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日章旗






岡山県倉敷市日本赤十字
西阿知救護班の救護鞄










    
  • 従軍看護班使用の救護鞄

      当時の日本赤十字社救護看護班や旧陸海軍従軍看護婦(陸海軍が採用した看婦)らが国内各地から 召集されたのでしょう。
      以下に紹介する救護用の鞄もそのような一つの救護班が使用していたものである。
    まだ沢山のこのような貴重な救護鞄が日本全国に眠っているのであろう。
      このような忘れ去られようとする物は 大いに世に出て欲しいと懇願するものです。 そして懐かしむ者もあろうし、戦争を!いや大東亜戦争そのものを知らない、 戦争と言えば湾岸戦争くらいしか知らない世代が増えてきた今、このような貴重な物が日の目を見て欲しいと思うとともに 、この世代を越えた歴史の真実を語ってくれる貴重なものを保管なされている方は、ご家族なり、ご親族の使用した貴重な ものでしょう。それを大事に保管しても良し、しかし顧みることもなく家の片隅に眠っているなら、是非とも世に出して大勢の方が観られる施設にでも 寄贈して欲しいものであります。



  • この鞄のDATA!

      この鞄はいつもお世話になっている谷口氏の所有の物ですが、これを日高氏を介して自分の所にお借りして じっくりの見せて頂き、写真に収めさせて戴きました。
       ただ詳しいDATA事態は分かりません。ただこの鞄が送られてきた時に鞄とともに 中に添え書きとして、日赤・岡山県「西阿知救護班」と書かれていました。 そのため自分がネットなどで調べてみたのだが、全くこの鞄のDATAに少しでも関連したものは 散々検索してみたが、全く見出すことは出来ませんでした。

      ということで図書館に走ったのですが、 そこでも手掛かりになることは全く無く、徒労に終わりました。 ネットで調べた結果を強いて言えば、阿知班と岡山県と添え書きに書かれていたので、ネットで岡山県 阿知と入力して検索してみると、岡山県倉敷市西阿知町と言う場所が出て来たので、この救護班の 所在地はほぼ倉敷市の西阿知(にしあち)町ということが判明しました。表面に消えかかった 文字で判読すると赤十字の赤い十字の印と、表面右側の上部にほとんど消えかかった状態で西阿知と書かれ、赤い十字の下面に 救護班と書き込まれています。



  • 所 見

      残念ながらこの西阿知救護班が何年にどこの兵站病院に従軍したかも全く今のところ不明であるが、恐らく支那であろうが、 大東亜戦争中か、それ以前の支那事変(今は何やら総じて日中戦争というそうですが!) 物なのか、それとも昭和16年からの大東亜戦争に なってからの物かも不明なため、この鞄が何年経過したものかは全く想像もつかない。

      しかし、相当に使い込まれている様子が窺えるのですが、それにも負けないほどに大事に使った痕跡見受けられます。 文字の書かれた部分の塗料が剥がれて、何度も丹念に塗り直した形跡が窺えます。
      それほど物質的にも不足していたのでしょう。 ただの経年劣化ばかりとは思えない、使い込んで劣化し、更に補修しながら使用したことがヒヒヒヒと感じ取れるのです。










  • 救護鞄



    救護鞄・T

    救護鞄表面



    御覧のように使い込まれているということがお分かり戴けると思いますが、消えかかった文字部分が剥がれ落ちています。これは何度か塗り直して大事に使っていることが分かります。





    救護鞄・U

    救護鞄表面蓋の内部表面



    これは鞄の上のカバーを上に揚げた状態ですが、多少右の上の方に焦げ痕のような所が見受かられますが、流石に外の面より綺麗になっています。 そして外部より革に輝きが残っています。





    救護鞄・V

    救護鞄裏面



    こちらは鞄の裏側であるが、微かに角の部分に擦れ傷がみられるが流石に表面よりは綺麗な状態である。だが時の流れは感じられる。


































    救護鞄・W
    救護鞄X


    救護鞄側面左                    救護鞄側面右
                               

    これは露出の関係でチョット明るさが違ってしまったが、鞄の左右から撮った側面である。意外と状態も良く綺麗である。

























    救護鞄・Y
    救護鞄・Z
                

    救護鞄内部左上のホルダー?               救護鞄内部右下のペンホルダー
                               

    何を保管して置くのか不明であるが、左上部と右下方にホルダーのような物が縫い込まれている。右下はペンでも刺して置くのか! それとも医療器具を収めるものなのか…?






















    救護鞄・[
    救護鞄・\
            

    救護鞄側面の縫い目                          救護鞄側面ショルダー固定部
                               

    少なくとも63年以上は経過しているのだからそれなりに経年劣化は見られるが、鞄の縫い目はまだまだ確りしている。 それにしても今のバックなどと比べて丈夫に縫われているようである。これくらいに丈夫に縫われていなけれな、戦場の使用には耐えられなかったであろう。 昨今の安物のビニールバックとは別物である。






      この鞄が使用された場所は不明であるが、このような鞄を肩から下げて硝煙と弾の飛び交う中をものともせずに従軍看護婦の人たちは 身の危険も顧みず負傷兵の看護に当たって居たのでしょう。この鞄もその死線を乗り越え祖国に帰ったのでしょう。この持ち主であった方の 消息は知る由もないが、無事に内地に帰還したことを願わずにはいられません。

      尚、日本政府は戦後この方たちに報いることはなかったのです。兵士と同じように、いやおう無しに日本赤十字社からの召集令状一枚で、 遠い外地に押やられて、帰国後も 何の恩給も無く過ごして来ました。そして訴えることもほとんど無かったようであります。そしてここへ来て、すずめの涙の程の恩給自体も貰えなかった人たちに、今さらというような、 旧陸海軍従軍看護婦等の援護措置というお題目で、賞状を与えるのだそうです。 それも自己申告制で恩給未受給者に賞状一枚と僅かな一時金でごまかそうとしているのです。

      これでも少しの温情は残っていたのでしょう?請求年月を2年延長したのです。そして平成21年3月31日でこの請求申請も打ち切られ終わろうとしています。何と酷い政府でしょうね。 官僚、政治家などはお手盛りで自分たちの都合のいいようにやりたい方だいしていて、このような事にはほとんど関心を示さないのです。全く無礼千万なのです。 これが我が国の国策であり、現状なのです。黙っている大勢の人は損をして、少ない少数派のガタガタ煩く言う奴が得をする国なんです、この旧大日本帝国という国は。

      そして韓国などからの従軍慰安婦と言われる人間たちには戦後補償金を支払っているのです。でも、今でも日本に訴えを起こすのです。  それはどうしてだか分かりますか、答えは簡単です。その補償金を韓国と言うか、南北合わせて朝鮮の国は戴くものだけは日本から戴いてしまい、 それを慰安婦にさせれれたと言う人間に分配することになっていたのに、それをしないで自分のふところに入れてしまったのです。だから日本の裁判所でも全てこの訴えは 却下されてしまうのです。そりゃそうだはな〜!取る物、貰えるものは根こそぎ取ってしまえという朝鮮の人たちに比べて、この奥ゆかしさには只々敬服あるのみである。

      皆さんも戦争の表の部分だけではなく、このように戦後、顧みることもされなかった人たちが居たことも知っておいて欲しいのです。 自分に言わせれば軍と政府の都合で戦場に駆り出されて終戦後直ぐ帰国できた方は少しでも救いはあるが、ソビエトや中国に抑留されて何年も帰れなかった方も 相当数いるそうです。長い方では終戦後18年も経った昭和38年に帰国された方もいるそうです。

      そして更に言うならば、支給された当時の看護服を持ち帰れ無かった人たちは、それは赤十字社支給の社用物として紛失届というような感じで始末書を書かされたそうです。 何と命を懸けて従軍し、無事帰国した人たちにこのような仕打ちまでしたそうです。


      





    真白き富士の けだかさを
     こころの強い 楯として
       御国(みくに)につくす 女等(おみなら)は
         輝やく御代(みよ)の 山ざくら
          地に咲き匂う 国の花







      (更新/2008/11/19) 秋も深まりて、寒さに震える日に記す。Homepage Owner  Kanno








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