二・二六事件が発生した翌年の一九三七「昭和十二」年の七月七日深夜、盧溝橋事件が勃
発したのであった。石原の最終戦争論に反する形となった日中戦争(支那事変)では、近衛首相に「不拡大方針」に同意さ
せることに成功するのである。だが、東条英機大将らの統制派の軍閥を前にして、またもや意としない石原莞爾
は、無益にして非生産的かつ不合理な日本国内の戦いを強いられることとなったのである。
では、無策で理念なき戦争に敗れた原因はどの辺にあったのか。それに関しては、終戦後に
行われた国際極東軍事裁判「東京裁判」の問題に触れてみると。
一九四五「昭和二十」年八月六日、世界で最初の原子爆弾が広島に投下された。日本有数
の大都市が一瞬にして廃櫨と化し、十万人余りの人が死亡した。太平洋戦争は、この一発の原
子爆弾によって、事実上、終止符が打たれたといってよいと思われる。そして止めが長崎原爆投下と、ソ連の日ソ中立条約を破棄しての満州国境への進撃でした。
しかし、この原子爆弾の出現は、一九三〇(昭和五)年、石原が陸軍大学校教官当時にお
いてすでに予言していて、陸大学生たちを唖然とさせているのである。それほど石原は世界の情勢を
把握していたのであった。先手先手の石原だったが、国内のディスクワークだけの亡霊たちに阻まれることとなるのである。
それから遅れること十年の後、物理学者田中館愛(たなかだてあい)と
橘博士が、東条英機に対して新兵器としての原子爆弾の開発を進言しているのであるが、その時、東条はなんと言ったかといえば、
「学者のたわごとなど聞いている時間はない」と、これを一笑に付してしまったのであった。
この両者の対応の違いほど、石原莞爾と東条英機の能力格差を端的に示すものはなかろうと思う。
東条は軍人でありながら、真実は中身のない演説をぶち上げて権力を持ち、のし上がってきた政治家である。石原莞爾のような戦略家ではない。
極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)に先立って、米軍の憲兵(MP)が、山形県鶴岡市
内の自宅に石原を訪ねてきたことがある。その際、MPは石原に対して、
「あなたと東条とでは、思想的に大きく対立していたと聞いていますが、それはどのような
ものであったのでしようか」
と尋ねたという。すると石原は、
「思想的対立といわれるが、それはお互いに思想ないしは理念を持っている場合において初
めて起こり得る現象である。
東条は、なるほど総理とか陸相とかの地位にあり、強大な権力を所持していた。だが、思
想とか理念とかいったものは爪のカケラほども持ち合わせていなかった。思想と理念のある
者とない者との間には、対立などというものは起こりようもないではないか。あのような思
想も理念もない人間を裁判にかけたところで、いたずらに時間の浪費をするだけですよ」
といって、MPを追い返してしまったという話が伝えられている。
しかし、一九四六(昭和二十一)年五月、東京・市ヶ谷にある旧陸軍省跡地で極東国際軍事
裁判が開廷されることになったのである。裁かれる被告の
A級戦犯者は東条以下二十八名の戦争指導者と目される人物たち
であった。石原は、彼らを戦争犯罪人と呼ぶならば、自分こそその一人であると強く主張した
が、連合国側は石原莞爾を戦犯とは見なしていなかったのである。
しかし、十五年戦争の発端となった満州事変の真相をはじめとする、A級戦犯たちの事情聴取
では不明な諸点を解明すべく、石原の証言を必要としていたのであった。が、石原は、すでに
膀胱ガンにかかっており、症状もかなり進行していたため、
どうしても石原莞爾の証言を必要とした連合国側は、一九四七「昭和二十二」年五月・酒田市
の商工会議所に極東国際軍事裁判の臨時法廷を設け、同証人の出廷を要請することとなる。
ニュージーランドの代表判事ノースクロフト卿をはじめとし、判事・検察官・弁護人および
通訳、記録係、それに内外報道官など総数六十名を越す関係者は、特別列車を仕立てて酒田
へと集まってきたのであった。何と、それも石原莞爾ただ一人の証言を得るためだけにである。
まさに前代未聞のことであったという。石原はこの酒田の特別法廷に戦闘帽を被り、歩くのも困難だったのかリヤカーに乗り出廷したのであった。
このことは、当時の日本国民が、時の政府や軍部の言いなりになったマスコミ言論機関
によって一様に踊らされていたのに対し、連合国側のほうは石原莞爾の実力と存在を、はるか
に高く分析し、評価していたことの表れであろう証拠でもあるのだ。
法廷に立った石原は、当時の満州をめぐる国際、軍事情勢を詳しく分析した結果を述べ
満州事変が日本にとってきわめて正当な軍事行動であったことを明確に石原は主張している。
そして、この軍事行動と、その後の満州国の誕生とはまったく別次元の問題であること、
満州国の建国は、その当時における満州地域の情勢下において、歴史的に起こったものであ
ることを力説しているのである。これは、他の陸軍幹部はいざ知らず、石原にとっては当初からの理
念であり、それだけに法廷内の人々を納得させるだけの説得力があったと伝えられているという。
極東国際軍事裁判後の石原の病状は一進一退を続けていたようであるが、二年後の一九四九昭和二
十四)年八月十五日、波瀾に富んだ六十一年の人生を終えることとなった。
石原はかねがね、十五年戦争の終わりの日である八月十五日をもって自らの生涯に幕を引
くと定めていたという。この意味では、わずか四年後の八月十五日に息を引き取ったという
ことは、現世における理念と、来世における信仰とが結ばれた証であるといえないこともな
いのである。
かって、極東国際軍事法廷で石原証人の発言を傍聴していたUPIの記者はいたく感激し、
「日本は、石原のような世界的に通用する超一級のリーダーを持っていた。それなのに何故
に日本にとってもっとも重要な時点において、石原を中央から追放してしまったのか理解に
苦しむ」
と述懐していたことが記録に残されている。
一九四六(昭和一六)年三月三十一日 大東亜戦争以前にこの切れ者の石原莞爾は陸軍内上層部で疎まれ、予備役編入へと相成るのであるが、
彼が予備役になる時点で、この戦争の結末はついていたのかも知れな。この切れ者を参謀ともせず、ただ疎ましさだけで陸軍から排除してしまったのである。
その結果、無能な者が残り指揮を執ったのである。そして結局終戦まで戦い抜くのだが、ソ連が国境を越えた時に関東軍上層部の逃げ足の速いことといったら、
上層部の家族だけ乗せて、満鉄で逃げ去ったという。後に残された兵や民間人はその後、悲惨なこととなるのであった。民間人は路頭に迷い、兵士は
シベリヤへと抑留されたのでした。石原莞爾がいればもう少し良い方向へと戦後処理が出来たかと思うと、返す返すも遺憾の極みである。
日本人の悪い癖は、というより何処の國でも同じなのであるが、理念も思想も持たない人間が、中身の無い演説の上手だけで国民の
指示を受け、権力を増大して行くのである。
本来なら石原莞爾のような軍人が采配すべきなのだが、切れ者の軍人とはいえ高が軍人一人、国家権力を傘に着た連中には勝てないのである。
そして切れ者の軍人たちはそのような連中から阻害され、身の置き場をなくして予備役となって活躍の場を失うのである。
この石原莞爾という人間、カリスマ的な人気と批判とが入り混じった人であることも事実のようである。
(更新/2008/01/14) 肌寒の宵に家の中の満開の梅を見ながら記す Homepage Owner kanno
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