長崎型原子爆弾の場合、約七兆カロリーに達する。 火球から放射される熱線にはいろいろな種類があるが、紫外線など波長の短いものは 空気やオゾンによってほとんど吸収され、伝搬中かなり減衰する。遠方にまで到達す る熱線は、波長がより長い近紫外線、可視光線および赤外線である。

 紫外線、近紫外 線の大部分は、爆発後○・〇一五秒以内に放出され、地上にまで達するそれらのエネ ルギーは極めて小さい。地上の物体や人体に作用した熱線の大部分は、爆発後○・二秒 から三・○秒までの間に、大量に放出された赤外線によるものであったと考えられる。 火球から地上に伝搬する熱線のエネルギーは距離の二乗に比例して減衰し(すなわち距 離が二倍になるとエネルギーは四分の一となる)、また空気中のごみや水蒸気などによ って吸収され、あるいは散乱される。

 したがって霧があったりして視程のわるい気象 状況では、遠方へ到達する熱線のエネルギーの減少がいちじるしい。広島・長崎での 被爆時地上で受けた熱線エネルギーを、爆心からの距離別に計算したもので、当日の 視程を二〇キロメートルないし三〇キロメートルとみて、その両端の値を算出したも のである。熱線のエネルギーは一平方センチメートル当たりのカロリーで示してある。 大気圏の外で太陽に正対する一平方センチメートルの面積が三秒間に受ける太陽の輻 射エネルギーは約○・一カロリーであり、その六六パーセント、すなわち○・〇七カ ロリーが大気を温めるのにつかわれるのである。

 原子爆弾の熱線は、きわめて大量の ものが短時間に放射されるところに特徴があり、このような短時間では、熱伝導によ って周囲に逃げる熱量はわずかで、吸収された大量のエネルギーは物質の表面だけに 限局されるので、その表面は非常に高温になる。広島・長崎の場合、爆心地の地表面 の温度は、摂氏三〇〇〇ないし四〇〇〇度に達したものと推定される。


































                                                                                                                                                    
広島・長崎の地上で受けた熱線エネルギーの試算(庄野直美ほか(1975)による)
爆心地からの距離(m) 爆発点からの距離(m)* 熱線のエネルギー(cal/cu)**
視程20km 視程30km
広島 580 96 100
長崎 500 222 229
500 広島 766 53 56
長崎 707 107 112
1,000 広島1,156 22 23
長崎1,118 39 42
1,500 広島1,60810 11
長崎 1,5811820
2,000 広島2,0825,56,3
長崎2,0629,611
2,500 広島2,566 3,33,9
長崎2,550 5,76,7
3,000 広島 3,056 2,12,6
長崎3,041 3,6 4,4
3,500 広島 3,548 1,4 1,8
長崎3,536 2,4 3,1
4,OOO 広島 4,042 1,0 1,3
長崎4,031 1,7 2,2

*被災地点の地形や海面からの高さは無視している. **ここでは原爆の総エネルギーをTNT換算で広島13kt,長崎22ktとし,熱線のエネルギー Eはその35%,すなわち広島4.5×10の12乗cal,長崎7,7×10の12乗calとして計算した.





焼けただれたダイダイの実

焼けただれたダイダイの実

 爆心地よ03km、己斐町で。付近の茶臼山は一帯に焼け焦げていた。 熱線は、人間にケロイドの刻印を焼き付け、建物を燃やし尽くしただけではない。 その恐怖は、石段や壁に残る人影、路面に焼き付く欄干の影、ガスタンクに残る ハンドルの影、さまざまな植物などにも現われていた。

(撮影/菊池俊吉)



焼けただれたダイダイの実

石段に焼き付けられた人影

 紙屋町1丁目の住友銀行入口に残った人の影。 爆心地から東へ250mの地点。遺体を収容した人の証言で当日の朝銀行の開店を待 って石段に腰掛けていた女性の影だと推定されている。この石段は、後に広島平 和記念資料館に収められ、保存されている。

(撮影:1946年頃・松重美人所蔵:中国新聞社提供:広島平和記念資料館)



似島の干人塚

似島の干人塚

 

 被爆後、広島市内から似島に逃れた人の多くが、この地で息絶えた。陸軍検疫所に設置された 臨時救護所での死亡者も、茶毘(だび)に付され、そのまま氏名の確認なく埋葬された。

(撮影:1945年10月17日・菊池俊吉)






衝撃波と爆風



 原子爆弾が空中で爆発すると、衝撃波が発生する。衝撃波の伝搬速度は、 爆発点近傍では音速以上であるが、爆発点からはなれるにしたがって減少し音速と同 程度になる。それにしても、減少して音速同程度とは途方もないエネルギーである。 衝撃波が通過すると、その後方の空気は高密度・高温度となり、衝撃波と同じ方向に、 衝撃波よりおそい速度で移動する。

 これが爆風であり、最高速度は衝撃波の最高圧力 に依存し、風速は爆発点を遠ざかるにしたがって減少する。原子爆弾の空中爆発では、 さらにマッハ効果が加わる。すなわち、爆心地からの距離が爆発点の高さより大きく なる地点では、空中爆発からおこった直接波と、地面からの反射波が干渉してあらた な衝撃波を形成する。その圧力は一般に直接波より大きく、地上の物体にさらにつよ い水平力を与える。

 原子爆弾の全エネルギーのうち、約五〇パーセントが爆風のエネ ルギーになる。原子爆弾のこの爆風により、広い範囲の建造物に壊滅的な破壊がもた らされ、人や動物に殺傷を与えたのであった。広島・長崎の被爆後のわが国の学術研 究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会土木建築学科会の調査によると、爆心直下の 地点での爆風の圧力の大きさは、広島で一平方メートル当たり四・五〜六・七トン、 長崎で同じく六・七〜一〇・〇トン、その作用継続時間は約〇・四秒と推定されている。




































                                                                                                                  
広島と長崎の各種の構造物が構造損傷をこうむった平均距離(米国戦略爆撃調査団報告による) 構造物の種類
耐震設計された多層の構造物 広島 150
長崎 ---
多層の鉄骨および鉄筋コンクリート構造
(耐震および非耐震をふくむ)単層の重量鉄骨構造
広島210
長崎600
単層の重量鉄骨構造 広島---
長崎1.200
単層の軽量鉄骨構造 広島1.650
長崎 1.620
多層のレンガ壁構造 広島1.710
長崎---
単層のレンガ壁構造 広島2.190
長崎2.550
木造構造物(住宅外) 広島 2.610
長崎2.820
木造住宅外 広島 2.190
長崎2,460
                                                                                       
住宅破壊状況調査基準(宇田道隆ほか(1953)による)
区 分 屋根 建具 ガラス窓 摘 要
倒 壊 --- 住むに堪えず
大 破 --- 半ば以上破壊,住むに不適
中 破 外れ傾き--- 半ば破壊,住むに不適
小 破 無し--- 少し傷んだ程度,住むに差支えなし




荒野と化した広島市

荒野と化した広島市

  上は広島護国神社参道(北320m)付近から神社の鳥居、右に産業奨励館(原爆ドーム)がむ き出して望め、左側に広島第一陸軍病院第一分院(広島市民球場)の焼け跡。下は中国新聞社の煙突に上って 撮った南西のデルタ。右の山に瓦礫と なった己斐田町。いずれも、数カットをつないで360度のパノラマ写真にした、その一部。 被爆1か月後、撮影者の林さんは原子爆弾学術調査団のカメラマンとして広島・長崎に入っ た。「これがただ一発の爆弾で破壊された街なのか。どうしても受け入れることができない まま、私は爆心地に立ちつくしていた。…どの建物の亀裂跡も、茶毘に付されたまま放置さ れた遺骨も、戦争を否定する絶叫のように私には聞こえた」

(1945年20年10月・撮影:林重男提供:広島平和記念資料館)




被爆で破壊された長崎の惨状

原爆投下後の破壊された長崎の惨状




 爆心地より800メートル付近から撮影した破壊し尽くされた浦上地区周辺 
1945年 昭和20年10月中旬撮影:林重男(長崎原爆資料館提供)






治療を受けて帰途につく親子

治療を受けて帰途につく親子・広島

  爆心地より4,2kmの宇品(うじな)町で。母と娘は負傷し、 車を押す父親も腕に火傷している。
(撮影:1945年8月中旬・宮武甫提供/朝日新聞社)




8時15分で止まった懐中時計。

8時15分で止まった懐中時計。

 広島:被爆者のそれまでの生活も,この時を境に止まってしまった。
撮影:森下一徹




腕時計

腕時計

   1955年(昭和30)年4月、平和記念館の東側にかかる元安川下流150mで発見された。 被爆の時間を指している。持ち主不明。
(所蔵/広島平和記念資料 館=中本ヒデノ寄贈撮影:土田ヒロミ)




長崎の柱時計

長崎の柱時計

 爆心地より約/1km、山王神社近くの民家にあったもの。 爆風で損傷したが、針は爆発の瞬間11時2分を今も記憶している。

(提供:長崎原爆資料館)





建物の破壊



 衝撃波が建物に到達すると、建物の壁が受ける圧力は、衝撃波の圧力の二〜五 倍となり、強裂な衝撃力として作用する。このため建物は爆風方向に押され、あるい は建物全体が圧しつぶされるような力がはたらく。建物が壊れるのは、このような圧 力による破壊と、建物に吸収されるエネルギーによる力積破壊の二つの機構によるの であるが、原子爆弾による建物の破壊の機構は両者の中間にあり、むしろ圧力破壊に 近いものであったと考えられている。

 具体的に、木造家屋、鉄筋コンクリート構造物、 鉄骨構造物の各々について、広島・長崎での破壊状況をみると、まず木造家屋では広 島の場合、爆心地から二キロメートルの地点で全壊一〇パーセント、半壊・軸部損傷 四〇パーセント、四キロメートルでは全壊・半壊・軸部損傷ともになく、建具の被害 のみであり、木造家屋の倒壊限界は二・五キロメートルであった。別の調査によれば、 木造家屋の倒壊範囲は二・五〜三キロメートル、大破の範囲は三〜四キロメートル、 中破の範囲四〜五キロメートル、小破の範囲五〜一〇キロメートルであり、二七キロ メートル遠方でも窓ガラスが壊れた例があるという。

 長崎では、一キロメートル以内 では家屋はほとんど原形をとどめないまでに破壊され、木材は粉々に粉砕されてしま った。一〜二キロメートルでは主に継手が壊されて全壊しているが、細部はそのまま のこり、トラスもほぼその形をとどめた。二〜四キロメートルでは家軸はのこってい るが、壁・天井・床はほとんど壊され、細い柱は中央で割れているものが多いという 状況であった。広島では都心に多くの鉄筋コンクリート建築があり、それらが破壊さ れたが、破壊の及んだ範囲は爆心地から五〇〇メートル内外であった。

 このように爆 心地に近い地域では、建物に作用する力は主として垂直の方向に加わるために、屋根 のスラブの変形や破壊、大梁や小梁の破損が主体であった。破壊がいちじるしかった のは、レンガ造りと併用したもの、耐震設計が施されていなかった建物である。長崎 では破壊限界は七五〇メートルと考えられているが、この限界内にあった主な鉄筋コ ンクリート建築は、鎮西学院中学部(爆心地から約五〇〇メートル、屋根崩壊)、城山 国民学校(約五〇〇メートル、一部崩壊)、長崎医科大学附属病院(約七五〇メートル、 バラぺット、スラブの一部に亀裂)などである。

 爆心地から離れた建物では、水平に はたらく力の割合が大きくなり、その作用による屋根スラブの破壊、柱の剪断(せん だん)破壊、外壁の破壊などを生じた。鉄骨建造物はコンクリート構造の建物よりも 被害が大きかった。この種の建物は水平方向の力に対する抵抗が弱いために、爆心地 から離れた地点でも水平方向の力を受けて変形した。長崎では広島に比べてこの種の 工場建築が多く、爆心地から一キロメートル付近では軸組の部分が傾斜し、小屋組が 崩壊した。一・五キロメートル離れたところでも、各部材は大きく変形し、建物全体 が傾いた。一・八キロメートルまで顕著な損傷をこうむっている。

 広島の爆心地から約五五〇メートルのところにあった広島市水道部の鍛冶場の建物で、 爆心地と反対の方向への変形がみとめられる。レンガや石で造った建物は外圧に対し て弱い。とくに水平方向の力に対する抵抗に乏しい。長崎の爆心地近くにあった浦上 天主堂は、浦上の信徒が長い年月をかけ、レンガをひとつひとつ運んで営々として築 き上げた、東洋一の壮麗な教会建築であったが、一瞬にして崩壊して廃墟と化した。  爆風による建造物の被害状況は広島と長崎とで差異があり、長崎の方が破壊がつよか った。

 それは、(一)爆弾の種類および爆発点の高度、(二)爆心地をとりまく地形、 都市構成などの相違によるものであると考えられる。爆弾の規模は、リトルボーイ( 広島)がTNT換算約一万二五〇〇トン、ファットマン(長崎)が約二万二〇〇〇トンであ り、それが広島では高度約五八○メートル、長崎では約五〇〇メートルで爆発した。 爆心地をめぐる地形は広島が平坦な平野であるのに対して、長崎では両側を低い丘陵 によって限られ、中央を浦上川が流れる、南北に長い谷地であった。広島の爆心地が 市街中心であったのにたいし、長崎の爆心地は市の中枢を外れていたのである。鉄 筋コンクリート構造物の被害距離は長崎が広島の三倍程度大きいことが注目される。



破壊された浦上天主堂

浦上天主堂(本尾町,爆心地から東北東500m)1945年10月中旬,長崎.(撮影:林重男)

 浦上天主堂。1925年(大正14年)に建立され、双塔の高さ26mに及ぶ東洋一の壮大さを誇っていたがその天主堂 も廃墟と化した。爆心地付近から本尾町・浦上天主堂(東北東500m)望む。この浦上天主堂の廃虚は、広島の原爆ドームとも称された。長崎の代表的な原爆遺跡 されていましたが、平和祈念のシンボルとして永久保存しようという話が上がったが、破壊が激しく 保存に耐えられないとの理由で、1958年4月に全面撤去されることとなり、長崎はこの歴史的な破壊 建造物を失ってしまったのである。10月中旬撮影:林重男



浦上天主堂の聖母像とヨハネ像

浦上天主堂の聖母像とヨハネ像。

 廃墟と化した浦上天主堂 爆心地よ東北東500m。浦上天主堂の南側 入口に立つ悲しみの聖母像(左)と聖ヨハネ像(右)。被爆時、2人の神 父と20数名の信徒が瓦礫と化した天主堂と運命を共にした。(撮影/ 1945年10〜11月・アメリカ戦略爆撃調査団提供/平和博物館を創る会)



現在の浦上天主堂

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現在の浦上天主堂

 現在の天主堂は原爆で被災して破壊される依然の天主堂を参考に、多少の違いはあるが、1959年(昭和34年)に再建されのです。 天主堂の前方には立っているのは、爆風で首が吹き飛ばされた聖像の体の部分。その他周辺には熱線で黒く焼けた天使の顔がなどが置かれている。






原爆放射線



 原子爆弾の空中爆発によって生じる放射線は、爆発後一分以内に放出され る初期放射線と、それ以後のある期間、被曝地域にみとめられる残留放射線の二つに 大別することができる。このように大量の放射線を放出することこそ原子爆弾が通常 の火薬爆弾と根本的に異なる点であり、原子爆弾の被爆者に深刻な放射能傷害を生じ、 これらの人びとを長く苦しめることとなった最大の原因である。


初期放射線

原子爆弾の初期放射線には、アルファ線、べータ線、ガンマ線ならびに中性子線が初 期放射線ある。アルファ線は分裂しなかったウランやプルトニウムから、またべータ 線は核分裂生成物からそれぞれ放出される。しかし、アルファ線とべータ線は空気中 での透過力がよわいので、爆発直後に放射されたこれらふたつの放射線は地上にまで 到達することはできないとわれる。それゆえ、人体や動植物への影響の観点からは、 初期放射線として、ガンマ線と中性子線が重要な意味をもつ。この両放射線のエネル ギーは、爆発で放出される全エネルギーのおよそ三・〇パーセントを占める。


ガンマ線

初期放射線のうち、ガンマ線には、ウランまたはプルトニウムの核分裂のさいに発生す るガンマ線、核分裂で放出された中性子が周囲の原子核に吸収されて生ずるガンマ線、 および多種多様の放射性核分裂生成物から放出されるガンマ線がある。地上に到達する ガンマ線のほとんどは、核分裂生成物によるものである。


中性子

中性子は原子核の構成粒子のひとつで、電子的に中性であるが、広島.長崎の原爆 の中性子エネルギーの範囲では、速度の二乗に比例したエネルギーをもつ。速い中性子と 遅い中性子とが区別され、たとえば一メガ電子ボルト(メガは一〇〇万を意味する)の速い 中性子の速度は毎秒一万四〇〇〇キロメートル、〇・〇二五電子ボルト程度の熱中性子は 遅い中性子で、その速度は毎秒二・二キロメートルである。核分裂とともに放出される中 性子はほとんどが速い中性子で、その一部は爆弾機材を通過するさいにこれらの物質の原 子核と衝突して減衰したり、原子核反応をおこしたりするが、大部分は空中に飛散し、空 気中においても窒素や酸素の原子核と衝突減速するが、吸収をまぬがれたものはほとん ど瞬時にして地上に到達して降りそそぎ多大な被害をおよぼしたのです。







身元不明の遺骨。

身元不明の遺骨

 身元の分からない遺骨は何ヶ月も放置された状態のままであった。長崎・1945年(昭和20)年10月中旬:撮影:林重男

(「ヒロシマは昔か-原水爆の写真と記録-庄野直美・編著より」)

白い骨になって

ああ

お母ちゃんの骨だ

ああ ぎゅっとにぎりしめると

白い粉が 風に舞う

お母ちゃんの骨は 口に入れると

さみしい味がする

たえがたいかなしみが

のこされた父とわたしに襲いかかって

大きな声をあげながら

ふたりは 骨をひらう

菓子箱に入れた骨は

かさかさと 音をたてる


林幸子・広島(一六歳)『原子雲の下より」 から

「ヒロシマの空」






































フォールアウト



 放射性降下物(フォールアウト)は、原子爆弾の爆発時に空中に飛散した核分裂生成物、 未分裂のウランまたはプルトニウム、誘導放射能を帯びた原爆器材などが、地上に降 下して、放射線の発生源となるものである。これらは微粒子の塵挨の形で大気中にた かく吹き上げられ、風とともに移動拡散して徐々に地上に降下し、あるいは条件によ っては特定の地域に集中的に落下する。雨はその降下をうながす条件のひとつである 。

 広島では原爆爆発時、高度数百ないし数千メートルの上空で、一秒間一〜三メート ルの南東の風が吹いていたと思われ、原爆の爆発により生じた巨大なキノコ雲は、爆 発後二〇〜三〇分ころ から徐々に北北西方向に移動し、その雨域と空中に吹き上げられた飛散物の進行方向 は図9のとおりであった。



blackrainmap.JPG

↑enter

放射能をおびた黒い雨の降った地域。




 ことに爆心地から二キロメートル以内の壊滅地域をふくむ、 長径一九キロメートル、短径一一キロメートルの楕円形の区域には、一時間以上にわ たり大雨があった。この雨は「黒い雨」で、粘り気のある泥雨であり、そのなかに放 射性降下物がふくまれていた。大雨の間、盛夏にかかわらず急激に気温が低下し、寒 くてふるえるほどであったと記録されている。黒い塵灰の降下地域は雨域の外周数キ ロメートルの範囲にひろがり、五〇キロメートル以上はなれた島根県側でも多少の降 下物があったと言います。

 長崎では原爆雲(キノコ雲)を爆心地の東方四五キロメートルの雲仙温泉岳測侯所から 望見した記録がのこされているが、それによると午前一一時四〇分ころ、長崎の上空 に積乱雲とその下の黒煙がみとめられ、雲底一二〇〇〜二二〇〇メートル、雲頂四〇 〇〇〜五〇〇〇メートルと思われた。それが午後○時一〇分ころ、東北東に崩れ出し た。その後キノコ雲は真東の方向に移動し、午後二時に雲仙岳付近を通過した。それ にともない、爆心地の東方約二キロメートルの金比羅山付近では、原爆投下後約四〇 分を経たころから雨が降り、金比羅山東側のにしやま真裏にあたる西山地区でも、原 爆投下二〇分後ころからかなりの降雨を見た(図10)。↓



広島の黒い雨

爆発後の黒い雨の様子を示した図。




 雨は時に夕立のように激しく、 継続して夜までつづき、しばしば塵灰をまじえた。西山地区の雨は黒い雨で、雨とと もに放射性物質がこの地域に集中的に降下したと考えられる。

 雲仙では、午後一時五 〇分から二時にかけてわずかに雨が降った。塵灰は主として長崎市東北部の矢上、戸 石、古賀、喜々津、困結、江の浦の各村および諌早市に降下し、また原爆投下直後、 観測機から投下された落下傘をつけた三個のラジオゾンデは、戸石村上川内、田結村 補伽、江の浦村嵩に、午前一一時三〇分ないし正午ころから午後一時にかけて落下し た。以上の諸事実から、長崎では原爆爆発時、上空で毎秒三メートル前後の東ないし 東北東の風が吹いていたと推定される。

 原子爆弾の爆発によって生じるアイソトープ は約二〇〇種類に達し、その大部分は放射性である。長崎西山地区の土壌の分析の結 果、ストロンチウム八九(半減期五二・七日)、バリウム一四〇(半減期一二・八日)、 プラセオジム一四四(半減期一七・三分)、ジルコニウム九五(半減期六五・五日)、ス トロンチウム九〇(半減期二七・七年)、セシウム一三七(半減期三〇年)、セリウム一 四四(半減期二八五日)が検出されている。

 このほか核分裂をまぬがれたプルトニウム 二三九も見出された。一〇月三日から七日にかけて実測された成績によると、地上一 メートルでのガンマ線線量率は広島の爆心地の西方三〜四キロメートルの地域で最高 毎時○・〇四五ミリレントゲン、長崎の西山地区で最高毎時一ミリレントゲンと記録 されている。これらの値は、地上一五センチメートルの位置で、広島の場合四〜四四 ラド、長崎西山地区で三〇〜一四九ラドのつよさに当たる。

 放射性降下物は呼吸によ り、また食物や飲料水がそれによって汚染されるため、人の体の内部にとりこまれて、 内部照射の形で人体に影響を与える。半減期の長い一部の放射性アイソトープは長期 にわたって体内にとどまる。一九六九年から一九七一年までの間にヒューマンカウン ターを用いて測定された結果では長崎西山地区住民のセシウム一三七体内量は他の地 域の住民に比べて二倍ちかく多いことが見出されているのである。とても長く残留し て人々を苦しめているようです。



広島に降った黒い雨

「黒い雨」の跡の残る白壁.(広島平和記念資料館蔵)




原子爆弾症の経過



 広島・長崎での被爆の結果人体に生じた傷害は、初期の急性原子爆弾傷のほか、 その続発症、後遺症、およびやや年月を経たのち発症した後障害など、諸種の 相に大別することができる。急性期原子爆弾傷は被爆直後からおよそ四カ月後 までの時期にみられた病変で、被爆とその災害による直接的な傷害と、その続 発症状を主な内容とするものである。経過的に急性期原子爆弾傷は三期に区分 することができる。

 第一期(早期)は、被爆直後から第二週の終りまでの間の状 態で、熱線および火災による熱傷、爆風および建物の倒壊による外傷が主なも のであり、爆心地に近いほど傷害は重く、原子爆弾傷の急性期死亡者のうち、 約一〇分の九がこの時期に死に至った。なかでも熱傷を主症状とする者が大半 を占めた。第二期(中期)は、被爆後第三週から第八週の終りまでの時期で、こ の時期には原子爆弾放射能症、すなわち放射線による傷害が症状を現わし、熱 傷や外傷が軽度にとどまった人あるいは一見何らの傷害を受けなかった人にも 、脱毛、貧血、白血球減少、出血傾向、下痢などが現われた。

 急性期死亡のお よそ一〇分の一はこの時期での死亡である。第三期(晩期)は、熱傷、外傷、放 射能症など各種の傷害の症状が、その程度や遅速に差はあれ、おおむね回復に 向かった時期で、被爆後三カ月の始めから四カ月の終りまでの期間である。諸 種の傷害をこうむっても、この期まで生存し得た人びとの多くは急性期死亡を まぬがれた。

 しかし、なかには種々の続発症状を合併して重態におちいり、つ いに死に至った人びともある。酸鼻をきわめた急性期原子爆弾傷は、総じて一 九四五年(昭和二〇年)一二月ころまでには一応その峠を越え、人びとは愁眉を ひらいたのであるが、障害はそれで終息したのではなく、熱傷や外傷の治癒の 後には高率に四肢の変形、瘢痕(はんこん)性拘縮、ケロイドなどの後遺症が のこり、また放射能症に起因する貧血、白血球の異常、男性の不妊、女性の不 妊、月経異常、あるいは身心の不調などの症状が、その後も長く継続したので ある。また母親の胎内にあって被爆した人びとのなかには小頭症が少なからず 現われた。

 そればかりでなく、その後それぞれの潜伏期をおいて、さまざまの 後障害が被爆者に見られるようになった。そしてこの後障害は被爆後四〇年を 経た今日においても完全な終焉(しゅえん)に達していない。たとえば一九四 八年秋広島で原爆白内障の第一例が発見され、以後広島・長崎とも多数例が観 察されている。また一九四五年長崎で、一九四六年広島で被爆者に白血病が見 出され、被爆者の白血病はその後年を追って発生率が増加し、一九五〇〜五三 年にピークに達し、そののちも高率を保っている。

 白血病のピークにややおく れて、被爆者の間に、甲状腺癌、乳癌、肺癌、唾液腺癌その他のがんの多発の 傾向が目立っようになった。その他、被爆者の第二代、第三代の子孫への影響 、遺伝的な影響も慎重に留意されなくてはならぬ課題である。原爆とは、通常 ば爆弾は違い、以上のごとくその場さえ凌いでだ助かればそれで終わると言う ものではなく、子孫の末代まで尾を引く傾向にあり、





一九四五年八月10日,防空壕からカメラにほほえむ少女

防空壕からカメラにほほえむ少女


 爆心地よ2.5km、中町天主堂がかすかに見える。悲惨な光景が続く原爆 写真のなかで、救いのようなこの1枚は、1952年9月29日号の雑誌『ラ イフ』に「ラッキーガール」として掲載されたが、現実は被爆者であ ったが故の悲劇を生き、放射能による白血病が原因で51歳の生涯を終 えたのだった。被爆時、彼女は18歳。長崎の姉夫婦を頼って故郷・熊 本を離れ、国鉄の女性車掌として働いていた。被爆1週後、同じ職場の 男性と結婚。4児をもうけるが、被爆15年目に白血病を発症。被爆時の 精神的衝撃、病のおびえから逃れようと多量の飲酒にのめり込むように なり、24年の結婚生活にピリオドを打つ。入退院を繰り返していたが、 晩年は手足も不自由になり、言語障害も現れたという。

(撮影/1945年8月10日朝・山端庸介)





急性期の原子爆弾症



上記で述べたように、原子爆弾の災害は、熱線、爆風、および放射線によって もたらされる。急性期原子爆弾傷はそれらの作用の複合的結果であり、人体の 傷害はその成り立ちのうえから次のような病変にわけられる。


T原子爆弾熱傷

(一)第一次熱傷(射熱傷)

(二)第二次熱傷(焦熱傷、触熱傷、炎熱傷)


U原子爆弾外傷

(一)第一次損傷(爆風傷)

(二)第二次損傷(埋没損傷、圧迫損傷、破片損傷)


V原子爆弾放射能症

(一)第一次放射能症

(二)第二次放射能症






 原子爆弾熱傷熱傷のうち第一次原子爆弾熱傷は、原子爆弾爆発時発生する熱線 が直接人体に達して生ずる熱傷であり、これに対して第二次原子爆弾熱傷とは 、原子爆弾の熱線のため生じた火災によって、いわば間接的におきる熱傷であ る。前者は熱線(赤外線)の照射によるものであるから射熱傷といい、後者には 、熱気による焦熱傷、高温の物体にふれることによっておきる触熱傷、火炎に よる炎熱傷などがある。広島・長崎では第二次熱傷としては、炎熱傷がもっと も多かったと思われる。

 第二次熱傷は日常しばしば経験されるが、第一次熱傷は特別の性質の熱傷で、 異常な高熱が、ごく短時間、熱線の照射(方向に面した)体表の皮膚に作用する 。このため、熱は皮膚の下層に伝導されるいとまのないまま表層に貯えられ、 照射を受けた表皮組織が一様に浅くおかされ、下層の健常の部分との境界がは っきりしている。

 傷害の程度は熱線のつよさに応じて一度から五度までにわけ られる。一度の熱傷では皮膚の発赤(ほっせき)を見るのみであるが、二度以 上になると表皮の組織が死滅して白っぽく凝固し、高度のばあい水泡を多数生 ずる。さらに熱線が強烈であると、表皮は黒く焦げて炭化(五度)してしまう。 傷害を受けた表皮はやがて薄いかさぶた様になり、熱傷が軽いときには数日 または数週後剥脱(はくだつ)して、その跡は赤みを帯びた淡黒褐色の光沢の つよい皮膚面となる。

 また組織の死滅がやや深層に及ぶと、創面は瘢痕(はん こん)をのこす。熱線のエネルギーがいちじるしく大きい場合には、表皮の炭 化にとどまらず、内臓までが蒸発してしまうことがある。もちろん即死をまね く。広島・長崎とも爆心地ではこのような状態があり得たと思われる。そして 、広島で爆心地から一キロメートル以内、長崎で一・五キロメートル以内で五 度以上の重い熱傷を生じ、一〜四度の熱傷は、広島で三・五キロメートル、長 崎で四キロメートルまで及んだと言われている。




放射能障害で脱毛した姉弟

放射能障害で脱毛した姉弟

 姉11歳、弟9歳。爆心地からおよそ1kmの船入田町の自宅で被爆。2人仲良く宿題をしてい た時だった。2人はおよそ2か月目から髪の毛が抜け始め、広島赤十字病院で治療した結果、 一時的に髪右はえ、回復したようにみえたが、1949年に弟が死亡。姉は結婚して1児をもうけ たが、1965年に原爆症で死亡した。
(撮影:1945年10月・菊池俊吉)





地を這う老婆・長崎

地を這う老婆・長崎

 爆心地より南1.2km、三菱製鋼前の県道で、恐怖のため地を這い回る老婆。
(撮影:1945年8月10日・山端庸介)









                                              
表15・20日後生存者にみられた熱傷の種類(Oughtersonほか(1956)による)
/// 観察患者数 第1次熱傷(%) 第2次熱傷(%) 両型の混在(%)
広島 1,92183,21,914,9
長崎 1,00490,93,45,7



熱線と火炎に焼かれて



 広島・長崎での被爆時の熱傷は、現実には第一次熱傷と第二次熱傷の混在した 形のものであり、第一次熱傷や外傷を受けた人びとがさらに火災の炎を浴び、 また熱線が衣類を焼いて、第一次熱傷に第二次熱傷が加わった。しかし早期の 死亡をまぬがれた被爆者にみられたのは大部分射熱傷であり、被爆後二〇日後 の生存者における両型の熱傷の割合は表15のとおりであった。

 熱傷による即死 ・即日死あるいは早期の死亡がどのくらいあったかは不明である。学校や工場 などで状況が把握できた集団の例をみると、遮蔽のない条件で爆心地から一キ ロメートル以内で被爆し重い熱傷を負った人は九〇〜一〇〇パーセントが一週 間以内に死亡した。また爆心地から一.五キロメートルと二キロメートルの間の 被爆者の早期死亡率は、遮蔽のあった人で約一四パーセント、遮蔽のない場合 約八三パーセントであり、総じて非遮蔽条件下での熱傷による死亡はおよそ七 〇パーセントと推定される。

 被爆後二〇日現在の生存者についての調査資料を 基礎に、被爆者における熱傷と外傷の頻度、およびその被爆距離との関係を算 出し図示したものが図14である。また一九四五年一〇月から一二月にかけての 生存者について熱傷の受傷部位をしらべた結果では、爆心地から一・一キロメ ートル〜二・五キロメートルで被爆した人びとの場合、屋外での熱傷が顔面、頸部、 上肢、下肢など夏季の軽装で露出していた皮膚面に多かったことが知られてい る。ある程度の射熱傷に対して衣類が遮蔽効果をもたらしたのである。しかし 同じく衣類であっても、黒色または黒みの濃い部分」は熱線を吸収しやすく、 このため衣類下の皮膚に衣類の模様が焼きっけられる形で熱傷をのこしたこと も少なくない。




























                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

広島における建物別被爆状況(『原子爆弾災害調査報告書(総括編)』にもとづく)

集団名と建物の名称

作業状況と建築様式

位置(km)

人員

死亡

生存

死亡率(%)

即死

後刻死

放射症

有傷

無傷

比治山女学校生徒

朝礼体操

北東0.8

52

10

42

52

0

0

0

O

100.O

竹勤大竹労奉仕小方村隊

家屋疎開

西O.4

87

80

7

87

O

O

O

O

100.O

大竹勤労奉仕玖披村隊

川船へ瓦積込中

西1.1

101

43

48

91

10

0

0

10

90.0

大竹勤労奉仕森本隊

道路上休憩大部分2階屋陰

31

4 

22

26

4

0

0

4

84.6

広島第一陸軍病院

木造平屋

北O.5

750?

600?

150?

749

0

0

1

1

99.9

移動劇団宿舎

木造2階

東O.7

17

13

4

17

0

0

0

0

100.0

広島第二陸軍病院

木造平屋

北1.O

402

90?

213?

303

---

---

---

99

75.3

日本銀行支店

コンクリート3階

南東O.4

75

33

10

43

23

6

3

32

57.3

中央電話局

コンクリート7階

南東O.5

150

50

93?

7

1OO?

33.3

中国配電会社

コンクリート5階

南O.8

183

48

16

64

51

3

65

119

34.9



                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

表14長崎における建物別被爆状況(『原子爆弾災害調査報告書(総括編)』による)

建物の名称

建築様式

位置(km)

人員

死亡

生存

死亡率(%)

即死

後刻死

有傷

無傷

刑務所脇横穴式防空壕

素掘

北東0.1

50

42

1

43

2

5

7

86.O

城山国民学校

コンクリート3階

西O.4

151

52

79

131

9

11

20

86.7

鎮西学院中学部

コンクリート5階

南西O.5

91

46

30

76

14

1

15

83.5

鎮西学院中学部別館

木造1階

南西O.5

27

22

5

27

0

0

0

1OO.O

三菱製鋼工場

鉄骨スレート葺・一部コンクリート

南O.6〜1.0

1,720

9月15日まで
10月15日まで

883

---

---

---

53.251.3

1OO.O

長崎医大附属病院

コンクリート3階

南東O.8

243

---

---

69

---

---

174

28.4

淵国民学校

コンクリート2階

南南東1.2

66

4

18

22

30

14

44

33.3

三菱兵器茂里町工場

コンクリート・鉄骨スレート葺

南1.O〜1.5

2.201

9月1日まで
10月1日まで

170

600?

---

---

---

7.9

三菱兵器大橋工場

同上

北1.2〜1.7

6.028

9月15日まで
10月15日まで

479

1.200?

---

---

---

1.99?







ロー人形

平和記念資料館(西館)内

 平和記念資料館(西館)内にロー人形でで出来た皮膚の垂れ下がった人形が展示されている。見るに耐えない状況でロー人形ながら、 立っていると以下にこの原爆が悲惨であったかと今更ながらに再認識した次第です。



垂れ下がる皮膚



 原子爆弾熱傷の経過上の特徴は、それが単なる熱傷として発生し たものではなく、大部分が同時に爆風による外傷、放射線による傷害をともなっ たことである。そのため「中心地区においては高度の熱傷をこうむった者は、シ ャツ、衣類等悉く焼け焦げ、次で襲い来たった爆風のため吹き飛ばされ、露出部 の皮膚は焼け欄れた上、剥離され、皮膚弁がベロベ ロと垂れ下ったものがはなはだ多く、大部分のものが、内臓の直接熱傷をこう むり、即死または即死に準ずべき死を遂げた。

 (『原子爆弾災害調査報告書(総 括編)』)また爆心地から二キロメートル前後までの地点にいて中等度の熱傷を 負った者は、「焼壊死(えし)組織(焼けて死滅し凝固した組織)の分画脱落に 手間どり、加うるに、このような傷者はいずれも、ある程度の放射能障害をも あわせこうむっているので、組織反応機転(熱傷に対しそれを修復しようとす る生体の反応の仕組み)の変歪(変化して異常となること)に基く創面治癒の遷 延と伝染(細菌などの感染)に対する抵抗力の減弱とによって、熱傷面の化膿 を来したものがはなはだ多く」、「また熱傷面の化膿の治癒障害のため、全身 の衰弱を招来して不良な予後へと陥ったものもあった。」加えて、困難な食糧 事情による低栄養状態、医薬品の不足による早期治療の不及なども熱傷の経過 に影響し、高度の瘢痕(はんこん)形成、色素沈着または色素脱失をのこした ものが少なくない。それらのなかから瘢痕の拘縮、ケロイドの形成が高率に発 生したのである。



広島に降った黒い雨

皮膚熱傷痕が残る女性。

 熱線によって背面および上膊背側に焼きつけられた衣類の布 地模様.黒または濃色の部分のみ熱線が透過し,それによって皮 膚に熱傷を生じたもの(広島,1945年9月3日,広島第一陸軍病院宇 品分院).(撮影:都築正男・木村権一「米国返還資料より」)





胎内被爆と小頭症



 母親の胎内にいた胎児にも、被爆は種々の影響を及ぼした。長崎で爆心地から二キロ メートル以内で被爆した妊娠婦人九八人について、爆心地から四〜五キロメートルで 被爆した妊娠婦人一一三人を対照として加え、妊娠の経過および出生児の異常をしら べた結果によると、爆心地から二キロメートル以内で被爆し、脱毛、出血傾向および 出血、口腔咽頭病巣などの急性放射能症の症状を母親が呈した場合には、胎児の死亡 、生まれた子どもの新生児期・乳児期における死亡率がきわめてたかかった(表24、表 25)。また生き残った出生児のおよそ二五パーセントに知能発達の障害がみとめられた 。

 新生児期、乳児期をすぎても、胎内被爆児は死亡率がたかく、とくに生後三年以内 と、幼年期.学童期にかけての死亡率がふつの子どもよりもたかい。死亡率がたかいば かりでなく成長・発育も下回る傾向がある。広島・長崎の胎内被爆児一六〇八人につ いて、九歳から一九歳までの間、毎年誕生目に診察・観察をつづけた成績によると、 近距離被爆群の成長がもっともおくれており、主な影響は爆心地から一・五キロメー トル未満で母親が被爆した子どもたちにつよく、頭囲、身長および体重の減少がみと められた。

 また一〇歳から一七歳までの成長の過程をしらべてみると、胎児のとき大 量の放射線を受けた子どもは、一〇歳の時にも体が小さく、頭が小さい傾向がある。 一七歳の時も同様で率ある。しかし、この七年間の成長量はふつうであり、成長率の 最高値を受けていない子どもたちとほとんど変わらない。つまり、人胎内被爆児は初 期からの発育障害をのこしたまま対照群の子どもたちとほぼ同様の成長を示すのであ る。胎内被爆児のなかには頭がとくに小さく、小頭症とよばれる状態のものがある。

 小頭症とは頭囲が同性同年齢の平均頭囲に比べて二標準偏差(標準偏差の二倍)以上に小 さい場合をいい、その程度がつよいときには知能の発育のおくれをともなう。原爆がの こしたもっともいたましい後遺症のひとつである。一九七二年に、広島三八八人、長崎 九九人、および対照(母親が三〜五キロメートルで被爆したか、または被爆当時広島・長 崎に在住していなかったもの)一〇一〇人についてしらべた結果、広島四八人(うち知能 のおくれのある人一〇人)、長崎一五人(うち四人に知能のおくれがある)の胎内被爆小頭 症が見出された。

 被爆との関係を解析すると、胎齢一八週未満、ことに三〜一七週で被爆 した場合、小頭症、ことに知能のおくれをともなう小頭症の発生頻度がたかい。このよう に感受性がもっともたかい妊娠一八週未満の胎児に影響して小頭症を発生せしめる最低の 放射線量は広島の場合一〇〜一九ラドで、小頭症の頻度は被曝線量の増加につれてたかく なる。五〇ラド以上の線量を受けた三七人の母親には、その子ども一六人に小頭症がみら れ、一五〇ラド以上被曝した一三人の母親では五人の子どもに小頭症があり、そのすべて に知能のおくれがあった。

 妊娠一八週以降に五〇ラド以上被曝した母親は四二人で、その 子ども三人に小頭症が、一五〇ラド以上被爆した母親からの一人の小頭症には知能のおく れがみとめられた。これに対して長崎では、低線量が頭囲に及ぼした影響は、三〇〜三九 ラドの四人のうち二人のみにみられ、妊娠一八週未満に一五〇ラド以上の線量を浴びた母 親は九人で、その子どもに小頭症が八例あり、うち三人は知能のおくれをともなっていた 。以上のように、広島と長崎とでは、最低線量効果に若干のちがいがあるようです。



原爆小頭症

原爆小頭症

 精神薄弱者設置で箱貼りの軽作業をする小頭症の女性(左)。 広島・長崎への原爆投下から六〇年以上経った現在も、被爆者の苦しみや悲しみや怒りは、人それぞ れに違っても、消えることなく続いています。それを端的に象徴しているのが、原爆小頭症の存在 です。母親の胎内で被爆し、奇形をもって生まれ出た胎内被爆者の中には、頭が小さくて知能が遅 れてしまった。小頭症障害者の方がおられます。
1969年(昭和44)年。撮影/福島菊次郎








                                                                
表24被爆妊娠婦人の胎児死亡率(Yamazaki,J.N.ほか(1954)による)
被爆状況 受胎数 流産 死産 胎児死亡%
0〜2.Okm 放射能症(十) 303423.3
O〜2.0km 放射能症(一) 68124.4
4.0〜5.Okm 対照 113212.7


                                                                
表25胎内被爆児の新生児・乳児死亡率(Yamazaki,J.N.ほか(1954)による)
被爆状況 母親 新生児死亡 乳児死亡 死亡率%
O〜2.Okm 放射能症(十) 233326.1
O〜2.Okm 放射能症(一) 65304.6
4.0〜5.Okm 対照 110133.6












遺伝的影響



 放射線が遺伝的な異常をひきおこすことは動物実験上以前から知られているところであり、 広島・長崎の原爆被爆の後にも、遺伝的な影響が被爆者に現われるかも知れぬということが 、ふかく憂慮されたのであった。そのため、被爆した人びとのなかに、突然変異による流産 や死産があるか否か、生まれた子どもに先天異常や奇形がふえているか否か、出生児の男女 の性比に遺伝的影響を示すような変動があるか否か、被爆第二世の死亡率や身長などに異常 があるか否かなどがくわしくしらべられ、また上述の体細胞染色体分析も、遺伝的影響の観 点から吟味が加えられたのである。

 さらに外形や細胞の形に現われない、微妙な遺伝子の変 化をさぐるために、人間の血清のタンパク質のアミノ酸構成およびその配列の検討が、多く の種類のタンバク質についてすすめられた。この方法は遺伝生化学的調査とよばれ、およそ二 六万の遺伝子の突然変異の有無を検出することができる。以上のような各種の調査の結果は、 現在までのところ、被爆者の子孫に有害な影響は見出されていない。それは、人間が世代間隔 が長く、流産率がたかく、子どもの数が少ないことなど、遺伝的調査・研究がむつかしい対象 であることを考慮に入れなくてはならず、原爆被爆が遺伝的に無害であることを立証するもの ではない。

 したがって今後も長期にわたる観察・研究が必要である。しかし、今まで広島・長 崎の被爆者に有害な影響が見出されていないことは、広島・長崎の原爆災害に関する限り、私 どもにつよい安心感を与えるものである。被爆第二世すなわち被爆者の子どもたちに、白血病 やがんが多発する傾向があるか否かは、一般の遺伝的影響とは別個に注意を要する問題である。 現在までの調査では、被爆者の子どもに白血病やがんが増加しているという確証はないが、こ れらの子どもたちもがん年齢に達しつつあり、なお今後の観察が不可欠である。



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  • 長崎で被爆した親子

    おにぎりをもつ母子(長崎)


     井樋ノ口救護本部で、炊き出しのおにぎりをもらった。 生き残った母親からの後の聞き取りによると、長崎県五島列島の出身で、 被爆時29歳。4人の子どもをもつ母親だった。写真の子どもは、2人の姉と 1人の妹がいる男の子で、当時3歳。爆心地から1.6km南の自宅は全壊。割れ 飛ぶガラスを頭部に浴びた。戦後、彼女は行商をして、鍋・釜を作る夫と共 に一家の暮らしを支える。その後、男の子は工業高校を卒業し、父親と造船 の下請け工場を経営。その後、結婚して2人の子どもにも恵まれたが、父親は 放射能の後遺症に苦しみながら1983年に亡くなった。母親は1991年、息子た ちに見守られながら74歳の生涯を終えた。(撮影:1945年8月10日・山端庸介)





    生きのびた人びと



     広島・長崎の原爆災害は多数の被爆者をあとにのこした。被爆者のなかには、


    (一)原爆投下時、爆心地を中心とする地域内で、直接原爆の被害を受けた 人びと(直接被爆者)、


    (二)母親の胎内で被爆した人びと(胎内被爆者)、


    (三)原爆投下の後被爆地域に入り、または放射性落下物(フォールアウト) の降下によって、残留放射能の作用をこうむった人びと(間接被爆者)がふく まれる。






     
       このほか、被爆者に準じて原爆災害の影響を受けたのは、配偶者・ 近親を被爆により失った人びと、家財を失った人びと、世帯内に被爆者をか かえる人びと、および被爆者の子や孫など、被爆関係者とよばれる人びとで ある。これらの人びとの総数がどれほどの数にのぼるかは確実には把握しが たい。しかし、原爆投下時広島.長崎にいて被爆後、生存し得た人の数は・一九五〇年国勢調査のさい、 「付帯調査」がおこなわれて、その概数がとらえられた。

     それによると、一九 五〇年一〇月現在の被爆生存者総数は、全国で二八万三五〇八人、このうち広 島での被爆一五万八五九七人、長崎での被爆一二万四九〇一人、両市での重複 被爆者一〇人となっている。広島での被爆者のうち、一二万五一六七人(七九 パーセント)が広島県内に、九万八一〇二人(六八パーセント)が広島市内に 住んでおり、長崎の被爆者では、一一万一二九四人(八九パーセント)が長崎県 内に、九万六五八二人(七七・三パーセント)が長崎市内に住んでいた。

     県外居 住者の全国的地域分布は図23の示すとおりである。それから一〇年後の一九六 〇年一〇月、その年の国勢調査とあわせて、広島県・長崎県が共同しておこなっ た被爆生存者調査の結果は、広島の直接被爆者一〇万八九三六人、その他の被爆 者五万五六九八人、長崎の直接被爆者八万五二七八人、その他の被爆者一万六七 六一人となっている。広島市と長崎市は、以後現在に至るまで、原爆被災の全体 像を明らかにするため、継続して種々の事業をおこなっているが、厚生省は両市 の協力を得て、一九六五年と一九七五年に「原子爆弾被爆者実態調査」をおこな った。

     この調査は、基本調査、生活調査、事例調査から成り、被爆者の生活状態 全般にわたるもので、対象は全国にわたり、被爆者健康手帳を所持する人および それにかかわりなく被爆を申し出た人びとである。一九六五年の調査では、広島 での被爆者一五万三六二二人、長崎での被爆者七万八七九九人、一九七五年の調 査では広島での被爆者一八万六八四一人、長崎での被爆者一〇万六八五二人であ った。一九五七年「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」(原爆医療法)が成立 し、被爆者に被爆者健康手帳が交付されることになった。この手帳交付数は、生 存被爆者数の推定にひとつの資料を与えるものであるが、この原爆医療法によっ て登録された全国の被爆者数の推移は図24のとおりである。

     初年度末(一九五八年 三月)の被爆者総数二〇万〇九八四人、このうち広島県内に居住するもの一〇万六 九五二人、長崎県内七万九〇六五人、その他の地域一万四九六七人となっている。 その後特別被爆者制度の創設、その範囲の拡大・追加などの措置がおこなわれて登 録者は増加し、一九八三年現在三六万八二五九人である。しかし、その増加率は漸 減しつつあると言われる。



    被爆者数

    図23・全国被爆者分布図

     図23 1950年における原爆被爆生存者の地域別分布(1950年10月1日現在国勢調査, ABCC付帯調査.単位:人).左項の数字は広島の,右項の数字は長崎の被爆を示す. 括弧内の数字に付した十人数は広島・長崎の重複被爆数.したがって,この数をそ れぞれに加えれば被爆実数が得られるのである・また・広島(長崎)県の数は広島( 長崎)市の数をふくむ.(槙弘(1959)などにもとづくものである。)



    原爆医療法による被爆者数

    原爆医療法による被爆者数の推移(1957〜76年度)






    原爆孤児



     原爆被爆の状況下では、家族の被災のさい父母を失い、子供だけが生存し得て孤児となった ケースのほか、被災前児童だけが疎開して被災をまぬがれ、広島・長崎に留まっていた家族 を失い、それによって孤児となったものが少なくない。広島の場合、縁故疎開の児童は一万 五〇〇〇人に達し、また一九四五年四月以降、大手町国民学校の九一人を第一陣に七月まで に約八五〇〇人の集団的な児童疎開がおこなわれて、これらの子どもたちは県下の郡部各町 村に送られていた。

     長崎でも二回にわたって老幼病者の疎開がすすめられ、あわせて一万六 七一三人が市外に移った。なかには児童の疎開が少なからず含まれていたと思われる。この ようにして生じた原爆孤児の総数がどれほどあったかの詳細は明らかでない。被爆後広島で これらの孤児の救済にあたった関係者は、六五〇〇人にのぼる孤児がでたと述べているが、 疎開児童の数や被爆後の児童数の推移などから、一般には四〇〇〇人から五〇〇〇人の孤児 があったものと推測されている。

     長崎での記録も欠けており、ただ長崎県知事の「八月九日 空襲災害概況報告」に、「戦災孤児につきましては当初市においてその世話を致しておりま したが、親戚縁者の引取った者以外適当な杜会事業団体に引取られております」という言及 が見出されるのみである。被爆直後、広島市では「迷い子収容所」を設けることとし、八月 一〇日倒壊をまぬがれ焼けのこっていた比治山国民学校に「比治山戦災児収容所」を開設し た。収容された子どもたちは、乳児から国民学校一〜二年生程度で一時は一五〇人を越え、 同校の職員や市の保母たちが子どもたちの世話に当たった。

     長崎では磨屋国民学校にとりあ えず子どもたちを収容し一時保護したのち、島原の多比良町の金山分教場を収容所と定め、 三〇人ほどの生後一ヵ月から一年の乳児を容れた。この子どもたちはやがて島原市安徳の舟 泊に長崎市内の篤志家が開設した孤児収容所に移されたという。九月に入ると、これらの幼 以外に、市内を浮浪・俳個する孤児の保護や、疎開先にとり残された子どもたちの引き取り や受け入れが問題となり、広島では一部の教師や仏教者の奔走によって、一九四五年暮れ市 郊外の佐伯郡五日市町に「広島戦災児育成所」がひらかれた。

     また広島県同胞援護財団の「 新生学園」、似島(にのしま)の旧陸軍検疫所跡に開設された「広島県戦災児教育所似島学 園」、カトリック修道会の「光の園摂理の家」などがっぎつぎと原爆孤児の収容に当たり、 被爆前から活動していた「広島修道院」、「六方学園」などの児童施設も復興後孤児救済に つとめた。長崎では、聖母の騎士会のゼノ神父が多比良の分教場を見舞ったことを端緒に、 ポーランド系のカトリック修道会聖母の騎士修道院の「聖母の騎士園」が孤児の養育に当た るようになり、一九四七年二月には小ヶ倉水源地の近くに収容施設を移した。

     古い歴史をも つ「浦上養育院」も被爆時いったん壊滅したが、一九四七年には養育院を再建した。原爆孤 児のうち、ある者はこれらの施設に収容され、ある者は親戚知人にひきとられたが、そのよ うな保護を受け得なかった者も多数に上ったと考えられる。いずれにしても彼らの生活は、 戦後の窮乏ともあいまって苦難に満ちたものであった。

     広島大学社会学教室が、一九五一〜 五三年、一九五八〜六〇年の二回にわたって継続調査をおこなったところによると、広島の 原爆孤児は、県内に約一七八○人、県外に約一三〇〇人が把握され、うち東京・大阪・北海 道などに約四五〇人が居住していたという。この人びとに対して、ノーマン・カズンスの 「精神養子運動」、長田新の「国内精神養子運動」、中野清一夫妻を中心とする「あゆみ グループ」などさまざまの市民活動が芽生え、励ましを与えてきたことが、私どもにとっ てわずかな慰めであるとのべている。




    被爆孤児の兄弟

    親を探し求める兄弟.(撮影/1945年8月10日朝7時頃・山端庸介)

     1945年8月10日、長崎駅付近にて、さまよう兄弟。弟の方の顔は頭部の負傷による出血で、それも暑さでひから びている。もちろん顔を洗う余裕などないのであろう。長崎駅付近をさま よっていた。兄は当時18歳、弟は7歳。8月9日、弟の化膿した足の傷の治 療で長崎医科大学付属病院(爆心地より700m)に入院するため、16km離れた 炭鉱の島・高島から船でやってきた。両親も一緒だった。弟に母が付き添 って治療室に入った時、原爆が炸裂した。両親と散りぢりになった2人は、 長崎の親戚を求めてさまよっていた。兄が肩から下げているカバンには、 国民学校1年生になったばかりの弟の勉強道具。長くなる入院のために弟 を思ってもってきた。被爆の混乱のなかで右手放さなかった。母は島に帰 りついた日、弟は敗戦の翌日・8月16日に死亡した。兄は戦後、炭鉱で機械 修理の仕事をしていたが、1981年、激しい頭痛と真っ黒な液を吐き54歳の命 を失った。



    犬を抱く少年

    広島・犬を抱く少年

     広島のある孤児院に一日中犬を離さない少年がいた。肉親のぬくもりを 忘れることができないのだろう。
    1952年頃。(写真提供:岩波映画)






    廃墟のなかで家もなく食も乏しく



     被爆直後広島の人口はおよそ八万三〇〇〇人に激減した。それが、半年後の一九 四六年二月には一六万九〇〇〇人と増加し、同年七月には約一八万五八○○人に 達したが、その分布状態をみると、爆心地から一キロメートル以内約六五〇〇人 、二キロメートル以内三万四〇〇〇人、三キロメートル以内七万人、三キロメー トル以遠七万五〇〇〇人で、地域的には焼失をまぬがれた宇品(うじな)地区の 人口密度がもっとも濃密であった。

     この人口増は、被爆後市外へ避難していた人 びとの復帰のほか、引揚者、復員者が加わったためである。広島市は食糧事情が 逼追(ひっぱく)していた事から、厳重に市内転入を抑制したが、人の流れに抗 すべくもなかった。しかしこの状態は、食糧と住居の供給の極端な欠乏をよびお こし、被爆者は、このまま推移すれば死を待つのみであるとして、一九四五年一二月 「広島戦災者同盟大会」を開催し、広島県知事に対し善処 を要請している。

     


















                                                                                                                                                                                                                                                                             
    表32 爆心地からの距離別人口復帰状況*(広島)(米山桂三ほか(1965)による)
    爆心地からの距離(Km) 1945年
    11月1日
    1946年
    4月26日
    1946年
    8月20日
    1946年
    12月10日
    1947年
    8月
    1948年
    8月
    O〜1.O 3.16.823.428.933.252.8
    O〜1.O 3.16.823.428.933.252.8
    1.0〜1.5 11.518.427.832.834.151.2
    1.5〜2.O 22532.536.739.747.860.1
    2.O〜2.5 75.5101.0114.3117.7119.1132.4
    2.5〜3.O 128.5139.2146.7152.5173.4176.6
    3.0〜 181.6216.7201.3211.8209.7213.5
    55.667.876.781.986.4100.2
    *被爆前人口を100とする復帰人口割合.被爆前人口は1945年6月の米穀配給台帳登録人口.




    それに対する知事の回答をみると、


    一、補修用木材の配給市は手持ち木材を全部仮設住宅用(一戸分三五〇〇円)にまわし、補修用の配給はしていな かったが、この手持ちのなかから至急配給させる。なお、住宅営団からも幾分か融 通させる。


    二、釘市の仮設住宅を買わぬ者に対して、一戸当り七キログラムを至急 配給させる。


    三、タタミ現在、品物が無く、計画もたてられず配給できない。


    四、ガラス住宅営団用の六一五〇箱から幾分かを融通させる。


    五、炭及び電熱器の使用炭は現在二戸当り一俵ずつ配給中で、来年までには三俵くらい渡る。電熱器の使用 は、本年はとくにメートル制でなくても使用を届け出れば許可する。なお、自家製 の認可のない電熱器を使っても良い。


    六、戦災孤独者の処遇備後府中町の靖和寮(社 会事業協会が経営)と、市内宇品国民学校に至急収容する。


    七、共同浴場某部隊の浴場用のボイラーが二個あるから、即時無償で払下げる。


    八、共同住宅佐伯郡井ノロと兵器支廠の倉庫のうちで、使用計画の無いものは、ただちに戦災者の共同住宅として 開放する。と言っている。

    当時の状況を彷彿(ほうふつ)とさせるものがある。





     また同じ一二月二六日、広島市議会が、「八月六日ニ於ケル本市ノ原子爆弾ニ依ル戦災以 来、各官庁各学校及保険会杜各種営団其他統制機関等ハ殆ド市外ニ避難セラレ既ニ百 数十日ニ達スルモ、今尚市内復帰ヲ見ズ。市民県民ノ蒙ル不便、益々尠カラズ。本市 会ハコレ等機関ノ速カニ市内復帰方ヲ要望シテ止マズ」と決議していることも切実な ひびきを伝えている。

     一九四六年七月の端境期には、広島市の食糧事情は極度に悪化 し、市自体の保有米は市民一日分にも足りない状態におちいった。あらゆる対策を講 じても、七月末までに少なくとも一〇日から二週間の欠配を覚悟しなければならない 事態で、広島市は五万人の強制疎開と、農村部への倉庫米の救援をよびかけた。 「新米がとれるまで頑張ろう」という市の当局者の訴えは必死であり、飢餓のおそれ が被爆者を襲ったのである。




    縁側で被爆死した少年

    縁側で被爆死した少年.(撮影:1945年8月10日長崎・山端庸介)

     爆心地から道ノ尾への間の大きな人家で。家具や 建具は爆風で全部一方に寄り、中はガランとして空き家のようになり、縁 側で少年がまるで眠るように死んでいた。





    復興へのあゆみ



     住居や建物の再建も容易ではなかった。一九四七年八月六日現在の建物の復興状況は、 爆心地から○・五キロメートル以内では、被爆前の五六〇八戸に対し、その九バーセ ントの五二九戸、○・五〜一キロメートルでは三〇パーセントの四一八八戸という状 況であった。これに対して、三〜三・五キロメートルでは二二五バーセント、四・五 〜五キロメートルで一二四パーセント、五キロメートル以上の地域では一四九パーセ ントと、市の周辺地帯ではむしろ小型の仮設住宅をふくめての異常な膨張と過宿化が すすんだ。

     用途別にみると、官公署、学校、工場、銀行・会杜 、料理飲食店などの比率がたかいのに比べて、住宅、店舗の復興率は低かったのであ る。長崎でも爆心地の浦上地区の再建はおくれがちであり、岩川町に住宅営団の応急 簡易住宅が建てられたのは一九四六年後半であった。市営庶民住宅が岩川町に六六戸 、油木町に一六戸、城山町に一八○戸完成したのは、さらにその後であった。





    刻まれた「原爆死」

    刻まれた「原爆死」

       原爆犠牲者の13回忌にあたる1957年夏写真家・土門拳はカメラを手にする者 の使命感にかられて広島に入り、翌年写真集『ヒロシマ」を刊行する。土門 はこの写真について次のように記す。「椎田家之墓」とある墓には、「裏面 に昭和三十二年四月建之」、左側面に「昭和二十年八月十四日原爆死信」 五十三才、昭和二十年八月十五日原爆死妻アイ五十七才、昭和二十年八月六日 原爆死節子十四才」と刻んであって、3人の死者の名前の上に全部「原爆死」 と断り書きしてある。おそらく父母と一人の妹を失った兄息子の原爆に対する 憎悪が、この「原爆死」という3字にまざまざと見てとれた--- 原爆で亡くなった人びとの、新しい多くの墓を土門のカメラは捉えている。

    (撮影:1957(昭和32)年夏・土門拳)






    平和への願い



     被爆体験は、ひとりひとりの被爆者の衝撃、悲哀、苦悩、不安などさまざまな内的葛藤 (かっとう)と、その克般の過程を経ながら、次第に思想として深化し、その体験の社 会的・歴史的意味の覚醒に発ついとう展してゆく。それはまず、体験記や追悼(ついと う)記の形で表規され、やがて短歌、俳句、詩、小説などの文芸作品に結晶し、さらに 写真、絵画、彫刻、造形、また音楽、映画、演劇、ラジオ、テレビなどのメディアにお よぶ。

     たとえば、広島では一九四六年三月に『中国文化』が創刊されて、「原子爆弾特 輯」が編まれ、体験記三篇、詩一二篇、短歌一七〇首、俳句六四句が掲載された、その 年の八月出版された詩集『黒い卵』に収められた栗原貞子の「生ましめん哉」も、この なかに見出すことができる。以後、正田篠枝『歌集さんげ』(一九四七)、永井隆『ロザリオの鎖』(一九四八)、大田洋子 『屍の町』(一九四八)、小倉豊文『絶後の記録』(一九四八)、原民喜『夏の花』(一九四 九)、石田雅子『雅子斃れず』(一九四九)、長崎文化連盟編『長崎』(一九四九)、細田民 樹『広島悲歌』(一九四九)一安部和枝「小さき十字架を負いて」(一九四九)、広島市民 生局編『原爆体験記』(一九五〇)、須田巌『歌集閃光』(一九五〇)、米田栄作『川よ、 とはに美しく』(一九五一)、峠三吉『原爆詩集』(一九五一)、長田新編『原爆の子』 (一九五一)、吉松祐一編『白來竹桃の下』(一九五一)等々が、占領下プレスコードのき びしい状況下で、貧しく、苦しい生活のなかから、萌え出るように現われる。


    ちちをかえせははをかえせ

    としよりをかえせ

    こどもをかえせ

    わたしをかえせ わたしにつながる

    にんげんをかえせ

    にんげんの にんげんのよのあるかぎり

    くずれぬへいわを

    へいわをかえせ

            (峠 三吉)































    峠 三吉遺影

    たむたむ(多夢 太夢)さまのHPより
    峠 三吉遺影

    峠 三吉の詩碑

    峠 三吉の詩碑

      峠 三吉(とうげ・さんきち)(1917〜1953)広島県生まれ。爆心地より3kmの自宅で被爆。 叙情詩人でクリスチャンだった峠は、戦後、政治運動に積極的に参加する。 反戦・反原爆の代表的詩人。詩集に『原爆詩集』『峠三吉作品集』(全2巻)などがある。 詩碑は平和資料館北側の緑地帯にあり、一九六三年八月六日除幕されました。表には彼の詩が刻まれ、 裏にはその英訳が刻まれています。
    (所在地:広島市・中区中島町1・平和公園内東)






     丸木位里・赤松俊子『ピカドン』(一九五〇)は、母丸木スマの被爆体験の聞き書きである。 「ヒロシマの三滝の町の八十のおばあさんは、ピカでおじいさんに先だたれ、孫の留吉に、 ひるも夜も、若い日織ったはたの糸のように、ピカの話をかたりつづけています。「まる で地獄じゃ、ゆうれいの行列じゃ、火の海じゃ。鬼の姿が見えぬから、この世の事とは思う たが」「ピカは人が落とさにゃ落ちてこん」----五年たった今日まで、おばあさんは、この はなしを、きりもなく日毎夜毎、雨につけ風につけ、思い出してはかたり、思い出してはな げきつづけております。」この本は出版後まもなく発禁となり、占領軍によって押収されて しまった。

     サンフランシスコ講和条約以後、被爆の延言は次第に反核の主張とつよくむすび ついてゆく。一九五三年の『原爆に生きて---原爆被害者の手記』(原爆手記編集委員会)を はじめとする一連の被爆記録は、被爆者の生活の実態と要求を通して核兵器を告発する姿勢 をとっており、一九五五年からはじまった原水爆禁止世界大会は、長崎においても、原爆青 年乙女の会編『もういやだ---原爆の生きている証人たち』(一九五六)のような新しい証言 集を生み出した。原爆被災資料広島研究会編『原爆被災資料総目録』第三集は、一九四六年 から一九七一年までの間の「原爆を直接または間接に体験した人びとの痛ましい手記の目録 を収録したもの」であるが、それによると、戦後の広島での記録・証言の運動には三つのピ ークがある。

     第一は一九五一年占領終了の時期で、平和と独立をめざす国民の世論が たかまった時であり、第二は一九五四〜五五年、水爆実験を期として原水爆禁止運動がはじ まった時期、第三は一九六五年以降の、米ソ核戦略が危機的に高度化した時期である。一九 五七年以降には、ヒロシマ・ナガサキの体験の世界史的な意味の認識の深まりが、はいたい 原爆被災白書運動の胚胎(はいたい)と展開をうながすにいたる。

     日本原水協専門委員会に よる『原水爆白書---かくされた真実』(一九六一)の刊行、原水爆被災三県連絡会議におけ る金井利博の「原水爆被害白書を作成し、国連に提出するための提案」(一九六四一、広島 ・山口・岡山の大学人により組織された平和問題研究グループ「談和会」の政府への原水爆 被災白書作成の要望(一九六四)、世界平和アピール七人委員会の政府へのはたらきかけ(一九 六五)、「原爆被災白書推進委員会」(会長茅誠司)の発足(一九六五)、同会からの「日本政府 による原爆被災白書の作製に関する要望書」の政府への提出(一九六六)などの動きがそれで あり、広島県議会、広島市議会もそれを支持した。

     この運動は、日本学術会議の原水爆被災 資料センター設置の提案、広島での原爆資料調査保存の活動、爆心地復元運動・長崎での証 言活動・爆心地復元調査の運動などへ発展してゆく。広島市.長崎市原爆災害誌編集委員会編 『広島・長崎の原爆災害』の刊行(一九七九)はそれらの集成である。 平和教育広島・長崎の体験を教育を通じて若い世代に伝える「平和教育」「原爆教育」が意 識的にとらえられるようになるのも一九五一年以降である。

     それ以前にも、子どもたちによ る原爆体験記は、『広島教育』の戦争反対児童作文集(一九四九)、永井隆編『原子雲の下に 生きて---長崎の子供らの手記』(一九四九)などいくつかのものが残されているが、一九五一 年に日本教職員組合は「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンのもとに教育研究集会を ひらき、教師の自主的.組織的な平和教育へのとりくみの姿勢を確立した。

     長岡新編『原爆の 子』(一九五一)は、そのひとつのモニュメントと見ることができる。映画『長崎の鐘』(一九 五〇)、『原爆の子』(一九五二)、『ひろしま』(一九五三)、『千羽鶴』(一九五五)、『長崎 の子』(一九五七)、広島の中学生たちによる「原爆の子の像」の建設運動なども、平和教育の 意味において、それぞれ記憶すべき事柄であった。

     その後原爆教育は後退・低迷の一時期を経 過し、その再建と発展がはかられるのは、一九六八年から六九年にかけてである。一九六九年 には広島で、翌一九七〇年に長崎で、それぞれ「原爆被爆教師の会」が結成され、七一年には 「原爆被爆教師の会全国連絡会」が組織された。ほぼ同時に、広島・長崎では、「高等学校原 爆被爆教職員の会」も生まれている。『未来を語りつづけて』(一九六九)、『沈黙の壁をやぶ って』(一九七〇)は、これらの教師の被爆体験をふまえての平和教育の実践記録である。

     また、 広島では副読本『ひろしま原爆をかんがえる』(一九六九)、『ひろしま---これはわたしたちの さけびです』(一九七〇)、『Let's Cry For Peace! 』(一九七一)、『ヒロシマ---今日の核 時代を生きる』(一九七七)、長崎では『ナガサキの原爆読本』(小学校用三冊、中学校用一冊) (一九七二)、高校生のための平和読本として、広島・長崎の教師共同で『明日に生きる』(一九 七四)が編まれた。

     「広島平和教育研究所」が広島県教職員組合を母体に設立されたのは一九七 二年である。大学関係では、広島大学に一九七五年「平和科学研究センター」が、また長崎総合 科学大学に「長崎平和文化研究所」が一九七八年発足し、いくつかの大学で平和学の特別講義や 総合コースが開講されるようになる。

     一九四九年の「広島平和記念都市建設法」「長崎国際文化 都市建設法」に裏づけられて広島・長崎にはそれぞれ平和公園が整備され、広島には石棺の上に 埴輪の屋根をかたどったおおいをもつ原爆慰霊碑(広島平和都市記念碑)が、また長崎では北村西 望作の平和祈念像がその中心に置かれている。原爆慰霊碑の除幕は一九五二年であり、平和祈念 像の除幕は一九五五年であった。

     それらをめぐって配置されている原爆ドーム、広島平和記念館、 長崎国際文化会館はじめ数々の慰霊・記念のための造形は、世界最初の、そして願わくば最後で あってほしい原爆の災害を、永久に人びとの記憶にとどめ、世界の平和を祈る場として、世界の 国々から、また日本の各地から、ここを訪れる人たちに、ヒロシマ・ナガサキの人類史における 意味を問いかけているのである。広島平和公園内の慰霊碑の面には、








    原爆死没者慰霊碑(げんばくしぼつしゃいれいひ

    原爆死没者慰霊碑

    ”写真提供 大井啓嗣”


























    という碑文が刻まれている。


      碑石には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文がきざまれ、 中央の石室の内部には、亡くなった原爆被爆者の名前を記帳した原爆(げんばく)死没者名簿が納められている。 名簿は亡くなった方たちを名を書き加え、2002年(平成14)年8月6日現在で、79冊を数え総数(226,870人) の人々の名が記帳されている。

     それにしてもこの碑文に不自然さを感じるのは私だけでしょうか? 確かに戦争と言う過ちを我々日本人は犯しましたが、それは日本ばかりに言える問題では無いのでは有りませんでしょうか。 二〇世紀の時代は世界中の国々が過ちを犯したはずです。戦史上原爆を投下された唯一の被爆国である我が 国ばかりが過ちを犯したのでしょうか。そうだとしたら原爆投下国のアメリカは過ちは犯していないとでも 言うのでしょうか?チョット矛盾している碑文だと思えてならないのは私だけなのであろうか?私にはこの 原爆投下を怨みも持たずに許す広い心は持ち合わせてはいない。出来れば人類は二度とこのような過ちは繰 り返しませんが適当では無いかと思われる。しかし、被爆都市と被爆国民が納得しているのならそれはそれで私が言う事はありませんし、それで良いでしょう。

     だが核を使用した事実は消し去る事できないのである。核に関して言えば非は投下した米国にあるといって過言では無いであろう。 彼らは、自らの力を世界に誇示せんがためにも一度は実戦で使っておきたかったのである。 だがこの核使用に当って間違いのないことは、日本が1ヶ月も早く降伏していれば、間違いなく朝鮮戦争に使用 されていたことでしょう。どちらにしても過ちの起きた事は間違いなかったことです。いずれ広島と長崎に 投下当事国アメリカの長が来日して、軍人はどうあれ非戦闘員たる民間人だけには原爆慰霊碑の前で謝罪することを望みたいものである。 何はともあれアメリカばかりでは無い、現在核兵器を保有するすべての国々が過ちを犯す可能性があるのです。 核保有国もそうでない国にも申し上げたい。将来も過ちを繰り返さない、そして更なる広島・長崎を繰り返さない ことを切に望むものである。



    「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」


     パール博士の2度目の来日は、昭和27年の11月、パール博士は広島の原爆慰霊碑に献花して黙祷(もくとう)を捧げた。 その碑に刻まれた文字に目を止められ、通訳のナイル君に何と書いて あるか訊(き)かれた。『安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから』 ・・・、博士は2度3度確かめた。その意味を理解するにつれ博士の表情は厳しくなった。  「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。勿論(もちろん) 、この碑は日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、私は 疑う。ここに祀(まつ)ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落とした者は 日本人でないことは明瞭(めいりょう)である。落とした者が責任を感じ《2度と再びこの過ちは犯さぬ》 と言うなら肯(うなず)ける。この過ちがもし太平洋戦争を意味していると言うなら、これまた日本 の責任ではない。その戦争の種は、西欧諸国の東洋侵略のため蒔(ま)いたものであることも明瞭だ。

     ここに祀(まつ)ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落とした者は日本人でないことは明瞭(めいりょう)である。 落とした者が責任を感じ《2度と再びこの過ちは犯さぬ》と言うなら肯(うなず)ける。  この過ちがもし太平洋戦争を意味していると言うなら、これまた日本の責任ではない。 その戦争の種は、西欧諸国の東洋侵略のため蒔(ま)いたものであることも明瞭だ。  さらに、アメリカはABCD包囲陣を作り、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行って徴発した上、ハルノートを突きつけてきた。  アメリカこそ開戦の責任者である」  このことが新聞に大きく報ぜられ、後日、この碑文の責任者である濱井(はまい)広島市長とパール博士との対談にまで発展した。  このあと博士は私に「東京裁判の、何もかも日本が悪かったとする日本統治の戦時宣伝のデマゴーグが、 これほどまでに日本人の魂をダメにし、奪(うば)ってしまったとは思わなかった」と慨嘆(がいたん)された。 そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ」と嘆かれた。




    原爆死没者慰霊碑・後方

    原爆死没者慰霊碑・後方

    ”写真提供 大井啓嗣”

     毎年8月6日、爆死没者慰霊碑の前に集い深い祈りと世界平和を願 う人々


    爆死没者慰霊碑・後方

    原爆死没者慰霊碑に過去帳奉納

      原爆死没者の過去帳には毎年新たな犠牲者の名が加わる。過去帳を収納した木箱は8月6日広島平和公園内の上記↑の慰霊碑の石棺 の中に安置される。
    撮影:佐々木一郎1968年


    (核の20世紀・訴える世界のヒバクシャ「株式会社 平和のアトリエより」)





    原爆ドーム

    たむたむ(多夢 太夢)さまのHPより

    今は静かな佇まいを見せる原爆ドーム




    広島灯篭流し


    ”写真提供 大井啓嗣”

    八月六日、元安川河畔で行われる灯篭流し


      毎年、八月六日に亡くなられた家族を偲び、原爆ドーム河畔の元安川で午後六時頃から灯ろう流しが行われる。 原爆ドーム周辺から平和公園にかけての河畔は大勢の市民でいっぱいになり溢れんばかりの人の数だそうである。 いかにこの一日が広島市民の取って関心が深いかがうかがえる。

    安らかに眠って下さい


    過ちは


    繰返しませぬから












    広島・長崎・原爆投下の悲劇・V⇒


    このページを作るに当たり写真資料などに協力下された方々に心より御礼申し上げます。誠にありがとう御座いました。


     

    (更新/2006/10/3) 空きの日の宵に虫の音を聴きつつ   Homepage Owner  kanno

    (更新2006/12/29)追記と変更





    参考文献 
    岩波書店・刊・原爆災害---ヒロシマ・ナガサキ
    編集者・広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会
    東京:草の根出版会・刊 写真運動/編
    母と子でみる 原爆を撮った男たち 株式会社日本図書センター・刊
    原爆写真・ノーモアヒロシマ・ナガサキ NoooreHimshima,Nagasaki
    [編者]黒古一夫 清水博義[翻訳者][発行者]高野義夫
    株式会社 平和のアトリエ ・刊
    企画・編集・平和博物館を創る会・日本原水爆被害者団体協議会
    核の20世紀・訴える世界のヒバクシャ
    株式会社 平和のアトリエ ・刊
    広島・長崎一原子爆弾の記録
    編集者・子どもたちに世界に!被爆者の記録を贈る会。
    出版協力一平和博物館を創る会
    ヒロシマは昔話か-原水爆の写真と記録-庄野直美・編著新潮社・刊
    読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事「いま問われる新聞のあり方」
    安田将三/石橋孝太郎・著
    発行・株式会社 リヨン社:発売・株式会社 二見書房


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