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日の丸


大山巌元帥


大山巌陸軍大将


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



大山巌元帥



経 歴
大山 巖
1842年11月12日(天保13年10月10日)生
薩摩国鹿児島郡加治屋町(現、鹿児島市)出身
父、大山彦八綱昌
西郷隆盛、西郷從道の従兄
元帥陸軍大将
公爵
参謀総長
元老
1862年5月21日(文久2年4月23日)寺田屋事件に参加
1868年 戊辰戦争・薩摩藩兵の砲隊長として参加
1880(明治13)年 陸軍卿
1882(明治15)年11月1日 旭日大綬章受章
1885(明治18)年12月22日陸軍大臣
1886(明治19)年7月10日海軍大臣
1889(明治22)年12月24日陸軍大臣
1892(明治25)年8月8日陸軍大臣
日清戦争では第2軍司令官
1895(明治28)年8月5日 勲一等旭日桐花大綬章
1896(明治29)年9月18日〜9月20日 陸軍大臣
1898(明治31)年 元帥
1899(明治32)年 参謀総長
日露戦争では満州軍総司令官
1902(明治35)年6月3日 大勲位
1916(大正5)年12月10日没
     























日本陸軍を創設者である大山巌元帥の成し得た偉業は、苦しい財政下の下で日清・日露の戦いを薄氷を踏む思いで日本を勝利に導いた功績は東郷、乃木に勝るとも劣らないであろう。 後々の大東亜戦争終結まで、陸軍将兵の鏡とされた人であった。



日本陸軍の創設に生涯を捧げた大山巌


 大山巌(おおやまいわお)の父は鹿児島の薩摩藩々士で、西郷隆盛やその弟の西郷従道(さいごうつぐみち)らと大山巌は従弟である。その父、大山彦八綱昌 (おおやまひこはちつなまさ)の次男として天保13年(1842年) 鹿児島で産声をあげた。政治家であり陸軍軍人でもある大山巌は日本陸軍の創設に貢献し、日清戦争と日露戦争では日本軍の司令官として出征している。

 文久2年(1862年)島津久光公の上洛に際して、有馬新七(ありま・しんしち)に従い西郷従道とともに京都に出向き諸国の攘夷派と合流する。 その結果、大山は寺田屋事件で鎮圧されてしまい、帰国して謹慎処分に科せられてしまうのである。 翌文久3年、謹慎放免後、薩英戦争に従軍し、イギリス艦乗っ取りの決死隊に参加し、敗退するも、黒田清隆らとともに江戸の江川太郎左衛門塾に派遣され、 この江川塾で砲術を極めて、砲術の免許皆伝となる。そして砲の改良研究も熱心で、「弥介砲」(よすけほう)と呼ばれる十二斤綫臼砲を完成させる。 その結果、戊辰戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍し、この「弥介砲」と免許皆伝の砲術を大いに活用 して戦果を挙げた。

 しかし、大山巌は鳥羽伏見の戦いで右耳に銃創(じゅうそう)を受けるも、その後も越後長岡藩を制圧して会津へと転戦し、砲術をもって活躍するのでした。 維新後、フランスに留学した際に普仏戦を観戦したことをきっかけに、軍事学を学び新しい知識を基礎に日本陸軍の建設に着手することとなるのである。 陸軍をそれまでのフランス式からドイツ式に改めることを決意するのでした。

 普仏戦争を観戦したのちスイスへと移り住み、フランス語修得に励んでいた大山に、明治六年の征韓論が起こり、鹿児島の私学校党との調停を政府から命ぜられ 即刻帰国した大山は、早速、鹿児島に乗り込み従兄弟でもある西郷隆盛とも腹を割って直談判を行ったが、西郷の心を解くことは出来なかった大山巌は失意のうちに 帰郷するのでした。西郷と大山の対談の内容は彼ら二人が知るだけであり、後々も大山からは聞かれることはなかったという。

 1877年(明治10年)西南戦争が起こると、政府軍の指揮官として私学校党との戦いに臨み、故郷を、そして血縁にある大西郷との戦いに望まざる得なくなった 大山の心中はいかばかりものであったことでしょう。西南戦争終了後、それまでは快活明朗だった大山は人が変ったように寡黙(かもく)になり多くは語らなくなったという。

  『戦場の名言――指揮官たちの決断』(草思社)を引用すると、満洲軍総司令官を誰にしようか迷ったとき、明治天皇は本来なら山縣有朋を選ぶ所ではあるが、 あえて大山巌を選んだのである。 日露戦争の際、外地の野戦軍と東京の大本営の中間に位置する機関として満洲総司令部 が設置されることになった。総司令官には、衆目の見るところ山縣有朋が適任とされ、参謀総長の大山も山縣を推したのであった。しかし、明治天皇は大山を選らばれた。 その理由を明治天皇は大山巌本人にこのように述べたという。 「山縣も不適任とは思わないが、困ったことに軍司令官たちが喜ばないようだ。山縣は鋭いし、万事に気がついて細かく指導するので敬遠されるだろう。 軍司令官ともなれば、ある程度の自由を欲するだろう。そこで、あまりうるさくない人物がよかろうということで、大山に決めたわけだ」 そこで、大山大将は、「大山はボンヤリしているから総司令官に任命する、というふうにも聞こえますが…」と述べると、明治天皇は、 「まず、そんなところであろう」と、笑っていわれたという。司令官というものは何事にも懐(ふところ)が深く、寛容でなければ兵を思うようには 動かせなと、明治天皇は悟り大山を適任とみて採用したものと思われる。明治天皇も人を見る目を持ち合わせたということであろう。







大山巌陸軍大将

九段坂下 大山巌元帥像


 九段坂 品川弥二郎子爵像と併設し、田安門外で、靖国神社大鳥居の反対側にある。




政治には関与せず軍人に生きた人



 明治時代に日本が国の存亡を賭けて臨んだ、日露戦争におけるその陸戦の総司令官として、日清戦争(1894年〜95年)では第二軍司令官として旅順、 威海衛を攻略、日露戦争(1904年〜05年)に於いては満州軍総司令官として、日露戦争においては児玉源太郎とともに自ら大陸に渡って総指揮を執り、 日本軍を勝利に導いた。 見事な采配を振るい日本軍陸戦を勝利に導いた功労者でもありました。 日露戦争というと東郷平八郎や、乃木希典(のぎ まれすけ)が有名であるが、この前記の人物たちとはまた別格に位置する度量の大きな、 そして人を掌握することに長けた大者であろう。

 軍を統率させたら右に出るものが無いほど実戦に長けた人であったようである。陸軍大臣や海軍大臣を兼任し参謀総長の任にも就いた政治的にも 卓越した能力を発揮し、その時々の首相に仕えているのである。決して戦場だけで活躍した人ではなく、政治の世界でも信頼の厚い人間であった。 日露戦争では苦しい戦いを戦い抜き、何ごとにも動じないで信念で満州軍司令部の屋台骨を支えたのであった。この統率力こそが日本軍に勝利を もたらすのでした。

 ある時、日本軍は奉天のロシア軍と沙河付近で激突して、総司令部が騒然として慌てふためいっているとき、昼寝から目覚めて部屋をのぞいた 総司令官の大山が一言こう言った。 児玉さん、(児玉源太郎、徳山藩士児玉半九郎忠碩の長男。戊辰戦争に藩の献功隊士として参加。のち陸軍に入り、 佐賀の乱・神風連の乱・西南戦争に従軍して頭角をあらわした人)今日もどこかでゆっさ「戦のこと(いくさ)」がごわすかというと、ピリピリしていた参謀た ちの表情に明るさがもどったといわれる。ここが大山巌の本心ではないボケであり、このボケが大いに戦場では兵を大いに和(なご)ませたようである。それでなくとも ピリピリしている戦場でのこのボケは常人には出来ないであろう。大山にしてこそ出来る大らかさと、ゆとりのなせる業ではないかと思われる。

 大山巌は、明治18年(1885年)陸軍卿から第一次伊藤博文内閣で初の陸軍大臣就任する。その後4度、計5度の陸軍大臣と海軍大臣にも1度就任し、 参謀総長、内務大臣をも勤め元老となり、長州閥の山縣有朋と並ぶ陸軍の実力者であったが、政治はあまり好きではなかったようで積極的には関与し なかったといわれている。軍人は軍人であれかしと思ったのではないかと思われる。

 政治的野心や権力欲は乏しく、その経緯から皇室からは山縣有朋などよりは 高く評価されていたようである。気がつきすぎて細かくあれこれ述べるので嫌われていたようである。山縣有朋は皇太子妃(昭和天皇)の妃選びに ・良子(ながこ)姫を妃に選ぶ時にも横槍を入れている。ただしこれは定かではない。 この政治的なうっとうしさを大山巌は嫌ったのであろう、政治的には名前を使われているようなもので、政治的な問題には本人も極力避けていたようである。

 大正5年(1916年)享年75歳で死去。東京で国葬の後、那須にあった大山巌が所有していた栃木県の那須の地に葬られて今は静かに永眠す。





(更新/2007/06/28) 雨降らぬ梅雨の日の夜明けに記す。Homepage Owner kanno






参考文献 
出版社: PHP研究所 三戸岡 道夫 (著) 大山巌―剛腹にして果断の将軍
草思社(刊)「戦場の名言―指揮官たちの決断」 田中 恒夫(著)熊代 将起(著)葛原 和三(著)藤井 久(著)

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