増産に明け暮れる日々
軍の要求で震洋は増産に次ぐ増産で、工員は残業に続く残業であったといわれる。
それほどに戦況は差し迫ったのであろう。特攻隊員の若い兵士が工場へ訪れては前の利根川で試走しては受領して、
各基地へと送り込まれていったという。ほとんどが海軍予備学生(学徒兵)や予科練として海軍に入隊したが、航空機の不足と搭乗員育成には
時間がかかるとのことで、翼をもがれた若鷲たちは震洋部隊へと送り込まれたのである。皆19〜20歳の若者たちであった。
当時、C艇・震洋の製作に当たった方はこのように回想する。「ほとんど二十歳そこそこ。一緒に話をし、冗談を
言い合ったり、酒も飲んだ同年代の仲間が、この艇に乗って死んで行くのかと思うと、無名が痛んだ」と、当時を回想している。
この言葉を聞いていかに戦局が悪化して軍部が焦っていたかがうかがい知れる。いかに海軍とはいえ空を飛ぶことに憧れて
入隊してみれば、航空特攻ではなく水上特攻に回されてしまったのである。これが翼無き特攻要員の現実であった。ほとんどが予科練と学徒出陣の海軍兵科予備学生たちで、
期待成功率10%という絶望的な観測の下、消耗品のように修羅の戦場へ必死必中の特攻攻撃を仕掛けていったのである。
無残この上ない話なのである。
これが当時の時代の若者が極当たり前のように通り過ぎて来た道なのである。そう、人とは自分の置かれた立場にいつしか順応して行くのである。
その現状は、こんな
不条理は今の世では許されることではないが、極当然のように若者たちは現実を受け止めて己の生死感を克服していった。
自らの苦悩と死との狭間で対等(たいじ)し、それに打ち克ったのではなかろうか。そうでなければ
死という恐怖心にはとても立ち向かえなかったのでは無かろうか思う。平時ではとても考え得ぬ事である。
この震洋隊の戦果は初期のフィリピン沖縄方面ではそれなりにあったようだが。しかし、全震洋隊の結果から見れば
僅かなものであり、戦局を好転させ得るものではなかった。全隊(147隊)での戦没者数は二千名以上に上ったのである。
そしてこの作戦に参加した人の中には、前参議院議員で「特攻隊だった僕がいま若者に伝えたいこと」の著者でもある
田 英夫氏や、歌手の三島敏雄氏
などがいる。田 英夫氏は海軍兵科第四期予備学生出身で、第十六震洋特別攻撃隊艇隊長。
三島敏雄氏は予科練出身で海軍上等飛行兵曹で、ともに消耗品ともいうべき海軍予備学生と予科練出身者であった。
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銚子市弥生町の震洋格納壕・T 弥生町の格納壕・U
製造は学徒勤労動員の手で
横浜ヨット銚子工場には、最盛期には約1,000名ほどの作業員が震洋製作に従事していたようである。
しかし、作業する人はほとんどが素人といって良いほどで、一部の民間人と現地採用の勤労動員の近郊の学生たちであったという。
上げてみれば、匝瑳中学(現県立匝瑳高校・匝瑳市)・銚子商業(現県立銚子商業高等学校・銚子市)・
私立銚子中学(現市立銚子高校・銚子市)・県立銚子女学校(現県立銚子高校「現在は共学」・銚子市)
以上の学生の勤労動員で賄われていたのである。学生たちは朝家を出て学校へは向かわず、工場へ通ったという。
C艇は、この利根川河口からさかのぼること4キロほど上流に上った川沿いに数棟建てられた工場内で、
突貫作業で行われていたようである。設計図面はあるにはあったが、機械らしきものはほとんど使用せず、
徴兵前の若者や婦女子、年寄りなどのまったく素人とも言っていいような人たちが、べニア合板を
接着剤で張り、そしてアマガエルと言われる由縁ともなった緑色の迷彩塗装をほどこしてエンジンを
取り付けるといった分担作業で行っていた。
震洋という名を知っていたのは極一部の人たちであり、作業に当たった人たちは全くそのような名前の
認識は無く、他所はどのような呼称で呼ばれていたかは不明であるが、横浜ヨット銚子工場ではC艇と呼ばれて
製作されていたようである。銚子市史に掲載された防衛庁の資料には「各種の特攻兵器を試作研究
していた海軍は、それら@〜Hまでの仮名を付けたその中の四番目のCが水上特攻艇であった。これを
マル四艇と称していたのである。そして昭和十九年八月末、マル四艇に"震洋"という固有の名を与えることになった」
と書かれている。
残業残業の末、完成した震洋は次から次へと工場そばのドックで進水式とは名ばかりの進水式を終え、
即刻、工場前の利根川で試運転されていた。工場には常時乗り込む隊員が送り込まれていて、実戦に
適応するような演習を繰り返したという。そして艇は次々と横浜ヨット銚子工場から少し内陸に入った
松岸駅から貨車に積まれて、隊員たちと何処へともなく姿を消して行ったという。
ではC艇・震洋がどれほどの戦果を上げたのであろう。それは大きな戦果と言えばフィリピンと沖縄での二回のみであったという。
フィリピンでの戦果は、昭和十九年十月のルソン島のリンガエン湾の戦闘で、「銚子市史に掲載された防衛庁の公刊戦史の資料によれば、「
米軍の護衛艦一隻、兵員輸送船一隻、戦車陸揚艦一隻を撃沈。敵艦艇群に突入した特攻艇は七〇隻、隊員七八人」とある。
防衛庁の公刊戦史の数を信じるならば、これだけの艇と隊員を出撃させての戦果はこの程度のものであったようだ。何と効率の悪い攻撃だったことか。まあ軍部は希望的成功確率
を10%というように予想していたのだからこの程度のものであろうが、それにしても他の特攻兵器、人間爆弾・桜花、人間魚雷・回天と共に効率の悪い兵器であったことは間違いないようである。
結果的には戦果効率が悪いと言われた航空特攻が結果論ではあるが、最大の戦果をもたらす結果になったのも皮肉なものである。
結局、戦果の割りには全震洋隊147隊、2,000有余名の戦没者を出したのを見ると、どう見ても効率の良かった特攻作戦ではなかったようである。
だが、航空機を造るには資材も減少しており、このベニヤ合板と接着剤とノコギリ、カンナ、ノミ、ハンマーで造れるC艇は手っ取り早く造れて、不足している金属も
ほとんど使わず、それほどの工程も無く造り上げられたのだから、軍部にしてみれば捨て難い兵器であったことは間違いないであろう。
しかし、軍部は人の代わりだけは造ることの出来ないという事を忘れていたようである。あまりにも戦果の割りには犠牲が多過ぎるのである。
さて、C艇・震洋が実際に何隻ほど建造されたかというと、昭和十九年七月以後、量産体制に入ってから横須賀海軍工廠
深沢分工場など海軍部内での製造された以外に、民間六社で月産五〇〇隻、終戦までの約一年間で六二〇〇隻を建造していた。
それでは横浜ヨット銚子工場ではどれほどの震洋を造っていたかといえば詳細は分からないが、従業員が1,000名ほど在籍していたと
いう銚子工場でも、人数に相応した数が造られたものと思われる。

1,000人ほど居たという横浜ヨット銚子工場の朝礼風景 同工場で開かれた演芸会、後方には震洋隊員の姿も見える。
終りに
銚子市にこのような工場があった事など以前は全く知らなかったのであるが、自分が住む市に戦争に関した物がどれほどあったかと
興味を持ち始めて調べて行くと、これまで知らなかった施設や戦跡などが結構多くあるのに驚いた次第である。
益々薄れ行く戦争の記憶を、知っている方から教えて欲しいと思っている昨今であるが、残念ながら銚子市の戦時中の出来事を
を詳しく覚えている人が少なくなっている事は事実である。今後も益々自分の住む町の事くらいは知って置きたいと、これからも
探し回って見ようと思う。
震洋を造られた方々には御苦労さまと、そして震洋によって戦場に散華なされた幾多の英霊の方々に
対し、哀悼の意を捧げる次第である。
(更新/2008/09/11) 秋雨煙る肌寒い日に記す Homepage Owner kanno
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参考文献 |
千葉日報・刊・石橋正一著・幻の本土決戦 房総半島の防衛 第四巻(特攻艇・震洋)
宝島社・刊・特攻「特別攻撃隊」
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