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日章旗


山下泰文中将・U

悲運の将軍、還らざる決断のフィリピン攻防戦



山下泰文中将

第十四方面軍司令長官・山下泰文中将
経   歴
1885(明治18)年11月8日生
高知県香美郡大杉村(現、大宮町)出身
父、山下佐吉の二男
ニックネームは「マレーの虎」
1899(明治32)年 高知市海南学校に入学
1899(明治32)年3月 広島幼年学校に入校
1905(明治38)年11月 陸軍士官学校(18期)卒
1913(大正2)年 陸軍大学校入校
1916(大正5)年 陸軍大尉
 11月 陸軍大学校卒
1941(昭和16)年7月17日 関東防衛軍司令官
1941(昭和16)11月9日 第25軍司令官
 12月8日 太平洋戦争勃発
  マレー攻略戦を指揮
1942(昭和17)年2月15日
  シンガポールのイギリス軍、降伏
 7月1日 第1方面軍司令官
1943(昭和18)年2月10日 陸軍大将
フィリピン防衛戦を指揮
1945(昭和20)年12月 マニラの軍事法廷で死刑宣告を受ける
1946(昭和21)年2月23日 マニラで絞首刑 (法務死)
























悲劇の将軍山下奉文大将は、最期の時を死せずして生き永らえ、部下の帰国のために生き恥をあえて選んだのであった。





帰る宛なき南進、山下奉文大将の最期


 開戦時マレー半島のシンガポール攻略戦線で、マレーの虎として英雄的な存在となった山下泰文大将ですが、その後は 二.二六事件の関与を中央の統制派などに疎まれ、満州に左遷されるような形で関東軍に配備されて不遇をかこっていた。 満洲の曠野(こうや=荒れ果てている野。人けもなくて寂しい野原。)にあって対ソ戦に備えて指揮をとっていた山下奉文大将に、第十四方面軍 (在フィリピン)軍司令官の大命がくだったのは、昭和十九年九月二十三日のことであった。

 マ リアナ諸島防衛の決戦に敗れ、切迫した状況のこの戦争における大日本帝国の勝機は完全になくなって いたと言ってよいであろう。敗軍の将とならざらんことを覚悟した山下大将は明らかに自分の国の最終的な敗北を予期し、 あわせて自分の運命についても正確に見通していたのであろう。 一緒に満洲に在住していた妻の久子夫人ら家族のものに山下は以下のように述べている。 「内地に帰って、最後のときは両親と一緒に死ぬほうがよい」と言い渡している。  山下奉文大将も覚悟の上の家族との決別であったのであろう。

 その覚悟を決めて九月二十九日に東京に戻ってきた山下奉文大将を激怒させたのは、大本営のご都合主義で、戦況緊迫 を理由に、十月一日には比島へ出発せねばならなくなっている限られた日程であった。 正味二日では、大本営での諸打ち合わせだけで手一杯になり、各方面の人に別れを告げる余裕など 全くない状況であった。ましてや天皇に拝謁する時間がなどなかったのである。 対米英戦争の緒戦のマレー・シンガポール攻略戦に於いて、山下大将は破竹の勢いで攻略し、殊勲の将軍となっ た。しかし作戦終了と同時に、軍機の名のもとに東京の土を踏むことなく、一直線に満 洲の牡丹江(ぼたんこう=中国東北地区の吉林省・黒竜江省を流れる川。)へ赴任させられてしまったのである。

   軍司令官の新任務への就任には、天皇に拝謁(はいえつ=身分の高い人に面会することをへりくだっていう語。)し、 戦況上奏とともに親任式が行われることになっているのだが、山下にはこのとき、武人の無上 の光栄ともいうべきこの式を、省略させられてしまった痛恨なる苦い想い出があった。 「こんどもまた親任式を省略するというのか。大本営は一体何を考えているのか。この 出陣におれは服するわけにはいかん」 戦争がはじまっていらい、はじめての帰京なのである。大本営の命なりといえども絶 対に後へは引かぬ決意が、山下のいかつい顔面にみなぎっていたという。

   だが、その反面かれの 心中には、沈潜しているある淋しさがふたたび湧きあがってきていた。陛下はそれほど までに山下を嫌っておられるのか、というつらい想いであった。 それは昭和十一年の、いわゆる二.二六事件(にぃにぃろくじけん=1936年(昭和11年) 2月26日-29日に、日本において、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率いて行ったクーデター未遂事件 )における天皇の、山下にたいして放たれ たという強い叱責の言葉であったのだ。皇道派の一員として、叛乱将校に一掬(いっきく)の同情をもっ ていた山下は、二月二十八日に川島義之陸相とともに宮中に侍従武官長本庄繁大将を訪 ねた。かれは青年将校の苦衷を語り、かれらが罪を謝するために切腹する覚悟でいるこ とを、武官長に語ったのであった。

   ついては、かれらを安んじて自刃させるためには特別の慈悲を もって「勅使を賜り死出の光栄を与えてもらえまいか」と涙ながらに申し出たのであるのだが。 しかし侍従武官長から奏上をうけた天皇は、かつてない怒りを示したという。 「たとえいかなる理由があろうと叛軍は叛軍である。自殺するならば勝手にさせるがい い。かくのごとき者に勅使などもってのほかのことである」 そして天皇は語をついで言ったという。 「そのようなことで軍の威信が保てるか。山下は軽率である」

   あからさまに臣下を名指しで戒(いまし)めることをしない天皇が、そのようなことを言ったのか?はたして「山下は軽率であ る」と言ったかどうかについての確証はないのであるが、ただし「軽率」の一語が天皇の言葉とし て山下の耳に入ったことは確かであったようだ。この天皇の軽率という言葉が長い間、山下の胸に貼り付いて離れなかったようでうである。 それから、すでに八年半もの暦日がすぎている。にもかかわらず、山下の名のあ るところにはまだ雪の日の二.二六事件の惨劇が大きく立ちはだかるのか、という絶望の想いが、かれの 胸中を埋めるのであった。『二.二六事件』当時の皇道派の主要な人物の中の一人として、その渦中に山下奉文少将も参加していたのであった。

 その山下が、参謀総長梅津美治郎の計らいで 天皇と皇后に拝謁することができたのは、出発 が延ばされた十月一日のことであったという。緊張気味に襟(えり)を正 した山下大将が、やや上気した面持ちで退出してき たとき、控えていた副官にはその表情が「もう これで、いつ死んでも心残りはない」といって いるように感じとって見えたという。事実、皇居を辞 するとき、侍従長に山下奉文は「私の生涯においてもっと も幸福なときでありました」としみじみと語ったという。

 忠誠なる軍人として山下はこの時ひそ かに天皇に別れを告げたのであったのであろう。 こうして山下泰文大将は一九四四年(昭和一九年)に第十四方面軍司令官としてフィリピン戦を指揮する事になる。 山下はその比島防衛の大任を負って、日本本土から飛び立ってフィルピンの地に向かうのであった。しかし、それは あまりに遅すぎていたのだ。着任が十月六日、それから一週間もたたないうちに、米機動部 隊は比島の日本軍陣地に大空襲をかけてきたのである。決戦準備よりさきに戦闘がはじまったてしまったのであった。 しかも当初計画されていたルソン島に兵力を集中しての一大決戦は、台湾沖航 空戦で大戦果をあげたという大本営のとんでもない誤判断から、(はたして誤判断だったの大本営の過大戦果報告であったのでは?)兵力分散のレイテ島決 戦に変更された。

 だが山下はこの愚策に猛烈に反対したのだが、大本営も上級司令部の南方軍も、 頑として耳を籍(か)そうとはしなかった。 山下は天を仰いで言った。 「レイテ決戦は後世史家の非難を浴びることになろう」 はじめから無謀愚策の一語につきたレイテ決戦に敗れ、兵力の大損耗をまねき、昭和 二十年二月からは超優勢な米軍のルソン島上陸を迎え、正攻法ではもう戦う余力を持ちあわせていなかった山下軍は北部山中に籠城しゲリ ラ的低抗をつづける持久戦に入ったのであった。寡兵による広大なる守備範囲と、食糧と弾薬もまま ならず、補給なしとあっては、放胆な攻勢作戦のとりようもなかったのである。日本軍の補給無し、現地調達というのはこの頃にはほとんど常識化していた。

 しかし第十四方面軍の将兵はねばれる限りねばり抜いて低抗したのだが、虚しくも多くの犠牲者を出して敗れ去ったのであった。 一時は連合軍に優勢を保ったが、圧倒的な連合軍側の膨大な兵力に押され完敗したのであった。 一九四五年九月三日、力尽きた日本軍はフィリピンのバギオで降伏した。 八月十四日夜、ポツダム宣言受諾を知った山下司令部では、参謀たちが、虜囚の辱(はずかしめ) をうけず、また敗戦の責任を負って軍司令宮は自決すべきかどうかで、議が闘わされ た。

 

 

罪を一身に負った山下奉文大将




 
 しかし山下は淡々として言った。 「私はルソンで敵昧方や民衆を間わず多くの人びとを殺している。この罪の償いをしな くてはならんだろう。祖国へ帰ることなど夢にも思ってはいないが、私がひとり先にい っては、責任をとるものがなくて残ったものに迷惑をかける。だから私は生きて責任を 背負うつもりであると述べた。そして一人でも多くの部下を無事に日本へ帰したい。そして祖国 再建のために大いに働いてもらいたい。」

 戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられ、山下はその言葉どおり、ルソン作戦中にたびたびあった住民虐殺の責任を負い、マニ ラのアメリカ軍戦犯法廷で絞首刑を宣告される。刑執行にあたり、軍服の着用も許されず囚人服のままで処刑は行われたという。 処刑台は捕虜の日本兵に作らせ、山下大将を慕う兵たちは涙ながらに作業に従事したといわれる。何と惨い報復的な裁判だったんでしょうか。

 「十分に覚悟しているから安心しろ。それよりもお前たちは、日本へ帰ってしっかりや ってくれよ」 と弁護に立ったもとの部下たちに言うのを、山下は常とした。 山下が刑死したのは昭和二十一年二月二十三日。独房にあったとき、山下は毎日のよ うに「アメアメフレフレ、カアサンガー・・・」と口ずさんでいたという。そして処刑のと き通訳としてつきそった僧職森田師に、辞世の歌三首と、将兵一同とその家族にたいす る最後の言葉を口述している。


野山わけ集むる兵士十余万

  還りてなれよ国の柱に



今日も亦大地踏みしめ還り行く

  わがつはものの姿たのもし



待てしばし

  いさお残して逝きし友

      後な慕ひて我も逝かなむ


































 「私の不注意と天性が暗愚であったため、全軍の指揮統率を誤り何物にも代え難い ご子息、あるいは夢にも忘れ得ないご夫君を、多数殺しましたことは誠に申し訳の ない次第であります。激しい苦悩のため、心転倒せる私には衷心よりお詫び申し上 げる言葉を見出し得ないのであります。(中略) 私は大命によって降伏した時、日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきで ありました。事実私はキヤンガンで、あるいはバギオで、かつてのシンガポールの 敗将パーシバルの列席の下に、降伏調印した時に自刃しようと決意しました。しか し、その度に私の利已主義を思い止まらせましたのは、まだ終戦を知らない部下た ちでありました。私が死を否定することによって、キヤンガンを中心として玉砕を 決意していた部下たちを、無益な死から解放し、祖国に帰すことができたのであり ます。 私は武士は死すべき時に死処を得ないで恥を忍んで生きなければならない、と いうのがいかに苦しいものであるか、 ということをしみじみと体験しております・・

 悲劇の名将とよぶにふさわしい山下の、刑執行四十分前の言葉には、かつての部下を 一人でも多く祖国へ帰してやりたいという、あふれんばかりの想いだけがある。忠誠な 軍人としての、天皇にたいする別れはもうとっくにすんでいたのであろう。


一九四六年(昭和二一)年二月二三日マニラで絞首刑 (法務死)に処せられたのであった。





 

(更新/2007/09/04) 秋の気配の涼しきそよ風の日!   Homepage Owner  kanno





主要参考文献 
文春文庫・刊・半藤一利・著・戦士の遺書)太平洋に散った勇者達の叫び


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