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日の丸


関東軍作戦参謀

作戦本部 第一部長

石原 莞爾中将


石原 莞爾

 
石原 莞爾



経 歴
石原 莞爾いしはらかんじ
1889(明治22)年1月18日生
1949(昭和24)年8月15日没
山形県鶴岡町(現、鶴岡市)出身
日本陸軍軍人・陸軍中将
1902(明治35)年9月1日 仙台陸軍地方幼年学校入校
1905(明治38)9月1日 東京陸軍中央幼年学校入校
1907(明治40)年6月 歩兵第32連隊配属(山形)
 12月1日 陸軍士官学校(21期)入校
1909(明治42)年5月27日 同校卒 卒業成績6番 原隊復帰
 12月25日 陸軍歩兵少尉任官 歩兵第65連隊(第2師団・会津若松)に赴任
1910(明治43)年4月 韓国・春川に赴任
1918(大正7)年11月29日 陸軍大学校卒 原隊復帰
1919(大正8)年 日蓮宗「国柱会」信行員
1920(大正9)年4月 中支那派遣軍司令部付 漢口に赴任
1921(大正10)年7月 陸軍大学校兵学教官
1922(大正11)年9月 ドイツ駐在
1924(大正13)年10月 帰国 陸軍大学校兵学教官
1928(昭和3)年8月10日 陸軍中佐
 10月10日 関東軍作戦主任参謀 旅順に赴任
1931(昭和6)年9月18日 満州事変勃発(作戦主任参謀)
1932(昭和7)年8月8日 陸軍大佐 兵器行政本部付
1933(昭和8)年8月1日 歩兵第4聯隊長(仙台)
1935(昭和10)年8月1日 参謀本部第2課長(作戦)
1936(昭和11)年2月26日 二・二六事件
 2月27日〜3月7日 戒厳司令部参謀兼務で事件の処理に当たる
1936(昭和11)年6月19日 参謀本部戦争指導課長
1937(昭和12)年1月7日 参謀本部作戦部長心得
1937(昭和12)年3月1日 陸軍少将 参謀本部第1部長(作戦)
 9月27日 関東軍参謀副長
1939(昭和14)年8月1日 陸軍中将 第16師團長(京都)
1941(昭和16)年3月31日 予備役編入
1947(昭和22)年5月1日〜5月2日 
  極東国際軍事裁判(東京裁判)酒田出張法廷に証人として出廷
1949(昭和24)年8月15日 肺炎と乳嘴腫の悪化のため死去





日本陸軍きっての智謀と軍事作戦計画脳力を余す所無く計画指導し、満州事変の計画を成功させた智将石原莞爾思想と理念は壮大なものであったが、一将官の力ではおよばず大 東亜戦争前に惜しまれるかな、予備役へと編入された。








満州事変の発端


 一九三一(昭和六)年九月十八日の深夜、満州(現在の中国東北部)の中心都市、奉天(しんよう) (現在の藩陽)の北方郊外の柳条湖において、満鉄が爆破されるという事件が発生した。これが世 にいう満州事変の発端である。 満鉄とは、南満州鉄道の略称である。日露戦争により勝利した結果、満州の遼東半島の南 端に突出している関東州の領有権とともに、日本がその利用権益を獲得したものであった。 これは当時としては戦勝国の当然の権利として認められていた。欧米列強などはこの戦勝 結果の末に、多くの植民地を獲得して自国の利益としていたのである。 日本もその利権を更に行使し、領土拡大を図ったのが満州事変の勃発でした。

   この戦いの発端は満州鉄道の路線を拡張子して、満州全体規模での開発にとって必要不可欠な大動脈であった。 この満鉄を西へ西へと拡大を図ろうとした日本側と関東軍と、これを阻止しようとする中国側と の戦いであった。 だが中国はも、各地方の軍閥が群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)していて、内乱は日常茶飯事であった。 取り分け蒋介石の率いる国民政府軍と毛沢東らの紅軍の間では、熾烈な主導 権争いが展開されていたのであった。

 その頃、満州一帯で勢力を握っていた張 作霧(ちょうさくりん)と張 学良の父子が率いる軍閥であった。 初めは、張作霧の親子率いる軍閥は日本側と友好関係を保っていたのであった。 そして、日本は張作霧一族を利用してソ運の背後を牽制することができ、また張 作霧一族は日本軍を利用し て中国の中央へと進出を企んでいた。しかし、北京攻略に失敗して満州に閉じ込められるよになると、 今度は満州における主導権をめぐって、日本と対立して争うようになってきたのであった。

 日本が満州における権益確保のために設置した軍隊は、関東州に本拠を置いていたため に、関東軍と呼ばれていた。(関東軍とは勘違いされることが多いのですが、日本の関東の兵団が満州に於いて 作戦を展開したのではなく、本拠地の関東州から付けられた名前です。)にその数は一万人程度であったが、精鋭部隊をえりすぐっていたいう。 他方、張一族をはじめとし、満州に存在する中国の兵カは約二十二万人とも、別の資料によれば、四十五万人いわれ、数の 上では中国のほうが圧倒的に優位にあった。少数の兵カをもって二十倍以上の多数の兵 カに打ち勝つための作戦方法は唯一つしかなかった。兵力と時間を極限まで集中して、でき るかりぎの最短時間で当初の計画を完了してしまうことにあった。後の一九四一年、当時には 約八十五万人を「満洲」に集中して、対ソ連戦に備えていたといわれる。

 その結果、柳条湖で満鉄が爆破されたとの報告を受けるや否や、川島 正中隊長は兵を率いてただちに南 下し、張 作霧の本拠地である北大営を攻撃したのであった。これと相前後して板垣征四郎高級参謀は、軍司 令官代理として在満の各大隊や連隊に対し出動命令を発した。寝込みを急襲し、奉天城 の張 作霧率いる中国軍は遁走して、関東軍は鮮やかにその日のうちに奉天全市を制圧してしまったのであった。 その頃、旅順司令部を置いていた関東軍司令部では、参謀石原莞爾中佐が全参謀を非常召集を発令して、藤原がかねてより 計画していた作戦計画を発表したのであった。そしてただちに行動に移るよう指示を与えていたのである。

 練りに練られた作戦に確信を持っていたかのように、この間、本間 繁司令官は一言も発せず、その場にいただけであったという。関東軍の作戦は満州全域に及び、 九月二十一日には、早くも日本の権益確保とは直接関係のない満州北部の中心都市である吉林までも占領してしまっていた。 関東軍は戦争が拡大すれば、援軍が必要となるとして。板垣征四郎高級参謀は、軍司 令官代理として在満州の各大隊に対し出動命令を発していたのである。この迅速な関東軍の行動に、 急襲された奉天城の中国軍は敗走し、関東軍はその日のうちに奉天全市を制圧してしまった。 だが、関東軍の行動は、それにとどまらなかった。奉天総領事、森島守人が以後の処理は 外交手段で解決しようとしたのだが、関東軍は、これは統帥権に属する問題であると蹴ったのであった。

 そして電光石火のごとく、一九三二(昭和七)年一月には、遠は黒竜江(こくりゅうこう)から興安嶺(こうあんれい)に至る満州全域を制圧 してしまったのである。 そして、中国軍閥に紫禁城を追われていた、十七世紀末に清王朝を築いた満州族である清朝最後の皇帝薄儀を満州国皇帝の地位に据えたのである。 日本のもくろみは、ここに名実ともに新国家・満州国の誕生をみたのでした。 これによって、それまで紛糾の絶えなかった満州地区の治安は回復し、日本もソ運や中 国から受ける直接的な脅威を回避できるようになったのでした。その結果、資源の少なかった日本にとって願ったり叶ったりの結末で、 取りあえず収束したのでした。しかし、問題もありましたは、これによって日本が国際社会において孤立化を深める結果になったことであった。





頭脳明晰な切れ味鋭い天才



 満州国の建設という、当時の日本にとっては遥かなる願望であったものを、わずか半年あまりの間に 成し遂げた人物がいたのである。日本陸軍始まって以来の最高の頭脳と謳(うた)われ称された人物が石原莞爾その人である。 石原莞爾は、一八八九(明治二十二)年一月、警察官僚、石原啓介の子として山形県鶴岡市に誕生している。 祖先は代々、酒田藩の名門であった。小、中学時代の学業成績ともに抜群であった石原莞爾は、 幼い頃からの軍人志望であった。一九〇二(明治三十五)年九月、仙台幼年学校に入学し、 首席で卒業したのである。後に、陸軍士官学校、陸軍大学校へと、その頭脳明晰さを開花するがごとく進んだのでした。

 陸軍大学校においても石原の成績はトップであったが、この切れ者の石原が天皇の御前講義に際して、何を言い出すか と不安を抱いた上官は、あらかじめ作成された講義案をそのまま申し上げるよう命じたのであるが、 石原は、自分が御前講義を行う以上、自分の意見を申し述べたいと言ってそれに反発し、 拒絶したという。そのため、陸大ではあえて石原を首席の座から意図的に落として次席とし、無難な者を 主席にして、つつがなく御前講義を済ませたという逸話が伝えられている。 この出来事一つをとってみても、当時の帝国日本陸軍の上層部の事なかれ主義がうかがえるのである。これと対峙した石原の対照的な 強烈なまでの個性との関係を垣間見ることが出来るのである。

 陸軍大学校卒業後の石原莞爾は、本来ならば、その在学時代の成績序列によってそれなりのエリート コースを進むべきところであったのだが、この上層部の事なかれ主義の結果、石原には、御前講義の後 遺症がつねにつきまとったという。個性の強い者はすべて変わり者、異端者とされ、日本の良くも悪し くも、保守的で伝統的な形式に従う者が正統とされた時代に生きた石原の不運であった。 リベラルな海軍と比べ、とくに日本陸軍は、そのような保守的傾向が特別に強く、軍略などは全く重視 してはおらず、軍事力の技術革新すらもほとんどかえりみることはされなかった。

  荒木貞夫陸相(後に文相で、A級戦犯)の「竹槍三十万本あれば、外敵 恐るるに足らず」といった馬鹿な発言などは、程度の差こそあれ、日本陸軍の内部に横行していた思想で、 程度の低さを大いに感じさせるものである。 仮にも一国の陸相たる者にしてこのありさまなのである、どうしてこれで国が纏まろうものであろうか。 鋭敏闊達な石原にはさぞかし、この統制の無さには歯がゆさを感じたであろう。しかし、この竹やり構 想は大東亜戦争の終戦間際の本土防衛戦構想では真剣に国民に訓練されたのであるから、ほんとうにこっ けいである。

 石原は陸大卒業後、郷里に近い若松運隊に赴任したのでした。その後、陸軍大学の教官となり、その 間、三年近くドイツヘ留学した。そして帰国後、欧州で学んだナポレオンやモルトケなどの戦史 をもとに、独自に西欧人の戦略・戦術の研究を行っていたという。 また、石原は一九一九(大正八)年八月、大尉に昇官するとともにに結婚している。その結婚相手の鏡子夫人が 熱心な日蓮宗の信者であったところから、石原は日蓮の研究にも手を染めいたのである。日蓮の思想や人 生観についても究め、自身も宗教家の域に到達したという。そのため石原の思想の基礎の元になってるの は日蓮主義的な思想であるといわれている。今でも石原莞爾を語る時に、避けて通ることの出来ない宗教思想なのである。 そして彼を好き嫌いのどちらかにするのも、この日蓮宗思想なのではないかと思われる。

 一九二八(昭和三)年には、陸軍中佐に昇官し、同年十月十日、関東軍作戦参謀に着任 するや、直ちに満州国建設行動を開始したのであった。 それも物理的に生きるというので はなく、心理的に宗教的な感覚で物事を運ぼうという思想が大いに見受けられるのである 。この域に達すると、軍人で戦略家というよりも、もう完全なる思想家なのである。 そしてこの思想感で満州事変の画策を練りあげ、成功に導いたのか、それとも宗教とは 関係なく天才的で鋭利な刃物のような切れ味の石原莞爾も頭脳だけで練り上げた計画なの かは謎である。








満州建国と国内のクーデター



 天才、奇才と呼ばれた石原の理念と作戦によって計画どおりに実行したればこその満州国建設という大事が成 立したのであると言っても過言ではないであろう。 また、国内外的にも、多少の問題はあったにせよ、この天才の石原の読みが当たったのであった。 その後、一九三二年一月、リットン卿を中心とした調査団が結成され、国際連盟に於いて、リットン報告書に基づき不承認決議 案が採択されたのであった。しかし、外務大臣、松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場、翌月に国際連盟を脱退している。 米国は当初から連盟には加入しておらず、日本が国際連盟から離脱しようがしまいが、 実害はまったくというほどなかったといってよい。強いていえば、国際社交場のメンバー会員で あることをやめた程度の影響しかなかったのである。

 それよも「満州国」という現実の独立国家の誕生によって、日本の生命線ともいうべき 北方の地に対する実質的な脅威がいちじるしく減少したことを思えば。まさに石原戦略の 大成功というべきであったのではなかろうか。 だが、この成功は、日本国内に模倣するだけで同様の栄光にありつけるとばかりに、年 功だけで成り上がった陸軍の高級軍人たちに無責任で楽観的なムードを与えてしまったのも事実である。 その最たるものが、クーデターの横行と、軍閥の台頭、そして中国その他への拡大政策で あったのでしいた。

 一九三二「昭和七」年五月十日の夕刻のこと、三上 卓海軍中尉を先頭に、海軍士官や陸軍士官 候補生などが徒党を組んで首相官邸に乱入した。時の総理は清廉な政治家として知られていた犬養毅であった。 三上が拳銃を片手に侵入すると、犬養は「まあ待て、話せばわかるだろう」といって、自 ら日本間の居間に案内しようとした。だが、山岸宏中尉らは「問答無用」と叫ぶやいなや、 ピストルを乱射してその場から逃げるように立ち去っていったという。 犬養はその日の夜に息をひきとった。伝えられるところによれば、最後まで「話せばわか るのにのう」と、つぶやいていたという。

 それから更に三年後の一九三五(昭和十)年には、八・一二事件が発生したのであった。八月十二日、石 原と並んで、陸軍きっての逸材といわれていた永田鉄山軍務局長が陸軍省内で執務中のとこ ろを、相沢中佐に斬殺されたのである。 相沢は自らの軍刀で軍務局長を殺害したにもかかわらず、台湾に赴任するために悠々と銀 座で買い物をしていたところを逮捕されたという。相沢は単に上層部から依頼されたことを 実行しただけであり、罪に問われることなどはまったく意識にはなかったのである。 石原や永田のような最高の頭脳と見識を持った者は、つねに自らの信ずる道を是々非々の 姿勢で歩んでいた。 しかし、その他の二流以下の運中は、国家に対する軍部の発言力が強大になってきたのに 便乗し、徒党を組んで派閥をつくり、その余禄の上に居座ろうと躍起になっていたのである。








激怒した天皇、朕自ら近衛師団を率いて



 そして最大のクーデターと言えば若手将校たちが決起した二・二六事件であろう。そして、 一部の陸軍首脳が抱いていた悪い予感がズバリ的中してしまったのである。 一九三六(昭和十一)年二月二十六日に発生した二・二六事件がそれである。 二月二十六日の未明から早朝にかけて、近衛歩兵第三連隊、歩兵第一運隊、歩兵第三連 隊、野戦砲兵第七連隊などに所属する将兵、千四百数十名が、過激派青年将校の指揮によ り、首相官邸、斎藤内大臣邸、渡辺教育総監私邸、牧野前内大臣宿舎、鈴木侍従長邸、高橋 大蔵大臣私邸などを襲撃した事件である。

 この結果、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、高橋是清大蔵大臣は殺害され、鈴木 貫太郎侍従長は重傷を負ったが、九死に一生を得て命拾いしている。また、岡田啓介首相は、義弟の松尾大 佐が間違えられ、身代わりとなって殺害されたため、からくも脱出することができたのであった。 これらの反乱軍は、政府高官をはじめ陸軍省、警視庁など政治中枢機能が集中している永 田町一帯、朝日新聞社のあった有楽町、日比谷方面と広範囲に占拠し、完全武装のまま、 「昭和維新」を断行すると宣言したのであった。

 このクーデターの実行責任者は、香田清貞大尉、村中孝次大尉、野中四郎大尉、磯部浅一 中尉、栗原安秀中尉などといった尉官級の青年将校二十二名であった。が、その背後には、 皇道派の領袖(りょうしゅう)と目された荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将をはじめ、本庄繁侍従武官長から 山下奉文少将といった、錚々(そうそう)たる陸軍の大物が多数控えていた。本庄や山下などは、これら 反乱軍の行動を正当化すべく、再三にわたり昭和天皇に上奏したり、川島陸相などの陸軍 首脳部に圧力をかけたりしていた。

 だが、昭和天皇の意思は固く、「朕の軍隊を勝手に動かし、しかも朕の重臣 たちを殺害する行動は断じて許しがたい。本庄らではそれができぬというのであれば、朕 自ら近衛師団を率いて反逆軍を鎮圧してみせ る」とまでいい切ったのである。このような天皇の考えを知るに及び、これまで反乱軍をおだてたり、 卑屈なまでに取り入ったりした陸軍の長老や執行部は、今さら引っ込みがつかなくなった。 けれども、そこにはただ一人の例外が存在していた。終始一貫、当初より彼らの行動を批 判し、軍内部でもほとんどが「決起部隊」と称賛していたのに対して、当初から「反乱軍」 と決めつけたのは、石原莞爾作戦部長その人であった。

 翌二十七日より戒厳令を布き、その司令官には香椎浩平(かしいこうへい)中将を、またその参謀には 作戦部長兼務のまま、石原大佐が任命されたのであった。 石原が参謀として正式に登場してからは、状況は一変したのであった。何かといっては戒厳司令部に 出入りする真崎が、同じ皇遣派の香椎中将に圧力をかけているのを見るや、たまりかねた石 原は満座の中で真崎をつかまえ、歯に衣着せず「あなたのようなバカ大将がおだてるから、部下が勝手な真似を平気でするようになる」 と直言したのだった。これを聞いた真崎は激怒し、「上官に対しバカ大将とは何ごとか。軍紀をなんと心得るかし と叱りつけた。石原は何の臆する事無く平然として、こう答えたという。

 「あなたが軍紀を問題とするならば、単なる上官に対する無礼な発言よりも、それらの人々 を殺害した者たちを、真っ先に糾弾すべきではないですか」 これにはさすがの真崎も言葉を返せず、無念そうにその場から去っていったという。 いずれにしても、石原がこれら反乱軍の行為を、その動機以前に許すべからざるものとし た態度は、昭和天皇の気持ちと同じであったと考えられる。

この石原の強気の態度と判断力でこのテロ事件の難局に乗り出したが、この昭和維新ともいわれた 二・二六事件は三日を待たずして解決されたのでした。そして治安は平静を取り戻したのであった。 石原の考えは、そのまま放置すれば事件の長期化とともに、マスコミの論調も反乱軍擁 護の方向に転換するに違いないというものだった。 だが、それでは天皇の意思とは正反対の方向に引きずられることになる。 さらにそれ以上に問題となるのは、陸軍対陸軍以上に、海軍との関係がより難しくなるこ とだった。事実、海軍には陸軍の石原莞爾に勝るとも劣らぬエリートで俊英の井上成美が横須賀にお り、陸軍の動きによっては予断を許さぬ状況になっていたのであった。

 石原参謀のとった的確な判断と迅速な行動があったればこそ、日本の危機を最小限度で回 避することができたのである。 二・二六事件では、首謀者と見られた青年将校および北一輝、西田税(にしだみつぎ)などの思想家を含め て二十二名の死刑が執行された。のちに反乱軍の汚名は除かれたが、この事件が日本陸軍史 上最大の不祥事件であることに変わりはないのである。







酒田市の極東国際軍事裁判の臨時法廷に出廷する石原莞爾




石原 莞爾






石原 莞爾





石原 莞爾





石原 莞爾





石原 莞爾







我が国の悪癖



 


 二・二六事件が発生した翌年の一九三七「昭和十二」年の七月七日深夜、盧溝橋事件が勃 発したのであった。石原の最終戦争論に反する形となった日中戦争(支那事変)では、近衛首相に「不拡大方針」に同意さ せることに成功するのである。だが、東条英機大将らの統制派の軍閥を前にして、またもや意としない石原莞爾 は、無益にして非生産的かつ不合理な日本国内の戦いを強いられることとなったのである。 では、無策で理念なき戦争に敗れた原因はどの辺にあったのか。それに関しては、終戦後に 行われた国際極東軍事裁判「東京裁判」の問題に触れてみると。 一九四五「昭和二十」年八月六日、世界で最初の原子爆弾が広島に投下された。日本有数 の大都市が一瞬にして廃櫨と化し、十万人余りの人が死亡した。太平洋戦争は、この一発の原 子爆弾によって、事実上、終止符が打たれたといってよいと思われる。そして止めが長崎原爆投下と、ソ連の日ソ中立条約を破棄しての満州国境への進撃でした。

 しかし、この原子爆弾の出現は、一九三〇(昭和五)年、石原が陸軍大学校教官当時にお いてすでに予言していて、陸大学生たちを唖然とさせているのである。それほど石原は世界の情勢を 把握していたのであった。先手先手の石原だったが、国内のディスクワークだけの亡霊たちに阻まれることとなるのである。 それから遅れること十年の後、物理学者田中館愛(たなかだてあい)と 橘博士が、東条英機に対して新兵器としての原子爆弾の開発を進言しているのであるが、その時、東条はなんと言ったかといえば、 「学者のたわごとなど聞いている時間はない」と、これを一笑に付してしまったのであった。 この両者の対応の違いほど、石原莞爾と東条英機の能力格差を端的に示すものはなかろうと思う。 東条は軍人でありながら、真実は中身のない演説をぶち上げて権力を持ち、のし上がってきた政治家である。石原莞爾のような戦略家ではない。

 極東国際軍事裁判(通称・東京裁判)に先立って、米軍の憲兵(MP)が、山形県鶴岡市 内の自宅に石原を訪ねてきたことがある。その際、MPは石原に対して、 「あなたと東条とでは、思想的に大きく対立していたと聞いていますが、それはどのような ものであったのでしようか」 と尋ねたという。すると石原は、 「思想的対立といわれるが、それはお互いに思想ないしは理念を持っている場合において初 めて起こり得る現象である。 東条は、なるほど総理とか陸相とかの地位にあり、強大な権力を所持していた。だが、思 想とか理念とかいったものは爪のカケラほども持ち合わせていなかった。思想と理念のある 者とない者との間には、対立などというものは起こりようもないではないか。あのような思 想も理念もない人間を裁判にかけたところで、いたずらに時間の浪費をするだけですよ」 といって、MPを追い返してしまったという話が伝えられている。

 しかし、一九四六(昭和二十一)年五月、東京・市ヶ谷にある旧陸軍省跡地で極東国際軍事 裁判が開廷されることになったのである。裁かれる被告の A級戦犯者は東条以下二十八名の戦争指導者と目される人物たち であった。石原は、彼らを戦争犯罪人と呼ぶならば、自分こそその一人であると強く主張した が、連合国側は石原莞爾を戦犯とは見なしていなかったのである。 しかし、十五年戦争の発端となった満州事変の真相をはじめとする、A級戦犯たちの事情聴取 では不明な諸点を解明すべく、石原の証言を必要としていたのであった。が、石原は、すでに 膀胱ガンにかかっており、症状もかなり進行していたため、 どうしても石原莞爾の証言を必要とした連合国側は、一九四七「昭和二十二」年五月・酒田市 の商工会議所に極東国際軍事裁判の臨時法廷を設け、同証人の出廷を要請することとなる。 ニュージーランドの代表判事ノースクロフト卿をはじめとし、判事・検察官・弁護人および 通訳、記録係、それに内外報道官など総数六十名を越す関係者は、特別列車を仕立てて酒田 へと集まってきたのであった。何と、それも石原莞爾ただ一人の証言を得るためだけにである。 まさに前代未聞のことであったという。石原はこの酒田の特別法廷に戦闘帽を被り、歩くのも困難だったのかリヤカーに乗り出廷したのであった。

 このことは、当時の日本国民が、時の政府や軍部の言いなりになったマスコミ言論機関 によって一様に踊らされていたのに対し、連合国側のほうは石原莞爾の実力と存在を、はるか に高く分析し、評価していたことの表れであろう証拠でもあるのだ。 法廷に立った石原は、当時の満州をめぐる国際、軍事情勢を詳しく分析した結果を述べ 満州事変が日本にとってきわめて正当な軍事行動であったことを明確に石原は主張している。 そして、この軍事行動と、その後の満州国の誕生とはまったく別次元の問題であること、 満州国の建国は、その当時における満州地域の情勢下において、歴史的に起こったものであ ることを力説しているのである。これは、他の陸軍幹部はいざ知らず、石原にとっては当初からの理 念であり、それだけに法廷内の人々を納得させるだけの説得力があったと伝えられているという。

 極東国際軍事裁判後の石原の病状は一進一退を続けていたようであるが、二年後の一九四九昭和二 十四)年八月十五日、波瀾に富んだ六十一年の人生を終えることとなった。 石原はかねがね、十五年戦争の終わりの日である八月十五日をもって自らの生涯に幕を引 くと定めていたという。この意味では、わずか四年後の八月十五日に息を引き取ったという ことは、現世における理念と、来世における信仰とが結ばれた証であるといえないこともな いのである。 かって、極東国際軍事法廷で石原証人の発言を傍聴していたUPIの記者はいたく感激し、 「日本は、石原のような世界的に通用する超一級のリーダーを持っていた。それなのに何故 に日本にとってもっとも重要な時点において、石原を中央から追放してしまったのか理解に 苦しむ」 と述懐していたことが記録に残されている。

一九四六(昭和一六)年三月三十一日 大東亜戦争以前にこの切れ者の石原莞爾は陸軍内上層部で疎まれ、予備役編入へと相成るのであるが、 彼が予備役になる時点で、この戦争の結末はついていたのかも知れな。この切れ者を参謀ともせず、ただ疎ましさだけで陸軍から排除してしまったのである。 その結果、無能な者が残り指揮を執ったのである。そして結局終戦まで戦い抜くのだが、ソ連が国境を越えた時に関東軍上層部の逃げ足の速いことといったら、 上層部の家族だけ乗せて、満鉄で逃げ去ったという。後に残された兵や民間人はその後、悲惨なこととなるのであった。民間人は路頭に迷い、兵士は シベリヤへと抑留されたのでした。石原莞爾がいればもう少し良い方向へと戦後処理が出来たかと思うと、返す返すも遺憾の極みである。

 日本人の悪い癖は、というより何処の國でも同じなのであるが、理念も思想も持たない人間が、中身の無い演説の上手だけで国民の 指示を受け、権力を増大して行くのである。 本来なら石原莞爾のような軍人が采配すべきなのだが、切れ者の軍人とはいえ高が軍人一人、国家権力を傘に着た連中には勝てないのである。 そして切れ者の軍人たちはそのような連中から阻害され、身の置き場をなくして予備役となって活躍の場を失うのである。 この石原莞爾という人間、カリスマ的な人気と批判とが入り混じった人であることも事実のようである。


(更新/2008/01/14)  肌寒の宵に家の中の満開の梅を見ながら記す   Homepage Owner kanno






参考文献 
出版社: 講談社  新井 喜美夫 (著) 「名将」「愚将」大逆転の太平洋戦争史
出版社:中公文庫:青江舜二郎(著)『石原莞爾

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